第2話 『調理実習』

 本日は、週末の土曜日。


 朝のお庭の水遣りをしていますと、普段とは違う顔触れが、それぞれのお宅のお庭に、ちらほら。平日はお仕事に出かけている方も、悠々自適に、あるいは切羽詰まって、ご自宅のお手入れに勤しんでいます。






 私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住む、専業主婦です。


 私が住むこの街は、マスの目状に整然と区切られた分譲地に、膨大な数の戸建て住宅が立ち並び、さらなる造成と分譲により、その規模を増殖し続けている、巨大な新興住宅地。


 住民の大半は、マイホームを新築し、転入して来られたファミリーで、我が家もそうしたうちの一軒です。


 人生で、最も高額なお買い物の一つとされる『マイホーム』、それだけに、手に入れた人間にすれば、かなりのウェイトを占めるというもの。


 休日になると、こうして自宅やお庭のメンテナンスに励むのには、『家』という外箱を大切にしていることは勿論ですが、むしろそれ以上に、『家庭』という内側部分に重きを置いている気がします。


 どんなに立派なお家に住んでいても、住む人の内面や、家庭内がボロボロでは、せっかくのお家が台無しですし、外観が『ごみ屋敷』的な荒れ放題だと、逆に人間性を疑われてしまいますので。


 自宅建物の内も外も、それに係る人間関係の内も外も、住宅密集地に住むというのは、何かとバランスが大切です。






 普段と違うメンバーが揃えば、必然的に始まる井戸端会議。他愛ない出来事でも、主婦にとって話題には事欠かず、まあ、盛り上がること盛り上がること。


 半強制的に、家庭内労働に駆り出されたご主人たちは、これ幸いと、屋内へ退避する人、理不尽な状況にも、黙々と作業を続ける人、様々で、その辺りからも、各ご家庭内での力関係が垣間見られたりも致します。






 さて、この日、最も盛り上がったテーマは、『食』について。言わずもがな、三大欲望の一つであり、人が生きて行く上で、絶対に欠かすことの出来ない、重要なものです。


 特に、日々の食卓を預かる、私たち主婦にとって、楽しみである反面、最も頭を悩ませるものでもあり、費用、嗜好、健康管理、ダイエット、腕前、レパートリー、その他諸々、一筋縄では行かない、強敵。


 まして、家族間でも年代が違えば、さらにその手間も悩みも激増し、手を抜けば文句を言われ、手を掛ければどんどんつけあがり、苦労を通り越して、苦痛にさえ感じる方も少なくありません。




「うちは、中高大の男3人でしょ。食べる量が、半端ないのよ。だから、外食するのも、専ら100均の回転寿司で、出掛ける前に、必ずカップ麺を食べさせてからじゃないと無理」


「何で?」「これから食べるのに?」


「そうでもしないと、一度に、万札が何枚も飛んでゆくことになるのよね。目の前に積み上がるお皿の数とスピードっていったら、もう、地球人の領域を超えてるって感じ」


「へえ~!」「男の子は、凄いわね~」


「まあ、食べること自体はいいの、成長期だから。でもね、何が腹立つって、それだけ食べて、暇があればぐうぐう寝てるくせに、全然太らないって、どーゆーこと?? って言いたくなる」


「うちは逆。お年頃の女の子だから、ちっとも食べてくれなくて、それ以上痩せたら、マジで餓死するぞって言いたくなるわ」


「あるある~! 女の子って、一度は通る道だよね。でも、どんなに頑張っても、30超えた頃から、徐々に横に成長し始めるんだけどね~」


「いわゆる『第三次成長期』ってやつだよね」


「うちは、小中学生と老人だから、作り分けないと駄目なのよ。おまけに、旦那ときたら、中学生に合わせると『くどい』って言うし、老人に合わせれば『物足りない』って言うし」


「中年用も作ってるの?」


「まさか。私に三種類も作れってか!? ってキレたら、何も言わなくなった」


「うちは、下が最近離乳食始めたばかりで、食べないんだ、これが。すっごい時間かけて作ったお粥なのに、口に入れても、全部ベーって吐き出しちゃうの。上は素直に何でも食べてくれたから、ギャップに苦しんでる」


「個人差あるから」「焦らない、比べない」


「でもね、問題は上。豚とか牛とか鶏とかお魚とか、食品の原型が分かってないっていうの? 『柿』と『牡蠣』みたいに、同じ名前で別物だと思ってたらしくて、『豚肉は豚さんなんだよ』って教えたら、ショックを受けたみたいで、食べなくなっちゃって。これって、教えるのが遅かったの? それとも、早かった?」


「早い遅いっていうより、デリケートな子なら、さらっと流しながら、自然に受け入れられるタイミングを待った方がいいかもよ?」


「大人だって、あんまり深く考えると、食べにくくなるものね」


「こないだね、うちの主人、健康診断受けて、血圧と中性脂肪その他諸々イエローカードで、食事制限が掛かったの」


「あちゃー」「マジ!?」「大変じゃない!」


「もともと、主人の実家がかなり濃い味付けで、前から、お料理にやたらとお醤油とか掛けるような人だったのね。これって、絶対に生活習慣から来てるよね?」


「それ! ママンの味って、ときに凶器だよね~!」


「あるある~!」


「あとさ、何時間も掛けて作った料理を、ものの10分もしないで、丸飲みみたいに食べられるのも、悲しくならない?」


「あれは、腹が立つわ」


「せめて、よく噛んで食べようよ、って言いたくなるよね」




 とまあ、食事に関しての主婦の愚痴は、尽きません。







 我が母校、藍玉女学園は、幼稚園から大学まで擁する女子校で、モットーは、『聡明・勇敢・沈着』。


 創立100年を超える、歴史の長い女子大付属学園で、中でも創設初期から力を入れている家政学部に関しては、教育のカリキュラムは勿論、学園内の設備や備品に至るまで、非常に充実しておりました。







 それを象徴するものの一つが、調理実習です。大小合わせ、10室設置されている実習室は、大きなものでは、数百人分の給食まで実践調理が可能で、また、世界中のほとんどの料理が学べるよう、あらゆる機能を備えています。


 圧巻なのが、学生たちの間で『包丁コレクション』と呼ばれる、包丁専門の保管室です。そこには、世界中のあらゆる種類の包丁が納められ、勿論、それらも使用OK。


 一般家庭で使われている見慣れたものから、まるで刀かと思うくらい巨大なものや、逆に玩具のように小さなものまで、恐ろしいほどの数と種類の包丁が並んでいました。


 中・高等科生も、調理実習では、大学の教室を使用していました。実習室で習うのはお料理ばかりではなく、たとえば、自身の身長に最適なシンクの高さを体感したり、レイアウトの違いで、調理中の動線の重要性を学んだり。


 他にも、コンロやお鍋の焦げ付きの落とし方、用途別の洗剤とその使い方、食器や調理器具の材質別のお手入れの仕方、包丁の砥ぎ方、その他諸々、ここは『スーパー家政婦養成学校』かと思うほど。







 極め付きは、期末試験で、一年生は魚をおろす、二年生はおろした魚で御造りを作る、三年生はお魚で創作料理を作る、というもの。家政科のお話ではなく、普通科の生徒も、中等科生までもが必須科目になっており、パスしなければ、進級を認めないという徹底ぶりです。


 ただ、中には、どうしても生魚が駄目な生徒もいますので、そういう子は、軍手、ビニール手袋等の着用はOK、お魚の種類も、自分がやりやすいものでOKです。


 鱗取り、包丁使い、エラ・内臓・骨等を外す、見た目の美しさ、手際、損失率等々がチェック項目ですが、種類によって下ろし方の手順が違いますので、どのお魚を選ぶのかも重要なポイントです。






 入学当初、中等科生なら12歳ですから、最初から、そうしたことが出来るほうが稀で、まともに包丁を握ったことがない、という子が大半。基本の『猫の手』から始まります。


 ごく稀に、かつら剥きや飾り切りさえも、すんなりこなしてしまう天才もいます。元々、包丁を使うような環境にいて、さらに天才的なセンスの持ち主とくれば、まさに鬼に金棒です。


 私自身、当初、まったく包丁が使えなかった一人でした。特に鋭利恐怖症というわけではなかったものの、皮を剥くというのは、自分の手を切りそうで、最初はすごく怖かったものでした。


 出来れば、やりたくなかったものの、大学の家政学部主任教授で、中高等科生の礼法や、調理実習の指導もされていた、樋口先生、通称『鬼教官』は、一切の妥協を許しませんでした。






 私立女子校という性質上、中にはセレブリティーなご家庭のお嬢様も含まれていて、おそらく生涯、家事一切などとは無縁で過ごす可能性が否定出来ない生徒も、実際に在籍していました。




「皮の剥き方とか、お魚の切り方とか、要りません! 私は、これまでもそうだったように、家事一切しなくていい人と結婚しますから!」


「『しなくて良い』のと『出来ない』のとでは、まったく意味合いが違いますよ。そうしたことは、知性や品格と共に、所作の節々に出るものですから、もし、あなたが世界的な上流階級のご家庭に嫁いだなら、尚更です。それに、そうした暮らしが永遠に続けばよろしいですが、万が一、すべてを失ったとき、何も出来ない、分からないのでは、悲劇の上塗りです」


「じゃあ、どこかの国のお妃さまにでもなればいいんでしょ!」


「外国の王妃なら、なおのこと。陰謀、転覆、失脚、暗殺、内乱、戦争、何が起こるか分かりませんし、余程のスキルを身に付けていなければ、国民の尊敬を得ることすら出来ませんよ」




 その逆もしかり。セレブ家庭のご令嬢がいる一方、大多数は一般家庭の娘さん。世の中はどんどん合理化され、安価で便利な商品が出回り、それが消費者のニーズに合致したことで、よりその傾向が強くなっていました。




「うちは一般家庭だし、お魚は、スーパーで処理してあるのを買うから、いいです! だいたい、そんなの覚えなくても、生きて行けますから!」


「それはどうでしょう? 将来、お住まいになる場所によっては、スーパーなどないようなところかも知れませんし、結婚して、海外に住むことにでもなれば、必須事項になることもありますよ」


「だったら、単身赴任か離婚でいいです!」


「可能であれば、それもよろしいでしょう。ですが、あるいは将来、あなたの旦那様や、あなたご自身が、そうしたお仕事を手掛けられることも、考えられますでしょう? オーナー自ら、何も出来ないのでは、示しがつきません。何事も、始めるのは若い頃が一番です。年齢を重ねてからでは、大変ですよ」




 といった遣り取りが、先生と生徒の間で、年に何度となく繰り返されているのです。







 そう、セレブ家庭に生まれようと、一般家庭に生まれようと、それが未来永劫続くとは限らず、将来のことは分かりません。


 特に女子は、結婚する相手によって、ふり幅が大きいものですから、家事全般まったく出来ないお嬢様の転落人生、常識も作法も一切知らないシンデレラストーリー、現実はどちらも大変です。


 そう考えると、やっておいて損はないということですが、如何せん、先生の指導たるや、相当厳しいものがありますので、思春期・反抗期、真っ只中の女の子にとっては『何で私が!』という気持ちにもなるというもの。


 ただ、大人になって、いざ社会生活をして行く中で、藍玉で学んだことには、多かれ少なかれメリットを感じている今日この頃です。







 もし、自分が藍玉女学園に通っていなかったら、と考えると、怖くなることが多々あります。


 と申しますのも、私の母は、世間一般の常識や、礼儀作法という部分で、世間からかなり乖離している部分があり、そのギャップを、様々なシチュエーションで気付かされたのが、この学校でした。


 とりわけ『食』というものに関しては、まるで無頓着としか言いようのない人でしたので。







 当時、お店を経営していた母は、お仕事へ出かけている間、まだ赤ちゃんだった私を祖母に預け、授乳の時間になると、休憩がてらお店を抜け出し、自宅まで戻って、母乳を与えていたそうです。


 それは、我が子に対する愛情、、、などでは勿論なく、母乳が出るのに、ミルクを買うのが勿体なかったから、と後に、ドヤ顔で本人が申しておりました。オーナーですから、時間や行動に自由が利いたので可能なことだったと思います。


 また、離乳食以降、母が用意していた留守中の私の食事は、ごはんにお味噌汁をかけたものと、スナック菓子の2種類。


 見かねた祖母が、お粥や、野菜などをすり潰したベビーフードを食べさせてくれていたそうですが、母が在宅する日の私の食事は、3食全て、お味噌汁かけご飯、オンリー。それが、幼稚園まで続きました。







 普通、幼い子供の場合、一度に食べられる量が少なく、消化も速いため、3食以外にもおやつなどを食べるのが一般的ですが、私には、あったりなかったり。それどころか、朝ごはんも食べないことが常態化していました。


 そもそも、朝食を作らない家庭だったのか、というと、私以外の家族は皆、普通に食べていて、私も、小学2年生頃までは、一緒に朝ごはんを食べていました。勿論、メニューは恒例、お味噌汁かけご飯。


 それが、3年生になった頃から、いつの間にか、私の分の朝食だけ出されなくなりました。祖父母や父が、私の食事がないことを尋ねると、決まって母は、『この子は、出しても食べないから』と答えていたのを、覚えています。


 中高生なら、お年頃ということで、それもありですが、如何せん、まだ小学3年生。体調不良でもない限り、本人が拒否しても、無理にでも食べさせるのが、親の務めだと思うのは、私の勝手な言い分でしょうか。


 祖母が、私の分を用意しようとしても、『どうせ食べないし、勿体ないから、余計なことをするな』と、制止するのです。


 では、本当に出しても食べないかといえば、食べたと思います。正直、弟妹がたっぷりとジャムの塗られたトーストを食べているのを見て、美味しそうだな~、お腹空いたな~、と思っていましたから。


 何度か、『自分も食べたい』と言ったことはあったのですが、その度に、




『食べるって言ったり、食べないって言ったり、勝手な子だわ!』


『人が食べるのを見ると、欲しがって、卑しいわね!』


『欲しいなら、何ではじめに言わないのよ! 面倒くさい!』




と、母を激怒させてしまい。


 本人の機嫌が悪ければ、感情に任せて手が出るような人間性で、一度怒りに火がつくと、父や祖父母でも手が付けられず、子供なりに、朝から余計な波風立たせたくない、ということを、経験で学習しておりました。


 小学校へ行けば、お昼には給食の時間が来ます。それまでの数時間だけ、空腹を我慢すれば良いこと。毎日のことでしたので、慣れっこになっていて、私にとっては、それが普通になっておりました。







 当時、私が通っていた小学校の給食は、おかず2品に、牛乳とパンが一つ、たまにみかんやバナナ、ごく稀にプリンなどのデザートが付くといったメニューでした。


 じつは私、給食で出されるパンがどうにも苦手で、食べ始めは良いのですが、すぐにぱさぱさになり、それが苦痛で、1個が完食出来ずにいました。


 おかず2品のほうは、麺系だったり、汁系(シチュー・カレー含む)だったり、唐揚げや煮物などの、一品系だったりで、日によっては、とても腹もちの悪い組み合わせもあり、午後の授業が終わるころには、お腹がぐうぐう鳴ることもありました。







 学校が終わって、自宅に戻るのが3時半頃。大抵のお宅では、夕食までのつなぎに、おやつを食べるのが習慣でしたが、我が家の場合、おやつがあることは稀でした。


 大人になってから、妹に聞いて知ったのですが、帰宅が早かった弟妹(幼稚園児)は、いつも母と一緒に、おやつ(大抵お菓子)を食べていたそうです。


 つまり、我が家にも『おやつ』という習慣は存在してはいたものの、それが、私が帰宅するまで、残っていなかった、ということが判明。


 祖母だけの時は、私の分を取り分けて置いてくれましたが、おやつの時間になると、休憩がてら、お店から戻って来ていた母が、弟妹と一緒に、あるだけ全部食べていたと、妹が言っておりました。


 帰宅後は、ほぼ毎日のように、何がしかの習い事に行くのが、当時の私の日課でしたので、元々、おやつという概念すらなく、むしろ、もらった時には、『ラッキ~! お菓子食べちゃった♪』と思う程度の認識。


 ですから、特に腹持ちの悪いメニューの給食だった日には、切ないくらいの空腹感と戦っておりました。







 習い事が終わって帰宅すると、ほぼ夕食の時刻です。小学校低学年の子供が、朝も食べず、給食のパンを残し、おやつもないのですから、その分、どうしても夕食はがっついて食べます。


 お茶椀二膳は当たり前、三膳目に突入することも、珍しくなく、まるで体育会系かガテン系男子のような私の食欲を見て、母は、馬鹿にしたような口調で、決まってこう言いました。




「あんた、知ってる? 居候三杯目にはそっと出し、っていう諺」




 これは、『居候』すなわち、他人様の家にただで厄介になる者は、食事で、三膳目のおかわりをするときには、遠慮がちにそっとお茶碗を出す、というもので、居候の肩身の狭さを詠んだ川柳が、諺になったものです。


 勿論、小学3年生に、そんな諺など知る由もありません。私にすれば、ほぼ一日空腹に耐え続け、やっとありつけた食事です。コンスタントに摂取出来ないなら、食べられるときに食べようと、子供でも、生きるための本領を発揮するというもの。


 これには、側で聞いていた祖母が、かなりきつく母に注意しました。自分の娘に対して、居候を引き合いに出すとは、少なくとも良識がある人なら、誰だって神経を疑います。


 でも、母はどこ吹く風で、『ちょっと冗談で言っただけじゃない』と、悪びれた様子もなく、その後も、何度もそうした言動を繰り返すばかり。







 母の人間性を一言で表すなら、『守銭奴』という言葉がぴったり来るほど、お金に関しては意地汚い部分がありました。三膳目のおかわりをした私に、居候の川柳を引き合いに出したのも、あながち冗談ではなかったかも知れません。


 その証拠に、私にとっては必要な摂取量でも、三膳目を食べようとすれば、『それ以上食べたら、デブになるよ!』と、母に制止され、一日の食事は強制終了させられていたのです。


 そんな状態が続いていましたので、さすがに歪が出たのでしょう。ある日の朝礼中、私はふらっとして、床にしゃがみ込んでしまい、生まれて初めての『立ちくらみ』を体験したのです。


 すぐに、先生に保健室に連れられて行き、ベッドに寝かされ、体温を測り、異常がないことを確認、そして、尋ねられました。




「今朝は、何を食べてきたの?」


「いえ、何も食べていません」




 見て、はっきりとわかるくらい唖然とする、担任と養護教諭の顔。まだ3年生ですから、聞かれたことには、正直に答えます。でも、その様子から、私はマズイことを言ってしまったと、直感しました。


 朝食を食べなったのは今日だけか、いつものことなのか、他の食事はどうか、家族はどうなのかなど、根掘り葉掘りいろいろと訊かれたのですが、頭の中は、このことを母に知られたら、という恐怖でいっぱいでした。


 案の定、自宅に戻ると、怒り狂って私を待ち構えていた母の姿。ええ。恨みましたとも。朝礼中、立ちくらみなど起こした、自分自身を。




「あんたが食べないもんだから、学校から連絡されて…(以下略/激怒中)!!」




 高校生くらいになっていればいざ知らず、まだ小学生ですから、学校としては、当然の連絡事項だったと思います。


 母の怒りは、おさまることを知らずに、私にぶつけられ続けましたが、そんな中、担任の先生が、わざわざ自宅まで出向いて下さったのです。







 ちょうどその当時、『朝ごはんを食べない子供』というのが、問題になり始めていた頃で、親自身が食べないので、食事を作らないケース、親が早朝に仕事に出掛け、作っていない、もしくは、作っても子供が食べないケース、親は食べているのに、子供だけが食べていないケース、などがありました。


 子供だけが食べていないケースでは、虐待も疑われることから、学校としても、その対応は極めて慎重になり、場合によっては、朝登校してから、個別に食べさせるといった措置を取ることもしていたようです。


 担任の先生が自宅までいらっしゃったのも、その辺りを見極めるためだったのでしょう。




「まだ子供ですから、朝は食べさせないと、また倒れるかも知れませんからね」


「だけど、先生、この子、言っても食べないんですわ~」


「こうめちゃんの場合、身体も細いですし、顔色もあまり良くないから、きっと元々食が細いお子さんなんだとお察しします」




 そんなことを言われるまで、私は、自分が痩せて、まして、顔色があまり良くない子供などと、考えたこともありませんでした。むしろ、いつも母からご飯を止められるくらい、醜く太っていると思っていました。




「お母さんも大変だと思いますけれど、少しでも食べさせるように、ご協力して頂けませんか?」


「でもね~、本人が食べようとしないもんですから~」


「ああ、分かります、その御苦労。せっかく作っても、食べてくれないんでは、悲しくなりますものね」


「そうなんです! 本当に、世話が焼けるんですよ、この子は!」




 勿論、事実ではありません。夕食の食べっぷりを見たら、誰でも分かりそうなもの。でも、母の中では、それが真実にすり替えられているので、聞いた相手は、その様子から、すっかり信じ込んでしまうため、非常に質が悪いのです。




「では、こうしたらどうでしょう? 毎朝、半熟玉子を作って、それだけは、絶対に食べさせるようにしては?」


「それでも、食べるかどうか」


「お仕事もされてて、お母さんもお忙しいと思いますが、卵一個ですから、それを食べる間だけ、見張っているようにするんです」




 そう言って、先生は、丁寧に半熟玉子の作り方などを説明し、私にも、それだけは必ず食べるように約束させて、帰って行かれました。


 母は、自分が責められることなく、むしろ、『手の掛る子供を育てる、大変な母親の苦労』的なスタンスで、労られるようにお話をしてくださったおかげで、幾分怒りがトーンダウンし、私としては救われた形になりました。







 ところが、一難去って、また一難。問題は、この『半熟玉子』でした。


 元々、私は、あまり卵は好きではなく、特に黄身の部分に関しては、口に入れると、口の中がチクチクし、何だか苦いような痛いような、不快な味や感覚がして、弟妹にあげたり、残したりしていました。


 でも、先生との約束ですし、何より、また母の機嫌を損ねたくなかったので、苦手なこの食べ物を、頑張って食べ続けたのですが、この時期から、やたらと体中が痒くなったり、皮膚に発疹が出たり、ガサガサしたり、頭皮にフケが出たり、掻き壊して炎症を起こしたりする症状が続きました。


 後に、血液検査で、私には卵黄アレルギーがあったことが判明し、あの時の一連の症状も、それが原因だったと知りました。救いだったのは、それほど重篤なレベルではなかったため、皮膚症状程度で済んでいましたが、人によっては、命にかかわる危険なものです。


 母親なら、そうした異常に気がつきそうなものですが、私の母の場合、お医者さんに見せるわけでもなく、掻き壊した部分を見て、気持ち悪がるだけでした。


 半熟玉子が続いたのは、おおむね数か月間で、やがて冬休みになり、お正月で食生活が変化し、季節柄、私の朝食も、残ったお餅の消費のため、皆と一緒にお雑煮や焼き餅が出されていましたが、またしばらくすると、いつの間にか、ごく自然に食卓から消え去り、半熟玉子のことも忘れられてしまいました。







 考えてみると、我が家で出されていた食事というのは、非常に偏った内容だったように思います。


 たとえば、焼きそばの場合、大の苦手だったピーマンと、細切れの肉がほんの数かけら、海苔や鰹節などのトッピングもなし。それどころか、数回に一度は、麺オンリー具なしパターンもありました。


 カレーやシチューに至っては、まだ固いジャガイモと人参と玉ねぎが、一人前分のお皿に、各1~2切れ程度が入る分量。そして、お肉の代わりに入れるのは、決まってシーチキン。


 その理由が、妹のゆりがお肉が嫌いだから、というのですが、実際は、大の肉嫌いだった母が、自分がお肉を調理したくなかったことが、後に判明。そして、これが数日続きます。


 ハンバーグは、手作りされたことは一度もなく、出来合いで焼くだけの、あの有名な商品が、一人につき1個。出来合いのコロッケ1個だけというのも、わりとヘビロテで出されていました。


 他にも、目玉焼きとか、焼き魚とか、ウインナーとか、基本的におかずは、出来合いや焼くだけの一品のみで、サラダや付け合わせもなく、後はご飯とお味噌汁(具は一品、もしくは具なし)だけで、カレーや焼きそばなどの際は、それ一品のみ。


 混乱するといけないので、念のために言っておきますが、これは夕食のメニュー。量的なことは別にしても、かなり栄養が偏っていたのは、間違いありません。


 そんなメニューで、祖父母や父が文句を言わなかったのか、というと、晩酌をする祖父のために、祖父母は夕食を別にしており、一緒に食べるのは週末のみ。


 父とは食事の時間帯が違い、こちらも晩酌をするので、お刺身など別メニューでしたから、平日の子供の夕食が、そんなことになっていたことは、分かっていなかったと思います。







 丁度その頃、巷ではインスタントカップ麺がシェアを拡大してゆき、その手軽さから、我が家にも深く浸透しました。特に、土曜日や祝祭日のお昼とか、しばしば夕食にさえ登場。


 まあ、嫌いではなかったので、それはそれで、良かったのですが。むしろ、母のお世辞にも美味しいとは言えない手抜きの食事よりは、私の口には、あっていたような気がします。


 夕食にカップ麺、というのは、小学生時代のおやつと同じ意味合いで、小学校高学年になっていた弟妹の食欲は、以前とは比較にならないほど旺盛になり、カレーやシチューだと、好きなだけおかわりするので、塾やクラブ活動で遅くなった私が帰宅する頃には、お鍋が空っぽになっていることも。


 そんなとき、私の夕食は、ご飯とカップ麺というワンダホーなものに。私には、何かにつけ、デブだ、太るだと、食事を制限していた母ですが、むしろ肥満傾向にあったのは、弟妹のほうでした。


 特に妹は、小学4年生の時、身長は平均より低いのに、すでに体重40㎏を超え、学校から指摘を受けるほど。それでも、弟妹には、『食べ盛りだから』と、一切制限することなく、好きなだけ食べさせていたのです。







 そして、その問題の弟妹。私がカップ麺にお湯を注ぎ、食べる準備をしていると、必ずと言って良いほど、猫なで声で、『一口頂戴』と、おねだりに来るのです。


 すでに、夕食を終えた彼らには、ちょっとしたつまみ食いでも、私にとっては、たった一品しかない、貴重なメインディッシュ。私が了解する前に、あり得ないくらい大量の『一口』を、口いっぱいにかき込むものですから、酷いときなど、カップの中身は、スープと麺の細切れだけということも。


 仕方なく、残ったスープをご飯に掛けて食べたこともありました。が、とてもそれだけでは足りず、もう一個食べようとすると、『あんた、今、食べたばかりでしょ。カップ麺だって、タダじゃないんだからね』と母からの圧力。


 私としては、毎度これではたまらないし、何より身体が持ちませんので、自分なりに、横取りされない方法を画策。要は、弟妹が横取りしたくても出来ない状況を作れば良いわけですから、あれこれ考えた末、たどり着いたのは、『あり得ない味付け』対策でした。それは、




1.舌が痺れるほどの、コショウやタバスコでの、激辛の味付けをする。


2.酢、レモン、ポン酢などで、激酸っぱい味付けをする。


3.その両方をブレンドし、ほぼ人間の味覚ではあり得ない味付けにする。




 さすがに、これは効果覿面。いくら食い意地が張った弟妹でも、さすがにこの味では、食べられません。最初は、自分でも、かなり苦痛を伴って食べていたのですが、慣れれば普通に食べられるようになるもので、むしろ、それがないと物足りないと感じるようになりました。


 正直、人間として、完全に味覚がおかしくなっていたと思います。でも、理不尽な一口攻撃で、大量に横取りされるよりは、ずっとマシです。


 ちなみに、この『一口』という概念ですが、確かに、人によって、その量には大きく差があります。でも、この場合、物理的に口の中に入る容量ではなく、社会通念上は、『ほんの少しの量』という旨を意味するのだとか。


 ですから、もしこれが法廷で争われた場合(まず、そんな状況はあり得ませんが)、弟妹のとった行為は、不法行為で有罪に当たるそうです。







 幼い頃は、自宅で出される食事が、世界の食べ物のすべてという感覚でしたが、成長と共に、自分の家の食事が、どうも他所とは違うことに気が付きはじめます。


 私には、恐ろしくてとても口に出せないことも、はっきりと自己主張する弟妹は、その事実を母に突きつけたのですが、母の言い分は、家事と育児、そのうえ仕事までしているのだから、そこまで手を掛けている時間がないのは当然だ、と。


 確かに、それは否定しませんし、ご飯を作っていただけ、マシかも知れません。が、あまりにも度が過ぎる手抜きや、意味不明な理屈、故意としか思えない事実のすり替え、気分によって変わる言動は、許容範囲を超えている部分もありました。


 そんなに仕事が忙しいなら、シッターさんをお願いしては、という祖父母や父の勧めにも、昼間は祖母が家にいるし、自分も仕事の途中で抜けるなど、融通が利くし、何より、シッターさんを雇うとお金が掛かるから勿体ない、と断固拒否。


 結局、自分一人ではこなし切れず、かといってお金を使うのは嫌、挙句、家事もストレスも溜めることになり、そのしわ寄せや捌け口が、私のほうへ来ていたということなのでしょう。


 こんな裏事情でしたので、世間とのギャップはかなり大きく、それを思い知ったのは、調理実習での出来事でした。







 それは、中等科一年生になって、最初の調理実習のときのこと。私が担当したのはお魚のムニエル。焼きあがったムニエルを、人数分のお皿に分け、ふと見ると、シンクに溜まった使用済みの調理器具が目に留まりました。


 食器洗いはお手の物。毎日の食事の後片付けは、暗黙の了解で私の仕事になっていて、シンクには、朝食の時に使った食器なども放置されたままで、母は自分が仕事をしていることを理由に、一切の後片付けを放棄していました。


 ちなみに、お洗濯は母が洗濯機(全自動)に放り込み、干すのは祖母、それを畳むのは私の担当で、お掃除も、数日に一度、母に言われて私がしていました。幼い弟妹の面倒も、専ら私と祖母がしていて、母は家事に育児に仕事に、何がそれほど大変だったのか、今もって不明です。







 手が空いた私は、溜まっていた調理器具を洗い始めました。すると、同じく手の空いた別の子が、今、私が取り分けたお皿の上を、何やら他の食材で綺麗に盛りつけし始めたのです。そして、洗い物を終えた私に、彼女が一言、




「あ、ごめんね、何か、私が美味しいところばかり取っちゃったみたいで」


「え? あ、ううん、そんなこと」


「盛り付けより先に、洗い物を片付けるなんて、私、思いつきもしなかった」




 そんな遣り取りを見ていた鬼教官、樋口先生も、




「んまあ~! なんて素晴らしい!」




と、大絶賛。一人、意味が分からない私。つまり、こういうことでした。


 調理を終えた私は、人数分のお皿に、一切れずつムニエルを乗せました。勿論、私としては、これが完成形のつもりです。だいたい、お魚がこんな形になること自体、我が家ではあり得ないことですから、これだけでも、私にとっては相当ゴージャスに思えました。


 でも、私以外の人たちにとって、お皿に、ムニエルが一つ乗っているだけの状態は、未完成以外の何物でもなかったのでしょう。傍には、それを放置したまま、溜まっていた洗い物を片付けている、私の姿。


 その二つを統合して出された結論は、ムニエルを完成させるという美味しい作業より、自ら率先して、洗い物を済ませてしまうことで、辛い仕事を後に残さないように、周囲に配慮した、という美談へと落ち着いたらしいのです。


 ちなみに、当初、私がムニエル一切れを乗せたお皿は、周囲をプチトマトやリーフで彩られ、絵を描くように垂らされたバジルソースに添えられたレモンに香草と、どちらのレストランですか? と言いたくなるほど、それはそれは美しくデコレーションされ、それを見れば、私のお皿が『盛り付け前』と判断されたのも、納得が行きます。







 そんな、まったくの勘違いで、先生や、クラスメートから、大絶賛された私。でも、内心、ものすごく複雑な気分でした。


 なぜなら、私と皆が思うお料理とでは、いかにその認識が乖離しているかが、形になっただけのことで、はっきり言って、私の盛り付けは、世間の感覚からは、盛り付けとさえみなされないレベルという烙印を押されたも同然です。


 他の班のお皿も、それぞれに個性を出しながら、皆とても素敵かつ美味しそうにデコレーションされ、同じお料理でも、少し手を加えるだけで、こんなにも違うということを思い知らされた私は、見た目を気にするという発想すらもなかったことに、初めて気がついたのです。


 絶賛する皆に、『本当に、全然そんなんじゃないから』と言いながら、とても本当のことは言えず、むしろその様子が謙遜しているように見え、皆のテンションは上がる一方で、私は、身の置き場がないような、逃げ出したい気分でした。







 周囲が妙な高揚感に包まれる中、一人冷静に、裏方的作業をしていた生徒がもう一人。楢葉木の実ちゃんです。


 木の実ちゃんのお宅は、お母さんが楢葉征子さんという、有名な料理研究家。冷蔵庫の残り物で、誰でも手軽に作れて、そのうえオシャレで美味しいというレシピで、多くの若い女性から、絶大な人気を集めていました。


 彼女自身、優れた感性を持つ母親のDNAを受け継ぎ、また、そうした環境にあったことから、12歳で包丁の達人という、お料理の天才少女でした。


 母親の仕事上、娘という立場で、幾度かメディアに出る機会もあり、その本人と、同じ教室での調理実習ともなれば、周囲に人だかりが出来るのは必然。


 同級生たちが、慣れない包丁に悪戦苦闘するのを横目に、見事な手際と鮮やかな包丁さばきで、処理した食材を用途順に並べて行き、食材の下ごしらえから加熱調理まで、お料理番組のようなそつのない動作は、皆の目を釘付けにしました。




「すっごーい!!」「天才だよね!!」「素晴らしいですね、楢葉さん」




と、鬼教官までが、見惚れてしまうほど。


 ただ、それは木の実ちゃんの望むところではなく、どちらかというと、彼女の母親の立ち位置とは対照的な場所に、彼女自身の個性はあったのだと思います。


 私とはまったく掛けた離れた世界にいるであろう、木の実ちゃんでしたが、どこかしら、似た空気を持っていることを、彼女は直感で、私は経験で、感じ取っていました。


 そんなスターが、まさかの鍋洗いをしているというのに、周囲の誰も気が付かないほど、そうした作業が自然に馴染んでいて、さっきまで取り巻いていたクラスメートたちは、彼女が完成させたお料理を、テーブルに並べるのに夢中です。


 一人孤独に作業を続ける彼女の側へ行き、洗い終えた調理器具を布巾で拭きはじめました。




「あ、ありがと。そっちは、もう終わったの?」


「うん。みんな、テーブルの飾りつけをしてるよ。行かなくていいの?」


「私、ああいう雰囲気、苦手なんだ」


「みんなが聞いたら、意外過ぎてびっくりするよ」


「だろうねー」




 そう言って、悪戯っぽく笑いながら、二人で手際よく片付けていると、そこへやって来たのは、笹塚朋華ちゃん。




「私も手伝う。何すればいい?」


「むこうで、テーブルセッティングしてきたら?」


「だって、みんなすごく上手で、私の出る幕なんて、ないんだもん」


「でも、ここは危ないから、手を出さない方がいいよ」


「皆にもそう言われて、何もする事がないんだよね、私」




 朋華ちゃんのお家も、お母さんが笹塚小夜子さんという、著名なピアニストで、彼女もまた、幼いころから母親と同じピアニストになるべく、英才教育を受けてきたサラブレッドです。


 2歳で、直接母親の指導の下にピアノを始め、物心つく前から、ピアニストになることを宿命づけられていた朋華ちゃん。ピアニストにとって、指は命の次に大切なものですから、包丁など論外、球技や、鉄棒などの機具を使うスポーツ全般もNG。


 小夜子ママとしては、それ以外にも禁止したいものは山ほどあったようですが、日本の学校に通う以上、そういうわけにも行かず、それでも周囲からは『箸より重いものを持ったことがない』というのは、彼女のためにあるような言葉だと、揶揄されることもありました。


 思春期に、普通の少女が体験する多くのことを、諦めなければならなかったことで、激しく葛藤するのですが、それはまた、別のお話。


 そんな朋華ちゃんも、私やこのみちゃんと相通じる空気の持ち主であることを、本能的に悟っており、一見、何の共通点もない3人でしたが、心の奥深くで、強く共感する部分、それは『母親との確執』でした。







 藍玉中等科に入学して、運命に引き寄せられるように、親しくなった私たち3人。


 子供にとって、とりわけ母親は、絶対的な存在で、その支配から逃れることは困難です。母性という大きな愛情で、命をかけて我が子を守るイメージそのものならば、何も言うことはありませんが、なかなかそうとばかりは行かないのが現実。


 親だって人間ですから、間違うこともあれば、感情的になることだってありましょう。それは、ある程度、許容されるべき部分ですが、あまりにも逸脱しすぎている場合、対抗手段を持たない幼い子供は、為す術もなく耐えるだけの被害者になることもあるのです。


 親に見放される恐怖から、逆らうことも許されず、ただ耐えることしか出来ずに来た幼少期、経験のない人には分からないであろう、けっして口に出すことが出来なかった、母親に対する葛藤を理解しあえる、大切な心の支えになっていました。







 お昼休み、私たち3人の指定席になっている、いつもの中庭のベンチで、今日の調理実習の話をしていました。




「もう、穴があったら入りたいくらい、恥ずかしかったよ。うちのお母さんの料理見たら、みんな絶句するから」


「うちのママなんて、お料理も家事も、全部おばあちゃん任せだよ」


「まあ、うちだって似たようなもんだよ。料理研究家とか言って、家ではほとんど料理しないし、しても次のレシピの準備だったりね。結局、それが原因で離婚したんだから、何のための料理なんだ、って感じ」


「でも、木の実ちゃん、カッコいいよ。私なんて、包丁持つことだって、ママに禁止されてるんだもん」


「おっかさんが作ってくれないから、自分で作ってるうちに出来るようになっただけだし。オヤジさんたちが出てってからは、孤独だったよ~」


「それはそうと、朋ちゃん、調理実習の期末試験、どうなった?」


「それがねえ…」




 朋華ちゃんは、ピアニスト志望のため、学校生活の中で極力手を傷つけない配慮をして欲しい旨、小夜子ママから、学校に対し強く要請していて、初等科から藍玉に在籍していたのも、公立では難しいそうした要望を、徹底させるためでした。


 ところが、中等科からは、家庭科の期末試験でお魚をおろさなければならず、合格しないと進級が許可されない決まりになっており、小夜子ママは、件の事情から特例として、朋華ちゃんの試験を筆記に変更してもらうように、交渉していました。


 ですが、どうしても、そこは譲れないというのが、学校側の主張。たとえば、手の機能がないなどの、身体的な理由ならさておき、手袋の着用までが譲歩出来るライン、どうやっても魚をおろせないのであれば、それ以上交渉の余地はない、と。




「どうしても、実地試験しか駄目なら、もうこの学校にいる意味はないから、転校させるって、ママが言うの」


「そんな…!」「勝手だよね」


「転校するの自体は、別にどうでもいいけど、ふたりと離れるのは嫌!」




 お互い、心の内を共感することが出来た、初めての親友です。出来ることなら、一緒に学生生活を送りたいというのが、三人ともの気持ちでした。朋華ちゃんでも、安全にお魚をおろす方法があれば、と。




「私、何とか考えてみるよ。魚だよね、うん、後、包丁か…」


「ありがと、木の実ちゃん! 頼りにしてる!」




 木の実ちゃんが親友の一人だったことは、何よりの幸運でした。中学一年生で、彼女以外に、この難題を解決出来る人などいないでしょう。


 ただ、手段を見つけたところで、これまでそうしたことと無縁だった朋華ちゃんが、試験をパスするためには、ある程度の練習が必要です。


 ですが、エリート教育の小夜子ママの監視下、放課後はまっすぐに帰宅、その後、夕食やお風呂の時間を除き、ずっとピアノのレッスンという、ハードなノルマが課せられているため、自宅でお料理の練習をする時間などなく、何より、小夜子ママが許可するはずもありません。そこで。




「同好会を立ち上げたらどうかな? ピアノ同好会と、お料理同好会」


「こうめ、それどういうこと?」




 私が考えたのは、先ず朋華ちゃんが『ピアノ同好会』を立ち上げます。学校には、音楽室だけではなく、ほとんどの教室にピアノが設置されていて、基本的に誰が弾いてもOKなのですが、公式に、学校でピアノをレッスンするという体裁を整えます。


 小夜子ママには、誰の邪魔も入らない自宅よりも、学校のような、不特定多数が出入りする空間でレッスンをすることで、大舞台に立った時、より平常心でいられるための集中力を養う訓練になると説得。


 また、学校にはOGから寄贈された、スタインウェイ、ベーゼンドルファー、ベヒシュタインといった最高級メーカーのピアノもあり、一般の生徒なら、学校側も渋るでしょうが、ピアニスト笹塚小夜子の娘となれば、話は別。どちらにとっても、不足はありません。




「そうすれば、朋ちゃんが学校にいる時間が取れるでしょ」


「こうめちゃん、頭良い~!」


「なるほど。それで?」




 同時に、木の実ちゃんが『お料理同好会』を立ち上げ、調理実習室を使う許可を取ります。こちらも、料理研究家、楢葉征子の娘ですから、学校もすんなり許可するでしょう。


 勿論、本当の目的は、朋華ちゃんのレッスン。試験での持ち時間は10分ですから、朋華ちゃんが調理実習室に滞在するのは10分間だけ。それくらいの時間なら、ピアノの音が途切れたところで、違和感はありません。




「それ、使えるよ! よし、さっそくやろう!」


「でも、同好会って、一人っきりなの? もし、入会希望者が出たら?」


「むしろ、その方が好都合だと思うの。良いカムフラージュになるから」


「で、こうめは?」


「私は、両方のメンバー兼マネージャー。だから、ふたりとも、そのことだけに集中して」




 さっそく、二つの同好会を立ち上げた私たち。予想した通り、学校側はすんなりと立ち上げを許可し、ふたりの(母親の)ネームバリューから、入会希望者が次々に申し出ました。


 お料理同好会は、一緒にお料理をするという楽しみがあるので、希望者が殺到するのも分かりますが、ピアノ同好会のほうは、朋華ちゃんが教えるわけでも、一緒に演奏するわけでもありません。


 多くは、小夜子ママの大ファンという母親たちが、少しでもお近づきになろうと、娘に入会を勧めるケースや、彼女の演奏を耳にすることで、自身のピアノの上達の足しになればと、母親に勧められたりというケースでした。


 ピアノ同好会のほうは、会員が増えてもOKですが、お料理のほうは、適当な数に調整しながら、みんながお料理をしている調理室に隣接する準備室を朋華ちゃんのレッスンの拠点にし、一週間に一度のペースで開催しました。







 木の実ちゃんが考えたのは、キッチンばさみを併用した、イワシを手開きにする方法です。絶対に、朋華ちゃんの手に怪我をさせるわけには行かないので、先ず私が実験台になり、手袋を着用した状態で、どこに不具合があるかを報告し、それを木の実ちゃんが改善。


 朋華ちゃんは、横で私の手元を見ながら、自分も手を動かしてシミュレーションし、動作のイメージを掴みます。元々、指先は器用なほうだったようで、すぐにコツを掴み、見る見るうちに上達して行く朋華ちゃん。


 イワシの場合、10匹を処理しなければなりませんので、後はいかに時間を短縮するか、見栄えを美しく仕上げるかが目標です。とにかく焦りは禁物、慎重に、そして着実に計画を進めて行きました。







 家庭科の期末試験は、特に日程は決められておらず、最終的に、本学期以内に先生の合格を貰えば良いことになっており、試験方法に関して、小夜子ママと学校側は折り合いがつかずにいました。


 絶対的な自信を得た私たちは、いよいよ計画を実行する決意をし、詳細な調理法を提示して、双方を説得することから始めました。


 当然ながら、大反対する小夜子ママ。では、ということで、彼女を学校へ呼び、鬼教官こと、樋口先生の立ち会いのもと、木の実ちゃんの解説に合わせて、先ずは私が調理法を実践して披露します。


 包丁こそ使いませんが、鱗やエラ・内臓・骨等、チェックポイントもクリア、見た目の美しさや時間もクリアしていることから、樋口先生から、この方法でのトライアルを了承して頂くことが出来ました。


 残るは小夜子ママ。いくらはさみだろうと、手袋をしていようと、万が一それが何らかの拍子に手に突き刺さりでもしたら、と、断固拒否の姿勢です。




「それに、後数年もすれば、国際コンクールの参加資格が得られる年齢になるわ。それまでは、余計なことは考えないで、ピアノだけに集中して頂戴」


「勿論、レッスンだって頑張るよ。でも、ずっとこの学校にいたいの」


「『二兎追う者は一兎をも得ず』っていうでしょ? ピアノと学校と、どっちが大事だと思っているの?」


「どっちも大事よ。ママはそう言うけど、私は二兎ともゲットするから…」


「己惚れないで。国際大会がどんなものか、あなたは分かってない。世界中にはね、とんでもない才能の持ち主なんて、ごまんといるの。その中で這い上がって行くためには、並大抵の努力じゃ間に合わないのよ」




 それは、実際に小夜子ママが経験してきたからこその、重みのある言葉でした。でも、朋華ちゃんはそれに怯むことなく、毅然として言い放ちました。




「じゃあ、私の実力が通用しそうかどうか、ママがその耳でジャッジしてよ」




 そう言うと、私たちは先生と小夜子ママを伴って、スタインウェイのあるピアノ室へ行きました。朋華ちゃんの一挙一動を、蛇のように睨み付ける小夜子ママ。精神統一のため、大きく息を吸い込み、ゆっくり吐き出し。


 朋華ちゃんが選んだ曲は、ショパンの『革命のエチュード』。彼女の指は、滑るように鍵盤の上を踊り、いつもとはまるで別人のような表情で、美しくも激しいメロディーを奏で続けていました。







 私たちの誰もが、うっとりと聴き入っていたとき、急に小夜子ママが、大きな音でパンパンと手を叩き、朋華ちゃんの演奏をストップさせました。目を閉じ、微動だにせず、ピアノの前で静止している朋華ちゃんと、思わず顔を曇らせる木の実ちゃんと私。


 計画を立ち上げた時、そのせいでピアノの腕が落ちたと言わせないために、朋華ちゃんは時間が短くなる分、いつもより集中してレッスンを重ねて来たのです。


 でも、やはり、プロであり、母である小夜子ママのジャッジには、届かなかったというのでしょうか。




「技術は大して進歩してないようね」


「…」


「それに比べて、表現力は多少厚みが出たんじゃない?」




 その言葉に、私と木の実ちゃんは手を握り締めました。すると、椅子から立ち上がった朋華ちゃんは、力の入った表情で言ったのです。




「ママに内緒で、この計画を始めた時、正直言って、ピアノが面倒くさかった。でも、木の実ちゃんたちと一緒に頑張ってるうちに、ピアノを弾くのがすごく楽しく感じるようになったの。ワクワクするような、もっともっとって思うような」


「でもね、朋華、さっきも言ったように…」


「そうだよ、私一人だったら、二兎どころか、一兎だって取れないかも知れない。でも、そのために協力してくれるお友達なんて、私には初めてなんだよ」


「あのー、私はピアノのこととか、よく分からないから、言っていいかどうかわかりませんけど」




 母娘の間に、言葉を挟んだ木の実ちゃん。小夜子ママは、彼女のほうに振り返り、耳を傾けました。




「私は、母の影響で、お料理が得意なので、朋華ちゃんのように、包丁を使えない人でも出来るお料理を考えました。私には、直接ウサギを捕まえられないけど、武器の改造のお手伝いなら出来ると思って」


「すみません、この計画を言いだしたのは、私です」




 木の実ちゃんにつられて、私も小夜子ママに、カミングアウトしました。




「私もウサギは捕まえられません。武器も使えません。でも、少し離れた場所から、ウサギのいる場所や、走ってる方向を見て、追いかけている朋ちゃんに伝えることなら出来るんじゃないかなと思いました」


「そうだよ、ママ。二人は私のために、一生懸命お料理の方法を考えてくれたり、それが本当に安全か、こうめちゃんは、自分が実験台になって、何度も確かめてくれたんだよ。自分だって怪我をするかも知れないのにだよ」


「私は、ちょっとくらい怪我したって、問題ないから」


「こんなことしてくれるお友達、他にいないから。二人がいてくれるだけで、私はウサギを捕まえに行く気持ちが強くなれるんだと思うの。何なら、3匹でも4匹でも、捕まえられそうな気がする」


「もしそれで、何も捕まえられなかったら、どうするつもり?」


「その時は」




 朋華ちゃんは、私たちのところへ歩み寄り、三人で手を繋いで、満面の笑顔で答えました。




「また、捕まえに行くよ。捕まえるまで、絶対に諦めないで、何度でも」


「私、応援するよ」「私も」


「それにね、ママ、こんな小さなウサギを捕まえられなきゃ、国際大会なんて大ウサギ、捕まえられっこないでしょ?」




 すると、少しの間、黙って考え込んでいた小夜子ママは、こっくりと頷き、樋口先生に言いました。




「分かりました。娘の調理実習の実地試験、受けさせます」


「宜しいんですね、お母さん?」


「ええ。それと」




 彼女は、私と木の実ちゃんに言いました。




「どうせ、もう、朋華も何度もやってるんでしょ?」


「え? あ、はい…」


「すみません…」


「そういうやり方があるんだったら、私だってやってみたかったし、そんなお友達も、欲しかった…」




 朋華ちゃんのお家は、同居する小夜子ママのお母さん、つまりはおばあちゃんが家事一切を引き受けていました。今の朋華ちゃんと同じように、小夜子ママも、そうしたことから隔離された環境で育ったのです。


 朋華ちゃんの実地試験を見学しながら、むしろ小夜子ママのほうが緊張した表情で、それを見守っていました。結果は、その場で合格が言い渡され、私たち3人は、抱き合って喜びました。これで、朋華ちゃんは転校せずに、藍玉に在籍し続けることが出来ます。


 たった今、娘がおろしたお魚を、興味深そうに見入っていた小夜子ママ。木の実ちゃんが、恐る恐る声を掛けました。




「あの、おばさんもやりますか?」


「ん? ん~、そうね、また今度にするわ」


「そうですか。分かりました」


「あ、待って。ふたりとも、朋華のために、ありがとう。これからも、朋華のことをよろしくお願いします。ただ、手だけは…」


「分かってます。私たちにとっても、大事な『手』ですから」




 もう一度、私たちに向かって、深々とお辞儀をする小夜子ママに、私たちもお辞儀を返し、学校を後にする彼女を、窓から見送りました。


 勿論、これで朋華ちゃんが何をしても良いということになったわけではないことも、承知しています。夢が大きければ大きいだけ、その代償は大きく圧し掛かることを、誰より知っているのは、朋華ちゃん自身です。


 少女が心に定めた、遠い未来の夢が、やがて、近い将来の目標となるまで、もうあまり時間はありません。でも、それはまた、別のお話。







 さっき、朋華ちゃんと私がおろしたイワシを、木の実ちゃんが手際よくフライにしてくれました。いつも質素を通り越し、悲惨な夕食を強いられている私にとっては、天の恵みのような御馳走です。




「ところで、同好会はどうする? 一応、目的は達成したわけだし」


「私は、このまま続けたいな。お家に帰って、防音室に閉じこもってピアノ弾いてるより、少しでも、ふたりと同じ場所にいられる方がいいから」


「私も。どうせ家に帰っても一人だし、夕ご飯を、家で作っても、ここで作っても、変わらないもん。だったら、ふたりと一緒がいい」


「じゃあ、継続ってことで、届けを出しておくね」


「こうめちゃんは? 私たちと一緒で、嫌じゃない?」




 おそらく、そうなるだろうと思い、あらかじめ用意していた、2通分の『同好会継続届』に記入しながら、小さく笑って答えました。




「それは、愚問ってものだよ、朋ちゃん。親の話を分かってくれるのは、ふたりだけだもん。分かってるでしょ?」


「そうだよね。ごめん、あんなふうに、ママが学校に文句を言ったりすると、いつかふたりに、うんざりされるんじゃないかって、不安になっちゃって」


「うちだって、そうだよ! 三者面談事件、知ってるでしょ? こっちは立場がないし、死ぬほど恥ずかしかったんだから」


「うちなんて、完全に育児放棄だからね。過干渉も、自己中も、無関心も、子供にとっては堪んないよ」


「だから、こうして神様が巡り合わせてくれた、と思えば、これもありだったのかなって思えるよ。だから…」







 かつて、私にはいつも近くで見守ってくれた、大切なお友達がいたのですが、一年ほど前、もう会えなくなることを告げられ、それ以来、一度も会うことはありませんでした。


 間もなくして、似たような悩みを持つふたりが、この藍玉女学園でクラスメートになったことが、私には、彼女が巡り合わせてくれたような気がしてならないのです。


 自分の心の内を、言葉に出して伝えられる、人生の中で出会う、数少ない大切な親友たちと。




「だから?」


「これからも、宜しくね。ついでに、美味しいご馳走と、綺麗なBGMもね!」


「こちらこそだよ。困ったことが起こったときは、頼りにしているから」


「ね!」




 やがて、私たちがこの藍玉女学園を巣立ってから後も、私たちの友情は続くことになります。在学中、遭遇する様々な出来事に翻弄されるも、その度に強い友情で結びついてゆくのですが、それはまた、別のお話。







 井戸端会議が解散になったのは、お昼間近になった頃でした。お向かいの萩澤さんと、お互いの自宅前まで戻って来たとき、お家の中から、杏ちゃんが出て来ました。


 彼女は、今年の四月から藍玉中等科に通っている一年生。ピアノが大好きで、受験のために、辞めるように言われたことで、ひと騒動あったのですが、それも無事解決。今では、ピアノ部に在籍しています。


 私たちが立ち上げた『ピアノ同好会』は、その後、正式にクラブ活動として認定され、多くの後輩たちが、朋華ちゃんの背中を追って、レッスンに励んでおりました。




「あら、杏ちゃん、お久しぶり。どう、学校は?」


「あ、おばちゃん、こんにちは」




 屈託のない笑顔で、きちんと挨拶をしてくれる杏ちゃん。出会った当初、幼稚園児だった彼女の成長は、私にとってもそれはそれは嬉しいもので、ついつい、こちらも笑顔になってしまいます。


 どうやら、目下のお悩みは家庭科の実地試験で、時代を経た今でも、歴代鬼教官は、いたいけな少女たちを悩ませているようです。


 とはいえ、刃物NGだった朋華ちゃんとは違い、杏ちゃんは、お魚をおろすこと自体が苦手で、自宅で何度も練習したものの、時間も見た目も合格ラインには到達しないレベル、ママにレクチャーしてもらおうにも、ママも苦手、いったいどうしようかと思っていたそうです。




「それなら、料理研究家の楢葉木の実さんって知ってる?」


「はい、藍玉のOGの人ですよね?」


「そう! 彼女の本の中に、苦手な人でも上手にお魚をおろせるレシピがたくさん出てるから、参考にしてみたら? 学校の図書館に行けばあるから」


「本当ですか? じゃあ、さっそく月曜日に借りて来ます」


「もしそれでも駄目なら、お料理クラブの体験レッスンに参加するといいよ。そういう子のために、お魚のおろし方のレクチャーをしてくれるから」




 木の実ちゃん主催の『お料理同好会』も、その後『お料理クラブ』に昇格し、今では、木の実ちゃんはじめ、クラブOGの何人かが、お料理の世界で活躍してます。


 そして、発足当時の理念に基づき、お料理が苦手な生徒たちの駆け込み寺的な存在にもなっていました。




「分かりました! おばちゃん、アドバイスありがとう!」




 ぺこりとお辞儀をして、足取りも軽やかに、自宅に戻って行った杏ちゃんを目で追いながら、萩澤さんも笑顔を浮かべて言いました。




「いつも、ありがとね。松武さんがいてくれて、私も杏も、本当に助かってる」


「ううん、それより、国枝さんとはどう? うまくいってる?」


「おかげさまで、すっかり仲良くなれて。思ってたより、ずっと気さくな方で、本当に安心した。色々と、ありがとう」




 人と人が関わるのは、何かと大変なことも多く、でも、ときに大きな力となることもありますから。







 緑深い広大な校庭のあちこちから、今日も女の子たちの声が響きます。


 校庭の片隅にそびえる一本の巨木が、まだ幼い苗木だった頃にも、今と変わらない時間の流れが、静かにその森を包み込んでおりました。


 交わされた秘密の約束は、ときに破られ、ときに永久に封印され、交錯する想いも、時の彼方に置き去りにされたままに。







 これまでも、これからも…

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私立 藍玉女学園 二木瀬瑠 @nikisell22

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