* * * * * *

「……うん、そっか、分かった。ありがと」

ハンナはクレアからの電話を切って、アリスが「どうでした?」と訊きました。

「まだ見当たらないって。けど警察から連絡があれば、すぐ教えてくれるってさ。今からこっち来るって」

そうですか……。とアリスは悪い想像が頭から離れないようでした。ハンナは、シェーラとかレベッカにも訊いてみるねと電話をかけました。

「あ、もしもし? そっちはどんな感じ……あれ? 動物園? ……えーと、まだ店にも戻ってないし見つかってもないってことね。っていうかいつの間に二人とも合流してたの……って、切れた」

なんか大変そうだった。喧嘩するほど仲がいい、ってやつ?

「なんか、海に行ったときのコトを思い出シマス」

「ね。あのとき探してたのは鳥だったけど」

あのとき、ハンナさんと私は……と言いかけて、アリスは顔を赤くして首を振りました。

「ううん、きっと私が心配のしすぎで、大丈夫だとは思うんです……でも、もしかして、――二度と逢えないんじゃないかということを思うと、」

「アリスちゃん」

ハンナは、自分は魔法マギヤを使えるのだと思っていました。すなわちそれは、キスと、ハグと、それから料理です。華氏ファーレンハイトは人間の生活圏を基準に作られた温度であり、高熱を出したときの体温を100度とし、とても寒い日の外気温あるいは、お母さんの作ってくれた氷枕を0度とした基準だそうです。

 人間を含めた生物は太陽から与えられ続ける熱エネルギーを消費しなくてはならない命題を生きています。お互いに体温を交換したり、寒さの夜は身を寄せ合って温め合ったり……火は、言葉と共に人間の最も古い発明の一つであり、温かいお茶やスープを飲めば身体がほっと温まりますし、調理は味を美味しくさせるのみならず、病原菌の消毒にもなりました。

 人体の七割は液体で出来ており、心臓のポンプで循環する血液は酸素と二酸化炭素を交換し、汗をかいて放熱して、感情は価値が流動し為替する言葉によって発散されたり、交換されたりします。

 我々は感情と熱量すなわち情熱パッションを、液体や言葉で媒介して交換経済し、新しい物を産んだり、解釈や消費したりするわけです。

「――あっ、アリスちゃんだけずるい! 私にもハグっ」

アリスとハンナがぎゅっとハグしているのを見つけて、クレアは何だか妬いてしまい二人をまとめて抱きしめました。普段のクレアは自分からそういう子供っぽい事をしないのでハンナは目を丸くしましたが、まあ元気なら良いか……と思いました。

「あっ」

視界の遠くに、赤い首輪の猫を見かけた気がしました。

(ダイナ、ダイナ、何処へ行くの?)

アリスは夢中になって追いかけました。ダイナは急いでるふうでもないのに脚が速くて、息を切らして、汗をかいて……風が通り抜けて、と思うとそれは風の吹いているのでなく自分が走っているからなのだと分かりました。

 街ではアリスのことを教会の演奏などで見かけたことのある人たちが手を振ったり挨拶したりして――アリスも急ぎながらも「あっハイ」とか「ありがとうございマス」とか応えたりしました。ハンナとクレアも走り去る白ウサギのアリスを追いかけていましたが(うさぎ追いしかの山?)、途中で一旦、断念しました。

「アリスちゃんってさー……意外とパワー系だよね」

「楽器やってるのは体力勝負だったりするからねー」

 ハンナだって、ずっとバレエやってたじゃない。

 何年前の話だと思ってんの。もう体力なんか落ちたよ。

「あんな痩せっぽっちの身体のどこから、こんなエネルギーが湧き出てくるんだろうって、私ずっと思ってたんだから」

そうなの? とハンナが言って、ずっと隣で彼女のことを見ていたクレアは「ふふ」と言って微笑むばかりでした。


* * * * * *


 深い森は煌めく太陽の光を地面に遊ばせていました。こまめに手入れする人が居なくなり、お花や薬草、ライ麦も収穫しなくなって五年半近くが経ち、辺りは生い茂っていて、苔むした地面は少し湿っていて温かく柔らかく、見上げれば青い空を切り取っていました。

 木とは自然の墓標であり、桜の花は人の血を吸って紅く咲いていました。湿潤の森には独自の生態系エコ・システムがあって……雨水を貯蔵し、川が流れ、木々が芽吹いて、菌糸が巣食い、キノコが生えました。

 双子の塔が崩れました。

 記念碑が覚えていました。お墓や樹木も、それと同じです。

 言葉によって縲絏なづけられた私たちが代わりに死を覚えているメメント・モリから、安心して忘れることで生きてゆけます。

 死をよそにして、なんでもない日常を送ることができます。

 ハンナはアリスのあとを追いかけて、森の中で佇むアリスに声をかけました。ハンナは不思議そうに辺りを見回して、

「この森……いつか来たことがある」

「私たち、ここで生まれたんです」

と言いました。ふっと、空から何かが落ちてきたように思い、二人は一緒になって「あっ」と言って指差しました。

 空は晴れているのに、柔らかな雨が降ってきました。視界の向こうに迷い猫のダイナを連れた浅黒い肌の女の子が、――☦八端十字架の刺さった地面のそばで――こちらを見ながらじっとしていました。

 二人が近付くと、女の子は古ぼけたお墓の後ろに隠れました。灰色の猫はアリスのほうに駆け寄って、抱きしめて撫ぜてあげると、アリスはハンナにダイナを預けました。

 ピアノの音が聞こえていました。

 あれはきっと、母さんが弾いているのだと思いました。に奏でられるその曲はスコットランドで唄われる――そして日本で『蛍の光』と呼ばれる、お別れのうたでした。


 むがすあっだごどは忘れですまって

 思い出されることもんだべが?

 そっただごどもあったつってよ


 んだんだ、そっただごどもあったつってよ

 思い出の一杯を飲み干すべ

 そっただごどもあったつってよ


 酒飲みだな、んが おれも飲むけどよ

 思い出の一杯を飲み干すべ

 そっただごどもあったつってよ


 二人すて山さ登ったべぢゃ

 めごっこいヒナギクも摘んだしよ

 だども迷ったへで足がこえぐなった

 そっただごどもあったな


 朝間あさまがら晩方ばんげまで二人すて

 川で船っこ漕いで遊んでらったぢゃ

 だども気付いだったら

 んが海の向こうさ行ってらった


 ほら手っこ繋ぐべ んがも手出すてけろ

 そやってまた酒でも一緒に飲むべ

 そっただごどもあったつってよ


 アリスは振り返ると、後ろにお花畑がありました。白のオオアマナと黄色いタンポポ、淡い赤や白のデイジーなどが咲いていて……大きな桜の木の下で、両親が並んで立っており、母親がただ微笑んでこちらに小さく手を振っているのだと思いました。

 はらはらと花びらが舞って、白の大群が風に踊りました。

 ダイナも「にゃあ」と鳴きました。九月生まれの秋桜コスモスあるいは高貴な白エーデルワイスのアリスは、その思い出を胸にしまって女の子に向き直り、訊ねました。

「あなた、おなまえは?」

女の子は紙コップを渡してきました。その底にはぴん、と糸が張られており(女の子は、自分が魔法マギヤを使えるのだと思っていました)、アリスが耳にコップを当てると、浅黒い肌の女の子はもう一方の紙コップに口を当てて、

「ダイナ……、メリル」

と、小さな声で言いました。「そう、」と言ってアリスがコップを口に近付けると、ダイナは自然と自分のコップを耳に当てました。

 アリスは、か細くて頼りない秘匿回線を震わせて……溶けてしまいそうな声で耳をくすぐりました。

「あなたも……ダイナっていうのね?」

 青い空には、ひこうき雲が線香ののように伸びており……アイスクリームの雲が溶け出して、空の瞬きから太陽の光が分かたれると――そこに大きなアイリスが架かりました。

 アリスとハンナ、そして二人のダイナはどこまでも青く高いそらを仰ぎました。

 虹蛇にじへびは二つの世界を繋ぎます。昼とリルの長さが同じになる、春のお彼岸です。

 東の海から太陽ソンツェが昇り、西方浄土の冥界に三日月のチェシャ猫が浮かびます。

 あの世とこの世が交じり合うときです。

(マギア・エスト――クオダム・ウビクエ クオダム・センペル クオダム・アブ・オムニブス クレディトゥム・エスト)

 次の満月のあとの日曜日には、復活祭イースターがやって来ます。

 三月二十一日、今日は春分です。

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アリスとハンナ 名無し @Doe774

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