第6話


僕が行っていた高校は、家から、徒歩で十五分、自転車で七分程度と、かなり近い場所にある。通いやすさも魅力だったが、何よりの利点は、学校に川崎達のような人間がいなさそう、ということだと考えていた。その学校のオープンスクールに行った時、学校の雰囲気が、上辺だけで付き合うような人が多そうだと感じたからであった。表面でしか付き合わない人間は、自分を傷つけること以上に、他人に不快な思いをさせることを恐れるものだ。だからこそ、いじめがないと考えた。今思えば、その考え方は、一見ポジティブに見えなくもないが、本質はネガティブだった。通いやすさや、怖い人間がいないという理由だけで、三年間生活をする場所を決めてしまうのは、間違っている。

そして、上辺でしか付き合わない人間と過ごしていても、僕にとってはつらいだけだということに気づくのに、半年以上もかかってしまった。今は冬。外の気温は、僕の心と同じくらい、冷え切っていた。そして、二週間前のあの日、僕は校門の前で立ち止まってしまったのだ。今まで自分をごまかし続けてきた分の重みが、僕に大きくのしかかった。そして学校に行けなくなった僕は、自分のあまりの情けなさに、非常に失望した。二年前のあの日から、僕は変わろうと、なんとかまともに生きようと、必死になって生きてきた。だが、僕がやってきたことは、今思えばただの逃げであり、変化するための努力ではなかった。

だが、明日からの僕は違う。僕の頭の中で起きた不思議な体験は、自分にとって、とても大きな意味があった。僕を根本から変えてくれるような出来事が起こったわけではなかったが、それでも、こうして今、学校へまた行こうと思えている。それだけで良かったのだ。


三回目の自然の香り、目を開けると、僕は立ち上がり、まずポケットに携帯電話が入っているかどうか確認する。固い感触を手に感じさせると、交番に向かって歩き始めた。交番にかけられている大きな看板を見る。下手くそなのに変わりはないが、豪快な印象の熊の不動産屋らしい字だと思った。鳥居間は、文字の上手さや下手さを見たのではなく、この看板が表した人間の「らしさ」を、褒めたのかもしれない。そう思うと、扉を開け、中に入る。

「よう。そろそろだと思っていたぞ。」不動産屋は僕にそう言うと、机の上に広げていた書類を片付けて裏返すと、僕に椅子を勧めた。僕は彼の向かいに座って

「もう、この世界に来るようになってから三日ですね。」と言った。

「いや、お前なんてまだまだ短い方さ。長いやつだと、十数年通い続けてるのもいる。」そいつはきっと、その場所に惚れちまったんだろうな、と言った。

「僕も、あの場所はとても気に入りました。」あの世界で出会った人が、軒並み良い人だったというのもあったが、なにより、見てきたものが、純粋に綺麗だと思ったからだった。

「だろうな。あの世界は、俺が見てきた中でもとびきり景色が綺麗だ。」やはり、交番の扉は、いろんな世界に繋がっているのだろう。不動産屋は、遠い目をしながら言った。今まで見た世界を、思い出しているのかもしれない。

「そうですね。特に、海が綺麗でした。」普段日常で生活していたら、絶対に見ることのできない光景だっただろう。

「知ってるか?あの海は、もともとはあんなに綺麗じゃなかったんだ。」と彼は話し始めようとしたが

「はい。あの世界にいた老人に聞きましたよ。」と僕が言うと、「そうか・・・。」と言って、少ししょんぼりしてしまった。やはり、彼は傷つきやすい太刀なのだろう。良く言えば、感受性が豊かだということだと思った。

「まあ、ごみを片付ける姿を見て、人もまだまだ捨てたものじゃないなと思ったよ。」そういうあなたも人間だろう。と言いそうになったが、彼は、獰猛に見えて、鈴の音にも怯えてしまうような熊にそっくりだったことを思い出して、やめた。

だが確かに、人間にも自分にも失望しきってしまっていた僕ですら、あの世界の住人には、不思議と冗談を言ったり、自分の意見を話したりすることができた。だからこそ、僕は中学校で、はっきり自分の気持ちを、川崎達に伝えられたのかもしれない。

「僕は、読書が好きなんです。その中でも、熊野豪太郎って人が書いた、「夢の海」っていう話がお気に入りです。そこにも、その少年の話とそっくりな海が出てくるんですよ。」彼は、本など読みそうにないが、僕は唐突にそう話した。

「本か、俺はあまり読まないな。それにしても、荒々しい感じの名前だ。」そう言った不動産屋を見て、彼の名前はなんだろうと、疑問に思う。

「そういえば、不動産屋さんの名前は、なんて言うんですか?」と、聞いた。

「いや、俺には名前はないよ。」不動産屋は、目を泳がせながら言った。嘘をついているのがバレバレだったが、何か言いたくない理由があるのだろう、あまり深くは尋ねないことにした。

「じ、じゃあそろそろ聞こうか、今日はどうする?」彼は、少し焦ったように聞いてくる。答えは決まっていた。

「お願いします。でも、今日で最後にしようと思います。」携帯電話がこの世界に持ってこれたことは、さっき確認済みだ。きっと、富川に指示した事も、上手くいっただろう。ということは、悩みも解決できる。僕は十分変わることができた。この世界で、僕が為すべきことは、今日で終わるのだ。

「・・・そうか、じゃあ扉に立ってくれ。最後の目覚めだ。」僕は、昨日も一昨日もそうしたように、「入り口×」と書いてある扉に立つ。

「最後に、一つ聞かせてください。」僕は、隣で扉に手をかけた不動産屋に、質問する。

「おう。なんだ?」ドアノブから手を離さずに、彼は言う。

「これは、僕の頭の中で起こったことなのでしょうか、それとも、どこかに、あの町やこの不動産の建物があるのでしょうか。」

「無論、お前の頭の中で起こった出来事だろうな。だがな、俺は時々思うんだ。この扉の先には様々な世界が広がっているが、全てそれは実在するんじゃないのかとな。もちろん俺にとってはここが現実だが、一つ一つの世界の住人にとっても、それは同じことだと言えるだろう。だから多分、どちらも正解で、不正解だよ。」彼はそう言うと、ドアノブを捻った。僕は、扉の中に吸い込まれていく。


少年が行ってしまった後で、不動産屋は、机の上に乗っている書類に目をやる。裏返された紙には、彼自身の汚い字で、長い長い物語が綴られていた。

そして不動産屋は

「俺の名前は、熊野豪太郎だ。」と呟いた。


目を覚ますと、ベッドから起き上がる。これから、今日一日は忙しくなる。僕は靴を履くと、いつも通りアパートの外に出た。ここからの海を見るのも、今日がラストだ。と思いながら景色を眺めていると、鳥居間が、三階へ上がってきた。

「あ、やっと起きたね、降りてきて。」と少し興奮気味に言うと、先に慌ただしく階段を下っていってしまった。あの様子だと、上手くいったのだろう。僕も、一段飛ばしで一階に降りていく。

一階には、大量のごみが置いてあった。富川と佐藤が、少し疲れ気味に、膝に手を当てていた。佐藤の部屋は二階。おそらく富川と佐藤、そして鳥居間が、なんとか全てここに運び出したのだろう。僕はその間不動産屋と話をしていた、悪いことした。と思い

「すいません。僕だけ何もしていなくて。」と謝った。

「本当よ、大変だったんだから。」富川は、芝の言っていたように「キツイ」性格であることが分かった。口をとんがらせながら、文句を言う。

「まあまあ、これからが本番さ。」鳥居間はそう言うと、僕に「で、これから僕たちは何をすればいいんだい?」と聞く。

「鳥居間さん、ここに町の住民全員を集めてください。できれば佐藤さんと二手に分かれていただければありがたいのですが・・・。」僕は二人にそうお願いする。

「ああ、わかった。鳥居間、行こう。」佐藤は頷くと、鳥居間と一緒に、町の方へ歩いていく。

「僕と富川さんは、これの整理です。呼びに行っている間に済ませてしまいましょう。」ぶすっとしている富川にそう言うと、僕はしゃがんで、使えそうなものと、もう使えないごみを仕分けし始めた。

「めんどくさい。あなた一人でやって。」と、これまた文句を言ってくる。この美貌で、そう命令されたら、なかなか嫌とは言えないだろう。僕は、たいして見た目がいいわけではない。こればっかりは、いつも損をしているなと感じつつ

「ははは。あなたのごみを、これからたくさんの人を動員して片付けるというのに、当の本人は何もしないつもりですか?」と、つい嫌味を言ってしまう。さっき運んだりしたわよ、と屁理屈をこね始める富川を無視して、仕分けの続きを行う。自分勝手な人間とは、昔の自分だったらあまり良い気分で話をすることはなかっただろう。だが、自分の都合で人との関わりを断とうとしていた僕もまた、自分勝手なのかもしれない。そもそも、人間自体が、自分を中心に世界を回しているのだから、何かしらの我が儘を、一人一人が抱えているのだろう。まだぶつくさ言っていたが、しゃがんで手伝いを始めた彼女を横目で見ながら、そう思った。


「富川さん。あなたは、明日の夜。何かしらの物を使って、自分と、要らないと思ったものを結んで寝てください。ポッケに、僕の携帯が入っていたんです。多分これは、触っていた物をこの世界に持ってこれるというよりは、物理的にその人間と繋がれた物が持ってこれるということを示しているんだと思います。そして、持ってきたごみは、きっとこの町の人たちにとって必要な物だと思うんです。」僕は昨日の夜、砂浜で、三人にこう言った。発想は、確かにポケットの中に入っていた携帯からきたものだが、僕がこう考えたことには、理由がもう一つあった。

なにかしらを本人と結びつけるということは、それと自分に関係を持たせることだと思った。僕と携帯は、ポケットという物を介してはいたが、確かに繋がっていたのだ。寝れば、いろんな世界を紹介してくれる不動産に繋がる。心理的な要素が多くを占めるこの世界では、そういった“繋がり”こそが、重要になってくるのではないかと考えた。その理論は、そのあと、富川が言ったように「こじつけ」ではあったかもしれない。だが、無理やりこじつけて、繋がりを持たせることも、ここなら出来るのではないか。


「それにしても、発想が変態的よね。あなた。」綺麗な手で仕分けを行いながら、富川はそう口にした。

「なぜです?」僕も、手を休めることなく彼女の言葉に返答をする。女性からの評価はいつも、良くて「真面目そう」悪くて「気持ち悪い」だった。だが、さすがに変態とまでは言われた経験がなかったので、少し驚く。

「美女を、糸で雁字搦めにさせることよ。寝返りすら打てなくて、なかなか寝付けなかったわ。」自分の事を美女と言っても、全く驕りに感じなかったのは、本当に自分が美しいとはっきりわかっているからだろう。ここまで自信が持てるという事を、少し羨ましく感じながら

「確かに、少し変な事を言ってしまったかもしれませんね。」と、苦笑した。

「・・・不思議ね。」富川は手を止めると、僕の顔を覗き込んで言った。ふわりと、甘い香りが僕の鼻を撫でる。

「どうしました?早くしないと鳥居間さんと佐藤さんが帰ってきてしまいますよ。」

「普通の男なら、私がこんな近くにいたら、ガチガチに緊張するか、ひたすら話しかけて気を引こうとしてくるわ。佐藤君は前者だった。」と、僕の顔を覗き込んだまま、本当に不思議なものを見る目でそう言った。

「人は膨大な数います。あなたはきっと、まだまだ僕なんかより不思議だと思う人に出会いますよ。」鳥居間も、富川には興味がなさそうだった。彼も彼女から見たら、不思議に分類される人物かもしれない。

「そうかもしれないわね、楽しみだわ。」と彼女は肩をすくめながら言った。

そのあとは、二人とも無言でごみを分別した。膨大な量があったはずだったが、なんとか鳥居間達が帰ってくるまでに終わったところを見ると、彼女はあまり広い家には住んでいないのかもしれない。

作業が終わってから五分後、鳥居間と佐藤は、五十人程度の人間を引き連れて戻ってきた。これで全員だろうか。

「とりあえず町に住んでいる五十八人だよ。芝さんは、海まで探しに行ったんだけど見当たらなかった。」と鳥居間が言った。それでも、突然呼んでも、これだけの人数が集まるのは、単純にすごいと感じた。

「いえ、ありがとうございます。じゃあ、始めましょう。」僕はそう言うと「突然どうしたんだ。」「なんだ?このよくわからない物は。」「ずいぶんな別嬪さんだな。」とそれぞれ話し合っている住人達に

「すいません!今日は、ここにある家電をみなさんに渡そうと思いまして。」僕は、大きな声で、分別したごみを指差して言った。ごみをプレゼントするなんて、とても失礼な話だが、この町は、あまりにも不便すぎる。彼らはこの暮らし方しか知らないのかもしれないが、郵便局で雑談をする時に、砂で固められた椅子に座っていても、お尻が痛くなってしまうだろう。町を発展させようとか、この町に人を呼び込もうとか、そういう気持ちは全くない。だが、僕はこの町に、大きなものをもらった。その恩を、少しでも返したいと思ったのだ。単なる自己満足だと笑われてしまうかもしれない。それでも、僕は嬉しかった。人に怯えていた僕を、この町は受け入れてくれたからだ。居場所がなかった僕にとって、それはとても意味のあることだった。

「カデン?なんだそれは。」「四角いものばっかりだな。」「あんなの見たことがないぞ。」と、またもやざわざわし始める住民だったが、鳥居間が手を叩くと、静かになった。

「ここにあるのは、少しでもみんなが便利に暮らせるように出来ているものなんだ。例えば、ヤマダさんの家には大きな物置があるけど、中身を入れ替えるために、扉をつけたいと思ったことはないかい?」と、鳥居間は名指しで言った。「あるに決まってるだろう。貝がらがいっぱいになったから、新しい物置を作りたいくらいだ。」と、ヤマダであろう男は言った。

「それから、ウオズミさんの部屋には大きな台所があるけど、作った料理を、保存できる場所があったら便利だと思わないかい?」さらに、ウオズミと思われる女性に、続けて言った。「この前なんか、いっぱい作りすぎちゃって、町の人におすそ分けしても、まだ余って困ったわ。」と彼女は喋った。

「だろう?みんなは必ずどこかで何かしらの不便を感じていたはずなんだ。だから、今のみんなには、これらの物が必要だよ!」と鳥居間が言うと、人々は「そうかもしれないな。」「ドリーマーがそういうなら・・・。」と、同調を始めた。しかし

「そんなのは認めねえぞ!」と後ろから大声が聞こえた。

振り向くとそこにいたのは、芝だった。芝は、肩を怒らせて、鳥居間の方に近づいていく。

「誰が考えたのかは知らねえが、そんなことをして、もしこいつらがごみになったら、また海が汚れてしまうかもしれないじゃないか。そんなことは認めない。」芝はごみの山を指さすと、そう言った。

「海を片付けた少年の話を知っているだろう。彼は、捨てられたごみを、どこにやったと思う?現実世界だ!向こうに持っていったそいつは、コツコツと捨てられたごみを処理し続けた!そして、今もだ。」一度言葉を切ると、さらに続ける。

「向こうは汚れきっている。人間も町も、汚れきっているんだ。せめて・・・。せめてこの町だけは、汚さないでくれ。」芝は、涙を流しながらそう言った。

そこまで言われて、僕は愕然とした。僕の自己満足は、結局は本当にただの自己満足であることに。そして、変われた、僕は変われることができた。と考えていたが、まだ僕は、完全には前に進めていなかったのだ。と気づいてしまった。過去と決別し、人と関わることを恐れなくなったことだけでは、まだ不十分なのだと感じた。取り返しのつかないことをしてしまうところだった。もし、少年が綺麗にした海を、また汚してしまったら、僕とその少年を重ねた老人に、僕は変わったと言ってくれた人たちに、そして何より、その少年に、申し訳がつかない。

そして、町で老人が話してくれ、本に出てきた海を片付け続けたその少年とは、芝本人だということも、口調や話した内容から、察することができた。彼は、不動産屋に紹介されてこの世界に来て、自分がこの世界でするべきことは、海を片付けることだと考えたのだろう。それから、ひたすらごみを拾い続けた少年に手を貸した住人達の手伝いもあって、この海は綺麗になる。それから、彼は何年も何年も、この世界に通い続け、海を守った。そして、現実世界では、ひたすらに夢の世界から持ってきたごみを処理し続けていたのだ。

芝は、誰よりもこの海を愛していたのだ。僕は、それを理解した。そして、夢の世界で楽に富川の悩みを解決しようとした自分を許せなかった。僕には、人を一人変えるための、そして自分が変わるための“覚悟”が足りなかったのだ。

「僕です。僕が考えたんです。」僕は、そう名乗り出た。芝は、驚いた顔をこちらに向けた。そして、顔をどんどん赤くしていって、呟いた。

「現実に、これを返せ。」僕は、自分のあまりの愚かさに、すっかり、これまで得てきた自信を喪失してしまっていた。こくりと頷くと、近くにあったごみを片付け始める。

「ちょっと!いきなり出てきて何を言いだすかと思えば!こいつだって一生懸命になって考えたことなのよ!」富川は、相変わらずキツイ口調で芝に食ってかかる。普通の人間なら、一歩下がるほどの迫力があったが、芝は彼女に顔をぐいーーっと近づけると

「お前に何がわかる。この海は、この町の住人が必死になって守ってきたものだ。それを、自分の都合を押し付けて脅かそうなんて言語道断だ。」と富川の十倍もの気迫で小さく言った。富川は「そ、そこまで言わなくても・・・。」と少し涙目になって呟く。

彼にとっても、住人にとっても、この海はかけがえのない存在なのだ。僕は、今まで準備してきた過程や、犯人探しと言って町中を探し回ったことを思い出して、恥じた。結局は、全て自分を美化して行動していたのかもしれない。とまで考える。涙がこぼれそうだったが、それを堪えて、僕は電子レンジを運び始めた。芝の怒り様にすっかり気圧された鳥居間と佐藤。そして富川も、ごみを片付け始める。ただただ惨めだった。


現実世界は汚れきっている。芝はそう言ったときに、痛みを感じた。俺は、この町が好きだ。自分を受け入れてくれたこの世界に、そして俺を見守り続けてくれたこの世界に、深く感謝していた。情けない話だが、すっかりこの町に依存し切ってしまっていたのだ。

だが、いつかはこの生活を終えなければならない。現実でごみを処理しきったら、俺はこの世界から去るつもりだった。しかし、そしたら、俺は生きる幸せをなくしてしまう。 釣りはもともと好きだったが、最初は、ずっと海に居るための口実でしかなかった。だが、ずっと竿を振り続けているうちに、俺は海だけではなく、釣りも心から好きになったのだ。これほど綺麗な海で、釣りができることは、本当に幸せなことだと思った。それだけに、この世界から去ってしまったら、そこから俺は何を目的にして生きていくべきなのか、わからなかった。だからこそ、芝は痛みを感じた。それは、深い悲しみだったのだ。

少年には悪いが、俺はなんとしてもこの海を守らなければならない。富川は、自分でごみを処理するべきなのだ。

しかし、その時だった。


現実世界は汚れきっている。芝がそう言ったのを聞いて、痛みを感じた。僕は、現実の世界が嫌いだった。そこに住んで暮らす人間も、ビルや建物に囲まれてする生活も、全部、大っ嫌いだった。

そんな僕の前に、不動産屋は現れた。この世界を紹介してくれた彼は「頑張ってこい。」と僕の背中を押した。そして、この世界に来てから、僕は信じられないほど前進し始めた。それの原動力は、勇気だったのか、無謀な挑戦だったのかは、わからない。だが、この町と現実世界を往復する度に、僕は徐々に変化していった。そして、富川の悩みが解決できたら、この世界から去ると決心した僕は、心の底では、怯えていたのだ。

この世界から去った後も、僕は、前に進めたままの僕でいられるのだろうか、夢から覚めてしまったあと、自分が夢見た姿をした自分になれる、という夢からも覚めてしまわないかどうか、不安に思っていたのだ。汚れきった現実世界で、「自分」を維持していられるか。と自問自答をして、痛みを感じた。それは、深い絶望だったのだ。

協力してくれた三人には悪いが、僕は、その現実を知ってしまった。富川は、自分でごみを処理するべきなのかもしれない。

しかし、その時だった。


「待ってくれ。」と、住民の一人が、お葬式ムードの中に、言葉を割って入れた。「それは、なんだ?」と指を指す。それは、僕が運ぼうとしていた電子レンジだった。しかしこれは、もう使うことができない、ただのごみなのだ。

「ちょっと貸してくれよ。」住人はそう言って、僕から電子レンジをひったくると、取手に手をかけて、中身を覗き込んだ。

「すげえ!これ、中身は空っぽだが、異常に頑丈だし、扉が開け閉めできるぞ!」彼はそういうと、他の住民達に、こっちに来て見てみろよ!と手招きをした。

恐る恐る彼らは近づき、電子レンジを代わる代わる触って、見物を始めた。その誰もが、これはすごいと言い合いながら、目を輝かせていた。

そして、まだこの中に使える物があるかもしれないぞ。と言って、ごみの山を漁り始める。その中には、もう使えなくなった冷蔵庫や、どこで手に入れたのかわからない、学校で柔道部が使うような一畳の畳があった。そして、これはここに使える。これは、こういう時に便利だ。とあれこれ話し始めた。その光景を見て、僕も芝も、口をあんぐりと開けた。

僕達がごみだと思っていたこれらの物を見て、彼らは、非常に便利な道具だと言って、子供のように驚いている。おそらく、物は考え方一つで、大きく姿を変えるということなのかもしれない。現実世界で生活して、本当の使い方を知っている僕らは、これはもう使えないと思い込んでいたのだ。確かに不便なこの町に、これらのごみが、なんらかの形で役に立つとは考えていたが、それはかなりぼんやりとしたイメージでしかなかった。しかし住民達は、僕たちが考えつかないようなアイデアを次々に思いついていった。

「お前さん。これをくれるって話だったよな。」と、一人が言うと、期待を込めた目で僕を住民達は見た。

「だが・・・。」と言った芝に、他の住民が語りかける。

「私たちは、絶対に海を汚したりなんかはしないわ。ただ、自分たちの生活に、これがあったら便利だって思っただけよ。」

「そうさ。俺たちも海を愛している。お前だけじゃないんだぞ!」

「へへ。俺はお前を昔手伝ったじゃないか。一緒になってやった時のことを、忘れちまったのか?」それぞれ、芝に色んな事を言った。しかしその言葉のどれもが、芝を、そしてこの町を想って出したであろうものだった。最後に、僕に昔話をしてくれた老人が前に出てきて

「ここにいる誰もが、お前の努力を忘れた事なんてない。そして、これからもじゃ。芝。今まで本当によく頑張った。ありがとうな。」と、彼の肩を叩いた。

「お、俺は・・・。俺は、不安なんだ。ここから去った時、どうしたらいいかわからないんだ。」芝は、目に涙を溜めながらそう言った。

「たとえそうなったとしても、お前が愛したこの海は、いつまでもお前を見守り続ける。絶対に、な。」と老人が、芝の肩を掴んだまま言った。芝は、とうとう泣き出した。まるで、その姿は、小さな少年のようだった。泣きじゃくる彼を、微笑みながら、住人たちは見ていた。

「私、ものを集めるの、辞めるわ。」富川は、芝の涙につられたのか、目を潤ませながらそう言った。彼の行動は、町の人々だけでなく、時間を経てなお、彼女の心を動かした。

不動産屋は、間違いなくしっかり仕事をする。と僕は思った。僕、富川、そして芝を大きく変えたのは、間違いなく彼が紹介したこの物件があった町で起こった、小さな奇跡だったからだ。僕は、涙を拭いながら確信した。

やがて、町の人々は、掃除機や、物干し竿などの「元」ごみ達をそれぞれ持って、幸せそうな顔で家に帰っていった。大量に置いてあった物の山は、綺麗さっぱり消えてしまっていた。そして、一日はもう夕方にさしかかっていた。この世界は、現実世界より時が進むのが早いのだろうか。さっき起きたと思ったら、もう日が暮れようとしている。

「おい。」僕は、肩をちょいちょいと指で叩かれた。振り返ると、芝が僕をまっすぐ見て

いた。

「昨日、釣りを教えてやると言ったよな。夜までに、砂浜へ来いよ。」芝はそう言うと、どこから出したのか、釣り具を持って、海の方に歩いて行った。

「お呼びがかかったね。」鳥居間はからかうように言うと、急に真剣な顔になって

「ありがとう。君のお陰で、全てを丸く収めることができた。君がこの世界へ来てから、色んなことが一気に動き出した気がするよ。」と言う。

「いえ、きっとたくさんの偶然が重なったんですよ。僕は何もしていません。」本当に、僕はゴミ捨ての事件について、何もしなかった。色んな人がこの町にいたからこそ、この結果になったのだろう。

「そんなことはないさ。君は大きなことを成したよ。って、これは前にも言ったか。でも、明日からやっとゆっくりできそうだ。君も一緒にね。」鳥居間はそう言った。だが、僕は今日でこの世界を去る。お別れを言わなくてはならない。

「いや・・・。僕は、また元いた町に、引っ越さなきゃならなくなったんです。すいません、言い出せなくて・・・。不動産屋さんから聞きませんでしたか?」

「ええ?嘘だろう。こんなに早くお別れ?それは寂しいな。」鳥居間は目を丸くして驚いた。しかし、そのあとにっこり笑って

「寂しいけど、今の君なら、どこへ行っても大丈夫さ。何か困ったことがあったら、すぐにこの町においでよ。」彼はそう言って、頷いた。僕も頷き返した。話終わるのを見計らっていたのか、佐藤がずいっと前に出る。

「そうか。君は今日でここから去るのか。泣きそうだよ。」がっしりとした佐藤は、本当にいまにも泣きそうだった。が、歯を食いしばって、僕に手を差し出す。

「話していて楽しいと思ったのは、今までで鳥居間と君だけだ。私は君の友人として、君を誇りに思うよ。本当にありがとう。」少々大げさだと感じたが、それでも、彼は本気で言っているのだろう。初めて会った時のように佐藤が差し出した手は、微かに震えていた。僕は彼の握手に応えると、力強く握った。手を離すと、今度は富川が僕に近づいてくる。彼女は僕に

「あなたはやっぱり不思議だわ。」と最初に言った。

「豆腐のように脆そうだけど、実は芯がしっかり通っていて、それでいて、私に興味を示さない。」最後は余計だと思ったが、彼女はさらに続ける。

「でも、豆腐は芯がしっかり通っているから、崩れないで立っていられるのかしらね。とにかく、さっきも言ったように、私は物を集めるのをきっぱり辞めるわ。あなたがそのきっかけをくれたのよ。ありがとう。」富川はそう言って、微笑む。そして「もう少しで、好きになっちゃうところだったわ。」と付け足した。

「ははは。勘弁してください。」人間に振り回されるのは、もうこりごりだ。僕が笑うのを見ると

「冗談よ、私は佐藤君一筋。それに、あなたみたいな男は私には釣り合わないわ。出直してきなさい。」と指をさして言った。なぜ偉そうなのかはわからないが

「はい。出直してきます。」と僕が言ったのを聞いて、満足そうに頷いた。これも湿っぽくしないようにと、彼女なりの気遣いなのかもしれない。

「さあ、芝さんとの約束に遅れるよ。急がないと。」鳥居間が、笑ってそう言った。空を見ると、確かに、もう夜になる寸前だった。僕は最後に「ありがとうございました!」とお辞儀をすると、ダッシュで海へ向かった。


空はぐんぐんと、オレンジから群青色に変化していく。砂浜に着くと、釣り竿を海に垂らした芝がぽつんと椅子に座っていた。僕はそこまで走りきると

「すいません。セーフですか?」と後ろから尋ねた。

「おう、セーフだ。座れよ。」と、すでに用意されていた隣の椅子を指さす。僕はそこに座って

「釣りなんて、初めてでドキドキしますよ。しかも、夜釣りって難易度が高いんじゃないですか?」と聞いた。

「さあ、あまり変わらないんじゃないか?それに、釣り以外は詳しくないと言ったが、その釣りですら俺流なんだ。他の人間の釣り方や、狙う魚につけるルアーなんてものは知らないさ。」と笑うと、クーラーボックスから、伸縮式の竿を一本取り出し、広げてから、僕に渡した。

「先端の釣り針にこいつを付けるんだ。」とバケツの隣にある小さなカップを指差した。中は、おそらく虫だろう、僕は一匹鷲掴むと、うねうねする虫を、四苦八苦して、ようやくつける。

「つけたか、そしたらな、そいつを海へ投げろ。あとはヒットするまでひたすら待つんだ。」本当にざっくりとした説明だったが、僕は釣り糸を海へ投げて、当たりを待ち始めた。すると、何か不思議な感覚がする。一つ、頭がスッキリしたような、不思議な感覚。僕は、釣り竿を投げ直す。すると、また一つ。頭が軽くなる。とても奇妙な気分だった。

「なんだか、スッキリするだろう。俺はこれを『現実の海に糸を垂らす』って表現してるんだ。」芝は、そう言いながら、竿をクイクイと動かす。前に、鳥居間から聞いた時も、芝本人が言っていた時も、意味がよくわかっていなかった僕は、今、やっと言っていることを理解した気がした。ウツツノウミニイトヲタラス。現実の海に糸を垂らす。僕を雁字搦めにしていた人間関係の糸は、釣り糸を介して、海の中に沈んでいった。ずっとその考えに、僕は縛られていたのだ。人との関係を恐れる大前提に、ずっと存在していた考え方、それは、初めて僕が読んだ本である「夢の海」に出てくる『この海には、人がつながりを持つための糸が、大量に沈んでいる。』という一文から来ていた。そして、人と人との間には、糸が存在する。そして、その糸のせいで、一歩も迂闊に動くことができない。という意見が生まれたのだ。それは、ある時は僕が人を避けるための口実になり、またある時は、友達がうまくできない僕への慰めになった。僕は、自分自身の考え方に、甘えていたのだ。だから、人との繋がりの糸のように、僕の思考すら、縛りつけられてしまっていた。

だがそれらは、思わぬ場所で、方法で、僕から解けて、足元に落ちていった。僕が釣り竿を投げ直す度に一本、また一本と、海に沈んでいったのだ。やがて、糸達は、一つ残らず、僕から、芝から、鳥居間から、母から、父から、川崎から消え去った。自然と、僕の口から笑みがこぼれる。

「どうだ。釣りはすごいだろう?」芝は、僕を見て、胸を張って言った。「ただのんびりしているだけのように見えて、実に奥が深い。」

「ええ。凄い。たった今、僕は救われた気がします。」糸達の呪縛から解き放たれた僕は、本当に清々しく笑った。

「なんだ、大げさだな。だが、それは俺も同じだ。お前に救われたよ。」と、芝は言った。僕が何をしたのだろうか、と疑問を顔に出すと、彼は続けて話す。

「お前がごみをアパートの前に山のように置いて話しているのを聞いて、俺は目を疑った。そして、何をするつもりだと焦ったよ。また海が汚されるんじゃないか、とな。」

「だが、それは杞憂だった。お前もまた、この町で何かを成そうとしていたんだな。町の人間の言葉を聞いて、そう思ったよ。あの時は、つい悪く言ってしまってすまなかった。」と僕に頭を下げた。

「いえ、そんな大層なことは考えていませんでした。ただ、人助けをする自分に、酔いしれていたんだと思います。」思い出すだけでも、顔が真っ赤になってしまいそうだ。

「そうか?俺の目には、そうは映らなかったぞ。お前は、必死になって、富川の悩みを解決しようとしていた。たかが数日前にあっただけの他人に、そこまで一生懸命になれるのは、誇っていいことだと思う。」正確には、昨日会ったばかりの人物だった。だが、目の前で、自分自身に首を絞められ、もがき苦しむ人間を見たら、どんなに冷たい人間でも、手を差し伸べようと思うのではないだろうか。

「お前は、行動を起こすことで、ただこの世界で足踏みを続ける俺の背中を押してくれた。だから、俺は救われたんだ。」いつの間にか、釣り竿をクーラーボックスの上に置いて、砂浜に寝そべっていた芝は、続けて

「今日で、俺はこの世界を去るよ。お前もだろう?」彼には言っていなかったが、気づいていたのか、やはり芝は哲学家だな。今まで彼がしていた話を思い出しても、僕の心の中を見透かしていることを考えても、彼は僕なんかより、ずっと深くて、しっかりとした考え方を持っているのだろう。人によっては、芝をひねくれていると捉えるかもしれない。だけど、彼はひん曲がっているように見えて、実は誰よりもまっすぐな心を持っているのだ。僕も釣り竿を置いて、大の字で砂浜に倒れこむ。

「はい。明日からは、普通の高校生です。」すでに、行く決心を固めていた僕だったが、その意思は、さらに固くなっていた。

「そうか。だが、お前とはどこかでまた会う気がするよ。あ、そうそう。忘れるとこだった。」彼は思い出したようにポケットに手を突っ込むと、そこから、何かを取り出した。プラスチックのキーホルダーのようなものだった。

「ルアーだ。お前のこれからの人生が、人に縛られるようなものにならないように、っていうおまじないさ。少し俺らしくないがな。」さっきは、ルアーについてはちんぷんかんぷんだ。というような事を言っていたのに。僕はそう思って笑うと、「はい。」とだけ言って、それを受け取った。

「星が綺麗だ、この海の次にな。」芝は、そう言って両腕を枕にして、その上に頭を乗せた。昨日必死で犯人を追いかけた時に、応援してくれた月や星、烏、そして海は、それぞれ、きらきら、てんてん、カァカァ、ザザーン。という音を鳴らすのみだった。それでも、僕には聞こえる。確かに彼らは、僕らを見守りながらこう言うのだ。


「ありがとう。」


かつて、少年が聞いたように、僕達にお礼を言った。それは、海を愛した芝への、そして、たった二度だが海を守った僕への感謝の一言。永遠に続くかのような、長い長い夢の中。

やがて、僕は目を閉じ

「おやすみなさい。」と言った。誰に向けたわけでもない。ただこの世界に存在するすべてのものに、そう言った。誰かが、おやすみ。と返してくれた気がした。


「これで、彼らの物語は終わりだね。熊野さん。」遠くから見ていた鳥居間は、隣にいる大男にそう言った。

「そんなわけないだろう、これからさ。」不動産屋の熊野は、微笑んでそう言った。

「そうだね。次書く話は、彼が主人公かい?」

「ああ。そうするつもりだ。内気な少年と、この世界の話。きっとあいつも、向こうの世界で読んでくれるはずさ。」熊野は、腕を組んでそう言った。

「それは楽しみだ。題名はどうするつもりだい?」

「題名は、そうだな・・・。」ザザーン、ザザーン。熊野の声は、海の波音にかき消される。星の砂は、寝そべる二人の人間の体を、重そうに支えていた。


僕は、校門の前に立ち尽くしていた。

日が短くなるにつれて、少しずつ冷えて行ったアスファルトを歩いていく高校生達は、僕の視界に現れては、校舎へと姿を消していった。

コンクリートでできた校舎は、朝独特の鬱屈な雰囲気を漂わせている。

僕はこの場所があまり好きではなかった。二週間前の今日、僕はここに確かに立ち尽くしていたのだ。

変わり者アパートに住んでいた人々は、今頃どうしているだろうか。相変わらず、穏やかな日々を送れているだろうか。町は、少し便利になっただろうか、郵便局の憩いの場は、もっと、住民達の会話を弾ませているだろうか。

あの世界で見た景色が、出会った人々が、全て夢だったのかは、今となってはわからない。ただ、制服を着て、校門の前に立っている僕は、あの体験をする前の僕とは、大きく変わっていた。大丈夫。僕は自分に言い聞かせると、ポケットの中に入っているルアーのお守りを握りしめる。さあ、行こう。


僕は、校門に足を踏み出した。

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現実の海 熊野 豪太郎 @kumakuma914

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