何様たちの宴

二木瀬瑠

episode.1 ~バースデー プレゼント~

 それは、一年に一度の特別な日。小さい頃、お誕生日が来るのが、それはそれは、待ち遠しくて、嬉しくて。


 小学生のころは、仲の良いお友達を招待しあって、お誕生日にはパーティーを開きました。ハッピーバースデーの歌に合わせて、バースデーケーキのローソクを吹き消すと、大きな拍手と歓声で祝福され、たくさんのプレゼントに囲まれる、子供にとっては夢のようなひと時です。


 個人的には、プレゼントを貰うのは勿論ですが、どちらかというと渡す方が好きでした。ラッピングを開けた時の相手の喜ぶ顔を想像しつつ、何にしようか悩みながら選ぶ作業は、とてもワクワクするものです。





 私の名前は、松武こうめ。この新興住宅地に住む、専業主婦です。


 今年で結婚して15年目。この街に転入して14年。新興住宅地として大規模な開発が始まったこの街も、造成工事の着工から20年を迎える節目の年を迎えました。


 我が家が引っ越した当初は、まだ空き地が目立っていたこのあたりも、今ではびっしりと家が建ち並んでいます。


 当時新築された家々は、経年劣化によりメンテナンスを受ける時期を迎え、外壁塗装などで新築当時のままの輝きを取り戻す家もあれば、家族構成や生活の変化により、リフォームでまったく別の表情に生まれ変わる家もあり。


 更にエリアを広げ続けるこの新興住宅地、新たに分譲された土地には、次々と新築住宅が建ち上がり、同時に経年エリアもメンテナンスやリフォームでその姿を刻々と変えて行くのです。


 我が家も築10年目でメンテナンスを受け、外壁を塗装しました。気分を変えて、新築当初とは違う色を選択したのですが、ご近所の皆さんからの評判も良く、自分でも結構気に入っています。





 そして、今年は夫が50歳を迎える年でもあります。


 若い頃は、10年という年月でさえ、漠然として実感が持てないでいたのに、このところ、一年過ぎるのが早いこと。やがてはその年齢になることを、理屈では分かっていましたが、実際に到達するとなると…


 50年といえば半世紀、時間の単位さえ変わる長い時間です。よくもまあこんなに生きて来たな、と感慨深くも感じますが、中身は案外ペラいもの。二十歳がものすごく大人に感じ、実際なってみると中身は何も変わっていないといった、あれと同じ感覚を、今後も節目の年齢を迎えるたび感じるのでしょう。


 毎年、お互いのお誕生日には、ちょっとゴージャスなお食事をする程度でしたが、さすがに50年という節目の歳ですから、今年は少し趣向を変えた贈り物をしようと思いました。


 本人に尋ねても、特に欲しい物もないようですし、せっかくですから何か良い記念になるようなものはないかと、あれこれ思考を巡らせているのですが、さてどうしたものでしょうか。





 そんなことを考えていると、ずっと昔、まだ夫と出会う前の、ある誕生日の出来事を思い出しました。それは間違いなく、これまでの誕生日の中でも、ぶっちぎりでワースト1に君臨するものでした。


 当時お付き合いしていた彼とは、学生時代に出会い、やがて、お互い社会人になっても交際は続き、二人の間に、五年の歳月が流れていました。





 後になって振り返ると、交際当初からおかしなことが多々ありました。彼は、我が家にはしばしば遊びに来て、私の家族とも顔なじみでしたが、私は、ただの一度も彼のお家に伺ったこともなければ、あちらのご家族とお会いしたこともなく、電話の取り次ぎで言葉を交わすくらいでした。


 まだ携帯電話もない時代ですから、連絡を取るには家電に掛けるしかなく、ご家族のどなたかが電話に出ることも、珍しいことではありません。


 その際に、社交辞令でも『遊びにいらっしゃい』と言われたことは一度もなく、本当にただ取り次ぐだけという感じでした。考えてみれば、住所や電話番号は知っていても、実際に自分の目で彼の自宅を見たことは、一度もなかったように思います。





 また、それだけ長い期間付き合っていれば、少なからず、結婚のお話が出てもよさそうなものですが、正式なプロポーズは勿論、『いつかは』的なお話でさえ、一度もしたことはありませんでした。


 ただ、当時まだ20代前半と若かったことや、社会人になって、仕事も楽しくなり始めていた頃でもあり、特段、結婚に対する焦りや執着がなかったのも事実です。





 もうひとつ、お友達から『それはおかしいよ』と言われていたことがあります。それは、デート代として、お互いに決まった金額を出し合い、デートで使う費用はそこから支払うことを、彼が提案したのです。


 そうし始めたのは、彼が社会人になってからでした。


「なんか、夫婦みたいで良くない?」と。


 長い交際の中で、唯一それが結婚絡み的な言葉を使った一節だったと思います。その時点で私はまだ学生でしたが、彼は就職し銀行員になっていました。


 学生の頃は、ほとんどお金を使わないようなデートばかりでしたが、学生同士の割り勘ならまだしも、一方はまだ学生なのに、自分は社会人になってからそういうのってどうなの? と、本当にたくさんの人から言われました。


 当時は男性がデート代を支払うのが当たりまえという風潮の時代でもありましたから、今になって、なぜあの時疑問を感じなかったのだろう? と自分でも思います。





 彼が社会人になり、実家から通勤することになりましたので、お互いの家が片道一時間以上の、いわゆる『中距離恋愛』になりました。デートはもっぱら週末で、クリスマスやお誕生日などの特別な日でも、平日は時間的に無理なので、前後の週末に日を改めてするのが暗黙の了解になっていました。


 とはいっても、お食事をして、ケーキを食べて、プレゼントを交換する程度。それでも、自分は恋人とそういう時間を過ごしているという事実に、小さな幸福感や満足感を得ていた気がします。





 たまたま、その年のクリスマスイブが金曜日という、恋人たちにはラッキーな年があり、当然、私は彼と一緒にクリスマスを過ごせると楽しみにしていたのですが、その日は仕事があるからと、フラれてしまいました。


 ショックでしたが、お仕事ということなら仕方ありません。まだクリスマスムードも盛り上がらない前の週に、お食事をし、ケーキを食べ、プレゼントの交換をしました。


 確かに、平日は会い難いという状況はありましたが、よく考えてみれば、そうしたイベント的なものを、その当日にやったことは、ほとんどなかった気がします。中途半端に距離があるだけに、不満と諦めが半分半分でしたが、私自身、そういうものだと思い込んでいたのも事実でした。





 その翌年の私の誕生日は、ちょうど日曜日で、珍しく当日デートが適ったのでした。なぜか、前日に彼から電話で『忘れずに免許証を持って来て』と言われ、待ち合わせの喫茶店に入るとすぐに彼から、オーダーを取りに来た店員さんに、免許証を提示するように言われたのです。


 言われた通り、免許証を見せると、しばらくして注文した飲み物と一緒に、小さなケーキが運ばれて来ました。


 すると、彼は言いました。



「お誕生日おめでとう」



 きょとんとしている私に、店員さんが、



「おめでとうございます。お誕生日のお客様には、当店より、ささやかなケーキのプレゼントをさせて頂いております」



と、説明してくれました。





 小さなカップケーキで、メッセージもキャンドルもなく、バースデーケーキというには、あまりにも小さくシンプルなものでしたが、こういうサプライズは嫌いではありませんでしたし、これはこれで、お誕生日を祝ってくれる演出の一つだと思いました。


 でも、これが人生の中でも、最悪な誕生日の幕開けになることや、やがてそれに絡んで、色々と衝撃の事実を知ることになろうとは、夢にも思いませんでした。





 そのお店を出て、次に連れて行かれたのは、アーケードモールでした。そして、彼はこう言いました。



「プレゼントなんだけど、何でも好きな物、この中から選んで」


「この中からって・・・この商店街の中から、ってこと?」


「うん。欲しい物なら、何でも買ってあげるから、選んで。金額も、気にしなくて良いよ。足りなかったら、僕が出すから」



 そう言って、二人のデート代が入ったお財布を渡されたのです。





 ちょっと、頭の中がプチパニックになりました。お財布の中身の半分は、私が出しているお金です。そこからプレゼント代を出す? 少なくとも私は、彼へのプレゼントは、全部自費で支払っていましたし、彼に会うための往復の交通費等も、自分で負担していました。


 お財布の管理は、彼がしていたので分かりませんが、彼はそうした類の費用もずっとデート代から出していたのでしょうか? それとも、今回は何か特別な意図があってのことなのでしょうか?


 色んな疑問が渦巻きましたが、人間とは不思議なもので、普段から特に疑っていない相手に対しては、好意的な方向への解釈を展開するようです。あるいは、これも風変りな演出の一つなのかも、と気持ちを切り替え、とりあえず言われた通り、ゆっくりとアーケード内を歩きながら、品物を物色しました。





 ですが、そこは3分の1はシャッターが閉まっている、いわゆる地方の寂れた商店街。色々見て回ったものの、これといって欲しい物も見当たらず…



「ごめん、ちょっとこの中には欲しい物が見つからないわ。それに、バースデープレゼントは、自分で選ぶよりも、選んでもらったほうが、私は嬉しいし」


「忙しくって、選んでる暇なんかなかったし、自分が欲しい物を貰ったほうが、気に入らないものを貰うより、良いじゃない?」


「そうだけど、急に言われてもすぐに選べないし、先に聞いていたら何にするか考えておけたんだけど…ねえ、今度会うときまでに決めておく、っていうのはどう?」


「いや、今日選んでよ。何でも良いからさ」


「でも、本当にここには欲しい物がないから…」


「駄目だ! ここで選んでくれないと!」



 何だかもう、わけが分からないという感じです。





 確かに彼が言う通り、気に入らない物を貰うくらいなら、欲しい物を買ってもらったほうが合理的だし、実用的だとは思います。


 …が、バースデープレゼント、それも恋人からの贈り物です。恋人だけに拘らず、プレゼントの醍醐味は中身もさることながら、それを贈る人があれこれ悩んだり、喜ぶ顔を思い浮かべたり、自分のために時間を割き、自分のことを考えてくれた経緯まで含めて、受け取る側には、喜びや愛情などの付加価値が付くのではないのでしょうか。


 少なくとも、私はそう思って、ずっとそうして来ました。




 もし、本当に買いに行く時間がなかったとしても、何にしようか考える時間すらもなかったとは思えません。どうしても考えが纏まらなくて、だったら本人の好きな物を、と考えたのなら、もうちょっと場所を選んでもよさそうな気がします。


 本来、貰う立場で、あれこれ文句を付ける筋合いではないとは思いますが、アーケードの中にある商店はといえば、





書店

レコード店

衣料品店

鮮魚店

青果店

骨董店

生花店

家具店

寝具店

文房具店

電気店

靴店

薬局

美容院・理容院

メガネ店

……





 概ねそういったラインナップでしたから、それで私にどうしろと? という感じです。衣料品や靴なども、比較的高い年齢層がターゲットで、私に似合うような、私好みのものも見当たらず。


 どんなに欲しい物がないと言っても、何でも良いから選べの一点張りで、



「だったら、あなたが選んでくれる? 選んでくれたものなら、何でも良いよ」


「そんなのダメだ! 何でも良いから、好きな物選べば良いから!」



 もう、正直うんざりして来ました。





 なぜそこまで『今日』『ここ』で『私が選ぶ』ことに拘るのか、理由が分からないし、ここには私の欲しい物はないのですから、要らない(気に入らない)物を選ぶのが、相手か自分かだけの違いです。


 もっと言えば、その代金さえもデート代から出すのですから、それに何の意味があるのか、全く理解できません。せっかくの誕生日だというのに、すっかり気持ちが冷めてしまいました。





 もう、このままでは埒があかないと思い、レコード店のクラシックコーナーで、ショパンのCDを選びました。金額、二枚で三千円少々。勿論、お支払いはデート代の中からです。


 その後、夕方まで映画を見たりして時間をつぶし、お気に入りのイタリアンレストランでディナーをする予定だったのですが、行ってみると、数週間前から店内改装のため、休業となっていました。


 こちらは私がリクエストしたお店でしたが、どうやら予約も確認もしていなかったらしいのです。


 もうここまで来ると、悲しいとか、怒るとか、そういう次元をすっかり通り越し、会話もなくなってしまいました。とはいえせっかくのお誕生日、何も食べないでこのまま帰るのもなんですから、急遽、彼の知り合いがやっているという居酒屋へ行くことになりました。





 私、そういうお店へ連れて行ってもらうのは、初めてでした。彼のご家族に会ったことは勿論、友人知人絡みも、ほとんど紹介されたことがなかったのです。


 お店はまだ新しい感じで、お客さんも比較的若い年齢層の方が多く、私たちはカウンター席に通され、お料理やお酒を頂きました。


 踏んだり蹴ったりの一日だったので、お料理の美味しさに救われた気がしたのですが、彼がトイレに立ったとき、カウンターの中にいた私たちと同年代くらいの板前さんが、不意に話しかけてきたのです。



「あなたは、彼の恋人? 付き合ってるの?」


「あ、はい。あの、彼のお知り合い、ですか?」


「ん、まあ、ね。でも、まあ、付き合うのと結婚は別だし・・・」



 一瞬、意味が分からず、この人は一体何を言ってるのだろうと思いました。


 交際も5年目で、お互い学生時代からのお付き合いですし、交際には特に問題も障害もなく、至って普通のカップルだと思っていました。正式に婚約こそしてはいませんが、将来結婚しようがしまいが、それは二人の自由であって、少なくとも、初対面の人から唐突に言われる筋合いはありません。


 どんな意図があってそういったのかは知りませんが、明らかに、彼が席を外したタイミングを見計らった様子であり、正直、少し不愉快な気分になりました。





 当然、私的には黙って悶々する性格ではありませんので、周りにも自然に聞こえる声で、トイレから戻った彼に話しかけました。



「ここのお料理、凄く美味しいわね~。いつも来てるの?」


「うん、まあ、そうだね」


「そうなの~。だから、私が一人で待っている間に、あの板さん、気を使って話しかけてくださったのね~」


「え? 何なに? 何を話してたの?」


「他愛のない、『別の話』…とか~」


「何それ?」


「さあ~? 直接伺ってみたら?」



 そう言って、私はにっこりほほ笑んだのですが、彼も、板前さんも、言葉を交わすことも、目を合わせることもしないのです。


 知り合いの店という話しでしたが、少なくとも、不躾な言葉を発した板前さんと彼は、特に親しい間柄には見えず、でも、別の見方をすれば、敢えて余所余所しく振舞っているようにも思えます。他の店員さんにしても、私たちがお店に入ってから、オーダー以外、特に何か話しかけることもありません。


 何だか招かれざる客のような、とても居心地が悪い感じがして、それが私たち二人に対してなのか、私一人に対してなのか、あるいは、彼とお店で何かトラブル的なことでもあったのかは分かりませんが、とにかく、早くここから立ち去りたくなるような嫌な空気に包まれており、逆に、平気でここに居られる彼の神経が、不思議でした。





 結局、楽しみにしていたイタリアンは食べられず、ケーキは喫茶店で出されたオマケのプチケーキのみ、特に欲しくも嬉しくもないCDをデート代からプレゼントされ、行きつけの居酒屋で、どっぷりと不愉快な気分にさせられた誕生日。


 それでも、誠心誠意頑張った結果なら、それほど不服に感じることもなかったのでしょうが、私には準備もなく行き当たりばったりのやっつけ仕事感丸出しに思え、一時間以上もかかる帰りの電車は、いつもに増してどっぷりと疲労感に苛まれた、最悪の一日でした。





 それ以来、彼に対しての不信感や疑問、なにか納得の行かない感じがむくむくと頭をもたげ、今までずっと棚上げにしていたことも含め、一度じっくり考えてみることにしました。


 そこで頼りになるのは、普段から色々と相談に乗って貰っている梨花さんです。彼女は、同じ会社の一つ上の先輩で、受付をしていました。


 部署は違いましたが、業務連絡等で関わることが多く、社内のイベントで話す機会があり、そこで好みや趣味などが近いことを知ってからとても仲良くなり、お互いのプライベートな部分まで話せる関係になりました。


 受付といえば会社の顔、頭脳明晰で、人当たりも良く、凄く容姿端麗な梨花さんですが、実は彼女には、過去に辛い恋から脱却した経験がありました。恋人というのが、借金は作るは、それを梨花さんに支払わせるは、浮気はするは、よその女性との間に…~以下略~。





 彼女が、当時付き合っていた彼氏の実態を打ち明けたのは、私だけだったそうです。お互い、恋人の話をするようになり、自分と私が似ていると感じていたと、後になって聞きました。彼氏がいることは公言出来ても、そういう人であることまでは、あまり他人様に言えるものではありません。


 最終的に、彼が他の女性との間に出来た子供を堕胎するから、その費用を梨花さんに出して欲しいと言ってきた、と彼女から相談を受けた時、私は梨花さんから絶交される覚悟で言いました。



「今、お金でそれを解決したとして、また同じことを繰り返したらどうするの?」


「それは…」


「そのとき、梨花さん結婚してて、子供も生まれてたとして、もし、お金を払えなかったら、どうなるんだろう? 彼は、梨花さんと子供と、愛人とその子供まで、養うのかな? 堕胎費用さえ払えない人に、そんな甲斐性あるのかな? 旦那さんと子供と、旦那さんの愛人とその子供の分まで、梨花さんが働いて養うなんてことになったら、おかしいよ、そんなの!」



 多分、男性でも女性でもそうだと思いますが、別れを決意する際に、今まで費やしてきた『時間』と『お金』は、相当なウェイトを占めると思うのです。


 梨花さんの場合、彼とのお付き合いが始まったのは、高校3年生の時。時間だけでも足掛け7年以上は経っているわけですし、その上、百万円単位での借金の肩代わりを何度したことか。


 おまけに、デート代からガソリン代、その他諸々に至るまで、学生時代のアルバイトや社会人になってからの収入のほとんどを、彼に費やしてしまっているような状態だったのです。





 冷静に考えれば、そんな恋人には、さっさと見切りをつけたほうが良いことくらい分かりそうなものですが、そういう人間に限って、詐欺師かと思うくらい納得させ上手だったりします。


 例えば、百万円の借金が出来た理由について、



「梨花にプレゼントしようと思って、指輪を買ったんだ」


「指輪って、いくらしたの?」


「百万円だよ」


「どうして、そんな高い物を買ったのよ!?」


「だって君へのエンゲージリング、そんな安物渡せないでしょう?」



 恋人からそんなことを言われたら、女性はハート鷲掴みです。そして、間髪いれず、こう続けるのです。



「でね、今月支払いがちょっと厳しくって、貸して貰えないかな? 勿論、ちゃんと返すし、いずれは梨花のものになるんだし、何とかお願い出来ないかな…?」



 そうやって、彼女からお金を借りては、返すことは一度もなし。その『エンゲージリング』とやらの実物も、一度も見せてもらったことすらないそうです。


『君を乗せるための車(高級車)の代金』やら、


『将来の資金(結婚式? マイホーム?)のための積立金』やら、


 他にも、よくそんなに思いつくものだと感心するほど。但し、高級車も積立金の明細もその他諸々も、指輪同様、実物・実態の提示がないことが、すべてを物語っているのです。





 女性の妊娠が、真実か嘘なのかは、定かではありません。でも、今回ばかりは、これまでとは言い訳の質が違い過ぎます。


 事実なら言語道断、嘘だとしたら、絶対許されるものではありません。なぜなら、要求しているものは、いつも通り金銭であっても、その代償が『人の身体』『人の生命』だからです。


 何より、愛する人に対して、最低の裏切り行為に他なりません。





 さすがに、今回ばかりは梨花さんも堪忍袋の緒が切れたようでしたが、それでも、彼に引導を渡すには、かなり葛藤があったのも事実でした。


 私に何が出来るわけでもありませんが、出来る限り梨花さんと一緒に過ごし、たくさん彼女の話を聞き、時に一緒に泣き、事情を知らないお友達をたくさん集めて、大いに食べたり飲んだりし、彼女が淋しくないように、少しでも早く忘れられるように、と。


 元々がとても美人で、性格も良いときていましたので、新しい恋人が出来るまでにそう時間は掛りませんでした。彼女から新しい恋人を紹介されたとき、優しそうな彼の人柄を知り、本当に、本当に、心からホッとしました。



「私の時と違って、こうめちゃんの場合は、お金は取られてないのよね」


「うん」


「ただね、デート代を出し合うっていうのも、例えば婚約してて、結婚資金を貯めるためとかだったら分かるよ。彼、銀行員だから、なるべくお給料の口座から出金しないほうが、金利が半端なく良いものね」



 そう、金融関係者の口座は、金利が一般の定期預金の比ではありません。但し、入金は出来ないものですから、なるべく出金しないことが肝心。



「でも、これまで結婚のお話って、一度も出てないんだよね?」


「うん、ない」


「それ以上に、5年も付き合ってて、一度もお家に行ったことも、向こうの家族と会ったこともないっていうのが、どうしても変だよ」



 私も、そこが一番引っかかっていた部分ではありました。



「これって、梨花さんなら、どういうことだと思う?」


「一般的に考えられることとしては、家族に会わせたくないか、自宅に呼びたくない理由がある?」


「例えば?」



 その理由を、二人であれこれ考えてみました。





① 私のほうが家に行く(家族に会う)ことを拒否していると思い、あえて誘わない。


② 家族が私と会うことを拒否している。


③ 家族と私が会うと、何か不都合がある。


④ 自宅が狭い・汚いなどの理由で、自分が呼びたくない。


⑤ ④の理由で、自宅に呼ぶことを、家族が拒否している。


⑥ 自宅自体(場所・建物・環境含め)に、人を呼べない何らかの理由がある。





①に関しては、まずあり得ません。というのも、ずっと以前に、彼の実家が新築することになり、



「今は古くて狭い家だから、来てもらうことが出来ないけど、家が建ったら、一番に招待するから、遊びにきてよね」


「勿論! 楽しみにしてるね!」



 しばらくして、お家が完成したと聞きましたが、



「まだ引っ越し荷物が片付かなくて、もう少し落ち着くまで待っててね」



 何度かそういわれ、私も快く頷き、招待される日を待っていました。私のほうは、お声が掛ればいつでもお伺いする意思表示をしていましたが、あれから幾年月、ここ数年は、そんな話すら出ることもなくなりました。





②に関しては、いろんな方向から、可能性が高いような気もします。


 電話の取り次ぎでは、何度も言葉を交わしている顔なじみならぬ『声』なじみ。でも、一度も世間話や社交辞令もなく、取り次ぎ以上の会話を交わしたことがありません。


 彼から聞いた家族構成は、母親が一人っ子の跡取り娘で、父親は婿養子。同居する母方の祖母も一人っ子の跡取り娘で、亡き祖父も婿養子だったそうです。更に、曽祖母もご健在で同居、おまけに未婚の妹が一人。


 なので、彼は3代目ぶりに生まれた男の子、女系家族の中、溺愛されて育ったのだと、なぜか自慢げに話してました。


 そんな目に入れても痛くない大切な大切な長男を、どこの馬の骨とも知れない女に渡してなるものか、と家族一丸となって、私を拒否している可能性は考えられます。





 ただ、一般的に考えた場合、大半の女性は、この条件で結婚には踏み切らない、ということ。


 嫁姑の苦労を知らない、一人っ子の跡取り娘が2代続く女系家族、舅姑を始め、大姑、大大姑、おまけに小姑まで付いてくる、お嫁さんにとっては、完全アウェイという最悪の条件。


 かなり強い気持ちがあるか、余程のメリットを確約されない限り、踏み切るのは無理。それでもお嫁に来てくれるという女性が、非常に非常に非常に貴重であることを、嫁姑の苦労を知らない跡取り娘には、分からないのが相場です。





③に関しては、上記のようなことから、家族が酷く私を傷つける言動を取る可能性。または、私を交際相手として家族に紹介できない別の理由がある可能性。


 例えば、私とは別に、すでに家族公認の女性がいて、私を家族に紹介することで、お互いの存在がバレる危険がある場合。


 もっと別次元では、実は彼は超ド級のマザコンで、ママに逆らえないというケース。と言いますか、実はこれ、あながち外れてはいないというか、常々そうした兆候は感じてはおりました。


 他には、会わせることを躊躇うような、変な家族がいる(変な習慣がある)のかも。





④⑤⑥に関していえば、⑤は一部②に含まれるとしても、新築したお家ですから、普通に考えれば建物的な問題はないはずです。


 また、これも彼から聞いたお話ですが、実家は結構な資産家で、祖父も父も教育関係のお仕事をし、特にその分野では代々名士とされる家柄で、必然的に地位のある方々とのお付き合いも多いとのこと。


 自宅を新築するに当たっても、相当な豪邸が建つようなことを言っていましたから、人を呼べないような建物ではないと考えるのが妥当です。


 となると、建物に関して考えられることは、私に語ったような豪邸が存在しない、という可能性。見栄を張ったのか、招待を先延ばしするために付いた嘘だとして、訪ねた先が新築の豪邸でなかったら 『あら???』 ということになりますので、呼びたくても呼べないという状況です。





「大体、考えられることとしては、このくらいかしらね。特に、どれか思い当たることってある?」


「それがね、どれも思い当たるような気がするんだ」


「どうする? 最悪、別れ話になることも覚悟出来るなら、一度、お家に遊びに行きたいって言ってみる? 今まで通り、何も知らん顔して付き合い続けるのも、こうめちゃんがそのほうが良いと思うなら、それもありだし」


「分からないけど、一度そう言ってみようかな。もし、拒否するようなら、やっぱり何かあるってことだから」


「大丈夫? 辛いことになるかも知れないよ?」


「うん、でも、いつかははっきりさせないといけない時が来るだろうし、やり直すなら早いほうが良いもん」


「そっか」


「もしそうなった時は、うんと慰めてくださいね」


「勿論! っていうか、思い過ごしであることを祈っているから」


「ありがと。頑張ります」





 その週も、いつも通り木曜日に彼からの電話がありました。週末のデートを、土日のどちらにするか、場所はどこにするか、などを決めるのです。私は出来るだけ平静を装いながら、さりげなく言ってみました。



「そういえば、私、一度もあなたのお家に行ったことってなかったよね?」


「え? あ、そうだっけ?」


「いつも私の家に来てもらってばかりだから、たまには私がそちらに伺うっていうのはどう?」



 少しの沈黙の後、はっきりと動揺が分かる口調で、彼が言いました。



「ま、まあ、今週急にっていうのも何だし、今週は別の場所にしない?」


「じゃあ、来週は? 来週なら伺っても大丈夫なのかな?」


「っていうかさ、何でそんなに家に来ることに拘るの?」


「拘ってるわけじゃないけど、私が伺うと、何か不都合なことでもあるの?」



 正直、私としてもそこまで言うのは、かなり勇気が要りました。梨花さんの言うとおり、本当にこれで駄目になるかも知れないという不安。同時に、彼を信じたいという気持ちが、頭の中を激しく駆け巡ります。


…が、彼の口から出たのは、残念なほうの言葉と受け取るしかありませんでした。



「都合が悪いことなんて、別にないけどさっ!! だた、いきなり来たいって言われたって、こっちにも予定とかあるし、別にそんなに急に家に来るっていうのも、その、なんだ、あの…」


「ねえ、今まで何も言わなかったけど、私たち付き合って、もう5年目だよ? その間、私は一度だってあなたのお家に遊びに行ったこともなければ、あなたのご家族に会ったことすらないんだよ? 外国に住んでるとかなら仕方ないけど、これってちょっと普通じゃないよね?」


「別に、そういう付き合い方だって、本人たちが良ければ別に…」


「私は、おかしいと思ったから、思ったことを言ってみたんだけど」


「もういい。そんなふうに思うんなら、そう思えばいいだろ。分かったよ。もう会うのはやめよう。それじゃ」



 そう言って、電話は切れました。





 ふと我に返り、なぜ彼がそこまで逆切れするのか、梨花さんと話した内容を思い出し、その理由を漠然と理解した瞬間、とめどなく涙が零れ落ちました。


 別れって、こんなにあっさりと言い渡されるものなんだ、結局、私はその程度しか思われていなかったのか、と思うと、自分が惨めでたまらなくなりました。でも、何度もシュミレーションを重ね、これも想定内のことでしたから、自分の中では、ダメージは最小限に抑えられた気がします。


 ひとしきり泣き、11時を回っていましたが、梨花さんに電話をし、小一時間話を聞いてもらいました。翌日、会社を定時で退社して、食べて飲んで歌って、ついでに梨花さんちにお泊りして、『過去』となった彼へのレクイエムを謳歌したのでした。





 ところが、それから2週間が過ぎた木曜日、彼から電話が掛って来たのです。私の中では、もう完全に過去になりつつある人でしたので、意外を通り越して、驚きでした。


 そして、彼の口から出た言葉は、はっきり言って唖然でした。



「今週、どうする?」


「どうするって、何が?」


「前、うちに来たいって言ってたから、お母さんに聞いてみたんだ。そしたら、そんなに来たいって言ってるなら、来ても良いって言ってたから、今週、土日のどっちが良いかなって思って」



 この男、人のこと何だと思っているんだか、馬鹿にするのも、程があるというものです。



「私たち、もう別れたんじゃなかったの? 前の電話で、そっちから、もう会うのはやめようって言わなかったっけ?」


「あれは、『今週は』会うのをやめようって言っただけで、僕は別れようとは、一言も言ってないし…!」


「私は、はっきりと別れの言葉だと受け取ったけど。それより、そんなに来たいなら、来ても良いって、何それ? そんなこと言われて、喜んで行く人間がいると思うの?」


「じゃあ、何て言えば良かったんだよ? うちのお母さんが来ても良いよって言ってるから、是非遊びに来てください?」



 この人の頭の中は、まず『うちのお母さん』が最優先で、彼女の意思が絶対であり、私というポジションは、その思し召しを有難く頂戴する立場という位置付けなのでしょう。女性にとっては、最も残念な彼氏です。



「あなたがどう思っていようが、私にとってあなたは、もう彼氏でもなければ、そのあなたのお母さんが、来いと言おうが、来るなと言おうが、指図される覚えもなければ、行く気も理由もないってこと」


「うちのお母さんが、そこまで言ってくれてるのに、悪いと思わないのか!?」


「そうだね、あなたにとっては、多分世界で一番大切な人だろうけど、残念ながら、私には一面識もない人だから」


「うちのお母さんを、冒涜するのか!? もういい!! 君とは別れるから!!」



 そう言って、再び、一方的に電話を切られました。





 一度目と違い、出たのは涙ではなく、溜め息。母親に対して『冒涜』するのか、ということは、『崇拝』でもしていたのでしょうね。前々から、薄々どころか、間違いないだろうと確信していましたけれど。正真正銘、筋金入りのマザコン確定です。


 つい先日まで、あんなに気を使って、ほとんど何も言えなかったのが、その反動なのか、それとももう自分には関係ない人だと認識したからなのか、ここまではっきり言ってしまう自分が、驚きでもありました。


 それにしても、この電話の内容から、彼のママは私と会うこと、私を自宅に招くことを、快く思っていなかったらしいことだけは確かです。ならば、考えるまでもなく答えは一つ、『別れて正解』です。





 我ながら、ここまでの流れだけでも、十分、面白ネタの域に達するというもの。当然、こんなお楽しみは、梨花さんと共有するのが、最も正しくも楽しい使い方です。


 梨花さんも、予想を上回る状況に驚いていましたが、一つアドバイスとして、私の気持ちが決まっている以上、もう二度と彼には会わないこと、もし、どうしても会わなければいけない時は、絶対に一人(一対一)では会わないように、と言われました。


 今と違い、まだストーカーという概念も、規制法もない時代。同様に、多少でもそうした恐怖を体験した彼女からの忠告は、無知で無防備な私を、最大限守ってくれることになるのです。


 そして、私たちの想像を超える出来事は、まだまだ続くのでした。





 それから更に2週間が過ぎた木曜日、またまたまた、彼から電話が掛って来ました。


 また『別れたつもりはない』と言うかと思いましたが、一応、別れたという前提にはなっていたようです。


 が、またまた予想外の言葉が飛び出して来たのでした。



「あのさ、これまで僕がプレゼントした物を、返して欲しいんだけど」



 ガールズトークの中で、しばしば出現する『残念な元彼』の上位に見かけるやつです。彼の意図は何なのか、探りを入れてみました。



「で? 何を返せばいいの?」


「僕がこれまであげたアクセサリーとか、バッグとか、消耗品じゃないものだけでいいから」


「分かった、じゃあ、郵便で送っておくから」


「いや、もし途中で無くなるといけないから、ちゃんと会って、手渡しして欲しいんだ」



 ああ、そっちに持って行くか、と思いました。そこで、前から用意していた通りに返してみました。



「つまり、今まで私のプレゼントに使った分を、せめて価値のあるものだけでも、返して欲しいってことね?」


「いや、別にそういうわけじゃ…」


「だったら、私もあなたのリクエストで、カメラとか時計とか、色々プレゼントしたから、相殺ってことでいいんじゃない?」


「それも、会ってちゃんと返したいし…」


「そんなの返されても使い道ないし、一度あげた物を返してもらうのも、気分悪いでしょ。いらないなら、捨ててもらっていいから。私がもらった分は返してもらわないと困るっていうなら、誰か信頼できる人に頼んで、自宅まで届けてもらうわ」



 金額的には、私からのプレゼントのほうが総額が上でしたし、受け渡し他に関しても、特に問題はないということになります。


 少し沈黙した後、彼が言いました。



「じゃあ、プレゼントはもういいよ。でも、やっぱり一度会って、ちゃんと話したいんだ」


「私は話すことなんて何もない」


「でも、話せば分かるかも知れないだろう?」


「じゃあ、今話せば?」


「電話じゃなくて、会って話せば、気持ちも変わるかも知れないし」


「変わらないし、もう会うつもりもない」


「じゃあ、せめて最後に会って、ちゃんと別れを言いたいから」


「わざわざ会って別れを言うことに、何か意味があるの? 結婚していないカップルは、別れるときに署名捺印は要らないんだよ」


「それはそうだけど…」


「じゃあ、さようなら」



 そう言って、今度は私のほうから電話を切りました。さすがに、ここまで言われれば、もう連絡してこないでしょう。その頃、私は実家を出て一人暮らしを始めることになっていましたので、ちょうど良いタイミングでした。





 新居に引っ越して、2か月ほど経った頃、突然引っ越し先に彼から電話が掛ってきたのです。


 勿論、家族には転居先の住所、電話番号は伝えないように言ってありましたので、なぜ、ここの番号が分かったのか問いただすと、銀行の書類で知ったというのです。


 彼が銀行に就職したとき、私は彼の務める支店で口座を作ってもらいました。自宅や勤務先からは遠い場所でしたが、他の支店やキャッシュディスペンサーも近くにあり、何より、彼に頼んでおくことも出来ましたので、不便はありませんでした。社会人になり、お給料の振込もその口座で、定期預金もしていました。


 私の実家に電話をして、私が家を出たことを知り、彼は銀行の担当者という立場を利用し、住所変更等の書類の手続きが必要だと説明。送られてきた書類を、家族の誰かが気を利かせて、記載、返送した書類から、ここの番号を手に入れたのです。


 今ほど、個人情報等に関して厳しくない時代ですから、こんなことも起こってしまったのでしょうが、そこまでするかと思うと、もう、気持ち悪いという領域に達していました。



「実は、もうすぐ定期預金が満期になるんだけど、どうするかと思って」



 放っておけば、そのまま自動継続になる定期預金です。今までは、一度もそんなこと言ったこともなかったのに。



「そのままで結構ですから」


「それから、来月と、再来月にも、一つずつ満期になるのがあるんだけど…」


「だから何? どうしろって言いたいの?」


「いや、別に、そのままでいいのか、もし解約するのなら、書類とか手続きが必要だから、渡しに行くけれど」


「その時は、書類だけ送ってくれればいいから」


「解約は、直接支店に行かないと駄目なんだよ。でも、必要なら、僕が直接書類を預かれば、手続き出来るから」



 そんなところに落とし穴があったとは、意外でした。


 しかし、これは何とかしなければならないのも事実。口座の支店は、往復で3時間以上は掛るだろう遠方です。銀行ですから、営業時間は平日の午後3時まで、会社を休んで行かなければならないし、何より、そこへ行けば、必ず彼に会うことになってしまうのです。


 とりあえず、まず出来ることとして、給与振込口座の変更手続きをすることにしました。定期預金は勿論ですが、出来れば口座ごと解約するのが無難でしょう。


 さて、こうした場合、誰に相談しようかと思ったところ、翌週、学生時代の友人たちと約束していることを思い出しました。その中に、銀行に就職した真里菜ちゃんがいましたので、彼女なら良い方法を知っているかもと思い、とりあえず、先に連絡を取って事情を説明すると、調べておいてくれるとのことでした。





 その日の女子会のメインディッシュは、もちろん私。梨花さんならずとも、女子にとってその類のお話は大好物です。集まったメンバー全員、彼のことを知っていましたし、旅行時のアリバイ作りの片棒を担ぎ合った仲間同士ですから、これまでの展開に、盛り上がり方も半端じゃありません。


 まあ、でも、やはり彼の執着には、誰もが不気味さを感じたようです。


 そして、この日はもうひとつ、新たな事実を知ることになりました。メンバーの千種ちゃんが、彼の実家と同じ市内で、彼女のお兄さんと彼は、中学・高校の同級生だったのです。当然、全員の興味は、彼の家のことに集中しました。



「ごく普通の家だよ。特に豪邸でもないし、お金持ちっていう話も聞いたことないし」


「でも、3~4年前に新築したんじゃないの?」


「あの辺りで、ここ数年新築したお家は、なかったと思うよ。比較的古い町だから、建ててればすぐに分かるもの」


「じゃあ、教育関連で、代々名士の家柄っていうのは?」


「あ、それはないと思う。だって、うちのお兄ちゃん、先生してるから」



 こんな形で露呈するなんて、世の中は狭いものです。誰にでも見栄を張ることはあるでしょうし、それが悪いとは思いません。でも、長く付き合っていれば、いずれは分かってしまうことですから、バレた時のことを考えて普通はしないと思います。


 すると、友人たちが言いました。



「それって、都合の良い女だと思われていたんじゃない?」


「そうそう! こうめって、あまり相手のことを詮索したり、問い詰めたりしないタイプだから、嘘つく人にとっては楽なんだと思う」


「実家が金持ちって言えば、女は誰でも尻尾振って付いてくるってか?」


「それで彼女にデート代折半させてたんじゃ、意味ないでしょ~」


「ああ、あれかな? 結婚すれば家の財産はゆくゆくは君のもの、的な?」


「ママンが反対してるから、結婚は出来ないんだ~、でも、別れたくないから、ずっと愛人ではいて欲しいんだ~?」


「妻でも愛人でも、資産家じゃなきゃ、どっちもメリットないよね」


「破綻したら、今までついてた嘘もバレなくて済むのに、それでもまだこうめに絡んでくる理由って何?」


「多分、いつか嘘がばれても、許して貰えるくらいに思ってるんじゃない? 『あ、そうなの~』 程度で、それ以上追及されないだろう、みたいな」


「それにしても、よく5年も続いてきたよね~」


「何かさ、私たちで、思いっきり叩きのめしてやりたくなるわ」


「っていうか、これだけでも結構なインパクトだけど、もしかして、まだまだ出てくるかも知れないよね…」



 その言葉に、私を含めた誰もが、一瞬言葉を失い、そして大きく頷きました。


 前に、梨花さんと話した項目を皆に話すと、もうすでに考えられることの大半が該当していることに、呆れるを通り越して、笑ってしまう状態です。


 ただ、ここまで来ると、一番それだけはあって欲しくないと思う、別の女性がいる可能性も、強く懸念される気がしてきました。



「あ、それから、頼まれていた口座の件、方法があったわよ」


「ありがとう! 助かるわ~」


「彼なら、自分の支店に口座がある限り、それを口実に、絶対に連絡してくるものね」





 真里菜ちゃんのアドバイスでは、利便性を考えてなるべく近くの同じ銀行の別の支店へ行き、そこで、



『今ある口座の支店が、あまりにも遠方にあるために、定期預金の解約をしたくても、とても行く時間がない』


『近々、旅行などの理由でお金を引き出したい』


『また、今後も同様のことが考えられる』



という内容を説明し、口座を移したいという旨のお願いをすれば、今ある支店の口座の解約手続きと、新しい支店の開設手続きを、銀行側でやってくれるということなのです。


 そうすれば、銀行口座は作り変えた支店発行のものになるので、担当者も変わりますし、新しい支店で解約手続きも出来ます。


 ただ、彼のことですから、同じ銀行の口座がある限り、銀行員という立場を利用して連絡を取って来る可能性は大いに考えられますので、なるべく早いうちに、口座自体を解約してしまうこと、そうすれば、彼も立場を口実に連絡することは出来なくなるのです。


 週が明けた月曜日、私は会社を抜け出し、早速手続きを行いました。小一時間で帰社し、受け付けの梨花さんに小さくピースサインをすると、彼女も小さく親指を立てて返してくれました。





 これで、もう彼から連絡が来ることはないだろうと思ったのですが、それ以来、しばしば無言電話が掛って来るようになりました。


 今のように、ナンバーディスプレイも迷惑電話お断りサービスもない時代、とりあえず出ては、無言のままずっとダンマリを決め込まれ、こちらの『もしもし? どなた?』という声を聞いて、切るのです。


 留守電にして出ないでいると、何度でもしつこく繰り返し掛けてくるので、電話局に事情を話し、電話番号を変えてもらったのですが、どうやって調べるのか、しばらくするとまた無言電話が始まるのです。


 3度ほど、番号を変えたのですが、このままでは埒が明かないと思い、受話器を取ったらこちらは何も話さず、そのまま10秒以上、無言が続いたら、すぐさま受話器を置く、という方法を実行してみました。


 私と同様の被害を受けている方は少なくないらしく、電話局には、そういう電話を撃退する方法がないか、相手が誰なのか、掛けてきた番号を特定する方法はないのか、という相談がたくさん来ていたそうです。





 当時、それが出来たのは警察だけ、それも重大な犯罪の捜査、例えば誘拐の逆探知レベルでもない限り、許可されなかったのです。そこで、相談に乗ってくださった局員の方が教えてくれた方法の一つが、それでした。



「それがその彼だったとすれば、あなたの声を聞きたいんでしょうから、声が聞けなかったら電話の意味は半減するでしょ。掛かってきそうな相手には、予め事情を伝えておけば大丈夫だし。電話が繋がっても、受話器から何の応答もなければ、自分から話しかけて、繋がってるか確認してみるのが普通だから、相手の声を聞いて、違う人だったら話せば良いし。これ、結構効果があるみたいですよ」



 というわけで、局員さんの話を信じ、実行してみました。





 当初は、こちらが喋らない理由が分からないようで、しつこく掛って来たのですが、一週間もすると、徐々に回数は減り始め、それでも出ているのが私だと思ってか、週に一度くらいは、掛かり続けていたのですが、それも、半年も過ぎると、ほとんど掛ってこなくなったのです。


 これでようやく、解放されたと喜んでいたある日のこと、その電話は、あまりにも意外な相手からでした。


 こちらが無言で受話器を取ると間もなく、相手のほうから話したのです。



「もしもし、あの、松武こうめさんですか?」


「はい、そうですが」


「あの、突然のお電話、失礼します。私、花村博美といいまして、あなたが以前お付き合いしていた麻田さんと、同じ銀行の支店で働いていた者です」



 正直、どうしてそんな人が私に電話を掛けてくるのか、理解出来ません。気味が悪いし、このまま電話を切ろうかと思ったのですが、とりあえず、彼女が何を言いに電話をしてきたのか、聞いてみることにしました。



「それで、私に何の御用でしょうか?」


「じつは私、麻田くんより8歳年上で、結婚もしているんですが、彼とは、ずっと付き合っていて、こうめさんのこともよく聞いていたんです」


「はあ…??? あなた一体、何を言ってるんですか!?」


「どうしても、こうめさんに伝えたくて、電話したんです! お願い、切らないで、話を聞いて!」



 彼女の口からは、予想をはるかに超えた状況が語られたのでした。





 まず、彼女との交際が始まったのは、彼があの支店に就職してすぐ、その時すでに彼女は結婚していたそうです。呆れるのは、彼女のご主人が同じ支店の彼の先輩だということ。


 また、同じ頃、地元の同級生の女性とも交際していて、更に二年ほど前から、上司の紹介で別の支店の女子行員と、結婚を前提にお付き合いしていたそうなのです。つまり、それらはすべて私との交際期間と重なっていた、ということ。


 勿論、私はそんな状況は知りませんし、ご結婚前提の女子行員も何も知らないそうです。逆に、同級生の女の子は私や女子行員のことは知っているそうで、電話の主、花村博美だけは、何もかも彼から聞いていたそうです。


 既婚の彼女に関しては、リスクは明らかに彼女のほうが上でしょうから、最も心を許せて、本音を話せたのでしょう。彼女とのデートは、もっぱらご主人が出張の時、夫婦の自宅に泊まっていたのだとか。三人が同じ支店なら、予定を把握するのも容易いことです。


 一年ほど前、彼には急に私との仲が壊れた理由が分からず、どうしても別れたくないという思いで、いろんなことをしてしまったこと、そして、今でも元に戻りたいと言っていることなどを話しました。



「もしかすると、自分と別れたことで、こうめさんが不幸になってしまったんじゃないかって、麻田くん、そんなの我慢できないって、お酒飲んでは、泣くんです。心配して、しょっちゅう電話を掛けて、様子をうかがっては、何とか、こうめさんを幸せにしたいって、彼、かわいそうで。こうめさん、今、幸せですか?」



 もう、この不倫馬鹿ップル、ミラクル級自分たちの世界の住人か、です。





 少なくともこれで、無言電話の犯人は確定したわけです。彼に対しては頭にきますが、それ以上に、この不倫女に無性に腹が立って、感情が抑えられません。



「あなたに、幸せかなんて聞かれる筋合いないんだけど」


「でも、私も麻田くんも、あなたが幸せじゃないと、心配で心配で…!」


「何それ? 旦那さんを裏切って、後輩と不倫してる状況で、自分は幸せだって、本気で思ってるの?」


「私のことはどうでもいいの! 今はあなたのことが…!」


「どうでもいい? なら、その状況を、全部ご主人に話しますか?」


「それは…!!」


「それとも、公認なのかな? 銀行関係者含めて」



 こちらの意外な反撃に、かなり狼狽している様子が伝わって来ます。


 彼女の中では、相手を心配するあまりの厚意と思い込んでいるので、自分のしていることに罪悪感もなければ、こちらの気持ちなどお構いなし、悪意がないだけにたちが悪いのです。



「私が幸せだったら、どうなの? 不幸せだったら、どうするの? 確かに、私は彼と付き合っていたけど、もう一年近くも前に別れた。自分が四又掛けられていたなんて知らなかったし、私は誠実に付き合ってきたつもりだから、誰にも何を恥じることもないし、今それを知ったからといって、他の人に文句言うつもりもないし、あなたのように、誰かを裏切ってもいなければ、誰かに恨まれる筋合いもない。昔の彼が、どこで何をしてようと、関係ないし、興味もないから」


「じゃあ、もう彼のことは吹っ切れて、今は幸せってことなのね?」


「だから、あなたに答える筋合いはないって言ってるの。あなたは何の権利があって、私にそんなことを聞くの?」


「私はずっとあなたのことを知っていたから、他人事とは思えなくて…」


「私はあなたのことなんて、今の今まで知らなかったし、いきなり近親者的な発言されたって、不愉快なだけです」


「でも、やっぱり心配で…」


「心配してるなら、相手に何を言っても聞いてもいいの? 旦那さん裏切って、共通の知り合いと不倫して、そういう状況に幸せを感じますか? スリルがあって、快感を感じるからやめられないんですか? 密会で、自分にだけに素顔を見せる年下の彼が、愛おしくてたまらない? 私はずっとあなたのことを見てきたから、他人事じゃないから、心配してるのよ、なんて、いきなり見ず知らずの他人に言われたら、答える筋合いないって、思わない? 電話で見ず知らずのおっさんから、下着の色を聞かれるくらい、気持ち悪い。あなたが何をしてようと、今後どうなろうと、全部あなたの自由で、あなたの責任。そこに踏み込む権利があるのは、あなたの旦那さんや家族だけ。それと同じだけ、私も赤の他人に踏み込まれる筋合いはない、それだけ」



 少しの沈黙の後、呟くように彼女が言いました。



「…分かりました。突然変な電話して、ごめんなさい」


「あ、それから一つ聞きたいんですけど、ここの電話番号は、どうして知ったんですか?」


「麻田くんの手帳から、知りましたけど」


「彼は、ここの番号をどうやって?」


「さあ? 私は詳しいことは。それが何か?」


「ここの番号は、無言電話被害で、何度か変更しているんです。公開されていない番号を、どうやって知ったんでしょうね?」


「多分、銀行の住所録か何かで…」


「番号を変えたのは、口座を解約した後ですけど」


「ご、ごめんなさい、私、よく知らないので…!」



 そういうと、凄く焦った様子で、向こうから電話を切りました。推測ですが、銀行の調査機関等を使って勝手に調べたのでしょう。今ならコンプライアンス的に大問題ですが、当時でもかなりの問題行動だと思います。


 彼女から電話があった理由は、二つ考えられます。一つは、彼から頼まれたスパイ、もしくはメッセンジャー。もうひとつは、彼のために、何とか力になろうとしたパターン。


 いずれにしろ、成果は何もなく墓穴を掘っただけという結果ですから、これでもう二度と彼女から連絡が来ることはないでしょう。





 考えてみれば、最初に彼に疑問を抱くきっかけになった居酒屋の板前さん、よく行くお店と言ったわりには、妙に態度がよそよそしかったのは、おそらく、私以外の女性と一緒に訪れていたのだと思います。


 あの板前さんが『付き合うのと結婚は別だから』と言ったのも、初対面の私より、常連の女性のほうが思い入れも強いでしょうから、こちらを牽制してきたと考えれば、納得が行きます。


 同様に、一連の家族の電話対応も、私がどうという次元の問題ではなく、不倫妻は別としても、幼馴染で同級生の女の子なら顔見知りでしょうし、女子行員に至っては、結婚前提のお付き合いですから、当然家族と面識がないはずはなく、必然的に私へのあの対応になったのでしょう。



「何も知らなかったとはいえ、しょっちゅう電話とかかけちゃって、考えただけで、自己嫌悪だ~~~!!」



 そう言って、頭を抱え込む私に、顧問相談員梨花さんも、もう呆れたを通り越したという表情で言いました。



「他に女がいる可能性は考えたけど、まさか四又とはねぇ~。しかも、内一人は不倫、それも同じ支店の先輩の奥さんって!」


「結局、予想したことのほとんどが当たってたんだよね」


「でも、あのプレゼントの場所日時限定は、何だったのかしらね?」


「それが分からないんだ。あの日、あの場所には、他の3人はいなかったとか?」


「だったら、もっと良い場所はいくらでもあるでしょうに。やっぱり何も意味はなかったのかもね」


「所詮、私はその程度の存在だったってことですか~」


「あん、もう、こうめちゃん、可哀そ~~。次は変な男に引っかかっちゃ駄目だからね~~」


 そんなふうに茶化してくれる梨花さんの存在が、とても有り難かったです。でも、これで終わりではなく、最後のクライマックスがやって来るのでした。





 私の誕生日を一週間後に控えたその日、電話が鳴りました。いつの間にか習慣になってしまった無言で受話器を取ると、向こうから話して来ました。



「もしもし、こうめ? お久しぶり、麻田です」



 驚きました。


 馴れ馴れしい口ぶりにも腹が立ちますが、それ以上に、この期に及んで、よく掛けて来られたものだと呆れます。



「何か御用ですか?」


「来週の誕生日、会いたいんだ。どうしても渡したいものがあって」



 一年も前に分かれた相手に、誕生日に会いたいって、いったいどういう神経をしているのか、まったく理解不能です。



「あなたから貰うものなんて、何もありません」



 そう言って、電話を切ったのですが、すぐさま、また掛って来たのです。このまま放置しようかとも思いましたが、こうなれば、決着を付けたほうがよいと思い、覚悟を決めて、徹底的に話すことにしました。



「一体、何をどうしたいのか、言ってみ?」


「もう一度、僕と付き合って欲しい。離れてみて、やっぱりどれだけこうめのこと好きだったか、凄く分かった。誕生日のプレゼントは、指輪にしたんだ。永遠の愛を誓う指輪なんだ。去年の誕生日プレゼントで、君は見事に合格だった」



 去年の誕生日プレゼントが合格? いくら考えても意味が分からなかった、あの件に関することでしょうか?



「合格って、何、それ?」


「あの商店街で、何を選ぶか、試していたんだ。君はその中で、リーズナブルなCDを選んだ。経済観念もあるし、クラシックを選ぶところが、とてもセンスが良いと思うし、ずっと一緒に居るには十分合格だって、確信したんだ」



 これで、最後まで残っていた謎が、全部解明しました。


 だいたい、経済観念もセンスも何も、誕生日に、あの商店街でプレゼント選びを強要され、あれくらいしか選ぶものがなく、おまけに費用の半分は自費と、私としてはものすごく不愉快な記憶でしかありません。


 しかも、その年齢の誕生日は一生に一度しかないのに、それを勝手に訳の分からない選考道具にしたとか、人を馬鹿にするのも程があるというもの。あまりの無礼さに、もう容赦しないと思いました。



「じゃあ、聞きますけど、先輩の不倫妻と、幼馴染の同級生と、結婚前提の女子行員はどうするの?」


「何でそれを…?」


「知ってるよ。で? 全部清算するの?」


「先輩の奥さんと、同級生の子は、僕にぞっこんで、別れてくれないんだ…女子行員は、上司の紹介で、結婚の話が進んでいて…」


「じゃあ、決まりじゃない。私とは永遠の愛は誓えないってことでしょ」


「そんなことはない! 結婚しなくても、僕たちの愛は永遠だよ!」



 もう、言ってることが無茶苦茶です。女子行員とは結婚する流れでも、皆が自分を愛しているから、この状態を継続するのが最善策で、もうとっくに終わっている私との間にまで、永遠の愛が存在している?


 頭がおかしいとしか思えません。



「つまり、自分は結婚するけど、私には愛人になれ、ってこと? もし全員がそれを了解したとしても、正妻と三人の愛人を養って行けるわけ?」


「前に言っただろ、僕の実家は資産家で、それくらい十分やって行けるんだよ」



 まだ、バレてないと思っているようです。もしかすると、ずっと嘘をつき続けているうちに、私に対して、彼の中では、実家が資産家のご子息になってしまっていたのかも知れません。



「もう、嘘つくのをやめたら? 知ってるんだよ。自宅、新築もしてなかったみたいだし、教育関係の名士の家系でもないみたいだし、特に資産家でもないみたいなんだってね」


「だ、誰がそんなこと…」


「狭い町だもの、知り合いがいれば、ほぼ筒抜けなんだよ」


「生活は、今まで通り、お互いが生活費を折半して…」


「まず、そこからしておかしいでしょ? 何で私は愛人になってまで、働いて生活支えなきゃいけないの? 大体、うちの親に『娘さんを愛人に下さい』って言うの? それで、うちの親が『どうぞ』って言うと本気で思ってるの?」


「大人なんだから、親になんか言わなくても、愛があれば、どんな困難でも…」


「もう、そこから間違ってるって、気付けよ。こっちは愛なんて一年も前に消滅してるっていうの。勝手に訳わかんないテストされて、合格だから一緒に居てやるとか、何様のつもり? 四又掛けるは、嘘はつくは、挙句に意味不明な妄想を語りだすは、はっきり言って、そんな男、こっちは選考基準にも満たないんだよ」


「でも、僕はこうめを幸せにしたいんだ…」


「私の人生に、結婚の選択肢はあっても、不倫だ愛人だっていう選択肢はない。ついでに、あなたという選択肢も、100%ないから」


「こうめ…きみは変わってしまったんだね…」


「私が『変わった』んじゃなくて、あなたの思考回路が『変わってる』んでしょ?」



 受話器からは、すすり泣いている様子が伝わって来ましたが、それでこちらが同情するとでも思うのなら、完全に脳内お花畑です。まるで自分の要求が受け入れられずに駄々をこねる子供のような様子は、逆効果にしかならず、幻滅に拍車が掛るだけでした。


 やがて、とうとう嗚咽し始めた彼に、言いました。



「じゃあ訊くけど、逆に、私が上司の勧めで、他の男性と結婚したとして、その他に、職場の先輩の旦那さんと不倫もしてて、幼馴染の同級生の男の子とも愛人関係になってて、あなたにも愛人になって、生活費も入れてねって言われて、あなた幸せ?」


「そんなの嫌だ…」


「そうだよね。私も嫌だよ、そんな人生」



 そのまま、彼は言葉を失ったのですが、最後に、



「本当に私の幸せを願ってくれるのなら、もう二度と、私の人生に関わらないで。さよなら」



 それだけ言って、電話を切りました。


 それ以来、二度と彼から電話が来ることはありませんでした。





 今なら、ストーカー規制法で処罰して貰えるのでしょうが、『嫌よ嫌よも好きのうち』なんて言われていた時代です。


 幸い、私の場合は、直接危害を加えられたり、誹謗中傷などの嫌がらせはありませんでしたが、普通に恋愛していたはずが、まさか自分がこんな経験をするとは、夢にも思いませんでした。





 あの異常な執着は、私のほうから去ったという状況も関係していたかも知れません。彼がどれだけモテるのかは知りませんし、不倫妻が納得して不倫を続けていたように、同級生や女子行員がその状況を納得しているのなら、彼らの世界の中、自己責任で好きなようにすればいいと思います。


 でも、私はそんな状況、まっぴらごめんです。


 彼の思考回路には、恋人を所有物のように思い込むようなところが見受けられます。幼い頃から、家族に溺愛され、何でも許されていたから、いつしかそれを勘違いして、自分と関わった人は誰もが自分を愛するのが当然で、自分が一緒に居てやることが、相手の幸せと思い込んでいるのかも知れません。


 でも、私にとっての幸せは、彼という存在ではありませんし、彼は私の人生の中で、ある時間関わりを持った人々の中の一人に過ぎません。


 日常や社会生活の中で、多くのことを経験し、体感し、その中でたくさんの人たちと触れ合い、交友を深め、平凡な一人の女性として、ご縁があれば、どなたかと結婚するでしょうし、なければ一人で生きて行くだけです。


 そして、その選択権は、私自身にあるのです。





 それから半年後、私は今の夫と出会います。お互いの第一印象から、後々結婚することになるとは想像もしませんでしたが、それはまた、別のお話。





 夫の50歳のお誕生日のお祝いは、一~二泊程度で、想い出の海に旅行に出かけることにしました。


 マリンスポーツがきっかけで知り合った私たち。年齢的、体力的に、当時のようには行きませんが、海の側のリゾートホテルに問い合わせると、初心者や年配者でも楽しめる施設があるということで、夫に話すと、大喜びで賛成してくれました。


 夜は美味しいディナーに高級なワインを傾けるのも、悪くありません。





 一つだけ確信をもって言えるのは、結婚相手が今の夫で良かった、ということ。これまで、いろいろな苦労があったり、困難にぶち当たったりもしましたが、夫と二人三脚で、一歩一歩乗り越えて来たと思います。


 もう間もなく『熟年』といわれる年代に差し掛かり、夫の仕事も軌道に乗り、たまにプチ贅沢が出来る程度の、それなりに安定した生活を手に入れ。もし、何も知らずに、あのまま彼と続いていたら、考えただけで意味不明な人生だったでしょう。


 今でもふとした瞬間、彼のことを思い出すことがあります。その後、いったいどうしているのか。女子行員とは結婚したのか、同級生とは続いているのか、不倫妻はどうなったのか、新たな女性の出現はあるのか、相変わらずママを崇拝しているのか、今でも銀行に勤めているのか…





 知りたい気もしますし、知りたくもないとも思いますし。





 ただ、いきなり電話がかかって来るのは二度と御免ですから、変な運気を呼び寄せないためにも、そろそろ記憶の中に封印しようかと思います。



~ Happy birthday to you ! ~


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