第5話:はじめての
どことも知れぬ山中にそびえる、天へ続くかのような絶壁。
そこを流れ落ちる滝壺の
おそらく過去、激流がそちらへも降り注いだ頃に削りだされたのであろう数メート四方のそこは、しかし人工を思わせる丸みを帯びた台状となっている。
その中央へ、聖剣よろしくぶっ刺さっているのは、目をしばたかせる必要もないくらい明らかに、ゼータのキーボードである。
その光景にゼータは考える。
(やはり我は……部屋から連れだされた?)
経緯も意図も掴めないが。
しかし彼にとって現実を象徴するそれが、こうして連続的に存在している以上、そう考える他ないのである。
(ここはどこだ……風景こそ外国風だが、少女の言葉は日本語だ。しかし先ほどの魔法じみた現象といい、不明点が多すぎる。我が知らぬ間に、日本はこのような国になっていたのか? ……そんなバカな)
物質的には世間と断絶があったゼータだが、もちろん情報的にはそうではない。
日本というのは今でもイエローモンキーがサラリーマンしている世の中で、情報技術の発達により人々は幸福を手にするはずが、実態はその逆であり、労働者市場の都市集中にも歯止めがきかず、人々は今日も満員電車に揺られ放射性物質と排気ガスを心肺中でブレンドしながらインスタントコーヒーを飲み下すことに余念がないはずだ――彼がソースにしているネット上の情報を信頼するのであれば。
少なくとも、金髪碧眼の美少女がバリアを張ることはなさそうに思えた。
「……沈黙、ですか。ふーん……一応私、あなたのこと助けてあげたんだけどな」
いつの間にか水辺からこちらへ歩みだしていた少女に、ゼータは正面に向き直る。
声こそ澄ましているが、夕立ちに遭ったというよりはプールにダイブしたと言ったほうが近いありさまだ。
髪の毛やスカートの先からは絶え間なく雫が滴り、薄着は張り付いて、肌の色を露わにしている。
光を放つ障壁によって、それが近距離からライトアップされることが
それを自覚してなのか、ちょっと困ったような、拗ねたような顔をして、頬を指でとんとん叩いている。
(良い……)
再び眼福に与るゼータであったが、しかしこの状況下で鍵を握るのが彼女であるということも認識してはいた。
状況について確認するなら彼女を敵にまわすべきではない。
というか、先ほどの件を含め、なんとか丸め込まないとまずい。
「まあ、ただの変態さんってことなら、こっちもそういう進め方するね」
「あーいやいや、いや、我はあれ。あれだな」
しかし、他人とのコミュニケーションなどとは無縁のゼータである。
人並み以上の話術や交渉術があるわけもなく、まず彼女が見せた自分への興味に答えるくらいしか、切れる手札がない。
「確かにあれは、我のものだな」
少女は一瞬だけ目を見開いてから、何かを言い返そうとする。
が、その発言は、彼女の後方から響いてきた轟音にかき消された。
バシャアアアン、という水音――とともに、滝を構成していた流水の一部に巨大な穴が空く。
吹き飛ばされた
「っ、こんな時に!」
と少女が振り返って身構えた時には、既にそれは異形となっていた。
でぷん、と少女の前方10メートルに着地したそれは全長2メートル超の水分のカタマリ……でありながら、生命を感じさせる有機的な脈動をしているゲル状の何かだ。全体は薄水色をしていて、接地部だけはやや褐色を帯びる。その形状は
(スライムが、出た)
とゼータは思ったが、
「なっ、スライムじゃない!?」
と少女は驚いた。
「向こうに逃げて!」
ゼータの方を振り向きもせず、雑に手を振って言い放つ。
「む、向こう……とは……どこだ、どこですか」
うろたえるが、既に少女は前方へ駆け出している。
仕方なく、唯一目にしていた彼の寄る辺、キーボードのある石台の方へと、一歩、二歩。
モンスターの登場にも関わらず、慌てて逃げなかったのは、少女がいたからだ。
謎の魔法少女の戦闘シーンが、これから始まる。
先ほど自分をはねのけた例のファンタジー現象について、再度観察しよう。
そんな、自分が傍観者であるという楽観があった。
そこに、またバシャンという音。
ゲル状のそいつが、その全身の弾力をバネとして使い、跳ねた。
「んおおおっ!」
その見かけによらぬ機敏さと飛翔力に驚くゼータ。
それを追って空を見上げ、その放物線が自分に向けて描かれていることに気づいて足が止まり、悪質な抽象画のような襞のぐじゅぐじゅが目前に迫って。
仰向けに倒れて失禁した。
ぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅぐじゅ。
ゼータの眼前に
「……っもう、ボケてるんだから」
それを、少女は間一髪、ゼータの前に入って受け止めていた。
白色の障壁によってジャンプ攻撃を阻まれたそいつは、斜めに構えられた障壁に沿ってそのままずるり、と滑り落ちる。
障壁はその重みや侵食でもしようかという抵抗を一切受け付けず、うっすらと輝いていた。
「水属性。だからあとは……こいつで、っと」
言いながら左手を伸ばし、その手首に装着していた細身の腕輪に目をやる少女。
(どうやら、助かった。これで魔法発動。身に着けているものが魔法を使うための道具になっているということか)
と、ゼータが安堵して数瞬。
伸ばされた少女の左手がずぷり、と水色をしたそいつの体内に埋もれる。
気づくと障壁は消えていた。
「きゃああああああああ!!!」
悲鳴とゼータの再失禁は同時。
体内に埋まった彼女の左手からブクブクと良くない色の泡が出る。
「いいい、っ痛、このっ……!」
左手を引き抜こうと、思わず右手を出したのがまずかった。
ぶるんとゲル体が震え、盛り上がった一部が彼女の右手をも捕らえる。
「いやっあぁっああああっ!!」
今度は少女が失禁する番であった。
両手を拘束された少女は、もはや抵抗手段を失ってしまう。
みるみると吸引された両腕は、はや肘までもが飲まれ、為されるままに前のめる。
残る外界の頼り、両足はと言えば、だらしなく開いて小水を伝わせながら震えるのみだ。
全身が飲み込まれるのも時間の問題だと、誰の眼にも明らかな体勢である。
「あっ、あっ、あああ、あ、あはっあはっあはははっ!」
ゼータは仰向けで腰をがくがくやりながらも、いつの間にか笑っていた。
全てが良くない夢、良くない冗談だと告げていたから。
すべてがファンタジー、すなわち夢・幻であるならば。
こんなスプラッタ型エンタメは笑って観劇するに限る――とでもいうように。
「いっ! 痛い痛いよ痛い痛い痛いいたいっ」
「あはっっはっははははははっ!」
既に皮膚は溶けて解けて融けて。
真っ赤になった両腕からの出血が本体の色を毒々しい紫へと染めていく。
「いっ痛っ、た、たす、助け、てっ!」
「ふははっ! 無理、無理っ! はははははっ」
魔法のような手段も所有していなければ、この世界のルールですら把握していないゼータが無力なのは事実。
だがしかし、あまりにも早い諦めと放棄は、ゼータのこれまでの人生を象徴しているかのようでもある。
ぐじゅっぐじゅっぐじゅっ、という小気味よい音が響く。
なんとか踏ん張ろうと前方へ出した少女の両足が、ともすれば淫猥にも見える底部の襞に巻き込まれた音だ。
「ぁあがあああっ……」
腐肉の焼けるような嫌な臭いが立ちこめる。
四肢を拘束された少女は、徐々に叫びを上げる気力を失っていった。
そこにいるもう一人――ゼータに向けて、ただただ懇願する。
「ね、がいおねがいお願いお願いしますぅ、たすけえ、助けてぇ……」
「ぐっグロ注意いい!? グロ注意いいいいい! っくひひっひひひ」
ぐじゅっ、ぐじゅっ、という音の周期は約1秒。
それに合わせて少女の下半身から漏れ出す血飛沫。
はて腕はどうなったのか、赤黒く染まり上がった本体内はもはや透けては見えない。
「ううう……つか、つかってえ……助けて……あれ……」
「ごっごっごっごっ五体満足っ! 五体満足大満足!!!」
ぐじゅっ、ぐじゅっ。
「……ぁぁあ、めの、むらくも、のかぎ」
――
「っ……」
(どうして、その名を?)
それは、ゼータがそのキーボードにつけていた個体名。
厨二センスで付けられたその名を彼が公表したことはない。
ゼータ自身だけが知るはずの、ささやかな愛称。
(なぜ、その名を?)
鳴り止まないぐじゅぐじゅという音の中。
なぜかその声だけは、やけにはっきり、ゼータの耳に飛び込んできた。
「…………打って」
「うおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
弾けるように地を蹴り立ち上がると、そのまま後方の石台へ向かって駆ける。
顧みることなく。不自然で不確かで不格好であっても、それでも間違いなく感じた、ただひとつの目的のために。
「おおおおおぐ、ぐぐおおおおおおお!!!」
引きこもりに運動神経などあろうはずもなく、力任せに脚を出すばかりでは必然前につんのめる。
それでも手をつき膝をつき、倒れこむようにたどり着く。その場所へ。
キーボード、否、天叢雲鍵は、静かに彼を待っていた。
石に刺さっていたそれは、ゼータが触れるや否や、ぼんやりと蒼い光を放つ。
その光は、しかし予想だにしない勢いで広がり、その輝きはなお強く拡散。
刹那。世界は青白へと二値化され。
ゼータが思わず目を逸し、再び目を向けた時には、いつの間にか地面から自律的に抜けたらしい天叢雲鍵が、宙に浮いていた。
そう、彼の前に。
ゼータの動きを待つかのように。
そこにバシャンと何度目かの音。
おそらくは先ほどの閃光に反応したのだろう、ゲル状生物が再び跳ねていた。
それを振り向き見上げたゼータの視界の端に、地に伏した少女の姿も映る。
(かろうじて、息はある……だろうか)
その血をたっぷりと吸い上げた赤い隕石を、ゼータは視界の中心に捉える。
描く軌跡は放物線。
いかに跳躍力があろうとも、落下は重力任せの自由落下だ。
この単純生物は空中で加速する手段を持たない。
その公算は、過去二度の飛翔を目撃する限り大であった。
故に、慌てる必要などなく。
(ああ、我は何を考えていた?)
視線は上方へロックしたまま。
(ここがどこか? 魔法が何か? そんなこと、どうでもいい)
ゼータはおもむろに腕を上げる。
(我は我だ。そして我の武器はここにある)
浮かび上がっている鍵盤を確かめるように、軽く撫でる。
(やることなど決まっている。他にはない)
一度手をぱっと広げ、それから静かに指を折り、
(打つ。そして勝つ。それこそが我よ)
彼が行うはじめての
結果、何が起こるのか――光を纏う鍵盤を前に、ゼータは今や確信を持っていた。
『
一打、一打。
ゼータの指先が鍵盤を打ちつけるたび、天叢雲鍵は発光し、その力を顕現させる。
色とりどりの光が溢れ、絡み合い、現象を構築。
数秒とかからず打ちぬいたゼータの周りを十では効かない数の魔法則が取り囲む。
ある光はゼータの周囲を守る炎の壁となり、またある光は豪風となって前方を切り裂いた。
(これが我の力……我の力か……)
激しく重なりあった光と巻き上げられた土煙で視界が遮られる。
これらの魔法が、果たして飛翔してきたスライムに致命傷を与えたのかどうか。
それを確認する余力は、ゼータには残されていなかった。
くらりと、突然の目眩が襲ってきたからだ。
視野が急速に縮まって、モノトーンになる。
薄れていく意識の中、柄にもなく、思う。
(彼女が……無事であれば、よいが)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
これが、後に「降乱心」の名で語り継がれることになる、ゼータにとって恥ずべき初日のエピソードである。
アナザー・タイプ・オブ・ゼータ 衒思力 @--__--
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