素行始末記

沖田 秀仁

第1話

素行始末記

沖田 秀仁

 江戸時代、柳井は長州支藩の一つ岩国藩の領地だった。

 瀬戸内海沿いの街道は柳井を過ぎてなおも下ると峠に差し掛かる。

 峠の頂から北の雑木林の奥へと一筋の草に覆われた獣道が延びている。

 その獣道を子供たちが纏わりつくブヨを払いながら、単衣の裾を乱して駆けて行く。

 明治三十年の初夏、尋常小学校の数人の子供たちが歓声を上げながら駆けていった。そこは柳井が平生村と境を接する田布呂木と呼ばれる地だった。

獣道を奥へ進むと雑木林が切り拓かれた丘があり、二階建ての陋屋に一人の老人が暮らしていた。その老人は名を白井小助といい、齢は既に古希を過ぎていた。この時代の老人にしては珍しく矍鑠として腰も曲がってない。疎らな白髪を短く刈り上げ、眼窩は落ち込み頬は殺げている。体はそれほど大柄ではなく痩身だが、貧弱というものでもなかった。幼少の頃から鍛えられた四肢は強靭な印象すら与えた。

白井小助の挑みかかるような容貌に子供たちは恐れていたが、好奇心に負けて陋屋を覗き込むと老人は飴玉や饅頭などを差し出して「食わねえか」と上がるように促した。

界隈の大人たちはその弊衣を纏った老人を「素行先生」と呼んでいた。その響きは小馬鹿にするのでもなければ嫌うのでもなく、どことなく親しくもあり畏れてもいた。

白井小助は文政七年に萩城下に生まれた。家は代々毛利藩で家老を勤める浦家の家臣で、白井家は兵法をもって仕えていた。生まれて間もなく浦家の所領がある柳井伊保庄へ移り住んだため、白井小助にとって故郷は領主館のある瀬戸内海に面した伊保庄の丘だった。しかし故郷に白井小助の幼少時を知る者は誰もいなかった。

維新後、浦家は藩主毛利敬親に同行して東京へ移り住み、拝領屋敷も山口藩に取り上げられた。そのため伊保庄に白井小助と縁のある者はなく、生涯独り身を貫いたため天涯孤独の身だった。が、別段それを苦にしている様子もなかった。

 御一新間もない戦塵舞う頃には、暮らしの糧は平生村の豪商から請われて用心棒などをして稼いだ。しかし世間が落ち着き、諸隊崩れと称する連中が徘徊して押し込みなどを働く時代が去ると、世間も白井小助を必要としなくなった。だが生きて行くには銭がいる。いつからか白井小助は無心をするようになった。それも大威張りで東京の既知の者を順に尋ねて無心して歩いた。すると不思議なことにどの屋敷でも追返されることなく、乞食同然の白井小助を屋敷に招き入れ風呂に入れた。そして新しい着物を与えて主人自らが昔話を肴に酒を飲み交わし歓待してもてなした。

還暦を過ぎた辺りから半年に一度か年に一度、東京へ行き伊藤俊輔や山県小介などの屋敷を訪ねて廻った。以前は山田市之允(顕義)を二回に一度は尋ねたものだが、五年ばかり前に四十九歳の若さで他界してしまった。陸軍少将になっていたが同じ松陰門下の山県小介と対立して干されていたと聞いている。中央政府で伊藤俊輔の後を継ぐ人物だと思っていただけに、惜しい男を亡くしたものだと落胆した。

上京して故郷を留守にする他の日々は田布呂木の陋屋で子供たち相手に寺子屋の真似事などをして過ごした。今も白井小助は一階の塾部屋で子供たちがやって来るのを寝転がって待っている。起きて半畳寝て一畳とはよく云ったものだ、と天井の複雑な木目模様を見るともなく眺めた。世を拗ねたかのように自堕落に暮らし、多くの者に迷惑をかけながら生きている。しかしこれも人生よ、と白井小助は思う。維新当初は東京に出てきてはどうかと誘われたこともあったが、仲間たちの魂の眠る故郷を離れるわけにはいかなかった。維新の日を迎えることなく命を落とした仲間たちを誰かが弔わなければ、野仏たちが余りにも不憫だった。

しかも、かつての奇兵隊士や大勢の仲間たちが故郷で不遇を囲っているのに、自分が官職に就いて上京しては彼らに顔向けが出来ない。そうした思いが白井小助の足を田布呂木に留めさせた。「お前たちは誰のお陰で立身出世できたと思っているのか」と無心した後で、東京に暮らす元勲たちを叱り飛ばしたこともあった。

 杣道を駆け登って来る子供たちの声が近づいてきた。

 白井小助は上体を起こして、肌蹴ていた衣紋をかき寄せた。

――せめて子供達には折り目正しい先生だったと思われたい。

 近所の大人たちからは呑んだくれの無頼者と陰口を叩かれ、評判はいたって悪いが、子供たちには白井小助は泰然自若した大人だったと記憶に刻んで欲しかった。

「先生、先生、伊藤総理大臣の話をしちょくれんか」

 桟から引き戸が外れるほど勢い良く開けて、五郎太が声を掛けた。

 総理大臣になった伊藤俊輔はいたって評判が良い。何しろ彼はこの地から歩いて行ける熊毛郡束荷村の出自だった。だから子供たちは郷土の偉人として神のように崇めている。しかし明治三十年当時、伊藤俊輔は既に総理大臣ではなかった。明治二十五年に組閣した第二次伊藤内閣は去年総辞職している。一昨年締結した下関条約に対して独・仏・露の三ヶ国干渉を招き、結果としてそれを受け入れざるを得ないこととなり条約締結者として責任を取ってのことだった。だから明治三十年の伊藤は総理大臣ではないが、そうした政治を子供たちに語って聞かせても解らないだろうと、五郎太の問い掛けを訂正しなかった。その代わり、

「お前ら、学校は終わったンか。えらい早くに来たが」

 と殺げた頬に笑みを浮かべて、小助は嗄れ声で叱りつけるように吠えた。

 その声は獣のようで大抵の者が怖気を震うが、子供たちはすぐに慣れてしまった。子供は敏感な嗅覚で相手が自分に危害を加えるか否かを敏感に嗅ぎ分けるようだ。

「今日は土曜日の半ドンだ。家には先生の所へ勉強を教えて貰いに行くといってきた」

 そう言って、五郎太はにこやかにほほ笑んだ。

 彼の後ろには常連の三吉の他、何人かの新顔も見えていた。

「そうか、それなら上がれ」

 小助が手招きすると、子供たちは土間に草鞋を脱ぎ棄て框に飛び上がった。そして小助が置いていた雑巾に足を擦りつけた。新顔の子供たちは怖いものでも見るように小助の顔を覗き込んで静かに上がった。

 白井小助の顔は怖い。右目の瞼が上下乱暴に縫い付けてある。右眼球は元治元年八月の四カ国連合艦隊との戦で、上陸したフランス陸戦隊と奇兵隊を率いて戦った激戦のさなかに、狙いをつけて引鉄を引いたゲベール銃が暴発して吹き飛ばされた。

直ちに後方へ送られたが、野戦病院にいた若い蘭学医が応急処置に簡単な消毒だけして、畳表でも縫うように上下の瞼を縫い付けてしまった。三ヶ月もすると傷は癒えたが右目は縫目が数えられる一筋の傷跡になったしまった。その大袈裟な引き攣り傷を隠すために永楽銭に紐を通して斜めに縛り付けていた。だが今はそうした面倒なことはやめて、乱暴に縫いつけられた右目の傷跡をさらしている。

 十畳一間の塾部屋は六人ばかりの子供が座っても息苦しいほど狭くはない。

「さあ、憶えとるか復唱してみい。二一天作の、」

 と言いつつ、白井小助は五郎太の後ろに隠れるように身を潜めている女の子を指した。

「二一天作の五、じゃ」と、女の子は小さな声で答えた。

「おお、その通りじゃ。次に、五一倍作の、」

 と言いつつ、五郎太を指した。

「先生、二一天作の五の次は三一三十の一じゃろうで。いきなり五へ飛ばれちゃそこへ行くまで手間がつくけえ」と言いつつ、五郎太は逡巡した。

「算数は基本さえ憶えてしまえばあとは簡単じゃけえのう。先日渡した「割り算の九九」一覧表を出してみんなで斉唱せよ」

 そう言って、白井小助は紙を忘れた子供に文机の紙を渡した。

 子供たちは大声で「割り算の九九」を唱和する。それを聞きながら、白井小助は文机に頬杖をついて来し方を振り返るともなく来し方を振り返っていた。


 文政七年、白井小助は日本海に面した萩城下で毛利藩家老浦靱負に仕える兵法家の家に生まれた。二本差しを帯び姓名を名乗っているが、家格としては陪臣に過ぎない。身分でいえば長州藩直参の中間・足軽と同等か若しくはそれ以下の扱いだった。

萩に暮らしたのは六歳までで、それ以降は浦家二千七百石の領地周防国熊毛郡伊保の庄で過ごした。幼少の頃から学才に恵まれ、父親が小助に期待するところは大きく、十五歳の折に願い出て当主が藩主の参勤交代で江戸へ行くのに随行して出府し、そのまま藩邸に暮らして学問に励むことを許された。

 折しも当時江戸では蛮社の獄が起こり、蘭学に対して厳しい弾圧が行われていた。世にいう天保の改革だった。当然浦家も白井小助の学問は国学か漢学とするしかなく、安積艮齊の塾に通うこととなった。そして剣術は斉藤弥九朗道場へ通うこととなった。しかし白井小助の若々しい感受性には蘭学が強く刻まれ、兵法家の倅として洋式兵法と教練への興味が強く刻み込まれた。

 勉学に明け暮れする日々が十年を過ぎ、三十になった白井小助は大きな節目を迎えることとなる。その年、嘉永六年六月三日に浦賀沖に四隻の黒船が現れ、江戸幕府に開国を求めて来た。

 いよいよ来るべきものが来た、と白井小助は全身が粟立つのを覚えた。江戸へ出府して既に十四年、世間が激しく変化しているのは肌で感じていた。イギリスやロシアなどの船が長崎へやってきたり、日本近海に欧米の船が頻繁に現れているのは知っていた。そしてついに黒船が江戸湾にまで乗り込んで来たのだ。

開国を求める米国ペリー提督に対して、幕府は一年の猶予を求めて追い返した。しかし幕閣に一年間で正式回答を出す能力はなかった。

 翌安政元年三月、ペリーは前年約束した回答を受け取るために浦賀沖に姿を現した。前年よりも三ヶ月も早い来航に幕閣は驚き回答を先延ばししようとした。するとペリーは黒船を江戸湾深く進めたために江戸市中は再び騒然とした。

それと前後して新橋の料亭伊勢屋で吉田寅次郎の送別会が開かれた。奇しくも吉田寅次郎と白井小助は江戸藩邸で同室となり、肝胆相照らす仲となっていたため出席を乞われた。他には宮部貞蔵や梅田雲浜や栗原良蔵など長州藩のみならず尊攘派と知られた人物が顔をそろえた。

吉田寅次郎は後に松陰先生と仰がれる長州藩の兵学者だ。僅か六歳にして毛利敬親公の御前で軍学の講義をしたという。細面の痘痕面だが、どこか老成した感のある男だった。吉田寅次郎も白井小助の烈しさに驚き「白井小助、甚だ志あり」と遺している。

送別会は吉田寅次郎の旅発ちを祝すことにあった。来航したペリーに頼み込んで黒船に乗せて貰いアメリカへ渡るという。尊王攘夷を唱える者にして異国へ行くというのは同じ兵学者として彼の気持ちが痛いほど良く分かる。異国と戦になった折に、敵を知らずしてどのような兵法を毛利公に進言するというのか、という真摯な気持ちが伝わってきた。

吉田寅次郎のペリーの艦船に乗り込み密航する試みは実行に移された。吉田寅次郎と従者の二人は夜を待ち浜にあった船に乗り沖合の黒船に辿り着いた。しかし「鎖国禁止令」を承知している米国側によって乗船は拒否され、主従は密航を果たせなかった。

翌朝、吉田寅次郎は従者と共に律儀にも浦賀奉行所に自訴した。それにより大事件になった。夜釣りにでも出て櫓をなくして黒船に漂着したとでも誤魔化せば良いものを、吉田寅次郎の世間知らずには誰もが驚いた。大真面目も度を越せば傍迷惑なものだと恐れ入って頭を抱えたのを白井小助は今でも憶えている。

江戸藩邸の重役たちは幕府からもたらされた一報に驚き、送別会に出ていた者に累が及ぶのを恐れて即座に国許へ帰した。来原良蔵は吉田寅次郎とは明倫館で学業を競った無二の親友だった。奥祐筆という職責を担っていたが職を解かれ国許へ追い返された。白井小助の名も送別の会の出席者として江戸藩邸は調べて承知していた。が、藩の重役浦靱負に遠慮してか、その家臣に処分は及ばなかった。

幕府は自訴した吉田寅次郎に縄を打ったものの処罰に困り、ひとまず身柄を長州藩に預けた。その二年余りの期間が倒幕のきっかけを作ろうとは誰も思わなかっただろう。国許へ預けた吉田寅次郎が松本村で「松下村塾」を開き、そこで狂気にも似た烈しい憂国の情を血気盛んな塾生に教え込むとは幕閣の誰一人として知る由はなかった。

江戸時代を通して、長州藩は特別な藩だった。幕府に対して表向き常に恭順の意を表していたが、萩城内では「正月の儀」が秘かに連綿と受け継がれていた。それは正月元旦に藩士が総登城して大広間に集まり藩主と対面する儀式だった。他藩でも藩主と家臣とが正月を賀す行事として普通に行われているものと何ら変わりなかった。

ただ、長州藩の場合は少しばかり様子を異にしていた。総登城した家臣が平伏する中に上座についた藩主に、筆頭家老が「今年はいかが取り計らいましょうや」と問うのだ。すると藩主は思案するように一呼吸置いて「今年はその儀に及ばず」と返答する。家臣一同は藩主に対して「へへーっ」と低く地響きのように唱和するというものだった。

たったそれだけのことだが、総登城した藩士すべては秘された意を知っていた。今年は討幕の軍を興さない、ということを。

長州藩は関ヶ原の合戦で敗れ、徳川家康により中国地方に築いていた版図百二十万石を僅か防長二国三十六万九千石に減封された。余りの仕打ちに毛利輝元は親しい黒田如水を通して「領地返納」を徳川家康に申し出た。しかし、徳川家康は減封の沙汰の取り消しも領地返納も認めなかった。そして「軍を差し向けるまでもなく、長州藩は逼塞のうちに滅びるだろう」と、ほくそ笑んだという。

徳川幕府開府から江戸時代の大半を、長州藩は逼塞した貧乏藩として過ごした。毛利輝元に従って防長二州に移って来た藩士たちの多くは槍刀を捨て、代わりに鋤や鍬を手にした。そして山間の荒れ地の開墾やあらゆる河口の干拓に立ち向かった。その結果、防長二州の領地三十六万九千石は幕末には収穫高百万石に達していたといわれている。しかしそれでも長州藩は天下に知れ渡る貧乏藩だった。借金に借金を重ね、ついには年貢収入の二十二年分にまで達して困窮を極めていた。

天保八年に十八歳の若さで毛利敬親が藩主に就いた。それは藩主に就くべき嗣子が辞退したためお鉢が回って来たに過ぎなかった。しかし、それが長州藩に幸いした。

毛利敬親は藩主就任の翌天保九年に一人の男を抜擢した。江戸当役用談役という閑職に退いていた五十六歳の村田清風を政務役に登用して藩政改革に当たらせた。

白井小助が江戸で学問を積み始めた時期と、村田清風が政務役に登用された時期と軌を一にする。白井小助は長州藩が参勤交代の路銀にすら事欠く貧乏藩だったのを知っている世代でもあった。ただ長州藩が藩政改革を成し遂げ、天下に藩の名を知らしめる時代が近付いているうねりのような政治の大きな潮流とは無縁だった。相変わらず江戸に滞在して伊藤玄白の蘭学塾に通って勉学に励む日々を送っていた。


あの時代が懐かしい、と白井小助は回顧する。

藩邸の一室で天下国家を論じたものだ。一回り以上も年下のまだ半人前の青臭い書生でしかない若造たちと交わり、数々のバカバカしいほど無鉄砲なこともやった。

安政六年五月吉田寅次郎が幕府の命により江戸表に召喚されるや、松下村塾の弟子たちが陸続と出府して来た。当時は勝手に国境を越えて旅することは出来ない。だから長州藩は若者たちの申し出に対して何らかの理由を付けて手形を与えたのだろう。書生たちに便宜を図るとは、なんとも大らかな藩だと感嘆せざるを得ない。

松下村塾の塾頭を自任していたのは桂小五郎だった。桂が学んだのは同じ松下村塾でも吉田寅次郎が教える以前、寅次郎の叔父が開いていた当時の門弟だった。齢は高杉たちとは十歳近く離れ、しかも既に藩から大検視役を任じられていたため兄貴分として慕われていた。桂小五郎が従者として連れていた中間・伊藤俊輔も松下村塾の門弟だった。

松陰門下の筆頭格は高杉晋作だった。いとこの久坂玄随と二人して村塾の双璧と称せられていた。藩邸にたむろする書生たちの中に伊藤俊輔の顔もあったが、松陰門下でない井上聞多の顔もあった。松陰門下の大半が下級藩士の子弟か足軽・中間の子供たちだった。だから百石奉行格の子息井上聞多は上士の出自ということで変わり種だったが、上士ということなら高杉晋作も二百石小姓役を勤める家柄の嫡男だった。

藩が松陰門下の出府を大目に見たのにはわけがある。伝馬町の牢獄に繋がれた者には差し入れが必要だ。ツルのない者は牢内で酷い扱いを受ける。しかし藩が幕府の罪人に対して差し入れをすることは出来ない。そのため松陰の弟子たちが差し入れに奔走できるように出府の願いを聞き入れ、藩邸での動きを大目に見た。

重役たちの思惑通り、松陰の弟子たちは伝馬町の獄に繋がれた吉田寅次郎に差し入れていた。しかし親掛かりの書生たちの手元に十分な金があるわけはない。度々用立てていた桂小五郎も手許不如意となり高杉たちは困り果てた。

それを見かねた白井小助は差料を売り払った。それは出府の折に父親が工面して買い求めてくれた備前長船定光で、町の道具屋で七両ばかりの値がついた。

その金子を黙って高杉晋作に渡した。又者(陪臣)に過ぎない白井小助にとって出過ぎたまねだったかも知れなかった。しかし吉田寅次郎は白井小助にとっても気になる男だった。洋式兵学者佐久間象山の教えによれば既に刀で戦う時代は終わっている。これからは洋式銃の性能が戦を制するという。白井小助も教えられてそう思った。だから差料を売り払い竹光を腰に差すのに抵抗はなかった。ただそれにより松陰の弟子たちと生涯を通して変わらない厚誼を結べたのも事実だった。

安政六年の夏が終わるとともに、松陰の弟子たちに一人また一人と萩城下へ帰国命令が出された。同じように白井小助にも帰国命令が出されたが、彼の行く先は萩ではなかった。初秋の東海道を浦家の領地、周防国柳井郊外の伊保庄阿月へと旅立った。十五年に及ぶ長い江戸の暮らしに別れを告げるのは辛かったが、浦家家臣として浦家の私塾「克己堂」の教授に就くのは江戸遊学への出立時より定められたことだった。

秋も深まった頃、郷土に帰っていた白井小助は吉田寅次郎が江戸伝馬町獄刑場で首切り役人山田浅右衛門によって首を刎ねられたとの便りを耳にした。同時に「身はたとえ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」という辞世の句も伝えられた。指を折れば吉田寅次郎は享年二十九歳だったことになる。生きて阿月で教鞭を執っている白井小助は三十五歳になっていた。

当時、松下村塾生は最年長の桂小五郎ですら二十六歳に過ぎなかった。高杉晋作は二十歳になったばかりだし、一つ年下の久坂玄随は十九歳だ。更にまた一つ年下の伊藤俊輔は十八になったばかりだ。若い松陰の弟子たちは師を失った悲しみに沈んでいるだろうに、と伊保庄の地で萩城下を思い浮かべて天を仰いだ。

安政の大獄の嵐が吹き荒れる二年余りを、白井小助は平穏な日々を克己堂教授として過ごした。克己堂とは浦家領主屋敷の敷地内の私塾で、柳井から瀬戸内海に突き出た半島の真中を貫く背骨のような山地の東側斜面に開けた丘に建っていた。三間四方の粗末な寄棟造りの教堂だった。壮大な浦家領主屋敷の壮大さに比して、同じ敷地内の前庭に建つ克己堂は小さくみすぼらしく見えた。

それでも白井小助が教える洋学や洋式教錬は珍しく、白井小助の教えを乞う英才たちが浦家の領地以外からも集まってきた。当時の子弟には大島椋野の世良修蔵や岩国藩柱島の赤根武人などもいた。

伊藤玄白の塾で学んだ洋学や佐久間象山の許で学んだ洋式兵学は既に古色蒼然としたものだったが、それでも個人戦に重きを置いた古来の兵学とは大きく異なるものだった。白井小助は生徒たちを率いて丘を下って黒磯まで行進し、瀬戸内海に面した砂浜で洋式銃陣の教錬を行った。隊列を揃えて行進するのも初めてなら、号令で一列縦隊となって立て膝で木銃を構えるのも初めてだった。その斬新さが克己堂の名物となった。

時折、白井小助は教錬に打ち込む彼らの遥か彼方を、煙突から煙を上げて蒸気船が瀬戸内海を航行するのを目にするようになった。月を経るごとに洋式艦船を見かける機会が増し、時代が激しく動いていると小助に教えていた。ただ、萩城下と違って周防国は長州藩政とは無縁の地で、江戸時代そのままに平穏な時が流れていた。


突然、天啓に打たれた。

夏が過ぎ去ろうとしていたある朝、重苦しい圧迫感に大きく肩で息をして目を見開いた。厭な汗が全身に噴き出ていた。差し掛けの薄暗い空気を切り裂くように、張り詰めた糸のような日差しが板壁の節穴から差し込んでいた。盛夏と比べれば明らかに衰えた日差しだった。

なぜかその光に射竦められたように奮えた。すべてが平穏のうちに死に絶えている。自分も平穏な阿月の丘で無事な毎日を送り朽ち果てるだけなのだろうか。そう思うと居ても立ってもいられなくなり、低い鴨居に頭を打ちつけながら小屋を飛び出た。

その足で領主屋敷へ行き、用人頭の秋良貞温に面会を求めた。

「何を大騒ぎしている。夜が明けたばかりというに、何事か」

と、不機嫌そうに白髪頭を掻きながら、勝手口の土間に立つ白井小助を見下ろした。

「秋良様、白井小助は御暇を頂戴致したく存じます」

 白井小助は腹の底から絞り出すような、低い声で申し出た。

 戦乱の世ならまだしも、太平の御世で自らすすんで浪人するバカな者はいない。気でも狂ったかと、秋良貞温は大きく目を見開いて白井小助を見詰めた。

「なぜ暇乞いをするのじゃ」と、秋良貞温は怖いものでも見るように聞いた。

「理由は別にござりませぬ。ただ国事に奔走致したく」

――そのようなことを吉田寅次郎は言っていたが、と白井小助は腺病質な面立ちに目の吊り上った痘痕面を不意に思い浮かべた。

「ナニ、克己堂教授は私事と申すか」と、秋良貞温は色をなして吼えた。

「いかにも、克己堂は浦家私塾であれば私事でござる」

 平然と静かに応えられると、秋良貞温は毒気を抜かれたように目を丸くした。

「これより兵庫に浦靱負様の許へ赴き、御暇乞いのご挨拶を致すつもりにて」

――だから通行手形を書いてもらえないか、とお願いするつもりだったがやめた。

狼狽しきった秋良貞温を見れば白井小助が辞した後の、克己堂教授の穴埋めをどうするかで頭が混乱しているのは歴然としていた。秋良貞温の考えはもっともだ。なぜ畑を耕すでもなく、田の草取りをするでもなく、一日中小僧たちを相手に遊んで暮らせる結構な境涯を捨て去るというのだろうか、とでも言いたそうだった。

「勝手なことは許さぬ、秋には殿も帰って来られように、それまで克己堂教授として、」

 と言い終わらないうちに、白井小助はさっさと踵を返した。 

「まだ話は終わっておらぬ、待てというに、」と、秋良貞温はがなりたてた。

しかし白井小助は足を止めなかった。理解しようとしない者に時を費やして理を語っても無駄というものだ。

 克己堂に行くと、掃除をしていた教授補の世良修蔵に声をかけた。

「俺は浪人することにした。後は頼んだぞ」

 そう言うと差し掛けのような小屋に引き返し、竹光の差料を拾い上げて腰に落とした。


 帆柱の林立する柳井川河口の柳井湊まで行くと出船入船は幾らでもある。船頭の溜まりの旅籠の土間に顔を出すと、顔見知りの船頭がさっそく声をかけて来た。

「白井先生じゃありませんか」

荷積みを沖仲仕に指図していた手を休めて、声をかけた船頭は柳井の者だった。

 白井小助の名は克己堂教授として洋式兵学を教える高名な兵学者として柳井近郷では知れ渡っている。事情を話して兵庫の湊へ立ち寄る船便はないかと頼み込んだ。

「克己堂教授を辞められるとは、勿体ないと思いますがのう」

「いやいや、合わなくなった着物を脱いで、体に合う着物を求めに行くだけだ」

 と、事もなくそう言うと、船頭は怪訝な顔をして白井小助を覗き込んだ。

 この時代、主家を離れることは身分を失うことだ。何を好き好んで苦難の道へ進むのかと誰しも危ぶんだ。しかし樽廻船の船頭は快く白井小助を乗船させてくれた。

 船は陸路を歩くより楽で速い。だが瀬戸内海は沖乗りではなく、陸地や島などの目印を目視して進むため昼間だけの航行だ。しかも帆走船は風待ちや潮待ちがあるため、何日も無駄に過ごすことがある。秋風を得ても兵庫に着くのに三日と二晩を費やした。

昼下がりに兵庫の大輪田泊で下船すると、白井小助は海岸の松原沿いに長州藩が本陣を置いている古刹へと向かった。暇乞いをするからには用人に知らせて済むものではなく、筋目を通して当主に面会して申し出るべきだと心得ていた。

大伽藍の本堂が松林の上に見える古刹の門前に到ると歩哨に「浦家家臣白井小助、殿に御面会の由あって参った」と告げた。

右手の若い歩哨は山門へ小走りに駆け込み、年嵩の歩哨は胡散臭そうに白井小助をじろじろと無遠慮に見ていた。

 待つほどもなく歩哨を追い抜く勢いで、顔見知りの浦家祐筆が駆け寄って来た。

「小助、国許で何かあったか」と、咳き込みながら聞いた。

「いえ、殿に御暇乞いに参りました」と、白井小助は腰を折って丁寧にこたえた。

 すると、年老いた祐筆はいかにも見下すように表情を歪めて、

「何たること、私事でわざわざ兵庫くんだりまでやって来るとは。殿は幕府より長州藩に下命された兵庫警護の任に当たっておられるというに」と、吐き捨てた。

 しかし面会した浦靱負の態度は祐筆とは大きく異なっていた。白井小助が別段これという理由もなく暇を乞いたいと云うと、

「それも良かろう。克己堂で領民の子弟を教えるのが性に合わないというなら、小助の思いのままに生きるも良い。浦家家臣を辞すというのも生き方の一つだ」

「ただこの三月に藩は人材登用令を発した。士雇士列に叙すべき人物がいれば保証書を提出せよとのお達しだ。それに応じて浦家からは小助も他の者と併せて藩に願い出てある。それゆえ年内にも長州藩士に準ずる身分に取り立てられるであろうことを心得ておくように」

 そう言うと、浦靱負は無愛想な顔をしたまま「うむ」と頷いた。そして白井小助に興味を失ったかのように待たしていた小隊長の報告に耳を傾けた。

 退出して良い、という合図だった。白井小助は浦靱負の言葉を反芻する暇もなく、本堂を後にした。

古刹の門を出て白井小助は足を止めた。浦家との絆を断ち切りに兵庫まで来たが、当主はそうした白井小助の思惑なぞ千里眼で見抜いていた。自らの浅慮に赤面した。頭を上げてからこれから何処へ行くべきかと腕組みをして顎を撫でた。既に齢は三十七になっている。世間では一家を養い大人として矍鑠とした人生を歩んでいる年齢だ。しかし白井小助はそうした生き方に背を向けて、放埓の生涯を送ろうとしている。なぜそうしたことになったのか、理由は判然としない。しかし、それが天啓というものなのだろう。

とりあえず大坂へ行って諸国への廻船の便でも確かめようと、海岸伝いの街道を東へ歩いた。途中松林の苫屋に潜り込んで一泊し、翌朝大坂の雑踏を通りぬけて、大坂淀川河口の船着場に到った。

腕組みをして帆柱を林立させている廻船を眺めているうちに思いは定まった。江戸へ行こう。国事に奔走するには江戸へ行くしかない。風の噂では吉田寅次郎の弟子たちも出府していて、政務役周布政之助も手を焼いているという。

吉田寅次郎が首を討たれてから早くも三年たっている。文久二年の夏、白井小助は晴れて浦家家臣の頸木から解き放たれて江戸へ向かった。


「先生、寝ちょるんかいの」と、口々に聞く子供たちの声に目を開けた。

 古希を過ぎてから夢と現との境目が曖昧になっている。自分でも腹立たしい限りだが、齢を重ねるとはこういうことなのかと思わないでもない。

「目を瞑っておっただけじゃ、寝ちゃおらんが」と、顔の皺の一つのようになっている左目を大きく見開いて見せた。

「それじゃ、話を聞かせてくれや。先生は伊藤総理大臣と親しく口を利く間柄じゃと親たちはいうとるけえ、なんか面白い話を聞かせてくれんかいのう」

 三吉が目を輝かして白井小助の目玉を覗き込んだ。

「うむ」伊藤俊輔か、と白井小助はつい先月のこと、東京で歓待してくれた男の面影を思い浮かべた。

「陸蒸気に乗ったんか、」と、五郎太が急き込んで聞いた。

「ああ、柳井湊から神戸まで廻船に乗せてもらって、神戸から蒸気機関車に乗った。それも白切符で急行に乗って東京へ行った」と、五郎太にこたえた。

「嘘じゃろう、陸蒸気に乗るにゃたんと金がいるんじゃ。先生は貧乏じゃろうに」

 と、理屈っぽくお米が聞いて来た。

 もちろん白井小助に金はない。しかしなんとかなるものだ。

神戸スティションで駅長に面会を求め、伊藤俊輔が運賃を払うから陸蒸気に乗せてくれ、と頼み込んだ。すると駅長は「伊藤俊輔なる人物を知らないし、そういう便宜を取り計らうようになってはいない」と木で鼻を括ったような返答をした。

駅長は嘘をついている。これまでも着払いで何度か東京へ陸蒸気で行ったことがあった。しかし東京で誰が乗車賃を払ってくれるのか、確かめずに乗せるわけにいかないのだろう。乞食然とした老人の申し出を、駅長が憤然と断る事情も解らないではなかった。

「伊藤俊輔が身元引受人で不足じゃったら、それ以上に上等な者いうたら日本にゃ天子様しかおられんがのう。どいつもこいつも明治になって名を変えたけぇ儂は憶え切らんが、今は確か博文とか名乗っちょるはずじゃ。白井小助が神戸スティションで難儀しとるからと、東京に電話してもらえんかいのう」

 白井小助がそう言うと、駅長は驚いて部下に東京電信電話局へ電話させた。

 しかし開通したばかりの電話はなかなか繋がらないし、東京でも伊藤邸の電話口の近くに白井小助を知る者がいないのか話が通じないようだ。

「俊輔がおらんようじゃったら、電話を掛け直してもらえんかいのう。山県小介でも井上聞多でも、誰でもええんじゃがのう」

 と、白井小助が呟いていると、電話を替わった駅長が慌てて電話に出るように促した。

 椅子から立ち上がって駅長から受話器を受け取ると、送話口の前に進んだ。

「白井様ですかいのう」と、押しの強い女の声が聞こえた。

 それは下関で芸妓をしていたお梅の声だった。田中町で小間物屋をしていた伊藤俊輔の家で会ったのが最初で、東京に出るたびに立ち寄っていた。

「はい、白井素行にござる。またまたお邪魔しようかと思いまして」

 と、白井小助は面映ゆさにやや顔を俯けて自らを名乗った。

 素行とは自分が勝手に決めた名だった。号は「飯山」と称したが、いかにも食い意地が張っているようで滅多に使わなかった。ただ素行は自分でも気に入っていた。

高杉晋作は文久二年に藩命により任じられた学習院御用掛(京駐在で掌る朝廷との連絡役)を蹴った際に自らを「東行」と称して頭を丸めてしまった。それは鎌倉武士だった佐藤義清が西行と号して出家したのを皮肉ったと思われるが、白井小助の場合にはいつまでも小僧のような「小助」では恰好がつかないと思い、明治維新以降は自らを「素行」と名乗った。明治になって名を変えたのは白井小助も同じことだった。

「それはそれは、お達者で何よりです。どうぞお気をつけてお越し下さい。主にも伝えておきます。それでは駅長に代わって下さい」

 と、お梅の要領を得た話に、白井小助は安堵して頷いた。

「伊藤閣下の奥方様のお話では書生が東京駅まで迎えに来られて、鉄道料金を支払って下さるそうです。失礼致しました」

 そう説明すると、駅吏に「東京までの上等の切符をお持ちするように」と伝えた。

「上等は下等より、いかほど高いのか」と、堅い木の椅子に戻った白井小助は尋ねた。

「およそ二倍半の値でございます。それが何か」と、駅長が机越しに聞いた。

「いやいや、」と首を横に振って「勿体ないのう」と呟いた。

 もちろん、東京には無心に行った。旧知の者を訪ねて、無心して歩くのが白井小助の晩年の暮らし方だった。

「それで、東京へは何しに行ったんじゃ」と、しつこく子供たちが聞いてきた。

「遊びに行ったまでのことよ」と、白井小助は不機嫌そうに返答した。

 まさか子供たちに「無心」に行ったのだ、とさすがに本当のことは話せなかった。子供たちは羨ましいような眼差しで白井小助を見詰めた。

「伊藤さまは周防の出じゃと聞いちょるが」と、女の子が小さな声で言った。

 伊藤俊輔の評判はこの周辺では飛び抜けて高い。東京で活躍している長州出身の政府高官のほとんどは長門国に偏っている。長州藩は城を山陰の萩に置いていたため、家臣も萩周辺に住んでいた。だから周防国熊毛郡束荷村田尻から出た百姓の倅が初代総理大臣になったのはこの周辺地域に暮らす者にとって無上の誇りだった。

「ああ、田布施の岩城山の向こうの、もう一つ峠を越えた束荷村の出自だ」

「先生も伊藤さまと一緒に戦ったのか」と五郎太が聞いた。

「いいや、元治元年の八月に儂は四ヶ国連合艦隊との戦で右目を吹き飛ばされ、内訌戦(功山寺決起から慶応元年一月末までの藩政主導権争奪の内戦)当時は田布呂木に伏せっとった。ただ総大将だった高杉晋作が伊藤俊輔を手許に置いて後方支援に当らせたため、伊藤俊輔は太田・絵堂の戦場へは出んかったと聞いちょる」

「第二次長幕戦では、儂は第二奇兵隊を率いて大島を占領した幕府軍と戦ったが、伊藤は馬関にいて、小倉口の幕府軍と戦う総大将の高杉晋作を助けて糧秣の確保やら武器弾薬の手配やらに忙しく働いとったと聞いちょる」

「御一新の戦争では儂は奇兵隊参謀として出兵し、鳥羽伏見の戦いで勝利した後、日本海へ回り新潟太夫浜上陸から榎峠、朝日山と長岡藩と激戦を繰り広げたものじゃ。その頃伊藤俊輔は神戸や大坂で英国軍の総督たちと面談して、いかにして維新の戦いに勝利し、しかも夷国の介入を阻止すべきか腐心しとったようじゃ。あいつは英国へ密留学しとったから英語が話せたけぇのう。ただ戦を避けて逃げ回る卑怯者とは違うゾ」

 慶応三年十月、三田尻鞠生松原に奇兵隊をはじめ諸隊が集結し、海路薩摩軍が到着するのを待っていた。討幕軍第一陣として兵庫へ向けて出発する手筈になっていた。

 その三田尻の陣屋に伊藤俊輔が訪ねて来たという。白井小助たちは鞠生の松原で訓練にあたっていて留守にしていた。応接したのは総参謀の林半七だった。

「どうか討幕軍に僕も加えて下さい」と伊藤俊輔は懇願したという。

 伊藤俊輔の手腕は良く分かっている。英国密留学に発つまでは桂小五郎の従者として浪士たちと連絡を取り、大検視役(情報収集役)の桂を助けて良く働いたし、高杉晋作が功山寺に決起した際にも糧秣確保や軍資金の手当てに奔走した。戊辰の戦に同行させればどれほど助かるか、と思わないでもなかった。しかし、林半七は首を横に振った。

「すべての者が兵となって銃を手にしたら、誰が後方支援の折衝に当たるんじゃ。人にはそれぞれ持ち場がある。伊藤君が働くべき場所は戦場ではない」

 そう言って、林半七は伊藤俊輔を追い返した。

 維新後の明治十年に長州閥の大物桂小五郎が病死するまで、明治政府で伊藤俊輔は桂小五郎の従者だとみなされていた。そして伊藤本人も明治十一年に大久保利通が暗殺されるまで政治の一線に立つような真似は決してしなかった。維新間もない明治政府で伊藤俊輔は二流の政治家だと思われていた。しかし二十七歳で明治維新を迎えた伊藤俊輔に焦りはなかった。多くの人々の薫風を受けながら、時代が自分を必要とする日がやって来るのを待っていた。

「なんじゃ、伊藤さまは大将じゃなかったんか」と、五郎太は不満を鳴らした。

「大将といえば山県有朋様がおられるじゃないか」と、三吉が五郎太に声をかけた。

「ふむ、山県小介か」と、白井小助が鼻先で笑った。

 山県有朋とは彼が小介と名乗っていた頃から知っている。天保九年の生まれだから高杉晋作より一つ年上に当たる。しかし橋本橋袂に暮らす足軽の倅だったため、常に高杉晋作の後塵を拝していた。

山県小介の運は奇兵隊とともに開けた。文久二年六月に高杉晋作が馬関で奇兵隊を創設するやたちまち駆け付けて参謀(新兵教育掛)となった。同じく白井小助も奇兵隊創設に参じて高杉晋作から山県と同じく参謀を任された。

 しかし山県小介とは何となく馬が合わなかった。伊藤俊輔が陽気な苦労人なら、山県小介は陰気さを感じさせる苦労人だった。山県小介は松陰門下ということで参謀を任されたが、彼に洋式兵学の素養はなかった。教錬で総指揮を執ったのは白井小助だった。

奇兵隊の初陣は創設後一年にして訪れた。元治元年八月、前々月に蛤御門の変で叩きのめされた長州藩に米・英・蘭・仏の四ヶ国連合艦隊が襲い掛かった。

前年の文久五月、長州藩士三人と共に伊藤俊輔と井上聞多は秘かに英国へ旅立った。密留学を策したのは周布政之助で実施にあたったのは桂小五郎と村田蔵六だった。藩から三年間の留学を正式に認められると、横浜の商社「英一番館」の手引きで密出国した。

しかし年が改まった直後、英国で四ヶ国連合艦隊が馬関戦争の報復として長州攻撃を行うとのロンドン・タイムズの記事に接して、急遽伊藤俊輔と井上聞多は帰国を決意した。藩は攘夷派が大勢を占めているが、実際に西洋文明に触れると攘夷が到底不可能なことは歴然としていた。攘夷に凝り固まっている藩論の転回をすべく、伊藤と井上は留学わずか半年にして英国滞在を打ち切って帰国の途に就いた。

 だが二人が帰国した元治元年五月、長州藩は朝廷の主導権争いに敗れて暴発寸前だった。前年の攘夷派七卿の都落ちや堺御門警護から長州藩の任を解かれるなど、会津と薩摩の謀略に長州藩の者は怒り心頭に達していた。兵を率いて上洛し、攘夷に対する長州藩の赤心を帝に説くべきとの主戦論が藩論を占めていた。

京での暴挙を止めるべく、伊藤俊輔と井上聞多は藩主に面会を求めた。四ヶ国連合艦隊は前年の馬関戦争に対する報復攻撃を行って殲滅し、長州藩に賠償を求めるつもりだと伝えた。かかる藩存亡の危機の折に、朝廷を巡る主導権争いに藩兵を率いて重臣が上洛するとは何事か、と御前で居並ぶ政務役たちを叱り飛ばした。しかし藩論を回転させることはできなかった。この時期、先鋒隊などは既に京へ向けて出立していた。

 それどころか伊藤・井上両名は攘夷派浪士たちから命を狙われ始末だった。

白井小助は馬関海峡の警備に就いていたため、山口に移されていた藩庁の動きは知る由もなかった。ただ、伊藤俊輔と井上聞多が英国から戻ったのではないか、という噂は耳にしていた。馬関海峡沿いに建設された砲台に貼りついている奇兵隊員に動揺が走った。四ヶ国連合艦隊は馬関海峡を目指して上海を出港しているという。

「英国から戻ったとは、異なことを聞くものだ。戻ったということは、それ以前に英国へ行っていたということか」と、奇兵隊士たちはいきり立った。

馬関警護には奇兵隊の他にも諸隊と称する庶民からなる隊士たちが就いている。その連中も攘夷に砲台を枕に西洋艦隊と刺し違える気概に燃えている。

「俺が斬ってやる」と、刺客志願者が次々と現れた。

「バカ野郎どもが、」と白井小助は鬼の形相で睨み回した。

「お前らは孫子の兵法を知らねえのか。敵に勝つにはまず敵を知らなければならねえ。その思いで吉田松陰もペリーの船に乗せてもらって米国へ行こうとしたんだぜ」

 二十歳前後の世間知らずの雑多な寄せ集めの奇兵隊員に向かって、不惑を過ぎた白井小助が怒鳴り散らした。それで隊士の不穏な動きは霧散解消した。

 ただ結果は伊藤と井上の危惧した通りになった。長州藩は六月十九日の蛤御門の変で敗れ、八月には四ヶ国連合艦隊の攻撃により馬関の砲台はことごとく破壊され馬関の町も一部焼き払われた。折悪しく蛤御門の変の直後に幕府も長州征伐に兵を挙げることを決定していた。いよいよ長州藩は存亡の危機に見舞われるのだが、白井小助は四ヶ国連合艦隊の総攻撃を受けた後、陸戦隊が海岸に迫り奇兵隊を指揮して熾烈な銃撃戦を戦っていた折に銃が暴発して右目を吹き飛ばす重傷を負ってしまった。

 後方へ移された後、襤褸雑巾でも縫うように右目の上瞼と下瞼を縫合された。戦は言及するまでもなく完膚無きまでの大敗に終わった。その折に戦利品として奪われた大砲は仏国士官学校の校庭に設置され飾られている。

 四ヶ国健康艦隊との和睦交渉は高杉晋作が当たり、通事には伊藤俊輔が同行したと聞いている。


「先生、先生よう。黙っとるが、寝ちょるンか」と言う子供たちの声に目を見開いた。

「先生は奇兵隊を率いて大島にいた幕府軍を追っ払ったと、聞かされちょるが」

 と、五郎太が聞いた。

「ああ、岩城山に駐屯していた奇兵隊三百を率いて大畠瀬戸を渡海して、大島に上陸していた幕府軍三千を蹴散らしてやったぞ」と、眠気を振り払うように身振りを交えた。

 子供たちは第二次長州戦争大島口の戦のことを聞いている。第一次長州征伐に対しては長州藩は恭順の意を表明し、元治元年十一月十一日蛤御門へ出撃した三家老と四参謀を処刑して首を広島国泰寺に陣を張っていた幕府軍に差し出した。

 蛤御門の変に大敗した長州藩は守旧派(高杉晋作は「俗論派」と呼んだ)が主導権を奪っていた。第一次長州征伐の幕府軍に対して、長州藩は徹底恭順を貫いた。そして和議に漕ぎつけるや、守旧派は藩内の奇兵隊などの勢力一掃に乗り出した。奇兵隊などの諸隊に解散命令を出し、高杉晋作の命すら危なくなった。元治元年十二月十五日、高杉晋作は僅か八十名ばかりの兵を募って藩政奪還のために功山寺で決起した。

当初奇兵隊は様子見に徹していたが「高杉晋作立つ」の報に接するや清水の舞台から飛び降りる決死の覚悟で挙兵に呼応し、馬関にいた諸隊も萩へ進軍を開始した。藩士からなる萩政府軍と戦争をするとは百姓・町人からなる軍にとって無謀以外の何物でもなかった。しかし中国山地の大田、絵堂で萩正規軍と激突するやたちまち勝利し、藩政権を守旧派から奪還した。

 高杉晋作が率いた奇兵隊などの諸隊三百がなぜ萩正規軍三千に勝てたのか、それは装備の差だった。萩正規軍は火縄銃を使っていたが、奇兵隊は逸早く元込め銃を装備していた。火力として元込め銃は火縄銃の十倍に相当した。

新式西洋銃を装備した奇兵隊や諸隊にとって、刀槍と火縄銃で立ち向かって来る萩正規軍は赤子のようなものだった。四ヶ国連合艦隊で戦った奇兵隊はナポレオン戦争の廃棄物同然のゲベール銃を買わされていたが、仏国陸戦隊の新式元込め銃の威力に舌を巻いた。そのため奇兵隊をはじめ諸隊はこの半年の間に新式元込め銃を急遽装備した。

百姓・町人からなる隊士たちに刀槍の腕を期待すべくもない。しかも教えるにしても刀槍は上達するのに日数を要する。しかし銃なら目当を付けて心静かに引鉄を引けば良いだけだ。ものの一月も銃陣を教錬すれば格好がつく。装備こそが戦を制する、と白井小助は洋式兵法の要諦を奇兵隊や諸隊幹部たちに叩き込んでいた。

傷が癒えた白井小助は高杉晋作の檄に呼応して故郷で諸隊の結成に動いた。周防沿岸部の手薄な守りに備えるために、室町時代からの交易港・室積の古刹普賢寺の境内を借りて第二奇兵隊を創設した。すると近隣在郷から入隊者が集まり、阿月から世良修蔵も参加してたちまち百人を超えてしまった。いかにも手狭になったためと、隊士が町の娘と懇ろになっていざこざを起こしてもまずいと移転を思い立った。慶応元年三月三日、守備の要として眺望の開けた岩城山頂へ第二奇兵隊の駐屯地を移した。

さすがに人里離れた山頂のため隊士が集まるのか危惧したが、そこでも入隊志望が引きも切らなかった。山頂に設営した施設は二百人ほどの収容規模しかなかったため、交代制を敷くほどだった。

岩城山で訓練に明け暮れている五月下旬の夕刻に不意に伊藤俊輔が訪れた。

岩国藩へ赴いて芸州口の防備の打ち合わせをした帰りに寄ったということだったが、実は高杉晋作からの言伝があるという。幕府軍を迎え撃つ御前作戦会議で村田蔵六は幕府艦隊が大島に襲来すると予言したようだ。

長州藩は地勢的に山陰の石州口と山陽の芸州口、そして馬関の小倉口で国境を接する。その他に幕府には二千トン級の巨大な戦艦十数隻を擁する海軍がある。その幕府海軍が長州藩に攻撃を仕掛けてくるのが何処なのかが問題になった。源平戦さながらに壇ノ浦を急襲して馬関の町を焼き払うのではないかという意見や、いきなり萩の菊が浜に上陸して留守同然の萩城下を占領されるのではないかと心配する意見なども出た。

議論が煮詰まって末席の村田蔵六に意見を求めると一も二もなく「それは大島口でござろう」とさも退屈そうに無愛想に応えたという。しかしすぐに言葉を継いで「大島は放棄すべし」と進言したという。長州藩に碌な洋式軍艦がないため幕府海軍との海戦は避けるべきだというのだ。村田蔵六に反論する者はなく、たちまち「大島放棄」で作戦会議は終結したという。

それを馬関の高杉晋作に伝えたところ、御前会議でそう決めたとしても大島七万島民を見捨てるわけにはいかぬ。俺が幕府軍艦を蹴散らしてやるから、その後で第二奇兵隊が大島へ秘かに渡り、幕府軍を蹴散らすようにということだった。ただし第二奇兵隊は海岸ではなく島の中央山岳部に陣を敷き、上陸して久賀にいる幕府軍を艦砲の届かない内陸部に引き寄せて撃破するようにとの作戦を言付けた。周防大島は瀬戸内海で淡路島・小豆島に次ぐ三番目に大きな島で、面積は百二十八平方キロもあった。

果たして六月八日夕刻、大島久賀沖に巨大な幕府艦隊が姿を現した。迎え撃つ長州海軍の軍艦が姿を現さないため、幕府艦隊は悠々と航行しながら大島の海岸部に点在する宗光や安下庄などの集落を砲撃して回った。

幕府艦隊が大島沖に現れた日に、かねてからの手筈通り白井小助は第二奇兵隊全員を非常呼集した。そしてその日のうちに兵三百を率いて岩城山を下りて遠崎まで進み、目の前を遊弋する幕府艦隊を物陰に隠れて眺めながら高杉晋作からの連絡を待った。

幕府軍は六月十一日から大島久賀の浜に松山藩を主力とする三千が上陸し、各地で小競り合いがあったもののたちまち全島を制圧した。

高杉晋作は十二日夜にスクリュー推進の小型戦艦「オテントサマ号」(百九十四トン)を馬関から廻航して遠崎に到った。その艦は一月ほど前にグラバーから奪うようにして購入し、長崎から乗って帰ったものだった。

十三日深夜になるのを待って、高杉晋作はたった一艦だけで出撃した。二千トン級の巨艦が停泊している久賀沖にさしかかると小型戦艦の船首と甲板に備えてある三門のアームストロング砲を続けざまに放ちながら、巨艦の間を縫うように走らせた。

幕府艦隊はよほど油断していたのか、どの艦も釜の火を落とし機関は完全停止していた。襲撃を受けて直ちに釜に火を入れても、蒸気圧が上がって機関が稼働するまで一刻はかかる。その間、オテントサマ号は炸裂弾を放ちながら自在に巨艦の間を走り回った。幕府艦隊の砲手たちが艦砲に飛びついて闇雲に弾を放っても味方との同士撃ちを演じるばかりだった。

翌朝、幕府艦隊は停泊していた久賀沖から姿を消した。

オテントサマ号を追って馬関海峡へ仇討ちに出撃するでもなく、ただ破損した船体の修理のために広島宇品湊沖へ移動したというのだ。その限りでは幕府艦隊は巨艦を揃えただけの張り子の寅でしかなかった。

しかし遠崎の白井小助がそのことを知る由もない。藩の意向に背いて大島奪還作戦を行うからには三百名の隊士を渡海させる船を自分たちで揃えるしかない。六月十五日夜、白井小助は渡海作戦を強行した。おびただしい船が狭い大畠瀬戸にひしめき、まるで船橋が架かったようだったと古老たちが伝えている。

「大島の中央に聳える源明山を挟んでやりあったんじゃ。明け方からの土砂降りでのう、幕府軍は火縄銃の火縄が消えて難儀しとった」

 と得意そうに言って、白井小助は子供たちを舐め回した。

 高杉晋作の忠告通り、白井小助は艦砲の射程外で幕府軍三千と対峙した。峰を挟んだ遠くに相手の装備を見て、白井小助は瞬時に勝利を確信した。彼らは戦国絵巻のような鎧兜の甲冑に身を固め、刀や槍を手にしていた。ごく少人数の鉄砲隊も手にしているのは戦国時代から代々受け継いできたと思われる火縄銃だった。一方第二奇兵隊士の服装は筒袖襦袢に菅笠で、装備している銃は最新式の洋式ミネェー元込め銃だ。施条銃の射程は四倍も長く、速射能力は火縄銃の十倍だった。

 幕府軍は一気に源明山から長州軍を安下庄側へ追い落とし、安下庄湾に待ち構える幕府艦隊の艦砲で殲滅しようとする作戦のようだった。しかし林半七を軍監とする長州軍は強く、たちまち幕府軍を久賀へ追い落とした。

 大島口の戦いは第二奇兵隊だけで戦ったのではなかった。もちろん島民たちも崖の上から岩を落としたりして加勢したし、大野隊や上関隊など近隣の若者たちで結成された諸隊が三十人五十人と駆け付けて来た。彼らも新式の元込め銃を装備し、洋式銃陣を習得していた。もちろん高杉晋作は藩内の何処であろうと諸隊結成で請われれば出掛けて指導し、伊藤俊輔が中心となって装備や糧秣の手配をした。そのようにして、長州藩は藩士だけではなく領民あげて幕府軍を迎え撃つ体制を整えていた。

「それで、幕府軍を追い詰めて全滅させたのか」と、三吉が恐る恐る聞いた。

 確かに久賀へ追い詰めた幕府軍と激烈な銃撃戦を展開した。幕府艦隊が砲撃で久賀の街を焼き払っていたため、遮る物もなく顔を見合って撃ちあうような白兵戦を演じた。

「戦は殺し合いじゃが、憎しみ合ってのことじゃない。源明山の戦で勝利して久賀の町へ押し戻したが、幕府軍が乗艦するのを儂たちは銃口を向けたまま見守ったんじゃよ」

 無益な殺生をしてはならないと親から聞かされているはずだ、と白井小助は思った。

 戦争は人を狂わせる。戦場には硝煙と血の臭いが立ち込め、死体が転がっていて異常な高揚状態に陥る。その高揚感が戦場以外の者にも伝播し、国全体が興奮状態に陥る。

三年前に日本は清国と朝鮮半島の主導権を巡って戦い勝利した。それ以降、外交交渉で会談を重ねるよりも軍を差し向ける方が手っ取り早いのではないかという風潮が日本全体に蔓延り、国民が殺伐としてきたように思えてならなかった。

 しかしアジアを蚕食して我がもの顔に振舞う欧米列強に対抗し、日本が誇りある立場を維持するには戦争も已むなしの事態に到るだろう。国を背負って太平洋へ逃げ出すことが出来ない限り、今後とも戦わざるを得ないのかも知れない。

幸いにして明治二十七年に日清戦争を戦って日本は勝利した。その講和条約の話し合いに清国全権李鴻章が訪れ、日本からは伊藤俊輔が交渉に当たった。その折に伊藤俊輔が会談場所に選んだのが馬関の春帆楼だった。

政府のお歴々には「春帆楼とは割烹旅館に過ぎぬ。そこで講和条約の話し合いをするのはいかがなものか」と異を唱える者がいた。しかし伊藤俊輔は意に介さず押し切ったという。白井小助には伊藤俊輔の心根が痛いほど良く分かっていた。

 高杉晋作が創設した奇兵隊の本部を置いていたのは阿弥陀寺で、春帆楼はその跡地に建っている。伊藤俊輔は高杉晋作を支えて藩論転回から第二次長州征伐を戦った奇兵隊ゆかりの地を会談場所に選んだ。日清戦争講和会議の場に選んだ理由を伊藤俊輔は誰にも語っていないだろう。伊藤俊輔とはそういう男だった。

没後三十年にして、世間の人々から高杉晋作は忘れられている。ここにやって来る子供達は白井小助が語って聞かせるから知っているが、世間では高杉の名を口にする者は絶えて久しい。去る者日々に疎としとはこのことだ、と白井小助は寂寥に包まれた。

 講和条約締結後の宴で、馬関の芸者が何気なく都々逸を口ずさんだという。二階の窓から春宵の関門海峡が臨まれ、伊藤俊輔は回顧するように眺めていた。

「三千世界の烏を殺し主と朝寝がしてみたい」と唄い終わると、伊藤俊輔はもう一度聞かせてくれと身を乗り出し、それを三度繰り返して、はらはらと落涙したという。

「誰がお作りになったのか知りませんが、こうした粋な都々逸が馬関には幾つか唄い継がれています」と、二十歳前の若い芸者は怪訝そうに伊藤俊輔を覗き込んだ。

 二十七歳でこの世を去った高杉晋作は道中三味線を爪弾いて即興の都々逸を呟くように唄っていた。


「先生、幕府軍と戦ったんじゃろう、北陸から奥州へと」

 五郎太は目を輝かさせて話をせがむ。

 しかし白井小助にとって戦の話は辛いことばかりだ。確かに慶応四年七月二十五日に決行した新潟太夫浜上陸では大島口の大畠瀬戸渡海と同様に無数の小舟を準備して、一気に夜明け前の暗がりをついて敵前上陸を敢行した。参謀として自ら誇れる戦術で、長い間語り継がれている。しかしそれ以外は戦争は所詮戦争でしかない。血みどろの殺し合いだ。

 越後口の戦いが最も熾烈を極めた。河合継之助の長岡軍は教練の行き届いた頑健な抵抗を続けた。朝日山の総攻撃では奇兵隊を三隊に分けて、三方から囲むように頂上目指して夜明け前の「七つ」に突撃と決めた。

慶応四年五月十三日未明、決行時に満を持していた時山直八隊が突撃し、白井小助の指揮する隊も突撃を開始したが、時を合わせていたはずの山県狂介隊が遅れたため、突出した時山直八隊が集中砲火を浴びて隊長をはじめ多くの戦死者を出した。

戊辰戦争で最も死傷率の高かったのは諸隊の中でも奇兵隊だ。それだけ勇猛果敢に先陣切って攻めたからに他ならない。

「山県、われぁ臆したか」と白井小助は山県狂介に掴みかかった。

「済まん、七時と勘違いしとった」と山県狂介は後退りしながら弁解した。

 その場は他の幹部たちもいて事なきを得たが、終生白井小助は山県有朋を許さなかった。戦の常道からして、突撃は夜明け前に行うものだと決まっている。

「山県有朋は卑怯者じゃ」と、白井小助は口癖のように言っていた。

――この世は生きている者がつくる。死んでしまった者には手出しが出来ない。

 山県有朋は陸軍大将になって全国津々浦々にその名は知れ渡っているが、戊辰の役で戦死した時山直八の名を郷里の萩ですら知る者は少ない。おそらく山県小介の意識に時山直八が蘇えることはないだろうが、伊藤俊輔は清国との講和会議の場に高杉晋作とゆかりの深い春帆楼を使った。人格において山県小介と伊藤俊輔の差は大きい。

戊辰戦争で忘れられないのは世良修蔵だ。克己堂で白井小助が教えた愛弟子に当たる。才智にたけた世良修蔵は将来を嘱望され、長州藩から奥州鎮撫総督府に参謀として出府していた。順調に出世していくものと信じて疑わなかったが、突如として悲惨な最期を遂げてしまった。仙台藩士たちに捕縛され阿武隈河原で斬首されたのだ。

 世良修蔵は奥羽鎮撫総督府から下参謀として会津・庄内の赦免嘆願を願う奥羽列藩同盟へ意見聴取役として遣わされた。元々は西郷吉之助の親戚に当たる大山格之助が聴取役として赴くはずだった。が、なぜか出発直前に世良修蔵と入れ替わった。そこにいかなる経緯があったのか何も知らない。ただ福島に赴いた世良修蔵の所業は白井小助とって不可解な思いも寄らないものだった。

世良修蔵は総督府下参謀として赴いた地で奥州列藩同盟の幹部たちに横柄な態度を取り、夜の会席では酌をする女たちに乱暴を働いたという。しかも「奥州同盟に朝廷に敵する動きあり」と密書に認めて総督府宛てに密使を遣わしたという。白井小助の後任として克己堂教授になり、近郷の子弟から慕われていた世良修蔵とはまるで別人だ。

堪りかねた奥州列藩同盟の幹部たちは投宿していた福島の旅館金沢屋に寝込みを襲い、捕えて阿武隈川の河原に引き立て斬首に処した。急襲された際に世良修蔵が持っていたピストルは不発で、刀を抜く暇さえなかったと聞かされた。

世良修蔵非業の死を長岡で聞かされ、白井小助は狐に騙されているのではないかと思った。なぜ世良修蔵ほど折り目正しい人物が奥州人の反発を買うような横柄な態度を取り、枕元に置いていたピストルの具合さえも確認していなかったのか。しかも敵陣地の中から密使を遣わすなどという初歩的な失態を犯したのだろうか。兵学を教えた随一の弟子が籐四郎のように抜かったのはなぜだろうか。それは大きな謎として維新後も白井小助の心の中にわだかまっていた。

しかし明治六年にその謎が解けた。謎を解く鍵は征韓論を唱える西郷吉之助が発した作戦にあった。明治六年六月の閣議で、板垣参議が派兵するように征韓論を主張したのに対して、西郷吉之助はいきなりの派兵に反対した。「それでは道理が通らない」として、まずは自分が朝鮮半島に赴いて非礼を働き朝鮮人に殺されるから、それを口実に朝鮮半島へ派兵せよ、との暴論を吐いたと聞かされた。

戊辰の役で西郷吉之助は強硬に主戦論を唱えていた。この機会に朝敵を殲滅しておかなければ明治維新政府に必ずや禍根を残す。いずれ新政府に仇なす旧幕勢力は息の根の止めを刺しておくべきだ、というのが西郷吉之助の主張だった。その目的を貫徹するために世良修蔵の命が必要だったのだ。

 世良修蔵は殺されに行ったのだ。もちろん会津は長州藩にとっても是が非でも討ち果たさなければならない仇敵だ。蛤御門の変でいかに多くの仲間が非業の死を遂げたか。その仇を討つためには戦を仕掛けるしかない。その考えは朝敵を殲滅すべきという西郷吉之助の考えと同じだった。世良修蔵は自らの命を投げ出すことによって会津・庄内のみならず奥羽州列藩同盟までも朝敵に仕立て上げたのだ。白井小助の長年の疑問が氷解した。そして激しく西郷吉之助を憎悪した。

 しかしその西郷吉之助も明治十年の西南の役で、自らの命を投げ出すことによって武士の時代に千秋楽の緞帳を下ろした。千両役者の西郷吉之助は決して明治政府の元勲の地位に恋々としていなかったし、潮時と見ればさっさとこの世の舞台からも身を退いた。


「先生よお、寝ちょるんか」と、痺れたように五郎太が甲高く叫んだ。

「寝ちゃあおらん。ちょっと考え事をしとっただけじゃ」

 と、白井小助は子供たちに言い訳をした。

 実のところ何処までがうつつで、何処からが夢か、判然としない。

「柳井田関の戦にも先生は出陣したんか」

 と、三吉が聞いた。

――柳井田関の戦いか、あれは仲間同士の辛い相撃ちだった。

 戊辰の役が終息すると、陸続と軍兵が山口に帰還してきた。しかし郷里に凱旋した兵士たちを山口藩政府は持て余した。中央の明治新政府が抱えられる軍隊の数は知れているが、隊士たちは自分たちこそが明治維新を成し遂げた英雄だという自負心の塊に凝り固まっている。しかし新政府兵部大輔に就いた大村益次郎(村田蔵六)は新兵制改革を断行し、薩長土肥の藩兵にも等しく武装解除と解散令を発した。

 長州藩では藩兵のみならず奇兵隊を主力とする諸隊が数千もの大軍になっていた。凱旋して来たまま山口郊外の寺などを占拠して我がもの顔に振舞った。これだけの数の隊士が暴発すれば大変なことになる。白井小助は奇兵隊の始末をつけるべく奔走した。

 明治二年十月、山口藩知事の毛利元徳は藩兵二千人を東京へ差し出し、十一月には諸隊を四個大隊に編成して兵員を整理した。数万に膨れ上がっていたすべての隊士を雇うことは出来ず、凱旋した隊士たちの不満は日を追って膨れ上がった。

 その年の暮れにかけて諸隊から脱走する者が日毎に増え、三千人近くの勢力に膨れ上がり山口藩庁に待遇を求めて押し掛けるようになった。

 その首謀者たちは白井小助たちと共に東北を転戦した顔見知りばかりだった。奇兵隊原小太郎や整武隊秋月光太郎や遊撃隊石井貢など不平隊士に担がれたとはいえ、諸隊を統率して各地を転戦した仲間たちで藩庁を取り囲むとは思いもよらなかっただろう。

 不穏な空気のまま年が明けると脱隊兵たちは小郡や小鯖や徳地など、山口を縁取りするかのように陣地を築き始めた。ついに二月三日に藩知事元徳は「諸隊解隊令」を発し、それに従わない者は「謀反人」とみなすとした。

 急を聞いて帰郷していた木戸孝允(桂小五郎)や井上馨(井上聞多)らは山口藩兵を率いて徳山、岩国藩兵とともに脱隊兵の本拠地小郡の宮市へ迫った。ついに二月八日未明に小郡郊外の柳井田関で両軍は戦火を交え、昼過ぎには装備の勝る藩正規軍が脱隊軍を蹴散らし、日没前には銃声が疎らになった。それ以降も各地に逃走した脱隊兵たちが夜盗となって散発的な事件を起こしたが、脱隊反乱軍に対し山口藩の厳罰を以て臨む姿勢に鎮静化していった。

「儂は脱隊軍ではなく山口藩兵を率いて鎮圧した方じゃ。仲間を撃ち殺すのは忍びなかったが、それも時代の流れじゃ。うまく政府に取り入った者は大将になったりしとるが、儂は仲間の菩提を弔うために新政府への誘いを断って帰って来た」

と白井小助は寂しそうに言って瞑目した。


「先生、また寝るんかいの」と、五郎太が笑った。

「バカを言うな、儂は起きちょるど」と、大きく目を開いて子供たちを見回した。

「なあ先生、先生が一番感心しちょる人は誰かいのう」

 三吉が訊ねたが、子供たちの話は目まぐるしい。

ただ、しじっくりと話を聞く忍耐力はない。白井小助も子供相手に疲れを覚えていたが、それでも話しておかなければならないと意を決した。

「儂が「偉い人じゃのう」と心底から思ったお方は毛利敬親公じゃ」

 白井小助は神妙な面持ちで語りはじめた。 

 藩主に就任すると毛利敬親は直ちにその村田清風を江戸から国許へ呼び戻した。借財は銀八万貫に達し、藩歳入額に換算すると実に二十二年分に相当した。一刻の猶予もならない状態だった。

藩の重役たちは元明倫館の教授だった下級藩士が政務役となって藩政改革を断行する様に驚きと根深い反発を感じた。村田清風は城の大広間に御用商人を集めると藩債務の一律三十七年間の棚上げを申し渡した。同時に質素倹約令を発し、藩主毛利敬親にさえも絹物を禁じて綿服の着用を求めた。毛利敬親は村田清風の進言を聞き入れ、明治四年に死去するまで綿服以外は着用しなかったという。

 村田清風の藩政改革は緊縮財政と綱紀粛正だけではなかった。彼の真骨頂は殖産興業と物産品交易の藩独占にあった。奨励した物産品は米と塩と紙と蠟で、それらがすべて白かったことから「四白政策」と呼ばれている。交易港として三関と呼ばれる港を指定し、東から上関、中ノ関、下関としてそれぞれに藩の会所を置いた。

 毛利敬親が断行した藩政改革は思わぬ効果をもたらした。藩全域で熱病に憑かれたかのように学問熱が高まった。山間僻地を問わず学塾が興され身分にかかわりなく子弟は競って勉学に励んだ。家格わずか二十五石の下級藩士が才智により政務役に登用された。その事実は絶大な効果をもたらした。

戦をするには装備を近代化し、糧秣を確保し補給しなければならない。そのためには膨大な資金が必要となる。まず村田清風は資金面から倒幕を可能にした。そして藩士のみならず領民すべてが長州藩のために命を投げ出した。そのような領民の育成は天保年間から湧きあがった学問熱に拠るところが大きかった。一人一人が勝手に殺し合う戦国時代の戦術ではなく、隊による銃陣隊形を取って攻撃するのが新しい戦法だ。洋式教錬を新兵に行っても、彼らはたちまち要領を呑み込んだ。それもおそらくは領民が幼いころから学問を積んで、新しい知識にも柔軟に対応できる素地があったからだろう。

藩に蔓延した勉学熱という流行病により白井小助も江戸へ遊学に出され、浦家私塾克己堂で近在の子弟に蘭学の手解きから洋式銃陣の真似事まで教えることになった。

「毛利敬親公は若者に大人の態度で臨まれた」と、白井小助は改まった物言いをした。

 普段はぞんざいな口の利き方しかしない白井小助だが、話が毛利敬親に及ぶと口吻が改まるのに子供たちも背筋の伸びる思いがした。

「お前たちには思いもよらないだろうが、明治以前は勝手に藩外へ旅することは出来なかった。また藩の許しを得ないで勝手に藩外へ行けば「脱藩」として刺客を差し向けられたし、たとえ藩に帰国しても死を賜ったものだ」

「しかし長州藩は違っていた。吉田寅次郎は儂が知っているだけでも二度ばかり脱藩している。高杉晋作に到っては四度も五度も脱藩騒ぎを起こしている。彼らは野山獄に繋がれるなどのお仕置きは受けたが、腹を切ることも首を刎ねられることもなかった」

「来原良蔵は吉田寅次郎の脱藩騒動を庇って奥祐筆から更迭されたが、洋式銃直伝習の任を与えられて長崎へ行っている。その際来原良蔵は中間として伊藤俊輔を同行させ、蘭学を学ばせている。それは伊藤俊輔の素質を見抜いていた来原良蔵が偉かったということでもあるが」

 そう言い終えると、白井小助は津波のように押し寄せてくる疲労感に目を閉じた。

 いつまでも若くはない。既に齢は七十四を数えている。天下を住処と心得て奔走して来たが、ついに周防の柳井の町外れの田布呂木の陋屋で朽ち果てようとしている。

 しかし面白い人生だったわい総理大臣や陸軍大将たちが儂に銭を恵んでくれるお陰で毎日酒が呑める。何も不足はない。不足をいえば罰が当たる。

それにしても若くして逝った人たちの面影はいつまで経っても若いままだ。高杉晋作は二十七歳のままだし、時山直八は三十のままの顔で儂の目の前に現れる。長岡攻めの新潟上陸作戦で共に働いた山田市之允(顕助)はつい先年四十九歳で亡くなったが、目の前に現れる姿は長岡攻めで新潟上陸作戦を完了して、無邪気に太夫浜で手を取り合って喜んだ二十歳過ぎの少年の面影を宿したままだ。


「先生、白井先生、畳の上でうたた寝をしちゃいけんが」

 と、おさんどんをお願いしている麓の農家の女房の声がしたようだ。

 塾の子供たちはいつの間にか帰ったのか、すでに窓から差し込む日差しは茜色に染まっている。

「いい気なもんだね。御一新当初は平生村の酒屋で用心棒をやっとったと聞いちょるが、今じゃ吞んだくれの死に損ないだ。なんでも伊藤様が東京のエライさんたちに奉加帳を回して、この呑んだくれの暮らしのついえを集めて、村の世話役様へ為替にして送って下さっているというが。昔々この爺は偉いお方じゃったんじゃろうかのう」

 そう呟きながら、四十過ぎの小太りの女は床を延べた。

「先生、ええ加減にゃ風呂に入りに麓へおいでませえ、酒やら垢やら臭いよるで」

 女房は日焼けした太い腕で白井小助を床へ転がした。

 諸隊を脱退して破落戸同然に豪商や豪農に押し入っていた連中を一睨みで震え上がらせていた威厳は既にない。古希を過ぎ人生の黄昏時をあの世へ向かって、老い衰えた体に鞭打って息をしているようなものだ。

「何十年も前に、先生は山県大将から陸軍に入るように誘われたと聞いちょるが、」

 と、女房は目を閉じたままの白井小助に呟きかけた。

「それを一も二もなくお断りになったとか、」

と言葉を継いだが、白井小助は寝入ったままだ。

「それじゃ、わしは帰るゾ。腹が減ったら飯とおかずはネズミ入らずに入れてあるから、食べるんじゃゾ。このまま死なれちゃ、わしがおさんどんの手抜きをしたように世話役様に思われるけえのう」

 と、捨て台詞のように言って帰って行った。

 人の気配が遠のくと、白井小助は片目をあけた。残照の薄明かりに、色彩を失って薄墨色に沈む天井を眺めた。

「酒さえありゃ何もいらん。飯は七十余年も食うて来て、もう食い厭きたわい」

「やれやれ、山県小介が陸軍に入らんかと誘いにきやがったが、儂を陸軍大佐にしてやるとほざきよった。あの卑怯者が大将で、なんで儂が大佐でなけりゃならん。馬鹿馬鹿しいにもほどがある」

 そう呟いてフーッと息を吐いた。


 白井小助は田布呂木の庵で明治三十三年に七十七歳の喜寿を一期として生涯を閉じた。その終焉の地に残る「素行顕彰碑」は山県有朋の手によるものだ。

                                     終

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

素行始末記 沖田 秀仁 @okihide

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る