第15話

「いひっ」


 干からびた肌に触れる大気が、違った。

 老婆は笑う。

 眼下の瑞々しい子供達から発散する水分が、己の肌の触れているのがわかった。

 

「こりゃあいかんのう。 そりゃあいかんのう」


「……何がだよ」


 老婆は、眼下の少年に笑いかける。

 その笑みは、自分でもわかるくらいにひどい物だった。

 ひたすらに敏感になった肌の感覚は、少年が唾を飲み込む音を掴ませ、目をつぶっていても立ち位置を変える筋肉と骨の動きすら直接触れるように老婆に理解させる。

 それは、ひどい屈辱だった。


「この歳になって、ようやくわかったわい。 ……無理に決まってるじゃあないか」


 話す気なんて、老婆にはこれっぽっちもない。

 話した所で、誰にも理解されなかった。

 それは何やら時代錯誤な格好をした女にも、眼鏡の女子高生にも、まだ眠ったままの少女にも。

 そして、見るからに空手バカの少年にも、わかるはずがなかった。

 ひどく、惨めだった。

 初めにあった高揚は消え失せ、ただただ萎びた何かが、老婆のど真ん中にごろりと横たわっている。

 はどうしようもなくでかくて、目を逸らす事すら出来やしない。

 じりじりと立ち位置を変え、女が女子高生を、少年が少女を守ろうとしている事すら、老婆にはどうでもよかった。


「……何があったんだよ。 話してみれば、少しは楽になるかもしれないぜ」


「話してみても、無駄じゃわいな」


 何もかもに意味は無い。

 これまでも、これから成そうとしている事にも、何の意味も無い。

 ただどこまでも無意味で、どこまでも愚かな事だ。

 やらずの後悔、やっての後悔。

 どちらも同じなら、やらずの後悔の方がマシに違いない。

 少なくとも余計な事をしなければ、それ以上は悪くならないのだから。

 それでも、


「行かせてもらおうかねえ」


「っ! 天道くん、守れ!」


 やらずにはいられない。

 それだけが老婆を突き動かす衝動だった。

 虚空で一歩、踏み出す。

 足裏には、しっかりとした感覚。

 それは狐の念動力による浮遊ではなく、強い踏み込みによる大気の圧縮だ。

 破裂音を一つ弾かせれば、その身は一瞬にして速度の渦に乗る。

 方向は、窓ガラス。 炸裂するように弾けたガラスは、着物の影すら捉えられない。

 一歩、二歩、三歩。

 空中に飛び出した老婆が、空中で次々と歩を重ねて行く。

 スピードスケートの選手のように、腰の後ろで手を組む姿勢は、婆の魂に刻まれた本能的なフォームだ。

 流れるように消えていく眼下の街並みはあっという間に消え失せ、再び他所の街並みが現れる。


「さしずめあたしゃ空飛ぶババア――かね」


 ゆったりと、だがフライング婆を見る者がいれば唖然とするほどに速く高度を上げていく。

 一歩、また一歩と雲を駆け上がるたびに、足裏に感じる大気がみるみると減っていくのがわかる。

 婆はふと真っ直ぐに上を目指してみたくなった。

 特に意味はない。

 鳥よりも速く宙を駆けているのは、少しばかりの性能実験だ。

 戦場は地面、敵は未だ強大。

 力を手にいれたフライング婆とて、間違いなく苦戦するだろう。


「そんな暇はないんだけどねえ」


 呆れるように言葉を溢した婆だが、その視線は太陽に向かう。

 遮る物のない太陽が、婆の目を焼く。

 だから、目をつぶる。

 さて、ハイカラな掛け声の一つでもかけてみようか、と婆は考えるものの、語彙を掘り返してみてもしっくり来る物が見付からない。


「よーい」


 まぁ所詮、婆だからねえ、と心中で呟いた婆は、まるで今にも獲物を捉えんとする鷺のように真っ直ぐだ。


「どん!」


 一直線に太陽に向かって駆け上がる婆の姿は新幹線よりも速く、ぶち当たる大気の層がひたすらに重い。

 超高速域の加速の敵は、大気だ。

 普通に歩く分には何の問題にもならなくとも、超高速域で突っ込む大気は、コールタールの中で泳ぐように重い。

 それでも足を進めても、足裏に感じる大気はどんどん減り続け、婆から瞬発力を失わせていく。

 だが、


「ここからじゃろう」


 増した婆の脚力は、ほんの僅かな大気の層を無理矢理に従わせる。

 力任せで、技巧なんてこれっぽっちもない全力運転だ。

 ひたすらに醜く、ひたすらに馬鹿らしい。

 なんでこんな事をしているのか、と思うくらいに、馬鹿馬鹿しい限りを尽くしている自覚が、婆にはあった。


「ふむ」


 やがて、婆の足をいくら動かしても、すかすかと何も踏みつけない領域に届く。

 

「思ったよりも、簡単じゃったのう」


 力を増す前の、フライング婆ではなく、ターボ婆だった頃には成せなかった領域。

 そこに辿り着いてみれば、何とつまらない事か。

 足を止めれば、流れゆく星のように婆の枯れ枝のような身体が、引かれていく。

 目を、開いた。

 真っ逆さまに落ちる婆の頭上には、地球があった。

 それはひどく蒼く、そして広い。

 昔見た宇宙からの写真そのものだ。

 この雄大な光景に少しくらい感動があるかと思えば、婆の心には細波一つ沸き立たない。

 他所から手に入れた力で見た景色と、宇宙船が撮影した写真とで、一体どんな差があるのだろうか。

 それはひどく虚しくて、


「あいつはどうなんじゃろうなあ」


 ただ、話をしたいと、婆は思った。

 流星の婆が、真っ直ぐに落ちていく。

 想いに思った宿敵の元へ。

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空手バカ、除霊する 久保田 @Kubota

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