episode.2 ~ジェラシー~

 肉食系女子が市民権を得ている現代。映画やドラマの影響で、既婚者でも、こっそり、あるいは堂々と、不倫をする女性も案外いらっしゃるのだとか。


 メディアからの影響は、人の閾値を低下させるのでしょうか。ここ数年のブームで、身近なところでも、そうした噂を聞くことが増えたような気がします。最近でも、町内の誰それが、不倫がバレて別居するとか、離婚になったとか。


 とはいえ、ここは、日々増殖を続ける巨大な新興住宅地。町内といっても、我が家が在籍する町内会には5丁目まであり、各丁はそれぞれ10班に分かれ、1班は10~15軒で構成されています。


 よって『町内』だけでも、ざっと600軒以上のお宅が存在しますので、顔と名前が一致しない、さらには、顔も、名前すらも存じ上げない方のほうが、大多数なのです。





 私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住み始めて5年の、専業主婦です。



「ねぇ~、松武さん、4丁目の佐藤さん、離婚するんだって~。知ってた~?」



 朝、ごみ出しで顔を合わせた時、斜め向かいの葛岡さんのおばあちゃんに、そう話しかけられました。



「いえ、知りませんけど」


「あそこの奥さん、不倫してたらしくて、旦那さんも不倫したのが分かったらしいのよ~」


「そうなんですか~」



 いつも感心するのは、葛岡さんのおばあちゃんの情報収集能力。いったいどこから仕入れてくるのか、常にアンテナを張り巡らせ、多くの速報をゲットしています。


 とにかく、他人様のことに関して、並々ならぬ興味がおありのようで、600軒以上が在籍する町内会のお宅の、どこの誰といった個人の大半を網羅しているという、御歳に見合わぬCP並みの記憶力。しかも、転入出の際の、更新機能付きという、ハイスペックでもあります。


 ですが、『佐藤さん』といわれても、町内には同じ苗字のお宅が何軒もありますので、私のような凡人には、交流のある方か、余程インパクトのある方でもない限り、すぐには(あるいはまるっきり)ピンとこないほうが多いのです。





 そうした『人』を記憶することに関して、並外れた才能を持っている方というのは、時々存在し、私が知る限り、町内にも3名ほどいらっしゃいました。


 1人は言わずもがな、葛岡さんのおばあちゃん。


 2人目は、石ノ森酒店の大奥さん。とても繁盛している個人経営の酒屋さんなのですが、たった一度でも、来店したお客さんの顔なら、何年経っても、すべて覚えているという特技の持ち主。


 周囲には、価格の安いフランチャイズの酒屋さんも多数ありますが、石ノ森酒店には、圧倒的にリピーター客が多いのも、大奥さんのおかげだといわれております。勿論、我が家もリピーターの一軒。


 そして、3人目は、いつも親しくしている百合原さん。彼女は人脈が広く、人望も厚いことから、沢山の方と親しく交流していて、確かな情報網をもっていらっしゃいます。昨年からは民生委員になられたのだとか。





 ただ、それぞれが持っている情報の扱い方に関しては、三人三様。


 おばあちゃんの情報アンテナは、感度は高いのですが、精度が低いのが難点。誰より早く情報をゲットしても、内容がいい加減だったりする上、その不確かな情報を広めてしまったりと、結構迷惑している方もいらっしゃるようです。


 石ノ森酒店の大奥さんの場合、お客さんの情報に関しては、決して口外しないというコンプライアンスの塊。そこから引き出すことは、先ず以って不可能ですが、そこがまた、お店が繁盛している大きな理由。


 百合原さんの場合、かなり高精度な情報な上、情報の流出の是非を、ご自身が判断して下さるので、聞く側としてはとても楽です。さらに、内容によっては、伝達する相手も、ある程度選んでいらっしゃるようで。





 膨大な人口を抱える新興住宅地、自分のコミュニティーから少し外れれば、ほとんど知らない方ばかりですから、不用意な噂が一人歩きすることの怖さは、確かにあります。


 たとえば、私のことを知らない誰かが、私に関する悪い噂を聞いたとしても、その真偽をわざわざ確認することはなく、その情報だけが、記憶として残ることもあります。


 もしそれが、意図的に仕組んだ誰かの悪意だった場合、その判断材料を持たない『善意の第三者』の間に定着してしまったりすれば、その人物の思う壺、私の立場は最悪になります。


 どうやら、今回の葛岡さんのおばあちゃんの情報も、情報源が不確かなだけに、無用な被害を生み出さないとも限らず、機会があれば、確認してみようと思います。


 誰に? それは、勿論…。





 最近では、不倫や浮気に対する罪悪感を払拭するためか、『自由恋愛』なんていう都合の良い言葉に置き換える方もいらっしゃいます。


 あえて、独身の立場の方が、自由に恋愛する分には問題ないのですが、結婚しているとなると、それは大きな問題です。


 民法770条1項1号に記載されている通り、配偶者に不貞行為があったときは、離婚の訴えを提起することができるのです。この場合の『不貞行為』とは、夫婦間の貞操義務に違反する姦通、つまり、配偶者以外の異性との性行為のこと。


 ただ、この法律には罰則がありませんので、取り締まることは出来ず、既婚者が『自由恋愛』を謳歌すること自体は、確かに自由ということになるのでしょうが、その代償は、大きいものです。





 そうしたことは、今に始まったわけではなく、昔から、そういう方はいらっしゃいました。


 ただ、今よりは、不貞も離婚も、よりタブー視されていた時代、その代償も、今より大きかったのも事実です。





 社会人になって3年目。


 ちょうど、男女雇用機会均等法により、多くの企業で、女性の総合職の起用が始まった頃で、私も、当時勤めていた(株)オークに、女性総合職として、新卒採用された一人でした。


 入社してすぐ、総務部に配属され、総務、庶務、人事、経理など、同期入社の総合職の仲間とともに、2年間で内部のことを徹底的に叩き込まれました。そしていよいよ3年目からは、それぞれが、様々な部署に配属されて行くのです。


 私が配属されたのは、『不動産部』。総合商社として、多々ある部門の中でも、結構ヘビーと噂されていた部署です。


 総合職組みの同期の中で、女性は3人だけで、他の2人も、『食品部』『機械部』など、男性でもきついといわれる部署への配属。前年、前々年の女性総合職の先輩たち同様、期待の大きさなのか、それとも暗黙のプレッシャーなのか、いずれにしても、常に周囲の目に晒されているという感じでした。





 いったい、どんな洗礼を受けるのかと、かなり緊張しながらの出勤初日。私を出迎えてくれたのは、暖かな上司や同僚たちの笑顔でした。


 考えてみれば、総務にいた頃、各部署との連絡や様々な雑用で、あちこち対応していたこともあり、結構皆さん、私たちの顔と名前を覚えて下さっていたのです。


 メンバーは、室長はじめ、新入りの私を含め、全員で12人。緊張しながら、自己紹介とご挨拶をした私を、優しく席まで誘導し、あれこれ指導してくれたのは、一つ年上の先輩、八神美詐子さんでした。



「分からないことや、困ったことがあれば、何でも言ってね」


「はい、宜しくお願いします」


「そんなに緊張しなくて、大丈夫だから。まずは、書類の場所から、説明するわね」



 てきぱきとした動きと、ものの言い方で、彼女がいかにこの部署に精通しているのかが分かります。年齢は私の一つ上で、25歳。勤続年数8年目のベテランさんです。


 というのも、八神さんは高校新卒入社組みで、通常、オペレーターなどの部署に配属されるため、事業部に配属されている方は、とても珍しいのです。


 彼女も、当初はそうした部署に勤務していたそうですが、仕事の処理能力の高さから、より重い責任ある部署に転属になり、そこからさらにという具合にスキルアップし、3年前から、この不動産部に配属されていました。


 私のような女性総合職も、当時まだ珍しかったのですが、彼女のようなケースも相当珍しく、それだけの能力があるからこそと、誰もが彼女を認めるところなのです。


 実際、必要な書類や資料など、前もって彼女が指示や準備をしてくれるため、作業効率も良く、部内の皆から頼りにされる存在でした。





 そして、もう一人。不動産部での直属の上司となる、室長で、専務取締役の柏崎政伸さん。32歳の若さでそのポジションにいるのは、彼が社長の次男だからです。


 何より、世間は狭いな、と思うのは、偶然にも柏崎室長が、当時まだ恋人だった現夫の先輩だったこと。共通の趣味であるマリンスポーツで知り合い、シーズンになると、プライベートで一緒に出掛ける間柄でした。


 とはいっても、今回の人事は、何の意図も働いていない、全くの偶然。別段、隠すことでもなかったのですが、あえて、部署の皆に公言するほどのことでもなく、といった、中途半端な感じです。


 柏崎室長としても、自身のプライベートを、あまり他の社員に知られたくないのか、そのことには触れず、それよりも、私としては慣れない仕事に、ハードな毎日を乗り切ることだけで、いっぱいいっぱいでした。





 5月に入り、気候も良くなると、毎週のように海に出かけるようになります。仕事で溜まったストレスの良い捌け口になり、当然、柏崎室長とも毎週のように顔を合わせていました。


 逆に、会社では、出張や接待で出勤しない日も多く、一週間、まったく顔を合わせないこともあり、



「おお、久しぶりだね~。今週、会社の様子はどうだった?」


「別段、変わりなくって感じかな~」


「僕がいなくて、皆、淋しがってなかった?」


「ううん、むしろ、のびのびしてるよ~」


「あ! 酷っ! そんなホントのことを、正直に!」



 などという、お約束の会話が交わされることもありました。


 家庭では、よき夫、よき父親をしているらしく、時々、奥さんの和華子さんと、4歳の長女、莉菜ちゃん、2歳の長男、要くんも連れて来ていました。


 和華子さんは、外見の美貌は超ド級、なのに、とても気さくな性格の方です。何度か自宅にお邪魔した際には、得意の手料理を振るまって下さるような、家庭的な女性で、服やインテリアのセンスも素敵と、見習う点が多々ありました。


 丁度その頃、私が一人暮らしを始めたばかりだったので、何か困ったことがあればと、まるで姉のように色々と気遣ってくれたのも、彼女でした。私としても、とても頼りになる存在なのです。


 色んなことがあっても、つくづく私は、周囲の人たちに恵まれていると感じていました。





 梅雨になり、鬱陶しい日々が続いていたある日。いつもなら、誰よりも早く出勤している八神さんが、その日は私用で、午後から出勤すると連絡がありました。


 急なことでしたから、いつも彼女が準備してくれる書類や資料を、自分たちでやらなければならず、こういうときに、彼女のありがたさを痛感します。


 午後1時を回って、ようやく出勤した八神さんは、申し訳なさそうに謝りました。



「急に、無理を言って、すみませんでした。ご迷惑をお掛けしました」


「いや、大丈夫だよ。松武さんが、ちゃんとやってくれたから」



 すかさず、主任の松田さんが、フォローしてくれました。


 いつもなら、しっかり相手の目を見て話す八神さんですが、この日に限って、誰とも目を合わせず、何だか疲れたような表情をしているのが、少し気になりました。



「そう、それはお手数をお掛けしちゃったわね。松武さん、ありがとう」


「いえ、とんでもないです」


「さ、遅れてきた分、頑張って取り戻さないと」



 そう言うと、すぐさま自分の仕事を始めた、八神さん。そのあたりは、いつも通りの切り替えの早さで、てきぱきと書類の処理を始めました。


 八神さんから30分ほど遅れて、柏崎室長が戻ってきました。一瞬、室内に不穏な空気が走った気がしたのですが、気のせいかと思い、すぐに私も自分の仕事に戻りました。





 このころになると、少しずつ仕事に余裕が出てきて、部署のみんなとも、すっかり打ち解けた私は、仕事終わりに食事に行ったり、飲みに行ったりする機会も増えていました。


 部署内のメンバーは、柏崎室長と、松田主任を除いた全員が独身で、誰かが誘えば、特に都合が悪くない限り、独身メンバーの大半は参加するような仲の良さです。


 ただ、八神さんだけは、参加する回数が少なく、さゆりちゃんから聞いたところでは、歓送迎会や、新年会、忘年会など、室長や主任も全員が参加する時のみ、出席するといったスタンスのようでした。


 その日も、独身最年長の若林さんが言いだしっぺで、皆で飲みに行こうということになり、私にも声が掛かりました。



「こうめちゃんも、参加でOK?]


「はい、行きます」


「んじゃ、参加者は、こうめちゃんと、僕、木山、斉竹、後藤、綿部、静花さん、智枝ちゃん、さゆりちゃんの、9人っと。綿部、いつもの店、予約頼むわ」


「了解っす!」



 そう言って、部署内最年少の綿部君が、予約の電話を入れようとしたときでした。



「あのさ、松武さん。プライベートのことまで、とやかく言うつもりはないけど、遊びに行くなら、きちんと自分の仕事をしてからにしてよね」



 あきらかに、いつもと違う八神さんの言動に、私を含めた全員が、言葉を失って、思わず彼女を振り返りました。


 中でも、一番驚いたのは、私自身です。何かミスでもしたのかと思い、恐る恐る尋ねました。



「すみません、私、何かミスでもしましたか?」


「別に、そういうことじゃないけど。だいたいね、あなたは総合職として、会社から期待されているわけだし、他の皆とは、立場が違うわよね?」


「いえ、そんなことは…」


「自分では思わなくても、周囲はみんなそう思ってるってこと」


「はあ、すみません」


「もういいから」



 何だかイライラしているような、明らかに八つ当たりと取れる言動に、



「きっと、虫の居所が悪かったんだよ」


「別に、俺たち、総合職とか、立場とか、考えてないし」


「そうそう。気にしない、気にしない」



と、同僚たちがフォローしてくれたのですが。


 やはり、私としては、八神さんに言われたことが気になり、正論の部分もあることから、特にその日の仕事は、しっかりチェックしてから、同僚たちとの飲み会に出かけたのです。


 ところが、翌日、険しい顔をした八神さんが、昨日私が作成した資料を、私のデスクに投げるようにして、周囲の皆にも聞こえるような声で言ったのです。



「昨日、あんなに言ったのに、抜けてる部分があったわよ」


「え!? すみません、すぐにやり直します! どこが…」


「もう、やっておいた。ほら、10時に待ち合わせがあるんでしょ? ミスして、遅刻までしたんじゃ、シャレにならないわよ」


「あ、どうもありがとうございました」



 そう言って、持参する書類を確認すると、確かに一通だけ、八神さんが作成した資料がありました。ですが、それは昨日、確かに私が作成して、チェックまでした資料と同じものだったのです。


 私の記憶違いなのか、あるいは、整理していた最中に、その一通だけが抜け落ちてしまったのかは不明ですが、待ち合わせの時間があったため、再度、その場で資料を確認し、そのまま急いで出かけました。


 外での仕事を終え、帰社した私を待っていたのは、朝よりさらに不機嫌そうな八神さん。開口一番、あからさまにきつい口調で言いました。



「ねえ、松武さん、昨日、○○銀行からの電話を取ったの、松武さんだよね?」


「はい、そうですけど」


「そういう大事な要件は、ちゃんと伝言してもらわないと、困るでしょ! さっき、銀行に電話で確認したら、『昨日連絡してます』って言われて、赤っ恥だったわよ」



 これで、確信しました。昨日からの一連の出来事は、八神さんの故意によるものに違いない、と。



「あの、お言葉ですが、その電話の件は、メモにも残しましたし、口頭でも伝えましたけど」


「メモなんて知らないし、私、聞いてないわ」


「でも、確かに…」


「じゃあ、証拠でもあるの?」



 もう、そこまで言われてしまうと、『言った』『言わない』の押し問答で、どうしようもなくなります。


 おまけに、私は入社3年目で、この部署に来て数か月、片や八神さんは入社8年で、部署内での信頼も厚いベテラン。どう考えても、明らかに私のほうが不利な状況です。


 ですが、私にとって、こうした理不尽な状況は、幼い頃から慣れていました。経緯は違っても、母から受けていた仕打ちと、似たような構図です。





 私の母を一言で表すなら『守銭奴』、これに尽きると思います。加えて、物事にルーズなくせに、とにかく自分の思い通りにならないと気が済まない性格で、そのしわ寄せや八つ当たりは、常に実の娘である私に向けられました。


 たとえば、提出期限のある書類を、何度催促しても放置したまま、いよいよ期限が過ぎて、学校側から催促が来ると、私が渡し忘れたと言い訳し、しかも母の中では、それが事実にすり替えられてしまうという。


 さらに、自分が機嫌が悪いと、ほんの些細なことや、ときには冤罪にも関わらず、激昂して怒鳴り散らすなど、今考えると、私は母のストレスの捌け口にされていたのだと思います。


 哀しいことに、こういう人をどうにかすることは、先ず不可能。おまけに、被害はそこだけに留まらず、それに関わった人たちに、私本人が『いい加減』『ルーズ』『駄目な子』という印象を植え付けられてしまうのです。





 実際、子供の頃、そうした誤解を受けることが多く、長く関わって行く内に、じつは母の言い分が嘘だったり、いい加減なことが発覚し、私が正しかったと分かってもらえたことも、多々ありました。


 なぜ、周囲が騙されるのかは、ひとえに『信頼度』です。通常、大人と子供の言い分が食い違ったとき、大抵の人は、大人のほうを信じます。子供がまるっきり嘘をついているのではなくても、言葉が足りないか、しっかり理解出来ていなかったのかな、という判断で。


 時間をかけ、徐々に『私』という人間を知ってもらえれば、やがて誤解は解けるのですが、その間、とても辛い思いをしたり、先入観や、度重なる母の介入などで、最後まで理解してもらえなかったこともありました。


 今回も、八神さんのような、キャリアも実績もある人と、実務期間数か月の私とでは、信頼度という点で、圧倒的に私のほうが不利。しかも、長年の母との確執の経験から感じるのは、彼女が故意でしているということです。





 私が彼女に何かしたのかも、と考えてみましたが、これといって思い当たる節もなく、逆に、彼女に何かがあったとして、私と接点があるとも考えにくく。でも、確実に『ターゲット』にされていることだけは、間違いありません。


 ですが、何があったかは知りませんが、言い掛かりや濡れ衣である以上、ターゲットにされる筋合いなどないのです。


 ただ、先ほども言った通り、こうした人の場合、本人をどうこうすることは、先ず不可能。ならば、先回りして、周囲を味方に付ける以外に、手段はありません。



「あの、ちょっといいですか?」



 すると、それまで黙って事の成り行きを見守っていたさゆりちゃんが、恐る恐るといった感じで、口を開きました。



「違っていたらすみません、でも、昨日、こうめちゃんが貼り付けたメモを、八神さんが読んでるの、私、見たんですけど…」


「俺も、松武さんが八神さんに話してるの、聞きましたよ。○○銀行に、××商事から3千万円、入金があった件ですよね?」



 追い打ちを掛けるように、後藤君も言いました。


 私にとっては、まさに天の助けです。でも、八神さんからすれば、余計なお世話。小さく舌打ちし、もの凄い形相で、私を睨み付けています。場の空気は、さっきより尚悪くなってしまいました。


 すると、それまで電話で話をしていた松田主任が、受話器を置くと、『まあまあ』と言いながら立ち上がり、



「昨日は、八神さんも午後からの出勤で、部署内もバタバタしてたことだし、勘違いや、思い込みが、あったのかも知れないでしょ? お客さんに、ご迷惑を掛けたわけでもなし、ふたりとも、仕事熱心だったってことで、ね!」



 さすがに、八神さんも、主任の言葉に反発することはせず、黙って席に戻り、黙々と仕事の続きを始めました。


 これで、ひとまずその場は収まり、私は、松田主任にお辞儀をし、他の皆さんにも会釈して、釈然としないままではありましたが、自分の仕事に戻りました。





 その日の夕方、私にかかって来た内線電話は、受付の梨花さんからでした。



「業務連絡です。本日午後7時に、いつもの場所でお待ち申し上げます、とのことです」


「かしこまりました。ご連絡、ありがとうございます」



 梨花さんは、一つ上の先輩で、受付勤務。


 入社して2年間、私が総務にいた間、業務連絡等で関わることが多く、社内のイベントで話す機会があり、そこで好みや趣味などが近いことを知ってからとても仲良くなり、お互いのプライベートな部分まで話せる関係になりました。


 受付といえば会社の顔、頭脳明晰で、人当たりも良く、容姿端麗な梨花さんですが、実は彼女には、過去に辛い恋から脱却した経験がありました。


 その恋人というのが、借金は作るは、それを梨花さんに支払わせるは、浮気はするは、本当に酷い男だったのですが、それはまた、別のお話。





 その内線電話は、私たちが待ち合わせに使っている合図です。仕事を終え、いつもの喫茶店へ行くと、すでに梨花さんが待っていて、智枝さんと、さゆりちゃんも一緒でした。



「ごめんね! 待たせた?」


「大丈夫、さっき来たとこ。ね、聞いたよ、八神さんのこと。酷い目に遭ったんだってね?」


「私、あの時、言おうか迷ったんだけど、何か、凄い腹が立ってきちゃって!」


「さゆりちゃん、ありがとね! すっごい嬉しかったよ!」


「うん、さゆり、良くやった。あたし、あの女嫌いなんだ~」


「ちょっと、智枝さん、言い過ぎ~!」



 そんな話をしていると、そこへやって来たのは、後藤君と綿部君の二人。



「あ、やっぱりここにいた!」


「どうした、坊主ども? ここは女子オンリーだけど?」


「そんなこと言わないでくださいよ、智枝さん。俺たち、こうめちゃんのことが心配で、来たんですから。な、綿部」


「はい。僕も、八神さん、苦手なんですよね。それに、梨花さんもいるし~」


「綿部、あんたが梨花にアプローチしようなんて、100万年早いわよ。その前に、先輩たちに殺されるね」



 その美貌から、社内外の男性から、圧倒的な人気を博している梨花さん。毎日受け付けの前を通るたび、羨望のまなざしで眺める男性社員は、少なくありません。





 それにしても、分からないのは、昨日からの八神さんの変貌ぶり。元々、私が嫌われていただけなのかも知れませんが、それにしても態度があからさま過ぎて、不気味にさえ感じます。


 同様に感じていたのは、私だけではなく、彼女より年齢が下の、後藤君、綿部君、さゆりちゃんも、いつ自分がターゲットにされないとも知れず、恐怖感を覚えたのだといいます。


 加えて、以前から八神さんの裏表のある性格を見抜いていた智枝さんは、とうとう化けの皮が剥がれたと、内心ほくそ笑んだのだとか。



「こんな言い方したら、悪いけど、今回のターゲットが松武さんで良かったですよ」


「それ、どういう意味だよ、綿部?」


「だって、もし僕だったら、リアルにミスしてた部分だっただろうから、反論の余地もなかったですよね? 言い掛かりを付けられても、多分みんなには、僕のほうがミスしたんだって、思われると思うから」


「あ、それ、私も! もし、今後そういうことがあったら、って思ったから、勇気を振り絞って言ったの!」


「そうだね、あの女なら、やり兼ねないわ」



 確かに、綿部君の言うとおり、私で良かったのかも知れないと思いました。普通の神経の人がこれをされたら、とても平常心ではいられません。こんな時、あの母の娘で良かったと、感謝の気持ちを抱くのです。皮肉なことに。


 ただ、私としても、この状況を甘受し続けられるほど、メンタルが強いわけではありません。あまりに長くこんなことが続けば、いつか本当に大変なミスを仕出かすかも知れないのです。



「ねえ、提案があるんだけど。これからお互いの仕事を、チェックしあわない?」


「それ、賛成! 今回は、たまたま私と後藤さんが覚えてたから、証言出来たんだものね」


「うん。複数でチェックしてあれば、いくら八神さんでも、濡れ衣を着せられないと思うの」


「是非、お願いします! 僕の分は、特に念入りに!」


「綿部、あんたはもう少し、自立する努力をしな。じゃないと、八神の餌食になったら、一発でアウトだからね」


「そんな~! 智枝さん、お願いしますよ~!」



 思わず、全員から笑いが溢れ出しました。こんなふうに、仲間同士協力し合える関係が築けるというのは、とても嬉しいことです。ただ、向かう敵が、本来あるべき場所ではないのが残念なのですが。


 そういうわけで、私たち不動産部5人+梨花さんによる『チーム・プロジェクト8』を発足。勿論、8の意味は、八神さんの八から取ったもの。


 その夜、チームの結成を記念して、6人で飲みに出かけました。場は、とても盛り上がり、綿部君は梨花さんとご一緒出来たことが嬉しかったらしく、とても嬉しそうに話し込んでいました。


 梨花さんも、真剣な表情で彼の話に聞き入ったりと、何だかちょっと? な雰囲気にも見え、でもそれ以上は何も言わず、また明日から始まるであろう、八神さんの対応に、少し緊張気味の私でした。





 翌日も、朝一番から、さっそくの文句。それに対し、鉄壁なチームワークで応戦する、『チーム・プロジェクト8』。


 フォローが弱ければ、さらに他の誰かが、さりげなくそのフォローをするといったように、付け入る隙を与えないように、万全を期していましたが、言うことが、どんどんエスカレート。ついには、



「先週、松武さんが集金してきたお金、まだ貰ってないんだけど?」



と、また、あたかも私がミスをしているような言い方。しかも、あえて日を置いて、記憶が曖昧になることを、計算していたかのようなタイミングです。



「ああ、それなら、俺の集金を八神さんに渡したとき、金庫の中に袋が入ってるのを、見ましたよ」



 すかさず、後藤君がフォローしてくれました。すると、八神さん、とんでもないことを言いだしたのです。



「そうなんだけどね、中身が入っていなかったのよ」


「それ、いったいどういうこと?」



 聞き捨てならない八神さんの発言に、いつもならスルーしている松田主任が、険しい表情で、口を挟みました。



「それがですね、主任、先週、松武さんが集金して来たんですけど、中身のお金が入ってなかったんですよね」


「金額は、いくらだったの?」


「28万5000円です」


「袋を受け取ったとき、八神さんは、中身を確認しなかったの?」


「その時はバタバタしてたので、後になってから見たんですけど、中は空っぽで」


「じゃあ、気がついたとき、何ですぐに言わなかったの? 別の場所に保管してて、入れ忘れた可能性とかも、あるでしょ?」


「ええ、そうとも思ったんですけど、もしかすると、松武さんが、集金してきたお金を一時的に借りて、後で返そうと思ったのかな、とも考えたので」


「どうして、松武さんがそんなことを?」


「彼女、一人暮らしをしてるし、頻繁に飲みに行ったりもしてるから、お給料だけじゃ足りなくなって、つい手が出てしまったのかもって。あまり騒ぎ立てたら、返しにくくなっても、いけないと思ったんです。でも、もうこれだけ時間が経ってるということは、返す気持ちはないんだな、と判断したもので」



 完全に、私を泥棒扱いにして、濡れ衣を着せようという魂胆が見え見えです。


 でも、今回の件に関しては、これまでの嫌がらせとは、意味合いが違います。何しろ、紛失したのは『お金』、しかもそれを、私が出来心、或は故意に横領したと言っているのですから。


 これに対し、真っ先に怒りを露わにしたのは、智枝さんでした。



「あんたさ、自分が何言ってんのか、分かってる?」


「勿論。私だって、こんなこと言いたくないけど、でも、やっぱり人として、こういうことは最低だと思うから」


「ふ~ん、最低のことっていう、自覚はしてるんだね?」


「何? それ、どういう意味?」


「こういうこともあろうかと、こうめの集金、中の金額から、あんたに渡すところまで全部、こっちは確認してんだから」


「私も」「俺も」「僕も」



 口々にそう言って、間違いないことを確認しあう私たちに、一瞬、悔しそうな表情を浮かべた八神さんでしたが、すぐにポーカーフェイスに戻り、



「じゃあ、私の勘違いです。複数の人が確認しているというのなら、間違いないでしょうから」



 そう言って、自分の席に戻ろうとしました。ですが、これでおしまいというわけには行かず、普段は温厚な松田主任が、いつになく厳しい口調で、八神さんを引き止めます。



「ちょっと待って。じゃあ、中のお金は、どうしたっていうんだ? 28万なんていったら、大金じゃないか」


「いいです、あの時、確認しなかった私の責任ですから、私が弁償しますから」


「そういうことじゃなくて! お金が自分で移動するはずないんだから、松武さんの入れ忘れじゃないとしたら、誰かが持ち出した、ということになるだろう? もし、外部からの侵入者だとしたら、ここには現金以上に重要な書類だってあるわけだし、大問題だぞ」


「それは…」



 明らかに狼狽している様子の八神さん。すると、それまで黙って成り行きを見守っていた若林さんが、口を開きました。



「ってか、何なの、これ? 僕たちの中に、犯人がいるかもしれないってこと?」


「あの、だから、そういうことじゃなくて…」


「僕も一人暮らしだから、金盗んだって疑われてるのかと思うと、心外だわ」


「だから、私は、犯人は松武さんだと…!」


「思わせようとして、仕組んだんだよね?」



 智枝さんの言葉に、全員の視線が、八神さんに集中しました。言葉を失って、立ち尽くしたまま、うつむいた後、ゆっくりと顔を上げた彼女は、私を睨み付けるようにして、言ったのです。



「そうよ。松武さんに罪を着せてやろうと思ったの」


「最低! それって、お金を盗むより、人間として卑劣な行為だよ!」


「何でそんなことしたんだよ? 理由は?」


「総合職だか何だか知らないけど、会社に入って間もない、何の苦労もしたこともないような女が、みんなにちやほやされて、美味しい仕事させてもらえて、人一倍のお給料まで貰って、腹が立つからよ!!」


「そんな理由で?」


「そんな? 私はね、18でこの会社に入って、ずっと日の当たらない場所で、地味な仕事ばかりしてきたの! 事業部や総務に行きたいって思っても、高卒の私になんか、入り込む余地もなかった!」


「でも、実際、今こうして、不動産部にいるじゃない? 努力したから、勝ち取ったポジションじゃ…」


「本気でそう思ってるの? だったら、相当おめでたい脳みそだわね」


「じゃあ、何なの? 訳分かんないこと言ってないで、説明しなさいよ?」


「教えてあげる。私ね、室長の愛人なの。肉体関係があったから、こうして引き抜いて貰えたのよ」


「!!!」



 誰もが、思いもしなかったカミングアウトに、驚きを通り越して、あっけにとられて絶句する中、八神さんはどこか勝ち誇ったような、それでいて、氷のような冷たい目で、私を睨み付けて続けました。



「だいたい、松武さんだって、室長の愛人なんでしょ? だから、あなたみたいな人でも、総合職に抜擢されて、不動産部に配属されたんでしょ?」


「違います! 私は愛人なんかじゃありません!」


「だったら、毎週末、室長と一緒に、海に出かけてるのは何?」


「それは、偶然、趣味のマリンスポーツで知り合って!」


「ほら、やっぱりね! 室長の配慮があったから、こうして抜擢されて…!」


「それは違うと思う」



 そう言ったのは、斉竹さんでした。睨み付けるように、彼のほうに振り返った八神さんに、淡々とした口調で言いました。



「実は、僕も、室長とはスキー仲間で、冬の間は、毎週のように、ゲレンデに出かける仲なんだ。だけど、そういうことで手心を加えるとか、そういう人じゃないから、室長は」


「でも、男と女じゃ違うでしょ!?」


「室長の奥さん、すごく気配りのある人でさ。シーズンオフでも、まめに連絡してくれるんだ。こうめちゃんのことも、奥さんから聞いてた。彼氏が室長の後輩で、子供たちからもすごく好かれてて、家族ぐるみの付き合いだって」


「だから?」


「もし、本当に愛人だったら、とてもそんなこと出来ないって、八神さんなら分かるんじゃない?」



 斉竹さんの言葉に、八神さんは、何かに弾かれたように、突然、瞳からぽろぽろと涙を零し、立っていられなくなったのか、側にあった椅子に腰かけ、震える声で話しました。



「なんか…なんか、不公平だよね。皆は、ごく普通の幸せな家庭に生まれて、大学に進学して、希望する企業に就職して。私の家は母子家庭で、子供の頃から、給食費も払えないくらい貧乏だったから、高校もアルバイトしながら行ってた。当然、大学なんて夢のまた夢。せめて、良い会社に入って、たくさんお給料貰えるように頑張ろうって思ってたのに、実際は、さっき言った通り。ねえ、知ってる? 4年間勤めて、大卒の新入社員と同じ年齢になっても、大卒の初任給のほうが、ずっと高いんだよ? 仕事なら、私のほうがずっと出来るのに」


「…」


「だから、悔しくて悔しくて、何とか這い上がろうと考えて、室長に近づいた。でも、こんなことまでしなきゃ、ここまで来れないなんて、惨めだった…」


「…」


「だから、分かるでしょ? 松武さんみたいに、何でもかんでも恵まれてる人が、憎らしくて堪らなくなる気持ち!」


「それは、あんたの気持ちであって、他の同じ境遇の人間まで、同一にするなよな」



 今度は、木山さんが口を開きました。



「何よ!? あなたに何がわかるって言うの?」


「僕の家も、昔、商売に失敗しててさ。八神さんはバイトしながら高校行ったって言ったけど、僕は中卒で、そのまま働く以外の選択肢はなかった。想像はつくと思うけど、悲惨でさ。だから、働きながら、夜間行って必死で勉強して、必死で金も溜めて、バイトもいくつも掛け持ちしながら、大学へ行った」


「でも、あなたは男だから…」


「男だから、色仕掛けも無理。おまけに、実家が破産してるから、金融関係には、就職は不可能。少しでも就職に有利なように、学生のうちに、色々と資格も取ったよ」


「あ、それ、私も」



 木山さんにわり込むように、静花さんが、話しました。



「八神さんは、大卒が有利みたいに言うけど、実際の就職活動だと、22歳の女を採用する企業って、案外少なかったりするのよ。寿退社までの就業年数が短いって、思われるわけでしょ? だったら、結婚しても、会社側から『是非いて下さい』って言われるように、私は宅建を取ったの。だから、就職先は不動産関係一本に絞ったわ」



 当時は、まだまだ女性の就職先も少なく、結婚すれば、退職するというのが、暗黙の了解だった時代です。


 そのまま働き続けようと思っても、かろうじて、有給休暇を合わせた産休が、最低限取れるか取れないか、勿論、育休なんてありませんから、余程、環境が整っていなければ、既婚子持ち女性が会社に残れる可能性は、限りなくゼロでした。


 色んな立場で、色んな言い分があり、とかく、隣の芝生は青く見える、ということなのでしょう。



「騒がせて、すまなかったね。今回のことは、僕から謝るよ。本当に申し訳ない」



 そう言って、室内に入って来たのは、柏崎室長でした。私たちに向かって、深々と頭を下げ、気まずそうな顔で、視線を逸らせる八神さんに言いました。



「きみは、松武さんが優遇されてると思ってるみたいだけど、それは違う。実際のところ、お給料だって、同期の社員と変わりないし、本人目の前に、こんなこと言うのも何だけど、経営側としては、社会情勢に遅れないように、っていう建前もあってね。でも、役員の半分くらいは、『女に何が出来る』『さっさと潰れれば良い』くらいに思ってる人間もいる。それでも、プレッシャーだけは半端ないんだから、可哀想だよ」


「…」


「でも、一番、きみに対して、申し訳ないと思ってる。本当に、すみませんでした」



 再び、八神さんに向かって、周囲の目も憚らず、謝罪をした柏崎室長。そして、



「申し訳ないついでに、彼女と話をしたいから、少しの間、二人で席を外させてもらいたい」



 そう言って、無言でうなずく私たちに、もう一度深々と頭を下げ、八神さんを促して、二人で部屋を出て行きました。


 残された私たちは、しばし放心状態という感じでしたが、徐々に冷静さを取り戻したものの、今あった出来事を、すぐには受け入れることも出来ず。



「いったい、何だったの、今のは?」


「室長と八神さん、デキてたわけ?」


「何か、このところずっと、八神さん、こうめちゃんに対して、攻撃的な感じがしてたけど、気のせいじゃなかったんだね」



『チーム・プロジェクト8』以外の人たちには、状況が飲み込めなくても仕方ありません。当の私たちでさえ、こんなことになっていたなんて、想像もしていなかったことでしたから。


 結局、その日、柏崎室長と八神さんは、会社へ戻ることはなく、早々に仕事を終えた『チーム・プロジェクト8』メンバーは、いつもの喫茶店に集合し、そのまま『チーム会議』という名の飲み会へ。


 中でも、相当怒りが溜まっていたらしい智枝さんは、まだ興奮が収まらないといった様子で、テンション高めです。



「何だか知らないけど、ホント、自己中な女だよね。他人を羨んだり、貶めようとしたり、挙句に不倫してたり、それ全部、正当化しようとしたり」


「本当に、凄かったんですよ! 梨花さんもあの場所にいて、一緒に聞かせてあげたかったです!」


「で、八神さんはどうなるの? 集金の件もだし、不倫も自分で喋っちゃったわけだし、居づらいよね?」


「自業自得でしょ? 今後も、同じ部署で仕事しろって言われても、絶対無理だわ。ねえ、みんなだってそうでしょ? こうめちゃんだって、絶対に許せないよね!」


「うん、そうだね。でもね」



 確かに、八神さんのことを許せるかといえば、今は無理です。不快な思いもしたし、感情やプライドを傷つけられもしたし、下手すれば、私は泥棒にされるところだったのです。


 そういう意味では、私も皆も、彼女には引っ掻き回されたわけですが、そのおかげで、手に入れたものもありました。



「こうして、みんなと強い絆で繋がれたのも、八神さんの存在があったからだと思えば、全部が悪いことばかりじゃなかったかも、って思えるんだよね。私、甘いかな?」


「良いんじゃない? 俺も、最初は、自分がターゲットにされるのが怖くて、とにかくみんなと固まってた感じだったけど、チェックしたり、確認したりしてるうちに、仕事にハリが出てきたっていうかさ」


「うん、それ、あたしも同じ。八神とは、二度と同じ空気も吸いたくないって気持ちは変わらないけど、メンバー以外の若林さんたちにも、すごく連帯感を持てるようになってて、不動産部がこの顔触れで、ホントに良かったな~って思えるんだよね」


「本当っすか!? 嬉しいな~! 智枝さんに認められたんですね、僕!」



 跳びぬけて明るい綿部君に、思わず皆が吹き出しました。いじられキャラの綿部君の存在も、私たちの中では、とても大切なポジションを占めているのです。


 今後のことは、まだどうなるのかは分かりませんが、とりあえず、八神さんの正体が白日のもとになったことで、ひとまずの区切りがついたとして、乾杯しました。


 今日も、ぴったりと梨花さんの真横の席に座る綿部君。何やら、二人でひそひそ話をし、いきなりテンションが上がったかと思うと、今度は小さくガッツポーズ。



「あいつ、ある意味、八神より理解不能だね」


「俺も、時々、あいつの考えてること、分かんなくなるんだわ。こないだも、移動中の地下鉄で、窓の外に向かって、いきなりお祈りしてるんだぜ? 一緒にいて、こっちが恥ずかしいわ」


「私、同期だけど、新入社員研修の時から、綿部君って浮いてた気がする」



 その後も、ずっとハイテンションで飲み続けた綿部君。お酒か、天然かは不明ですが、いつの間にか、すっかり綿部君のペースに巻き込まれ、少なからず、気持ちが軽くなった私たちは、久しぶりに、楽しい時間を過ごしたのでした。





 ところが、どこから漏れたのか、翌日、後藤・綿部の最年少組み二人が、梨花さんを含む私たちと一緒に飲みに行ったことが、若林さんの耳に入り、特に梨花さんに付き纏っていた綿部君は、締め上げられました。



「てめっ! 綿部ーっ! 梨花さんに近づこうなんざ、一億年早いわっ!」


「ち、違いますって!!」


「何が違う!? 言ってみろ!」


「僕が好きなのは、受付の乃理ちゃんで、少し前に、付き合て欲しいって告白したんっすよ! それで昨日、梨花さんから、乃理ちゃんがOKって言ってたって、伝言してくれただけなんですって!!」


「えっ!?」「嘘、マジっ!?」「そーだったの!?」「ほっほーー!!」


「あ…!」



 若林さんの、あまりにすごみのある追及に、つい秘密を暴露してしまった綿部君。周囲にいた皆が、思わず発した声に、ハッとして、顔を真っ赤にし、大汗をかいている姿は、正直者を絵に描いたようで、愛すべき人間性です。


 そんな綿部君の言葉に、急に表情を緩めた若林さん。



「そういうことなら、なんだ、うん、まあ、許す。だけど、もしまた、そういう一緒に飲む機会があったら、次は必ず、自分に連絡するように。分かったかな、綿部君?」


「あ、は、はい! 了解っす!」



 そんな遣り取りに、智枝さんは『まるで、ジャイアンだね』と。



「それはそうと、今日、八神さんは?」


「来てないみたいだね」



 翌日から、八神さんは会社へは出勤せず、私が人事課にいた頃の先輩、都築さんに、こっそり聞いたところでは、『人事部預かり』という形で、自宅待機になったとのこと。


 以前から、ふたりが付き合っているらしいと、父親である社長の耳にも届いていて、室長は、早急に関係を清算するように言われていたのだそうです。


 別れ話を持ちかけたのが、丁度梅雨の時期、八神さんが急用といって、午後から出勤したあの日でした。でも、交渉はうまく行かず、八神さんが一方的に別れを拒否していたのですが、以降、プライベートでは会わなくなった室長に、彼女のイライラが増殖していったのです。


 いつも、ふたりがデートしていたのは平日の夜。休日は家族と過ごすことを前提に、交際していたのですが、しばらく前から室長の態度が余所余所しくなっていたのを感じて、5月のある休日、室長の跡をつけてみた八神さんは、偶然そこで、私の姿を見つけてしまうのです。


 仕事中でも、自分とのデートの時でさえも、見せたことのないような、柏崎室長の楽しそうな笑顔に、私を別の(新たな?)愛人と勘違いした八神さん。


 それから間もなく、室長の口から出た別れ話に、彼女のジェラシーは沸点に達し、そこからあからさまな嫌がらせが始まったのですが、まったくの偶然と、見当違いな勘違いと、一方的な逆恨みで、ターゲットにされた方は溜まりません。





 会社での嫌がらせだけでは飽き足りず、奥さんの和華子さん宛にも、マリンスポーツを楽しむ私と柏崎室長の写真を、わざわざツーショットの部分ばかりをクローズアップして、送りつけていたそうです。


 和華子さんとしては、親しい顔見知りでしたので、そもそも私のことは疑ってもいなかったのですが、あまりの執拗さに不気味になり、自分の夫の部下で、私の先輩であり、別の趣味繋がりでもある、斉竹さんに相談することに。


 すでに、自身だけの手には負えないと、室長から協力要請を受けていた、松田主任と斉竹さん。社長からの指令もあり、ずっと八神さんをマークしていたところでした。


 和華子さんには、室長の不倫のことは伏せた上で、あくまで私に対する嫌がらせの延長と言い含め、そのまま、柏崎室長に話を戻しました。





 そんな時、私が集金したお金が、金庫から消える事件が発生。私たち『チーム・プロジェクト8』の功績で、自作自演であることを自白した八神さんを、そのまま人事課へ引き渡した、という形に。


 八神さんのしたことは、会社が被害届を出せば、業務上横領罪が成立する犯罪です。しかも、お金を詐取すること自体が目的ではなく、私を陥れようとして仕組んだとなれば、尚更、社会通念上、許されません。


 おまけに、私だけでなく、和華子さんに対しても、写真を送り付けるなどの嫌がらせ行為をしており、今後、会社側は八神さんを訴えたり、公表したりしないことを交換条件に、『円満退職』という形で、終止符を打つことになるのでしょう。





 社内でも、抜きん出てクールでモラルがあると思われていた八神さんだけに、ギャップに対する幻滅は、大きいものがありました。


 でも、そうしたスキャンダルも、あくまで噂というレベルで、すぐに風化し、二か月もすると、彼女がいないことが当たり前になっていた、そんなある日。


 いつもの待ち合わせ場所に行くと、珍しく私が一番乗りでした。夜になると、すでに肌寒く感じる季節。注文したホットミルクティーを、口に運んだ時でした。



「松武さん、お久しぶり」



 聞き覚えのある声に顔を上げると、そこにいたのは八神さんでした。もともと細い人でしたが、以前より、さらに一回り細くなった感があります。


 突然のことに、一瞬、なぜここに彼女がいるのか理解出来ず、同時に、色々と嫌な記憶が蘇り、言葉が出てこない私に、彼女が言いました。



「もしよかったら、少しだけお茶しない?」


「あ、すみません、今、待ち合わせなんです」


「そう。じゃあ、用件だけ言うわね」



 そのとき、お店の入り口から、梨花さんと乃理ちゃんはじめ、受付の女の子たち、そのすぐ後ろに、綿部君が入ってくるのが見えました。


 おそらく、八神さんもその姿を確認したのでしょう、にこやかに手を振りながら歩み寄る梨花さんたちが、私の前にいる女性が八神さんだと気付くのと同時に、周囲にも聞こえるような声で、言ったのです。



「私、妊娠したらしいの」



 瞬時に、凍り付く空気。無関係の人たちまで、私たちに視線が釘付けになっています。


 ただ一人、独特の空気の持ち主の綿部君だけは、相変わらず高めのテンションで、目の前の八神さんに言いました。



「あれ? 八神さんじゃないですか~! どうしたんですか、こんなとこで? 妊娠って、結婚されたんっすか?」



 乃理ちゃんに脇腹を肘鉄され、『え、え、何?』という感じの綿部君の背後から、さらに残りのメンバーと、以前に約束していた通り、若林さんはじめ、他の同僚たちも、続々と入店して来ました。


 計算高い八神さんのこと。こうしたタイミングも、すべて彼女の思惑通りだったのかも知れません。



「何度も、彼に連絡しようと思ったんだけど、自宅にも、会社にも、連絡出来ないことになってるから」


「それで?」


「申し訳ないんだけど、彼に伝えてもらえないかな? 私が、子供を産むって言ってたって」


「八神! あんたって女は…!!」



 今にも跳びかかりそうな智枝さんを、後藤君とさゆりちゃんが押さえ、勝ち誇ったような笑みを浮かべながら、八神さんは続けました。



「奥さん、私のこと知らないんでしょ? もし、子供まで作ったなんて知られたら、きっと離婚よね」


「はあ?」


「正式に離婚したら、室長は子供の責任を取って、私と結婚する、そう思わない?」



 もう、あまりの自己中な言い分に、気分が悪くなりそうでしたが、そんな八神さんの暴走に、冷水を浴びせたのは、木山さんでした。



「もう、いい加減にしろよ。どんだけ自分を貶めたら、気が済むんだよ?」


「馬鹿言わないでよ。私、本気だから」


「そうだな、そうなったら、室長は責任取って、結婚してくれるかもな。だけど、奥さんからは、妻権侵害で、莫大な慰謝料を請求されるだろうな」


「構わないわよ」


「で、慰謝料払って、妻の座に収まれば、自分も奥さん同様に愛されるって、本気で思ってる?」


「…愛してくれるわよ。私のほうが、出会うのが遅かっただけで、順番が違えば…」


「違っても、本気だったら、とっくに離婚してんじゃないの? いい加減、気が付けよ。ってか、気が付いてんだろ、本当は?」



 図星だったのか、言葉を失ったまま、立ち尽くしている八神さん。それにとどめを刺すように、梨花さんが言いました。



「それに、妊娠してるって、嘘でしょ?」


「!」


「そういう嘘をつく人の、特徴が出てるよ」



 顔を真っ赤にして、その場を立ち去ろうとする八神さんに、私も声を掛けました。



「待って! 私も八神さんに言いたいことがあるの」


「もう、何よ!? まだ私に恥をかかそうっていうの!?」


「ごめんなさいね、私のせいで、嫌な思いをさせてしまって」



 あまりにも意外な私の言葉に、八神さんのみならず、そこにいた全員が、驚きました。



「はあ? 何それ、嫌味のつもり?」


「はっきり言って、全部、八神さんの勘違いだったり、思い込みだったと思うけど、でも、八神さんが、嫌な思いをしたのは事実だから。八神さんの気持ちの納め場所として、謝ります。ごめんなさい」



 みんなは、なぜ私が謝るのか、理解出来ないといった様子で、ざわざわしていましたが、加害者側の八神さんにも、感情もあれば、プライドもあるのです。


 嘘までついて、こんなことをしでかしたのも、彼女が傷ついているからだと考えれば、納得が行きますし、このままだと、また同じことを繰り返す可能性も、否定出来ません。


 子供の頃から、何度も母からそうした目に遭わされてきた私には、そういう人間の心理も、漠然とですが理解出来る部分もありました。


 激高した後、興奮と冷静が入り交じる感情の中で、母が何度も言っていた、『どうしたら良いか分からない私だって、可哀想なんだから!』という言葉が、そうした人たちにとっては真実なのだと思います。



「馬鹿にして…! あんたたちなんて、二度と会うこともないから!」



 そう捨て台詞を吐いて立ち去る八神さんを、みんなは安堵の表情で見送りましたが、木山さんだけは、行く先を目で追いかけながら、



「僕、ちょっと様子を見てくるわ」


「えー? 何であんな奴ー?」


「もう、放っとこうよ。関係ないじゃん」


「悪い。すぐ戻るから、先行ってて」



 そう言って、八神さんの後を追い、雑踏の中に消えて行きました。


 かつて、自身が苦労した経歴を持っている木山さんには、八神さんのことが、他人事には思えないのかも知れません。


 まだ携帯も普及していなかった時代ですから、お店の場所を知らない木山さんを、綿部君と乃理ちゃんが、喫茶店で待つことにして、私たちは、一足先にいつものお店へ向かいました。





 席に着き、さっそく梨花さんの隣りの席をゲットした、若林さん。憧れのマドンナを真横に、緊張からか、グラスを持つ手が震えています。



「それにしても、梨花さん、よく妊娠が嘘だって、見破れましたね。僕、びっくりしましたよ」


「まあ、そういう嘘をつかれた経験があったものですから。ね~、こうめちゃん」


「そんなことも、あったかも知れないね~」


「何にしても、梨花さんみたいな、美人で、頭も良くて、上品な女性を奥さんに出来たら、最高だろうな~。梨花さん、僕と結婚を前提に、お付き合いしてください!」



 いきなりかよっ!! という周囲の冷たい視線が突き刺さる中、女神のような美貌と、天使のような笑い声で、バッサリと切り捨てる梨花さん。



「ごめんなさ~い。私、お付き合いしてる彼がいるから~」


「あ、…そ、そうなんだ~。そうだよね~、これだけ綺麗な人、みんながほっとくはずないもんね~、ハハハ…」



 若林さん、あっけなく玉砕でした。そこへ、木山さんを連れて、綿部君と乃理ちゃんご一行が到着。



「綿部~! 会いたかったぞ~! 今日はとことん付き合ってもらうからな~!!」


「えー!? 何っすか、いったい~!?」



 可哀想ですが、私たちには若林さんをどうすることも出来ませんので、ここは、綿部君にお任せするとしましょう。


 私は、木山さんの隣りに座り、その後の八神さんの様子を尋ねてみました。かなり感情的になっていたけれど、おかしなことはしないだろうと判断し、別れたそうです。しばらくは、木山さんのほうから連絡を取り、様子を見ようと思っているとのこと。



「直接、会ったりするのはきついですけど、もし、私に出来ることがあったら、言ってくださいね」


「うん、その時は、頼むね。こうめちゃんって、何の苦労も知らずに育ったお嬢さんっていう印象だったけど、案外、苦労してる?」


「人間、色々ありますよ。誰にだって」


「そうだね。何にもない人間なんて、いないよね」



 このメンバーとは、この先、移動になったり、退職したり、結婚したりと、それぞれが別々の人生を歩み始めた後も、ずっと長く交流が続きます。


 そして、それぞれに、いろんな出来事に関わることになるのですが、それはまた、別のお話。



「おい、お前、何やってんだ!?」


「はいっ! 綿部、歌います!」



 その時、ワインボトルを両手に抱え、急に椅子の上に立ち上がった綿部君。楽しそうに笑いながら、彼の母校の校歌らしき歌を歌い始めました。


 どうやら、かなり若林さんに飲まされたようです。今なら、パワハラ、アルハラ、その他諸々で訴えられるレベルでしょうが、まだ、そんなものは存在しなかった、ゆる~い時代のこと。



「いや、何にもない人間も、一人くらいは、いるかも」


「うん、いるみたいですね、一人くらいは、確実に」



 本人が楽しんでいるのですから、OKということで。





 可燃ごみの日の朝。


 カラス除けのネットを掛けていると、待ち構えたように、葛岡さんのおばあちゃんが出ていらっしゃって、声高に話しかけて来ました。



「おはよう、松武さん!」


「おはようございます」


「やっぱり、佐藤さんとこ、離婚するんだってね~! ダブル不倫とかっていうやつだったらしいよ~」



 朝から、何て話を、と思いつつ、適当に相槌を打っていると、そこへ、愛犬の愛子ちゃんを連れた、百合原さんが通り掛かりました。当然、彼女にも食いつくおばあちゃん。



「あ、百合原さん、聞いたでしょ~、佐藤さんの離婚~!」



 すると百合原さん、淡々とした口調で、言いました。



「それ、デマですから。ドラマの話をしてたのを聞いた誰かが、それを本人の話だと勘違いして、噂を広めたっていうのが、真実らしいんですよね」


「そうだったの?」


「そうなんだって。葛岡さん、そういう方、ご存じありません?」



 すると、おばあちゃんは、無言でスーッとその場を離れ、三軒むこうの椎名さんの姿を見つけると、駆け寄るように、彼女のほうへ移動して行きました。



「任務、完了。これで今回の噂は、収束するでしょ」


「佐藤さんって方は、大丈夫なの?」


「大丈夫。みんな大人だから、そんなに簡単に信じる人も少ないから」



 まったくもって、迷惑なおばあちゃんですが、それでも憎めないのは、彼女の持つキャラクターがなせることなのでしょう。





 あれ以来、私は八神さんと会うことは、二度とありませんでした。


 ただ一人、木山さんだけは、何年かの間、連絡を取っていたようですが、それも次第になくなり、今では、彼女の行方を知る人は誰もいません。


 噂では、某一流大学に入り、その後大学院に進んだ後、凄い研究をしている教授になったとか、セレブと結婚して、某タワーマンションのペントハウスに住んでいるらしいとか、他にも、まことしやかにいろいろと聞きますが、真実は定かではなく。


 知りたい気もしますし、知りたくもないとも思いますし。





 もしまた、偶然、あるいは、待ち伏せに関わらず、どこかでばったり遭遇するのは、勘弁して欲しいと思いますので、余計な詮索はやめて、彼女のことは、そろそろ記憶の中に封印しようかと思います。



~ The virus of jealousy is latent in everyone. ~

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何様たちの宴 二木瀬瑠 @nikisell22

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