敵は‘下種脳’ 








  フォーシスターズや三百人委員会や影の世界政府という言葉を知っているだろうか?

 世界を影で操る大財閥や巨大な富を持つ裏の権力者の利益調整組織そして非合法な権力維持のみを目的とする先進国の現行権力に網を張る秘密組織。


 陰謀論と呼ばれる歴史観から導き出された‘下種脳’の集団。

 やつら自身が自らを呼ぶときにそういう名を使うわけではないし、明確な組織の形をとっているわけでもないが、“ 社交界という名の利害調整の為の連絡網 ”は存在し、その活動だけは行われているという厄介なやつらだ。


 やつらが敵とみなす存在が二つある。

 ‘ワールデェア’と‘人類統一戦線’だ。


 自らの利権にのみ拘泥する連中にとっては、世界が一つに纏まることは自分達の権力や金儲けのタネが減ることで、けして喜ばしいことではなかったし、そもそも自分達を社会の寄生虫として公私を含めた権力の場から追放しようという‘ワールデェア’とは相容れない。


 しかし、一つの勢力に敵とみなされるからといって、その二つは決して同じものではない。

 その二つには明確な目的の違いがあった。


 やつら‘下種脳’が自分達の家畜を増やすためにばら撒く、‘下種脳’の価値観。

 

 欲望を満たす事が幸福で、欲望を叶えることが夢を叶えることで、多くの欲望を満たせないことは不幸で、欲望に従わない人間は愚かで、多くの欲望を持たない人間に価値はなく、欲望を満たす為には力が必要で、欲望を叶える為には力を行使せねばならず、多くの欲望を満たせない人間は力によって潰されるのが当然で、多くの欲望を持たない人間は無力だという、腐り果てた、やつら‘下種脳’の価値観。


 それを破壊することで、社会組織を‘動物的本能の奴隷’という立場から脱却させることを目的として、その為の第一歩として人類の統一と民族の宥和を推進する‘ワールデェア’。


 そして、‘下種脳’の価値観を否定せず力による人類の統一を目的とした‘人類統一戦線’。

 少数の例外はいるが、現在の権力による蛮行を憎むあまりに‘下種脳’の価値観を否定できなくなった‘愚種脳’や、その理念をただ利用して自らの力とすることを目的とした‘下種脳’たちだ。

 

 力を求めないことを信条とする故に、組織として存在しない‘ワールデェア’と違い、‘人類統一戦線’は無数の‘実行力を伴う組織’として存在した。

 一つの頭脳のもとに一つの理念に従って動く組織ではなく、人類統一という理念を持つ数百に及ぶ組織の総称が‘人類統一戦線’と呼ばれているのだ。


 その中にはテロリストとして指定されるような組織もあれば、政治団体や財団法人、宗教組織から報道組織に消費者団体まで存在する。


 ‘ワールデェア’の活動を受けて世界政府設立を初めて謳った政治団体が今日より‘人類統一戦線’としての活動を開始するとの声明を発表したことが、その名の由来となっているが、明確な組織として存在する彼らは次第に権力の奪取を目的とするようになってしまう。


 組織の中の‘ワールデェア’の賛同者が組織の‘下種脳’化を食い止めた組織もあれば、‘下種脳’化した組織も、そして‘下種脳’の非合法活動に対して力で対抗することで‘愚種脳’化した組織もあった。

 

 しかし、手段を目的としてしまった彼ら全体の有様はいつのまにか、三百人委員会や影の世界政府の名で呼ばれる連中と似かよっていく。


 ‘ワールデェア’がその活動を行うにあたって繰り返し警告し続けている“ 手段の目的化による本末転倒 ”をした彼らから、‘ワールデェア’の賛同組織は身を引き、‘人類統一戦線’は徐々に‘ワールデェア’とは別物になっていった。


 どう違うかが理解しにくいなら考えて欲しい。

 時には殺し合いで縄張りを広げようとする暴力団がいくつも相争うなか、手を組んだいくつかの勢力が、他の組織を全て統合して縄張りを治めようというのと、組織を抜けて堅気になった人間が、組織の人間に組織などもうなくてもいいものだと、全員で堅気になろうというのが、同じだろうか?


 もちろん違う。

 この場合、‘人類統一戦線’とは所詮、前者に過ぎず、手段を目的として‘ワールデェア’のふりをしながら、己の利のみを求める‘下種脳’と‘愚種脳’の集まりにすぎない。


 その、‘人類統一戦線’の中でも過激なテロを行うことで知られた‘愚種脳’組織が、富裕層をターゲットにした会員制ASVRテーマパークをサイバーテロの対象としているという情報が入ったのは、表の顔での仕事であるリアルティメィトオンラインのASVR化に伴うクラッキング対策として、全システムと保安プログラムを掌握し改変し終えた頃だった。


「まあ、親の金で遊びまわってるボンボン達だな。入会金幾らだと思う? 私の給料半年分だぞ。スネかじりどもの分際で。 それで一丁前に公僕なら僕達に奉仕するのが当然でしょうときやがる。 警察はおめえらの小間使いじゃねってんだ」


 その情報をオレにもたらした女は、腹に据えかねたのか、さっきから聞き込みをしたASVRパークの会員達への不満をぶちまけている。


「それでもテロで廃人になっちまったんじゃ可哀想だから説得を続けたんだが言うことを聞きゃしねぇ。 上は上で確証もないのにシステム止めさせて数億円の損失を請求されちゃ敵わんってんでおよび腰だしよ。 やつら忘れてやがる。何ものにもとらわれず何ものをも恐れず何ものをも憎まず良心のみに従い警察職務の遂行にあたる。 私達ゃそう誓って察官に──」


「準備ができたぞ。国府巡査長」

 オレは、とうとう上司の愚痴を言い始めた不良警官に、ASVRテーマパークへのハックが完了した事を告げた。


 確証もないあやふやな情報にしたがって行動するのはオレの流儀ではないが、この女にはそれなりの借りがある。

 それに、かなり独自の解釈だが今どき警察学校時での宣誓なんてものを、まともに受け止めて行動するような人間はイリオモテヤマネコ並に貴重だ。

 希少動物は保護してやるのが人としてのやさしさというものだろう。


「了解……なんか失礼なことを考えてないか? 電脳屋」

 無線越しだというのに信じられない勘の良さで国府はオレに聞いてくる。


 この勘の良さがこいつにつきあってこんなことをしているもう一つの理由だ。

 こいつが危いといった事件は本当に洒落にならない事件になる。


「何の話だ? 全エリアのセキュリティは乗っ取ってオレの構築したセキュリティに書き換えた。 お前のIDをVIP用フリーパスにしておいたから調べほうだいだぞ」


 オレはとぼけて、そう返した。 下手に認めるとつけこんでくるからだ。


「そうか? まあいい。相変わらずの腕だな。 自称‘名無しのネームレスウイザード’の弟子だけのことはある。」

 何を思ったか国府は珍しくオレの裏の名前を出してを褒めてくる。


「お前がオレを褒めるなんて珍しいな。 何か企んでないか?」

 オレは苦笑してみせながら、いつも通りにきり返した。


 自分の弟子などという触れ込みをわざわざ使っているのは、わざと手口を変えてはいるが万が一にもハッキングの手法から自分が‘名無しのネームレスウイザード’と呼ばれる賞金首だと知られないためだ。


 幸いオレの弟子を名乗るクラッカーやハッカーは多い。

 ‘下種脳’どもの犯罪の証拠であるハッキングデータの公開時に、オレの手口の一部を信憑性を持たせるために一緒に公開するからだ。


 なぜそんなことをするかといえば、幾等そのデータがどのコンピューターによって何時書き込まれたかという記録が残るようになった時代とはいえ、データをどうやって入手したかが判らなければ、‘下種脳’の立場によっては、糾弾から逃れることもできるからだ。


 そのおかげか、オレの真似をしてクラックを仕掛けるやつもでたが、防衛側には逸早くその手口を漏らしてあるので、まったく同じ手口を使うやつはクラック時にハネられるか捕まるのがオチだった。


 今、オレの弟子と名乗るやつらはオレの手口をもとにハッキングの手法を研究して自らの手法を磨き上げた連中だ。

 それが増えに増え、いまではオレの隠れ蓑になるのだから世の中、何が幸いするか判らない。


「ちっ、たまに褒めてやりゃこれだ」

 国府は苦々しげに言うとダイブベッドあるいはコフィンの名で知られるASVRシステムの接続装置へと横たわる。


 メインシステムやセキュリティに異常がないのなら残されたテロの方法は、正規アクセスによりアクセスした人間がハッキングツールでVR内のデータに干渉するという方法しかない。

 ふざけたことに、このテーマパークにはVIP会員と呼ばれる連中に対する監視システムが存在しない。


 また、通常のASVRではできないような‘下種脳’どもが考えそうな非人道的なサービスの為にあるとしか考えられない話だが、やつらが遊ぶVRエリアでは、苦痛や快楽に対するリミッターも存在しない。

 そして、やつらにはゲストIDを月に10回発行できるような権限が与えられている。


 ここまでくれば、多少勘の悪いやつでもぴんとくるだろう。

 やつらは、ゲストをASVRに誘い込めば好き勝手に扱えるのだ。

 そして、それはその逆も可能だということを意味する。


 もちろん、通常ならアドバンテージはやつらにある。

 しかしその程度のアドバンテージはちょっとしたハッカーなら覆せるものだ。

 オレに言わせればそれは自業自得というものだが、国府にとっては見逃せないことなのだろう。


 警視庁特命係と呼ばれる彼女の所属する部署ではその創設時から続く伝統らしく、彼女も組織としての警察を全面的に信頼せず、独自に捜査を行っている。

 警察官ではないが、彼女の相棒役を務めている以上は、オレもそれを手伝うだけだ。


「準備できた。今からダイブする」 

 オレの渡したデータ改造ツールを装着し終えた国府はそう言うとASVRのアクセススイッチをONにした。









「ここが仮想空間だって?」

 思わずそうつぶやきながら国府は辺りを見回した。

 

 そこは、VR空間にならどこにでもありそうな様々な店舗の並ぶ商店街だった。

 現実の雑多なデザインが並ぶ町並みとは違い統一されたデザイン都市。


 ただ一般的なVRの無味乾燥とした街とは違い、曲線や緩みといったフラクタクルな造りといい、聞こえてくる音や肌を撫ぜる風の感覚といい全てが限りなくリアルだった。


「こりゃ高い金、取るはずだ」

 苦笑いしながら軽く首を振ると、国府は装備を確認し始めた。

 

 ここに来るときに着ていた見た目はスーツ風の防弾防刃ジャケットに同素材の薄い白手袋。

 内懐には愛用の79式自動拳銃とスタンロッド、それになぜか持っているはずのない銃が一丁。


 米軍の最新兵器として知られるARSP87ブラックハウンドだ。

 装弾数32発。口径3ミリながら指向性炸薬弾頭は極めて殺傷率が高い。


 スコープに連動して目標を自動入力、引き金を引けば巡航ミサイルのように敵を追跡して、物陰の敵も撃ち抜くという銃というよりは超小型ミサイル発射装置といった代物だ。


「あいつめ……」

 ブラックハウンドをチェックしていた国府は、それを終えると小さくつぶやきヒップホルスターに戻す。


 苦笑交じりだが嬉しげな笑みが彼女の複雑な胸の内を表していた。

 しかし直ぐにその笑みは硬質な感情を配した無表情の仮面に覆われる。


 かなり遠くだが聞きなれた乾いた破裂音が聞こえたからだ。

 最近は日本でも珍しくなくなった発砲音に、国府は間髪いれず音のした方向へと走り出す。


 ほぼ格子状に配置された道路を音の方へと向かい進むと、少し開けた場所へと辿り着く。

 通りには人通りはなくAIが制御するNPCだけが所々に立っている。


「MAP オープン」

 音声入力で地図を開くと、ここは街の中央部分らしい。


 ドンと今度は破壊音らしきものが北側から聞こえてくる。

 前より距離は近くなっているようだ。


「MAP クローズ」

 サイドホルスターから79式を取り出すと、安全装置を外しまた走り出す。


 5分ほど走るとまた発砲音。 かなり近い。

 国府が立ち止まった瞬間、前方の交差路に人影が転がるように飛び出た。


「待て! 俺が悪かった!なあ、もうやめてくれ!!」

 20代前半ぐらいだろうか、カジュアルなジャケット姿の若い男が、地面に仰向けにへたりこみながら、通路の陰になった方を見て喚く。


 VIP客らしく服装も髪型も金がかかった最近の流行を意識したものだ。

 その表情には、なぜ俺がこんな目にという不満と、理不尽な運命への恐怖が張り付き醜く歪んでいる。


 口では自分が悪かったと言ってはいるが、その表情が言葉を裏切っていた。

 その台詞に応えるように、パンという乾いた破裂音がして男の身体が後ろへと吹き飛ぶ。

 

「うわあうおっあ!!」

 言葉にならない声をあげて男は右腕を抱えて地面を転げまわった。


 ASVRシステムに制限がかけられていないはずだが出血や傷は再現されず、しかし痛みは感じているらしく男の顔は涙とよだれで見るに耐えないものへとなっていた。


 おそらく痛覚を与える衝撃銃を使っているのだろう。

 一応は非殺傷兵器に分類されてはいるが、衝撃銃は鞭で打たれたような痛みを与えるためショック死する恐れもある武器だ。


 ただ現実世界と違い生命維持システムがあるASVRパークでは死ぬことはない。

 ただそれだけに死ぬほどの苦痛を受けても死ぬこともできずに苦しむために拷問を容易にする。


 情報組織や犯罪組織がそれを利用して廃人を作り出したことで一部の国では法整備に乗り出しているが、日本ではそのこと自体が報道されてはいない護身武器だ。


「そう美月が言った時、お前はどうした?」

 道路の陰から冷たく錆付いたような男の声が響く。

「やめなかっただろう。何も悪くはないのにお前のせいで……」


 パンとまた衝撃音が響き、地面で男がのたうつ。

 国府はゆっくりと前へ進みながら、79式に安全装置をかけてホルスターへ戻すとブラックハウンドをヒップホルスターから取り出した。


「ASVR内にのこのこついて行った美月が悪いのか?」

 怒りと悲しみを秘めた声が静かに問い、溢れ出るように自らそれに答える。

「違うだろう! なぜ美月があんな目にあわなければならない!!」


「────ぐっ!!」

 パンパンと音が響き、声も上げなくなった男が肺から息を噴出す音と共に痙攣する。


「もういいだろう!」

 国府は赤外線映像に切り替えたブラックハウンドのスコープを覗き、建物の陰にいる男の足に照準をロックすると叫んだ。

「何があったのか話を聞こう」


 警察だと名乗らなかったのは権限がないからだろう。

 ASVR内は現実ではないために現行の法の範囲外にある。


 夢の中で人を殺しても罪にならないように、現実に波及しない行為は罪にならないのだ。

 今、地面に転がって苦痛に呻いている男も衝撃銃を撃った男も、それを知らないとは思えないから国府が警察だと告げる事には意味がない。


「どうやってここに入ってきた? ……こいつの仲間か?」

 だったら容赦しないというように男の声が凄みを帯び、ゆっくりとその姿が建物の陰から現れる。


 しかし、現れたのは、男ではなくブランドものらしいパンツとVネックのカジュアルなシャツというラフな姿の若い女だ。

 その手にはSWG-NF9。 ショック死レベルにまで調整できる最凶の衝撃銃が握られている。

 どうやら女の仮想体を使っているらしい。

  

 仮想体が国府の持っている銃を見て一瞬、身をこわばらせる。


「ストップ! 妙な真似はよしなさい! 警察だ」

 ブラックハウンドの引鉄に指をかけて国府がよく響く声を仮想体に叩きつける。


「……警察? こんなところで警察が何をしてるんだ」

 女の顔が仮想体らしからぬ複雑な表情を浮かべる。


 疑惑。混乱。怒り。不平。焦燥。悔恨。憤り。

 静謐や安穏とはかけ離れた表情。 ‘下種脳’にばら撒かれた不幸を味合わされた人間がよく浮かべる表情だ。


 何故、自分達がこんなめにあわなければならないのか?

 何故、やつらに正義の裁きは下されない?

 理不尽さに怒り、己の無力さを憎悪するものの表情かおだった。

 

 「美月の時は何もせず、訴えても何もしてくれなかった警察が、こいつのときは止めるのか?」

  思ったとおり、これはテロなどではなくただの復讐のようだ。


 オレはこの女性仮想体にアクセスしている人間の生体情報と警察のネットワークに忍ばせたAIからの情報を分析してその結論に達した。


 このパークの所轄署のデータベースに、それらしい訴えがある。

 国府の登場を逃げる機とみて地面に這い蹲ったまま隙を伺っている男が、橋下聡。

 笹塚美月をこのASVRパーク内に連れ込み、精神疾患にまで追いやったクズだ。


 数十年前、良くも悪くも日本のアメリカ化に貢献したとして知られるタレント活動や政治活動で知られる有名人と同じ苗字だが血縁はない。

 どちらかといえば、橋下の父親は、字は違うが典型的汚職政治家の元首相と同類だ。


 暴行の恐怖によるPTSDとサイバードラッグによるPSASのフラッシュバックを繰り返す美月は、専門施設に預けられているが、治療には長い時がかかる。 


 それをもたらしたのが橋下だとして家族から告訴されたが、ASVRでの犯罪行為の立証は難しく、法整備もされていないという御粗末な理由で不起訴になっていた。


 マスコミに多大な影響力を持つ橋下の父親により一切の報道は行われず、事実上この事件はもみ消されたと考えていいだろう。

 網膜パターンからしてこの女性型仮想体で橋下を襲ったのは美月の弟、笹塚朔だろう。


 どう考えても橋下の自業自得だが、国府が目の前のリンチ行為を見逃す理由にはならないだろう。

 それを許すということは、このクズではなく、朔を見捨てるということだからだ。


 力による制裁や復讐を実現した人間は全てではないがその多くが人格的変貌をとげる。

 ‘愚種脳’に成り下がるのだ。

 復讐が虚しく感じられるのならいい。


 だが、制裁に快感や爽快感を得て、それを求めるようになれば、罪を犯した人間の家族を責めて嫌がらせをしたり、他人の罪を探して糾弾することのみを望む人間になる。

 その行き着く先は、快楽殺人者かテロリストだ。

 そこまで行かないにしてもろくな生き方はできない。


 国府が残忍な復讐に酔う朔に危うさを見ているのは間違いない。

 ならば、国府は決して引かないだろう。あいつはそういう女だ。


「どういうことだ? そいつが何をした?」


「……酷いことをした」

 

 国府の問いへの返事は朔からではなく、這い蹲っていた橋下の横からきた。 

 いつの間にか現れた女に橋下も国府も驚きの表情を浮かべて、朔から女へ視線を移す。


 少し暗めの栗色に染めた肩までのウェービーヘアに、どこか朔に似た少女の哀しげな面差しは、このASVRパークの登録データにあった笹塚美月のものだった。


「この男はね、あたしを薬漬けにして犯したのよ」

 少女は、泣きそうにみえる表情で橋下を見下ろしながら吐き捨てるように言う。


「美月!」

 困惑と希望の入り混じった声が上がり、朔が銃を下ろす。


「っ!!」

 その瞬間、それを見計らったように橋下が動き、美月の仮想体の背後に回りこみ腕を後ろへと捩じ上げ、ボケッとに隠していたナイフを首につきつける。


「きさまっ!」

 朔が再びNF9を構えようとするのを橋下の罵声が遮る。

「クズが、動くな! 動くとこいつの腕をへし折る! それとものどにナイフが突き立った姿が見たいか!?」


「やめなさい。その娘を放しなさい」

 国府が朔から照準を外すかどうか迷ったように銃を揺らし、橋下を説得する。


「警察の出る幕じゃない、引っ込んでろ! ったくこいつが俺を狙ってるっていうんで呼んだってのにくその役にもたたねぇ!!」

 橋下は国府に怒鳴り返すと朔に向き直り、醜い笑みを浮かべる。

 嘲弄。軽侮。嗜虐。高慢。そういった心の内面が浮き出たような‘下種脳’の笑みだ。

「銃を足元に落としてこっちに蹴るんだ! 下手な真似するとこいつが苦しむだけだぞ」


 やはり、警察にテロがあると情報を流したのはこいつだったようだ。

 国府から話を持ち込まれたときに、警察に届いたメールの発信先を追跡したが、それはこのASVRパークのVIPエリアからだということは、解っていた。


 国府はだからこそ出張ってきたのだが、警視庁の電脳捜査課はイタズラとして処理した。

 普通はそれがあたりまえの対応だ。

 ‘愚種脳’組織がASVRパークの内部に侵入したのならすでにテロは行われていなければならない。

 過去に彼らは一度も犯行予告などしたことはなく、全ては実行後の声明だからだ。


「……わかった。美月に手を出すな」

 一瞬逡巡しながらも、朔の手からは、銃が放られ地面に落ちた。


「よし、次はそれを蹴るんだ」


 足元に落ちた銃が蹴られ橋下のほうへと地面を滑る。

 

「屈め!」

 盾にしたまま銃を手にしようと、橋下が美月をかがませようと脅す。


「やめなさい。あんたのしてることは許されることじゃない」

 ナイフが細い首に食い込み、今にも突き刺さろうとするなか、国府はブラックハウンドの照準を橋下の腕へとロックしなおし、叫ぶ。


 いつの間にか口調が素のものに変わっているのは、よほど腹に据えかねているのだろう。

 いつもの作った声と違い圧迫感のない声だが、こいつは実はこうなったときのほうが怖い。

  

「婦警さんじゃない、女刑事さんか。 あんたは黙ってみてな! これは遊びだよ。 正規利用者の俺があんたに指図される筋合いはない。 ここの利用規約を知ってるか? こいつらは、ここで何があっても文句は言わないって誓約してるんだ。 捜査のために入ってきたあんたが邪魔する権利はないんだよ。 あんたもクビになりたくないだろ? 黙ってみてな!」

 

 銃を手にした途端、本性をむきだしにした橋下は嗜虐心に歪んだ顔で、吐き気のする理屈をならべたてる。


 左腕のナイフを美月の喉に突きつけたまま国府に向けて盾にしながら、橋下が銃を朔へと向け、衝撃銃の苦痛レベルを最大にまで引き上げた。


 レベル半ばで大の男が泣きながら転げまわる痛みを与えるSWG-NF9だ。

 最大レベルは本来は、大型猛獣を撃退するためのものだ。


 人間ならショック死は確実だろう。

 人体へのフィードバックを抑えたASVR内なら死に至ることは無いが、撃たれたものを狂うほどの激痛が襲うのは間違いない。


「お前にはさっきのお返しをしてやるよ。 この女がしたように、お前にも俺の靴を舐めさせて泣き喚かせてやる」


 歪んだ復讐心は朔と同じだったが、この男の‘下種脳’化はもう引き返せないところまで来ているのだろう。

 その表情は怒りよりも人の運命を握り弄ぶことへの期待と他者を虐げる力を得た喜びに満ちている。


 引鉄を引けば歯止めは効かず、歪んだ愉悦のために朔が壊れるまで狂った遊びを続けることだろう。


 死に至るような激痛を何度も受けた人間の精神が壊されるのを、オレも国府も知っている。

 かつてオレと知り合った事件で、‘非人脳’どもの慰みとしてASVRで壊された小さな子供達を見て、国府は泣きながら怒っていた。


 今、その再現を見る気はない。

 オレは国府に橋下を撃つように口を開こうとした。


 だが、その前に橋下は嘲笑うかのような顔で朔にめがけて銃の引鉄を引く。

 

 瞬間、国府のブラックハウンドが吼え、鉛の弾丸が橋下の手にある衝撃銃を撃ちぬいた。

 それと同時に、鶏が絞め殺されるような呻き声が二度三度と橋下の口から上がる。

 

 衝撃銃の暴発により、リミッターを解除された死に勝る苦痛を受けながら橋下は口から泡を吹き、全身を痙攣させ転がりまわることも意識を失うこともできずに、声にならぬ喘鳴を上げ続けていた。


 銃のショックレベルをそのままにしておけばまだましだっただろうが、最大にまで上げたことが地獄を招いていた。

 因果応報としかいいようのないその苦痛に、ありちあらゆる排泄物を撒き散らしながら、橋本は銃倉が空になるまで醜態をさらし続ける。


 そして、それが終わったとき、残ったのはかつて‘下種脳’だった男の残りカスだけだった。

 この後、苦痛を精神に刻み付けられたこの哀れな狂人が、一人で生きていくことはできないだろう。


 狂気を手放したとしても苦痛と恐怖のフラッシュバックが数年以上に渡って続き身を苛む。

 ASVRが史上最悪の拷問器具と裏で呼ばれるゆえんがこれだ。


 場を支配していた狂態が収まったとき、そこに残っていたのは、復讐の虚しさを知っただろう男の仮想体と、自分の招いた一人の人間の破滅に呆然とする女の凍りついたような表情と沈黙だけだった。


 そこにいたはずの少女はまるで幻だったかのように消えていた。







「あの美月って少女そっくりの仮想体、あれはお前だったんだろう?」

 全てのかたがついた後、行きつけのバーの片隅でオレのキープしたボトルから自分のグラスに酒をつぎながら国府が聞いた。


「なんのことだ?」

 オレは高い酒を遠慮なくかっさらっていく国府に顔をしかめながら聞き返す。


「あの美月って娘、奇跡的に回復したそうだが、橋下に会った記憶をすべて忘れてるそうだ」

「…………」

「おかげで今は弟ともども元気にやってるようだが、あれが本人の訳はない」

「元気でやってるのか、そりゃよかったな」

「……それに橋下の父親の汚職の証拠が、なぜか特命係当てに届けられた」

「それでテレビが騒いでるのか」

「なんかお前の手の平の上で転がされてるようで気に食わない」

「そうか、それは困ったな」

「何が困ったなだ。 そんなこと思ってもいないくせに」


 国府はあいかわらずのからみ酒のようだ。

 ASVRを使った美月の治療にオレが関与したことも、橋下の父親の自宅と事務所から汚職の証拠をかき集めたのも確証はなくともそう信じているらしい。


 相変わらずの勘の良さだ。

 まあ、これは国府の立場なら素人でも簡単に推理できることだから、驚くにはあたらないのだが賭けてもいいがこの女は考える前にそう思っている。


「そんなことはない。 オレはあんたを尊敬してるよ」

 本心からそう言ったのだが国府は顔をしかめて苦笑いしただけだった。


 かなり酔ってきたのか仕草が大げさになっている。

 それでもまだ女口調になってはいないので度を越えてはいないようだ。


「まあいい。 橋下の親父を調べてたって事で、あの件はお咎めなしってことになったし」

 

 そういいながらもさして嬉しそうでもないのは、あの事件がASVRの一般化を妨げることになるのを恐れた連中が、事件の揉み消しを謀った結果がそれという事を知っているからだろう。


「それは許してやるわよ。 でもね──」

 そこまで言って国府は、赤く染まった顔をオレに向けて、酒臭い息を吐きながら言った。

「女の癖にオレはやめろって何度もいったでしょうが」


 どうやら完全に回ってしまったらしく、刑事から国府美樹に戻って、オレの肩に手を回しながら抱きついてくる。

 どうやら、からみ酒に抱きつき癖に噛みつき魔という、いつもの性質の悪さを発揮する気らしい。


「オレが女に見えるか?」

 お前こそとは言わずに、オレは笑って聞き返す。

「見かけなんか当てにならないってあの件で解っただろう?」


「なに言ってんの! あれはヴァチャル。 あれ? ヴァチヤール?」

 ヴァーチャルが出てこないらしく、何度も首を捻りながら言い直している。


「確かにここは現実だが、これが本当のオレとは限らないぞ」

 オレは、うす暗いバーの室内を映し出す鏡の中、肩を組んで酒を飲んでいる二人の女の姿を見ながら言った。

「案外、これは擬体でこのまま酔ったあんたをどこかに連れ込んで好きにする気かもしれない」


 それを聞いた国府が大笑いをしたのは、いつもの勘の良さのせいだったのか、それともオレのジョークが面白すぎたのかは…………たぶん、永遠に謎だろう。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ハードボイルドウイザード・アウター OLDTELLER @OLDTELLER

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ