ハードボイルドウイザード・アウター
OLDTELLER
死線の真ん中で愛を叫んだもの
近代、軍人に成り代わり、商人が世界を支配するようになり、封建社会が利権社会へと代わって、消え去っていった価値観の一つに、“ 楽をして儲けようなどと云うのは人として恥ずべき行為だ ”というものがある。
これは、何も考えず何の努力もしないような社会に貢献する気がない人間は、自分の利益のみを考える害悪だという価値観だ。
そして、そういった人間が金を儲けようと考えれば、倫理を棄てて行動する人間のクズに成り下がると、教える言葉だ。
軍人が、美化された騎士道や武士道で、生業である殺戮と略奪を正当化することで、世界を支配していたように、自分達に都合のいい誤魔化しで正論を貶め、消し去ろうとする‘下種脳’はどこにでもいる。
そんなやつらが力を持てば、それは当然の帰結だったのだろう。
暴力を生業とする人間達と金銭の獲得を生業とする人間達が立場を入れ替える時代の流れの中で、民主主義の芳名の裏で、権力と結びつき商道徳を捨てた利権商人と“ 高貴なる者の義務と誇り ”を捨てた元生業軍人利権が、卑しいとされていた生き方に身を堕し、社会を変えていき。
資本家と呼ばれる“ 金だけは持つが自分で金を稼ぐ能力のない封建社会の元権力者達 ”に、事業家と呼ばれる“ 金を稼ぐ能力はあるが金がない商人達 ”が、儲け話を持ち込むという形で、大規模な商売が行われるようになったために、その価値観は徐々に消え去っていった。
誇りを捨て、自らが卑しいと思う生き方を選んで生き残った卑屈な人間には、誇りや社会正義や信念という自分達が捨てざるを得なかった輝きを持つ者が、嫉ましく厭わしいものだ。
公に掲げられた民主主義の理想が、輝かしければ輝かしいほど、自分達の生き様を醜いものに感じさせたのだろう。
‘下種脳’と成り下がった連中は、自分達と同じ場所まで他者を引きずり
楽をして儲けようなどと云うのは人として恥ずべき行為ではなく、誰もが目指すべき憧れで素晴らしい事だと、道理の判らない子供に吹き込み。
そういった誤魔化しに気づかせないように、愚民化という教育の偏重と理想や幸福という概念のすり替えと貶めを行い。
“ 理想の対義語は、悪徳ではなく現実だ ”とか、“ 幸福とはより大きな欲望を叶えられる事だ ”などという腐った理屈を、“ ジャーナリズムなど必要ないと考えるマスコミという名の洗脳屋 ”を使ってばら撒いた。
‘下種脳’利権者どもにとっては、そういった誤魔化しは、民主主義の本質である平等を、有名無実にして自らの利権を確保する物質面と、自らの卑しさと醜さを誤魔化す一石二鳥に思えたのだろう。
しかし、誤魔化しとは、本来、人に誤った生き方を選ばせ、正しい生き方を見失った魔へと化させるものだ。
言い換えるなら、それは、性質の悪いウィルスのように人の価値観と精神を歪ませていき、“ ストレスで共食いするネズミ同様の自滅本能によって動く人間 ”へと人を変えるものだ。
誤魔化しを信じ込まされた人間の一部は、現実とは悪徳そのものと思い行動することで、ソシオパスやサイコパスといった存在に成り下がり、また一部は幸福とは強欲である事と信じて、マキャベリストやエゴイストを名乗り、人を見下し人の可能性を見限る。
そうして、人間のクズが幅を利かせるようになった商業界と、その意向を受けた政治屋が、一般人を巻き込んで、“ 投機と呼ばれるギャンブルと大差のない金儲け ”を、広めた事で、資本主義社会全体が害悪と成り下がっていった。
やがて、損得を第一に考え、自分の利益のみを考える人間こそが、誰もが目指すべき憧れで素晴らしい事だという社会を造り、その誤魔化しを糾す価値観を消し去ろうとしたことで、古い価値観は、新たな時代にとって害であると信じ込んだ人間が現れる。
自らが人間のクズであることを当然とする‘下種脳’は、こうして世界に急速に広がっていき、自滅本能のままに世界に不幸を振り撒いていった。
国を跨いで対立する‘下種脳’によって起こされた世界大戦と呼ばれるかってない大規模な殺し合いに大規模で組織的な奴隷売買という大きな不幸。
‘下種脳’の価値観が広まったことで起きた離婚率の増加などの家族制度の崩壊に若者の社会に対する不信という小さな不幸。
様々な不幸が世界中にばら撒かれ、近代という時代が始まる。
当然、そのことに気づき警告を発した人間はいたが、その声はマスコミという‘下種脳’の上げる欲望を煽り理想を嘲る声にかき消されることになる。
力を求めない故に、世界に急激な変化をもたらさない代わりに、‘下種脳’の価値観に取り込まれなかった者たちは、それでも決して消えることはなく、少数派になることもなかった。
決して大きな力として纏まろうとは思わない彼らが、歴史の表舞台に立つようになったのは、インターネットと呼ばれるPCネットワークが生まれ、百年近くが経過した頃だった。
彼らがネットを通じて協力しあうようになるのには、21世紀の半ばに誕生した高度な翻訳プログラムの一般化と、世界規模での教育レベルの真の向上と、何よりオレの師でもある“ 名無し ”と呼ばれる本名不詳の思想家を必要とした為だ。
最近では‘ワールデェア’と呼ばれるようになった彼らの基本理念は、非組織集団による非営利の非政治的な非暴力と非権力と非闘争を手段とする統一人類思想の普及だ。
実態を持たない故に、実行的な力を持たない人々による‘下種脳’思想の排斥が、その目的となっている。
すでに人類は一つの存在という認識は生まれているのに、戦争が世界から絶えないのは、犯罪組織と変わらない価値観を持った‘下種脳’どもが、各国の政官財に蔓延っているからだ。
要は、国という枠組みすら、やつらには、目に見える敵の脅威を作ることで理不尽な支配に対する自国民の不満を転嫁する為の茶番でしかなく、独裁者もそれを倒せと叫ぶ政治屋も、等しく縄張り争いをする犯罪組織と大差ない存在だということだ。
その認識を全ての人間が持ち、やつらのつくった価値観を否定し排斥しようとする活動は、あたかも20世紀末の嫌煙運動のような間接的な実効力を持って、数十年をかけてクリエーターと呼ばれる職業に就く人間を中心に世界中へと広がっていった。
その陰に近年科学的に証明された“超感覚的能力”の存在があるのではと考えられたせいで、PSY狩りと呼ばれる非人道的な活動が活発化したのは‘下種脳’達にとってこの思想活動が好ましくないものだからだろう。
幼児教育の義務教育化によって、倫理や道徳といった“ 人類の生存戦略そのものである調和と共存 ”を、排泄を恥ずかしがるのと同程度の刷り込みを行われた新世代を誕生させる精神文明の進化への試み。
シビリアンコントロールを形骸化させないように、軍隊式の階級型社会構造ではなく、役割分担型の共営社会構造という社会形態の保守を世界的に行う世界平和化運動。
そういった制度外の取り組みに留まらず。
投票用紙にマークシート式で法案の是非を問えるようにすることでの民衆の直接政治参加。
公務員の年度毎の業務監査と民衆による職権の停止を目的とした信任投票制定。
法人や資本を持つ組織によって起こされた犯罪に、資産没収や解散などの個人で言えば懲役や死刑に当たる罰則を定めた法人刑法の制定。
法人や資本を持つ組織の資本額に応じた寿命や利益上限の設定と最低雇用人員数の規定。
政治団体とその加盟者や公務員の就任時の財産申告と年度毎の財産監査の義務化。
あらゆる政治献金の禁止と選挙運動の均一化による選挙の公正化。
違反者と5親等血族の最低3期を目処とした被選挙権の停止を罰則とした選挙法制定。
暴力による政治的解決を図り、それに賛同した政治組織と政治家と、5親等血族の被選挙権の永久剥奪。
等々の権力と富の集中の排除と金や力による支配を否定することを目的とした具体的な法案を、全世界規模で提示し、共営社会構築思想による勝敗が優劣とならない自由競争を推奨する彼らを、既存権力が歓迎するわけがない。
組織的資本の権利を、個人資本の権利と同等として、経済からギャンブルの要素を排除することで安定化を図り、利用者のみが利用額に応じた配当を得られる共営組織を、公的資本で設立することでのみ民間への公的資金の導入を許す“経済操作の制限”は、“差別的資本主義の制限”であり税金で私服を肥やす企業と官僚の排除を目的とするものだからだ。
マスコミの‘下種脳’がファシズムの復活だと騒いだが、ファシズムが、“ 権力者による民衆の権利の制限 ”であったのに対して、この思想は、民衆による“ 権力者の権利の制限 ”という反
そして、それらの思想に基き、具体的に改革を行おうとする人間が、陰や裏でスキャンダル騒ぎや事故に見せかけられて始末され、その事件を基にした物語が、別の国でヒットすることで、思想が広がるといった循環を絶とうと‘下種脳’どもが躍起となる。
オレが生きていたのは、そういう時代だった。
そしてそういう時代だからこそ、オレ達ハッカーは、鎬を削って争う最前線に立たされることになる。
もちろん、オレが‘下種脳’どもに組することはない。
陰で蠢く究極の‘下種脳’である‘非人脳’どもの非道な悪事を暴くのは、オレの趣味の一つでライフワークだった。
そう仕事ではない。
あくまで秘密裏に行っている趣味だ。
この御時世、堂々と‘ワールデェア’のハッカーだなどと言っていたら、命が幾つあっても足りはしない。
オレの本業はセキュリティプログラムの販売と運用で、今はリアルティメィトオンラインという歴史上最大のMMOネットワークのクラッキング対策を主に請け負っている。
この超大規模オンラインゲームであり、多くの‘ワールデェア’達が集まって作り出した一大傑作でもあるソフトは‘ワールデェア’の活動の場の一つとして知られている。
オレに言わせれば、企業内に多くの‘下種脳’を抱え込んだ他と大差ない組織なのだが、このゲームのクリエーターの多くが‘ワールデェア’であることや、ゲームで遊ぶ人間にも‘ワールデェア’が多いということで仕事を請けることにしたのだ。
仕事で知られている表の名ではなく、裏で受けている‘非人脳’の犯罪暴き、ハッカーとしてのオレのほうに、その依頼が舞い込んだのは、八月の半ばにしては涼しい日。
再度起こった原子力発電所のメルトダウンから1年以上が経ち、‘下種脳’政治屋が、それでも利権にしがみつこうと動き出した頃だった。
メールで待ち合わせ場所に指定された横浜郊外の喫茶店に訪れると、オレを待っていたのは予想とは違い、三十代初めくらいだろうか、アラサーなどという言葉の似合わない古風な美女だった。
静かに紅茶を口に運ぶ仕草や立ち居振る舞いは、良家の子女として育った者の自然な動作で、見るものに気品を感じさせる。
本来は顔を合わせての依頼のやりとりなどしないのだが、内容が内容だけに合うことにしたのが、正解だったらしい。
懐古趣味のデザインが流行ってはいたが、彼女のいでたちは、何十年も前の高級婦人服を受け継いで着ているもので、最近になって作られたものでないのは縫製を見れば判った。
均整のとれた抜群のスタイルがなければ、地味すぎると感じるような黒一色の昭和中期に流行ったクラシカルなラインの服だ。
装飾の類もなく、アクセサリも身に着けていないその姿は、まるでそのいでたちが喪服であるかのような印象を与えていた。
綺麗に結い上げられた黒髪も染めたことなどないかのような艶やかさで、まるで第二次大戦の復興期からタイムスリップしてきたのではと思うような女性だ。
当時の代表的美人女優のような、しとやかさの中に芯の強さを想わせる綺麗な顔立ちが、憂いに満ちて周囲を魅了するかのような華を感じさせた。
オレは、盗聴器や監視の目がないかをチェックしながら、待ち合わせのボックス席に座る彼女の前の席に、腰を下ろした。
カウンター5席にボックス席3席の小さな喫茶店に、他に人影はなく、カウンターの中で初老のマスター一人が暇そうに銀らしきスプーンを磨いている。
ブレンドを一つ注文するとマスターは無言で肯き、しばらくすると豆をローストする香りが店内に漂いだす。
もちろん、とりあえずなどで頼んだわけではない。
手間が一番掛かりそうなものを注文したのだ。
「吉永さんですね?」
オレは彼女に背を向けたままカウンターにまでは届かない程度の小声で聞いた。
「──名無しのウイザードさん、ですか?」
その姿にあったしっとりとした声が、オレのネット上での通り名を口にした。
「彼の代理です。依頼は私が受けることになってます」
オレはそう答えて、彼女が何か言う前に続ける。
「例のメルトダウンについてだとか」
メールでは、彼女の夫が、原子炉事故について内部告発をしようとした矢先に、自動車事故で死に、彼が残した資料を公開したいという話だった。
事故を起こした男は自首しているが、原子力推進派の政治屋と繋がりの強い企業ヤクザ子飼いのチンピラだ。
「はい、ウイザードさんは、あのサイバー技術局の人体実験を暴露されたとか」
彼女はオレが誰かと問うこともなく、三年前にオレが手がけた事件を話題に上げる。
「そんな方なら主人の無念を晴らしてくれると・・・」
「それは誰から?」
サイバー技術局の人体実験とは、日本の軍需系電機会社も参画した米国の全身義体技術の開発。
その実は軍用サイボーグの開発実験で行われた、捕らえたテロリストを使った人体実験のことだ。
並みのハッカーには無理な仕業だが、オレにはある能力があった。
“超感覚的能力”────そう、“PSY”だ。
あらゆるプログラムを機器を使わずに組み替え転送し改変する、ハッキング能力がそれだった。
その能力がなければ、あるいはその能力を知られていれば、とうてい無理だったろう。
しかし、その“PSY”は未だ誰にも知られず、オレは無事にやつらの尻尾を掴むのに成功した。
そうしてオレが証拠を入手した後、やつらは研究所を爆破してそれをテロリストに押し付けようとまでしたのだから、あきれた話だ。
確かにそれを含めて世間に事実を知らしめたのは、オレだがそのことを知る人間は限られているはずだ。
「ジャーナリストの貴陣さんから。連絡先を教えてもらったのもあの方です」
「貴陣──」
貴陣という男は元アナウンサーの自称ジャーナリストで業界でも女癖が悪いので有名な男だ。
プライベートの女遊びはともかく、美人相手に口が軽くなるようではジャーナリストを名乗る資格はない。
顔を合わせたこともない男だが、こうなるとやつとは完全に手を切ったほうがいいだろう。
もっとも、やつが口の軽さで身を滅ぼすほうが先かもしれないが。
「くわしい話は移動しながらにしましょう」
マスターが運んできたコーヒーに口をつけずにオレは立ち上がった。
「そろそろ日が落ちてくる。臨海公園まで散歩しませんか?」
「よろしいですけど──」
そういう彼女の顔は何も疑うことのない静かな貌だった。
マスターが‘下種脳’の一味だったらなどとは、当然考えもしないのだろう。
やつらはどこにでもいる。 そう、どこにでもいて自らの欲望に他者を巻き込み多くの不幸をばら撒いていく。
力こそが正義。
正義の為になら何をしてもいい。
何をしても勝てばいい。
勝った者が負けた者より優れている。
優れている者には疑わずに服従するべきだ。
疑うことは醜いことだ人を信じろ。
信じる者は救われる。
救われる者は努力して働くものだけだ。
働かざる者は食うべからず。
食べていきたければ逆らうな。
逆らう者には死あるのみ。
やつらの腐った価値観が広まれば、行き着く先は巨大な不幸と死をばら撒いての破滅だというのは、かってオウム真理教と呼ばれた組織を見れば明らかだろう。
当時のマスコミが、幹部に大臣などの役職名をつけていた連中を嘲っていたが、それが現在存在する国家の戯画化でしかないといった本当の意味について触れようとしたジャーナリストは少なかった。
そう、嘲った連中も嘲られた犯罪集団も、その基本理念は同等でしかなく、やつらが等しく‘下種脳’で、その究極の姿である‘非人脳’が戦争といった大きな不幸と死をばら撒いているのだということに。
それは、大人達にはあまりにもあたりまえすぎて、今更触れることでもないといった理屈を、何も考えずに受け入れる人間もいるだろう。
だが、子供達に悪影響を及ぼすというマンガの有害性については触れるくせに、権力者の不興を買うかもしれないという理由で、そのことに触れようともしないマスコミを、子供は信用するだろうか?
そうだと考えるなら、そいつは子供をなめているか、子供以下の洞察力の持ち主だろう。
良くも悪くも、子供達は多くのことを学びながら生きている。
あたりまえのことをあたりまえと語り、正論を歪めて騙る人間について教えなければ、多くの子供達の行き着く先は‘下種脳’どもの餌食か、その同類になることだけだ。
そんなことを語りながら、臨海公園につく頃には、辺りは夕焼けに包まれていた。
彼女はオレの台詞に無邪気に微笑み、うつくしい眉をひそめ、あるいは悲しんだ顔をして聞いていた。
オレ達は、ゆっくりと歩きながら、公園の外れから沈む夕日が見える埠頭へと足を伸ばし、二人で夕日を見ていた。
ここは、潮流の関係で落ちると沖まで流されて帰れないことと、人気がないことで、ヤクザが死体の始末に利用することもあるという場所だが、知らなければ夢のように美しい景色だ。
裏の人間が女を口説くのにもよく使うという話の場所で、だからこそオレはここを選んだのだ。
「貴方と話していると亡くなった主人と話しているよう」
彼女がオレの胸に頬をつけながら言う。
「ごめんなさい。つい、、あの人の事を思い出して」
だが、直ぐにその暖かさはオレから離れていった。
まるでそれが幻だったかのように。
いや、それは幻だったのだろう。
オレは彼女を偽っているし彼女は──
「貴方は本当にあのハッカーさんじゃないの? こんなに博識で正義感も強くて」
オレの思考をさえぎるように彼女の声が響く。
どうやら潮時のようだ。
あたりのチェックも終わったことだし言うべきことを言うとしよう。
「黙っていてすまなかった。今まで尾行がないか調べていたんだ」
オレは、この台詞を聞いて彼女がどう思うだろうかと考えながら、そのことを告げた。
「オレが君のお捜しのハッカーだ」
「ほんとうに?」
彼女が潤んだような瞳をオレに向け聞く。 その瞳の奥にあるのは悲しみだろうか?
「ああ。誰かにこんな危険なことを押し付けるわけにはいかない」
オレは、真剣な顔で無邪気で綺麗な彼女を見返しながら、静かに言う。
もし、それをするならオレは‘下種脳’になってしまう。
それだけはゴメンだ。
「御主人の無念はオレが必ず晴らそう。 やつら──」
オレの台詞は最後まで紡がれることはなかった。
ライフル弾が胸を撃つ衝撃に、オレの体は海へと吹き飛ばされ、その声は宙に消えた。
御丁寧に複数の狙撃手を用意したらしく、たてつづけに3度の衝撃がオレを貫いた。
暗闇に包まれる意識の中でオレは彼女がオレの死を悲しむだろうかと、
暗闇に落ちていた意識が急速に浮上し、オレは自室のASVRシステムの中で目覚めた。
棺桶のような狭い装置の中で目覚めるのは、あまりいい気分のものではない。
これが棺桶なら、さしずめオレは、不死者として蘇ったウイザードだろうか?
ASVRで仮初の死を迎えたばかりだから、尚更そんな気分になってくる。
全感覚型ヴァーチャル、ASVRシステムは、名前の通り全ての感覚を現実と同様に感じさせる仮想現実を、体感させる技術で、ほとんどの電子機器技術がそうであるように、軍事技術を基にしている。
3年前にオレが係わったサイバー技術局事件で、オレが奪取した証拠品の一つにも、ASVRを利用して全身義体を動かすアンドロイドというのがあった。
今回、オレが使ったのはそれだ。
人間そっくりの体だが、さすがに飲食を行う内蔵まではつけなかったのでコーヒーはムダにしてしまったが、どうせ薬物入りのコーヒーだからしかたがない。
彼女が死んだ吉永氏の未亡人などでないことは、会った時から判っていた。
今度の依頼が舞い込んだときに、関係者の身辺は調べていたのだ。
彼女は旧華族の家の生まれで、親に政治屋に売られた世間知らずの御嬢様だ。
スーパーの特売に目の色を変える未亡人とは似ても似つかない。
運転免許や住基台帳の写真を差し替えてオレを騙そうとしたようだが、彼女の本来のそれを、そのまま残していたのは御粗末としかいいようがない。
原発擁護派の領袖の愛人という立場のせいかもしれないが、専任のエージェントを用意できない日本の諜報の杜撰さはあいかわらずのようだ。
もっともそれをしていても、近所のスーパーや自宅のセキュリティの映像から本物の顔は判っていたので整形、それも不自然さを残さない超一流の技術で顔を変えてなければ無駄だったのだが。
吉永氏の未亡人は彼女ほど美人でもスタイルがいいわけでもない普通の女性だ。
もし、未亡人そっくりの女性が来ていたら、オレは彼女には声をかけずに帰っただろう。
もちろん、それは彼女が美人だからではない。
未亡人の所在はリアルタイムで把握しているし、彼女が原発擁護派の不正を暴く鍵になってくれるだろうから、声をかけたのだ。
プロの諜報員を相手にしても、得るものなど何もない。
使い捨ての道具が、重要な機密にアクセスできる場所に訪れるわけがないからだ。
彼女の通信デバイスには、すでにオレの能力を使ってスパイ用のAIを仕込んである。
いきなり撃たれるとは思っていなかったが、まあメインの仕込みは済んでいるから、よしとするべきだろう。
それでもまだ予備があるとはいえアンドロイドを失ったのは痛い。
安全のためには仕方のない出費とはいえ、こいつには一体数億円の改造費が掛かっている。
やつらの通信を傍受して動きやすいように、彼女を口説く振りをして人気のない場所に足を運んだのが失敗だったようだ。
拉致を試みると思っていたが、いきなり射殺とは嫌われたものだ。
これが、‘非人脳’のやりくちだと知ってはいたが、オレもまだまだ甘いようだ。
もちろん、彼女の心配をしたとか同情をしたとかいう意味ではない。
自分で考え行動できる健康な体がある以上、彼女の行動は彼女の責任で彼女の人生は彼女のものだ。
自由とはそういうものでしかないし、そうでなければならないものだ。
‘下種脳’に騙された被害者であっても、やつらの価値観に従って行動したのなら、やつらの一味だ。
例え、その覚悟や意志がなかろうと、自らの意思によって行った行動に責任がとれないのなら、一人前の人間としての権利を主張する資格はない。
これからすることで、その結果、彼女を襲うだろう試練を考えながら、オレは彼女のデバイス内にあるAIに指令を与えるべく、ASVRシステムから身を起こし、立ち上がった。
後日、多くの不正の証拠を暴いたために、やつらは失脚することになり、その中には吉永氏の殺人や、彼が告発しようとしていた原発の構造上不可避な劣化対策に掛かる膨大な費用を惜しんだことが今度のメルトダウンの原因だったことなどもあった。
これは“人間としてのモラル”を、“ 原発運営や経営に携わる地位を得る条件 ”としなかったことが起こした当然の事件として、‘ワールデェア’の声を高める事になる。
以上が、この事件を公にするまでのあらましだ。
どこかの‘ワールデェア’が、またこの事実を元として感動的なドラマを作るだろう。
事実に著作権はないし、あってもオレは訴えたりはしない。
童話をネタにして作った物語の著作権を堂々と主張する遊園地屋ほど恥知らずではないし、オレ達が考えたり感じたりしていることは、遥か昔に何処かの誰かが同じように考え感じた思いだということも解っているからだ。
この記録をネットに流すには、オレの情報をすべて削らねばならないが、オレ以外の人間は、実名で上げさせてもらわねば意味がないから、データ変更はたいした手間にもならないだろう。
余談だが、貴陣もオレが撃たれるのと頃を同じくして、とあるホテルの廊下で刺し殺されることになった。
その一部始終が映った防犯カメラの映像を、オレが事件のあらましと共にネットにアップしようと考えたのは、久米が死ぬ寸前まで、吉永氏の未亡人と信じた彼女を心配していたからだ。
苦しい息の下、駆けつけた人間に彼女も危険だと貴陣は訴えていた。
ジャーナリストとしては三流だが、その死に様は語り継がせてやってもいいものだろう。
例え、それを哀れなピエロの死に様と哂う‘下種脳’がいたとしても。
現在、拘留中の彼女がそれを見たかどうか、見たとして何を思ったかは解らない。
だが、貴陣が死線のさなかで叫んだ言葉が彼女の心に届いていればいいと、オレは事件のあらましを自動でネットに流すAIを仕込みながら、そう思っていた。
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