受愛 ―田中太朗の場合―

 僕には彼女がいる。のろけ話になってしまうけれど、本当に可愛くて気がきいて料理が上手くて優しくて愛らしくて、つまりは自慢の彼女だ。そしてなにより、僕は彼女を心底愛している。

 だから今日も早めに仕事を切り上げて、疲れた体を引きずりながらやっとこさ我が家の玄関に着いていた。

 だけど居間に入ると、彼女は怒り心頭な様子で待ち構えていた。

「やぁ、ただいま。どうしたのかな?」

「いい加減にしてっ!社会と私、どっちが大事なの!?」

 ドラマでしか聞いたことがないような言葉が我が家に響く。なに、慌てることじゃあない。うちじゃよくあることだ。彼女は誰よりも何よりも完璧だけれど、だからといってじゃあ欠点がないわけじゃない。ヒステリーもその一つで、僕が帰ってくるとたびたび僕を怒鳴りつけてくる。そんなところも素敵だし愛しているのだけれど。

「なんて今更な質問だろう。僕は君を愛している。君以外は誰も愛してなどいないよ。それとも僕の愛がまだ足りないのかな?」

「ふざけないで!だったらなんでこんな時間に帰ってきてるのよ!」

 ふむ、どうやら彼女は帰宅時間に対して怒っているようだった。たしかに今日は昨日よりも帰る時間が遅くなったことは確かだった。

「そのことだったら謝るよ。今日上司と口げんかになっちゃってさ、本当はもっと早く帰るつもりだったんだけど」

「もっと帰れ、って言ってるの!」

「? 妙なことを言うね、これ以上遅くなったら君との時間がもっと減ってしまうじゃないか」

「今何時だと思ってるの!昼の十二時よ!?」

「そうだよ?君と朝離れてからもう四時間だ。これ以上の時間離れたら、僕はどうにかなってしまうよ」

 愛している二人が離れ離れになるなんてあっていわけがない。そう思って僕はいつも早く帰るように努力していた。そのたびに上司や同僚と喧嘩になったけれど、今日でその心配もなくなる。

「それより聞いてくれよ!今日仕事を辞めたんだ、これで一日中君と一緒にいられるよ!」

 そう、今日遅くなったのはそのためだ。会社に着いてすぐに辞める旨を伝えると上司も同僚も安堵の表情を浮かべて歓迎していたが、そのあとの書類の処理に手間取ってしまった。

 だがそう伝えると、彼女は語調をさらに強め僕に噛みついてきた。

「何言ってるの!? あなたが仕事を辞めたらこの先どうやって生きていくのよ! この家は持ち家だからまだいいわ、問題は生活費よ! あなたが働かないなら私が働くわ!」

「そりゃ困る。僕は君との時間を作るためにわざわざ会社を辞めたんだ。君が働いて外に行ってしまったら、何の意味もないじゃないか。それにね」

 ちょっとした策があるんだ、と続けようとしたところ、彼女が掴みかかってきたため言葉を遮られてしまった。まったく、近くで見るとより一層愛らしい顔だ。

「もう耐えられない!たしかに先に惚れたのは私よ、何よりも愛してと言ったのも私よ、だけどこうなるなんて、本当に他の何よりも私に執着するなんて思ってなかった!」

 僕は襟を掴まれたまま片腕を彼女の腰に回して抱きしめ、赤子をあやすようにもう片方の手で彼女の頭を撫でた。やれやれ、今日のヒステリーはちょっとばかり厄介みたいだ。でもそんな彼女もまた愛おしい。

「なんでそんな悲しいことを言うのさ。確かに君に愛してとは言われたよ?だけどその先は完全に僕の自由、僕の意思だ。君に言われたから今も愛しているわけじゃない、僕が望んで君を愛しているんだよ」

「私はそんなこと望んでない、もっと普通に愛し合って、普通の生活を送る、そんなことを期待したのに……」

「普通?何を言っているんだい、これこそ普通じゃないか。愛し合う二人はいつも一緒。片時も離れ離れになることは許されない。僕だって最初はね、準備をするためのお金を集めるために、いやいやながら仕事をしていたんだよ。君に逢えない時間が続いて、本当に本当に辛く苦しい時間だった。それでやっとこの家を買って、それでやっと辞められると思ったのに君はいつも「お仕事がんばってね」って。そりゃあ君に期待されるのは嫌じゃなかったから、しばらくは君に会えなくても頑張ったさ。だけどこんなの普通じゃない。働いているうちにそんな思いが沸きあがってきてね。段々と帰りが早くなっていったのはそのため。そして今日、やっと君とずっと一緒にいられることが決まったんだ。こんなに喜ばしい日があるかい」

「ずっとってなによ、まさか本当に一瞬でも離れ離れにならないって言うんじゃ」

「その通りさ、これから僕と君は死ぬまで一緒だ」

 僕がそう言うと彼女の顔が上気した真っ赤な顔から、血の気の引いた青い顔へと変わった。うん、そんな顔もまた愛らしい。

「な、なにをそんな」

「馬鹿なこと、でもないさ。なに、ずっと生きようというわけじゃないのなら、死ぬまで一緒にいるのもそうむずかしいことじゃない。二人しかいないこの家で、どんな邪魔も入らないこの部屋の中で。ともに朽ち果てるまで一緒に過ごそう。食べ物が尽きたら互いを食べればいい。排泄物も老廃物も、全て愛する君の一部だと思えば全てがご馳走さ。足りない栄養は全てあいが補ってくれる。それでも死ぬのなら一緒に死のう。ね?とても素敵だと思わないかい?」

「……っ!どこがっ!素敵だってのよっ!」

「愛し合う二人のみで世界が完結する。それが素敵じゃなくてなんだって言うんだ。僕は君を愛してる。君は僕を愛してる。ただその純粋な心が、魂が、思いのみが世界を構築するんだ」

 いつの間にか彼女は僕の腕の中でじたばたともがいていた。僕は離さないように腰と頭に回した腕にいっそう力をこめ、彼女をぎゅっと抱きしめた。

「どうしたの、そんなに暴れて」

「放して! あんた狂ってるわ! もう無理! 私この家から出ていくわ!」

「そんな……。どうしてそんな心にもないことを言うんだい。君は僕を愛してくれているんじゃなかったの?」

「前はね! でももううんざりだわ! あんたがどんなに愛していても! もうあなたのことなんてこれっぽちも愛してない! 別れましょう! そのほうが」

「そう」

 目の前の女の言葉はそこで途切れていた。そいつの喉からは赤い飛沫が噴き出していて、僕の顔を真っ赤に染めていく。ひゅーひゅーと空気の漏れる音を立てながら金魚のようにパクパクと口を動かす姿は実に滑稽で、ブサイクな顔によくお似合いだった。




 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

偽愛 大村あたる @oomuraataru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ