契約
闇に包まれた林の中を、二人は小走りで進む。着替える時間も惜しかったので、婚礼衣装の上に暗色の外套を羽織っている。
重なり合った枯れ木が人の骨のように見えて、エメラは何度も悲鳴を上げそうになった。木々の向こうでは、渦巻くような炎が夜空を赤く染めている。略奪を終えた民家に、盗賊が火を放ったのだ。
「ウィル!」
前を行く影に呼びかける。
「なんだい」
「ちょっと、待って」
立ち止まって、呼吸を整えた。エメラと違って、ウィリスほとんど息を乱していない。
「もしかして、走るの速かったかな」
「ううん」
エメラは無理やりに微笑んだ。
「こんな状況なんだから、急いだほうがいいに決まってるわ。でも――」
残念ながら、自分はもうついていけそうにない。慣れない靴で擦れたかかとが、さっきから痛くて仕方ないのだ。借り物の外套も丈が長すぎて、脚にまとわりつくばかりだった。
「なんならおぶっていこうか」
ウィリスは手を差し出してくる。その優しさに甘えたい気持ちを抑えて、エメラは首を振った。もしかしたら、盗賊と戦うことになるかもしれないのだ。こんなことでウィリスに負担をかけるわけにはいかない。
「お願い、ウィル。先に行って、ヨウを助けて」
男の足でなら、泉までそう時間はかからないはずだ。
「……エメラ」
ウィリスは一瞬、驚いたような顔をした。
「そんなわけにはいかないよ。僕はきみを守るためにいるんだから」
「あたしなら大丈夫よ。このまま真っすぐ進めば、泉に抜けられるんでしょう? 盗賊も林の中までは襲ってこないと思うわ」
その証拠に、二人は今のところ盗賊に出くわしていない。
「ヨウに会えたら、泉の脇の茂みで待っていて。あたしもすぐに追いつくから」
「でも――」
「お願い」
エメラの気迫に押されたのか、ウィリスは口をつぐんだ。そして、あきらめたようにうなずく。
「わかった。でも、本当に気をつけて。きみは武器も持ってないんだからね」
「ええ」
エメラはうなずき返した。村長がくれた宝剣は、ウィリスの腰に下げられている。包丁の扱いには慣れているエメラも、さすがに剣を振るったことはない。ウィリスも剣術の経験はないというが、腕力があるだけまだましだろう。
「じゃあ、また泉で」
ウィリスは身をひるがえした。金の髪が閃いたかと思うと、その姿は闇にまぎれて見えなくなる。足音もみるみるうちに遠ざかっていった。
「さて、と」
一人になったエメラは、思い切って靴を脱ぎ捨てる。宝石で飾られた豪奢な靴も、今は文字通り足手まといでしかない。外套の裾を腿のあたりで結び合わせて、その中にドレスをたくし込んだ。
そしてまた走りだす。脚を邪魔するものがなくなったおかげで、断然速度が上がった。ときどき小枝を踏んづけたりもするが、靴擦れの痛みに比べればどうということはない。
林の左手に透けて見える炎は、風にあおられて勢いを増していた。火元ははっきりしないが、エメラの家の近くのようにも思える。
――いったい、あたしたちがなにをしたっていうの。
にじんできた涙を、拳で強くぬぐった。今は泣いている場合じゃない。
そこここで火の手が上がっているわりに、不思議とあたりは静かだった。盗賊はもう略奪を終えて、村を出ていったのだろうか。だとすれば、恐ろしく手際がいい連中だ。被害を広げるばかりでいっこうに捕まらないのも、わかる気がする。
やがて、道なき道は上り坂に入った。夜明けでもないのに、周囲がだんだん明るくなってくる。赤みがかった光が、ごつごつとした木の肌をくっきりと浮き上がらせていた。
鼻先をかすめた臭いに、エメラの鼓動は速くなる。
「……焦げ臭い」
すぐ近くでなにかが燃えているのだ。
最後の力を振り絞って、地面を蹴った。泉はもう、すぐそこのはずだ。
林を抜けたとたん、エメラは悲鳴をあげる。旧神殿が炎の色に染まっていたからだ。しかしよく見れば、燃えているのは石造りの建物ではなく、その背後にある森だった。
泉の前には、黒色をまとった二人が向かい合わせに立っている。
「――エメラ」
振り向いた顔は逆光になって見えなかったが、金に輝く髪でウィリスとわかる。もう一人は確かめるまでもなかった。
「二人とも無事だったのね!」
エメラは裸足のまま駆け寄った。
「駄目だ、来るな!」
鋭い声を飛ばしたのはヨウだ。
しかし、そう言われたからといって急に止まれるものではない。たたらを踏んでよろけたところを、エメラは後ろから抱き止められた。
「大丈夫かい? ひどいよね、せっかく助けにきたっていうのにさ」
耳元でウィリスがささやく。エメラは視線を上げて、婚約者の顔をまじまじと見た。どうしてだろう。なんとなく、声の感じがいつもと違う気がする。
「おい、こっちだ! こっちへ来い!」
「ええっ?」
強張った顔で手招きするヨウに、エメラの頭は混乱する。来るなと言ったり、来いと言ったり、いったいどうしろというのか。
「いいから、そいつから離れろ! そいつは――」
「もう遅いよ、ヨウさん」
冷えた声音がエメラの鼓膜を打った。首筋に、冷たく硬いものが触れる。視界の端に見えるのは鋭い刃だった。炎を受けて、不思議な虹色に輝いている。
「うん? その剣は――」
ヨウがなにか言いかけたが、気に留めている余裕はもうない。すでにエメラの身体はがっちりと抱え込まれ、身動きが取れなくなっていた。
「……ウィル?」
「なんだい、素直な花嫁さん」
穏やかに響くウィリスの声には、冷たい氷の棘が混じっている。
「簡単に引っかかってくれて助かったよ。まあ、正体を見抜かれたのは誤算だったけどね」
「どういうこと」
話が見えない。ただ、無性に嫌な予感がした。刃の当たった首筋がどくどくと脈打っている。
「そいつは盗賊の仲間だ」
ヨウは抑えた声音で言った。
「嘘よ」
エメラは首を横に振りたかった。
「嘘なんでしょ? ウィル」
返事はない。代わりに、生温かい風がエメラの頬をなでた。ウィリスが笑ったのだ。
エメラは自由のきく両手を、爪が食い込むほどきつく握りしめた。
「……騙してたの? あたしも、村のみんなも」
怒りと恐怖に、声が震える。
「まあ、そういうことになるかな」
ウィリスは淡々と答えた。
「でも、騙されるほうも悪いんじゃないかな。たしかに僕は役人じゃないし、きみと結婚する気もないけど、王族だなんて言った憶えはないよ。勝手な想像でまやかしの僕を作り上げていったのは、そっちのほうだろう?」
「でも……みんな、ウィルのこと信じてたのに」
エメラの訴えに、ウィリスはふたたび笑うような息を漏らす。
「じゃあ訊くけどさ、可愛い花嫁さん。きみは僕のなにを知ってるわけ?」
「なにをって――知ってるわよ、いろいろ」
騙されていたとはいえ、結婚式までこぎつけた仲だ。
「ウィルは……」
輝く金の髪と、透けるような灰色の瞳が綺麗で。父さまよりも高い声で、いつも穏やかに話をして。やわらかな物腰も、女性の扱いに慣れているところも、まるで貴族みたいで――。
思いつくまま挙げていったエメラは、やがて飲み込むように言葉を切った。
外見、声、身のこなし。出てくるのはどれも、表面的なことばかりだった。少しでもウィリスを見ていれば、すぐにわかることだ。
考えてみれば、エメラはウィリスの出身地さえ訊いたことがない。なんとなく首都のどこかだろうと思ってはいたが、それこそ勝手な想像というものだ。
「きみはお姫さまみたいにちやほやされて、舞い上がってたからね。ほんと、イライラするよ。こっちは親を盗賊に殺されて、ガキのころから奴らの手伝いをさせられてるっていうのにさ」
ウィリスはそう吐き捨てると、エメラを抱える腕に力を込めた。
「そろそろ行こうか」
そのまま、エメラを引きずって後ずさりする。
「どこへ行くつもりだ」
ヨウが一歩踏み出すと、ウィリスは素早く剣先を彼に向ける。
「決まってるだろ、村の外へ出るんだよ。仲間はもう逃げたみたいだからね。早く追いかけないと、妹の命が危ないんだ」
ウィリスが裏切らないよう、盗賊は彼の妹を人質にしているのだという。
「悪いけど、仲間と合流するまでは一緒に来てもらうよ」
エメラはごくりとつばを飲み込んだ。自分もまた人質になったのだ。合流したあとどうなるかは、想像したくもない。
「じゃあね、ヨウさん。いろいろ助かったよ。あんたのほうが、僕よりずっと盗賊っぽかったからね」
ウィリスはヨウを隠れ蓑に利用した。ヨウが盗賊じゃないと知っていて、エメラにあんな忠告をしてみせたのだ。
「あとは、『竜神さま』とやらのおかげかな」
ウィリスは薄く笑ってつけ加えた。仲間の襲撃が成功するよう、泉の竜神に祈ったのだという。
「そんな」
胸の底で燃え上がった怒りが、エメラの身体を熱くする。たしかに、一度祈ってみたらとは言ったけれど――。
「りゅ、竜神さまをそんなことに使ったら、罰が当たるんだからっ」
絞り出した声はみっともなく震えていた。でも、言わずにはいられなかった。姉だったら、きっと黙ってはいないはずだから。
「罰? なるほど、そういう手があったか」
緊張感のない声音で、ヨウがつぶやいた。さっきまで厳しい表情で身構えていたはずが、いまは腰に手を当てて平然と突っ立っている。
「エメラ」
ヨウは言った。
「手本を見せてくれないか。竜神に祈るときは、どうやったらいいんだ?」
飄々とした口調で尋ねられ、エメラは軽く眩暈を覚える。今にも連れ去られようとしている人間に向かって、いったいなにを言っているのだろう。空気が読めないにもほどがある。
「さあ、早く」
言いながら、ヨウは二、三歩間合いを詰めてきた。
「近づくなって言ってるだろ!」
すかさずウィリスは剣を振り上げる。
「こいつがどうなってもいいのか」
輝く剣先がエメラの喉に触れた。鋭い痛みとともに、生温かいものが首筋を伝う。皮膚が浅く切れて、出血したらしい。
エメラは静かにまぶたを閉じた。もしかしたら、このまま殺されるのかもしれない。ここまでくると、そう考えずにはいられなかった。
しかし、目を開けたとたん、その思いは吹き飛ぶ。燃え盛る炎が、ヨウの横顔を赤々と照らし出していた。精悍な顔には、不敵なまでの笑みが浮かんでいる。俺に任せろ――そう言っているように見えた。
「俺はただ教えてほしいだけだ。竜神に願掛けなんて、したことがないからな」
「はっ、馬鹿馬鹿しい」
そう言うウィリスは、本当は竜神なんて信じていないのだろう。あきれすぎて気が抜けたのか、身体を締めつける腕の力がわずかにゆるむ。その隙をエメラは逃さなかった。
――竜神さま、お願い。
胸の前で素早く両手を組む。するとたちまち、どこからともなく声が聞こえてきた。
『我はこの地を司る者なり』
威厳のある声音は、頭の中に直接響いてくるようだ。
「今ごろ祈ったって遅いよ」
不思議な声が聞こえないのか、ウィリスは驚く様子もない。ただいらついたように、地面を蹴っていた。
『血の儀式はなされた。おまえは神姫となって、我の力を伝えることを望むか』
血の儀式。神姫。エメラは答えを求めるように、視線をヨウに向ける。ヨウは小さくうなずいて、力のこもった目で見つめ返してきた。きっとヨウは知っているのだ。この声の正体を。
『望むならば、真なる言葉で誓うがいい』
エメラはもう迷わなかった。神姫になれば、村にはきっと竜神の加護が戻る。姉がいたころのように、豊かで平和な生活が戻ってくる。
「我は誓う」
言葉は口からひとりでにこぼれ出た。
「――契約のもと、竜神の神力を伝える者となることを」
そして、強く念じる。
「だから村を守って!」
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