守りの力

 祈りの声は林にこだました。なにごとかというように、ウィリスはあたりを見回している。

 そして、こだまが消え去ると、泉はふたたび静寂に包まれた。炎の爆ぜる音だけが、やけに大きく聞こえる。

 ――なにも起きない。

 願いは聞き入れられなかったのだろうか。手足から、一気に力が抜けていくようだった。

「こら、座るなって。ずっと引きずっていかせるつもりか?」

 ウィリスはいかにも面倒そうに、エメラを抱えて立たせようとする。

 変化が訪れたのはそのときだった。

 泉の中央が音もなく盛り上がり、背の高いなにかを形作る。それは竜が首をもたげた姿にも似ていた。とうとう竜神が現れたのだ、とエメラは思った。しかし次の瞬間、竜の首はほどけるように形を崩し、奔流となってこちらに向かってくる。

 エメラは反射的に目をつぶった。しかし、いつまで待っても衝撃はやってこない。おそるおそる目を開けると、激しい水流が前を横切っていくのが見えた。

 周囲を水に包まれているのに、エメラの身体はまったく濡れていなかった。まるで薄い硝子の壁で隔てられているかのように、水はエメラを避けて流れている。透明な壁の中にいるのはエメラ一人だった。

 やがて水流は収まり、周囲の景色がよみがえる。ぬるい水滴が頬を叩いたかと思うと、たちまち雨の音があたりを包んだ。ついさっきまでは、空に星がきらめいていたというのに。雨はどんどん強まり、少しずつ、しかし確実に炎の勢いを削いでいく。

 水流と雨とで、地面は一面水浸しになっていたが、ヨウの姿はどこにも見当たらなかった。背後では、ウィリスが水たまりに脚を突っ込んで倒れている。目を閉じたままぴくりとも動かない様子に、エメラはだんだん心配になってきた。

「心配ない。気を失っているだけだ」

 少しかすれたやわらかな声に、エメラは振り返る。だが、そこには泉があるだけだった。半分ほどに減った水かさを取り戻すように、雨粒をつぎつぎとのみ込んでいる。

「ヨウ? ヨウなんでしょ? どこにいるの」

 声の出所を探して、エメラはきょろきょろと視線を動かした。すると、目の前でいきなり泉が左右に割れる。その中から姿を現したのは、黒くて細長い生き物だった。

「へ、蛇!」

「誰が蛇だ。目を開けて、よく見てみろ」

 反射的に後ずさりしたエメラに、その生き物は青い瞳を光らせる。小枝のような尻尾を振ると、水しぶきがこちらまで飛んできた。

 エメラはこわごわ相手の姿を眺める。漆黒につやめく胴体には、ちんまりとした脚が四本ついていた。背には黒いたてがみもある。たしかに蛇とは少し違うようだった。

「まさか……竜神さま、なの?」

「ああ、いちおうな」

 竜神は長い首をうなずくように曲げた。

 泉に棲む竜といえば、村の守護神以外に考えられない。それでもエメラは、戸惑いを隠せなかった。

「なんだか、思っていたのと違うわ……」

 姉の話では、竜神は大人が見上げるほどの大きさということだった。鱗は白く、光を受けて虹色に輝いたそうだ。ちょうど、あの宝剣の刀身のように。

「ああ、それは俺の母上だろう」

 竜は深く息を吐いた。

「今はもういない。長い長い時間を生きて、この世を去ったんだ」

 小さな竜神はひらひらと宙を舞い、エメラの足元に降り立つ。そして、またたく間に人の姿に変じた。見慣れた黒服の青年に、エメラは微笑みかける。

「ありがとう、助けてくれて。まさかヨウが竜神さまだなんて思わなかったけど」

 一瞬、敬語を使うべきか迷ったものの、今さら変えるのもおかしい気がした。

「村人を守るのは守護神の務めだからな」

 ヨウはなんでもないように言って、エメラの頭をくしゃくしゃとなでる。淑女扱いにはほど遠い、大雑把な優しさ。今はなぜか、それが心地よく感じた。

「むしろ、礼を言わなきゃならないのはこっちだ。宝剣がどこかに移されてから、思うように力が出せなくてな。探しに行こうにも、ここを離れようとすると倒れるし」

 ヨウはばつが悪そうに首の後ろを掻く。倒れていたのは、お供えの林檎にあたったわけではなかったのだ。

「じゃあ、日照りが続いたのも、嵐で畑が駄目になったのも――」

「母上の跡を継いだ俺が、ろくに力を使えなかったせいだ。宝剣がなければ、神姫と契約を交わすことさえできないからな」

 ヨウは微笑み、ほら、と片手を差し出してくる。その手には光り輝く宝剣が握られていた。しかし、エメラにはそれを手に取ることができない。

「本当にいいのかしら」

 改めて考えると、自信がなくなってくる。

「綺麗な男の人に求婚されて、すっかり舞い上がって――そんなあたしが神姫だなんて」

 村のみんなにどれほど迷惑をかけたことか。エメラさえちゃんとしていれば、盗賊に襲撃されることもなかったかもしれないのに。

「そう自分ばかり責めるな」

 優しい声に顔を上げると、エメラはいつの間にかヨウの腕の中にいた。ヨウの身体は、エメラよりもほんの少しだけ温かい。

「エメラ」

 香草のように爽やかな香りがした。雨に濡れた額に、温かいものが触れる。

「心配しなくても、これからは俺が――」

「ううううぅん」

 甘いささやきは、男のうめき声にさえぎられた。エメラは弾かれたように振り向く。ウィリスが目を覚まして、起き上がろうとしていた。

「気がついたか」

「ぼ、僕に近づくなっ」

 ヨウが近づくと、ウィリスはとっさに身構えた。自分を押し流したのが誰かわかっているのだろう。いつでも飛びかかれる姿勢で、ヨウをにらみつけている。

「そう警戒しなくてもいいさ。そっちが襲ってこなきゃ、こっちはなにもしない。ここを出ていくもとどまるも、おまえの自由だ。なんなら村の連中の記憶を操作して、初めから役人なんて来なかったことにしてやってもいい」

 落ち着き払った口調でヨウが言うと、ウィリスは灰色の瞳を見開いた。

「自由だって? そんなもの、盗賊の犬にあるわけないだろ。村を出れば奴らの一員に戻るだけだし、残れば妹が殺される」

「なるほど。――ところで、その仲間っていうのは、あそこに転がってる奴らのことか?」

 ヨウは親指で背後を示した。その先を追うと、泉の脇の草むらに丸太のようなものが積み重なっているのが見えた。よくよく目を凝らして、エメラはあっと声をあげる。――丸太じゃない。あれは人だ。全員、暗い色の衣服を身にまとっている。

「火に巻かれそうになったんだろう。どんどん泉に飛び込んでは溺れるもんだから、まとめて積み上げておいた。いちおう、まだ生きてると思うが」

「な……なんて馬鹿な盗賊なの」

 自分で点けた火に追われて、こんな浅い泉で溺れるなんて。

「ああ、間抜けもいいところだ。これまでうまくやれてたのは、案外、機転のきく先導役のおかげだったりしてな」

 そう言って、ヨウはウィリスに笑いかけた。

 ウィリスはというと、仲間の惨状を目にして言葉を失っていた。へなへなと、その場に膝をついてしまう。

「僕は……自由なのか?」

 呆然とつぶやいたそのとき、足音が聞こえた。ヨウの腕がとっさにエメラを引き寄せる。

「お兄ちゃん!」

 林の中から飛び出てきたのは、小さな黒い影だった。その姿を見るなり、ヨウはエメラを抱く腕をゆるめる。

「お兄ちゃん、大丈夫!?」

 澄んだ声音に、ウィリスが驚いたように顔を上げた。闇色の服に身を包んだ少女は、泣きそうな表情でウィリスの胸に飛び込む。黒い頭巾フードからこぼれるのは、ゆるく波打つ金の髪。

「フィリア」

「いったいなにがあったの? あいつら、戻ってこないけど――」

 フィリアと呼ばれた少女は、灰色の瞳を不安げにゆらす。その華奢な身体を、ウィリスは力いっぱい抱きしめた。

「いいんだ……もういいんだよ」

 自分に言い聞かせるように繰り返す。フィリアは初め、不思議そうな顔をしていたが、やがてなにもかも理解したように目を閉じた。

「さて、少々人手が必要だな」

 盗賊の山に目をやって、ヨウが言う。

「みんなを呼んでくるわ」

 男連中に頼んで、縄で縛ってもらおう。

 踵を返そうとして、エメラは大切なことに気づいた。――結婚式はどうなるのだろう。

 花婿が盗賊の仲間だったなんて言えない。そんなことを話したら、ウィリスもフィリアも捕らえられてしまうだろう。二人だって盗賊の被害者なのだ。できることなら、無事に逃がしてあげたかった。

 ただ、そうすると花婿がいなくなってしまう。竜神の力で記憶を消せたとしても、盛装して教会に集まっているという事実はごまかしようがない。エメラの花嫁姿だって、どう説明したらいいのかわからなかった。

 考えれば考えるほど、頭がぐるぐるしてくる。そんなエメラの肩に手を置いて、ヨウは言った。

「いい考えがあるんだ」

 青い双眸は楽しげにきらめいていた。

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