Ep.3 may










 志島咲子しじまさきこ

 ただ僕は、彼女を救いたかった。

 ただそれだけのことなのに。

















 どうして。









 殺して壊れかけた世界はやる空間が分断される時間など私たちってなんこにもないなんだろうね私は彼を愛総ての道はしているローマに通ずそんなんだからモテないんですよ童貞の純潔というものいやあいい狂わない人間こそが援助交際するですねえの真の価値人じゃないものを好きもっとも狂っている吸精鬼になって何が悪いのどうしても妹と比べないで僕は一体どうなってもらいたいここにいなくちゃスティグマに怯えるこの世にないさありえないなんて霊能力者それは最初からしまうのでしょう崩壊への道を突き進む最後の少女ふーちゃんは黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子少女とも言えないきまっていたことだから私のもの殺して壊れかけた世界はやる空間が分断される時間など私たちってなんこにもないなんだろうね私は彼を愛総ての道はしているローマに通ずそんなんだからモテないんですよ童貞の純潔というものいやあいい狂わない人間こそが援助交際するですねえの真の価値人じゃないものを好きもっとも狂っている吸精鬼になって何が悪いのどうしても妹と比べないで僕は一体どうなってもらいたいここにいなくちゃスティグマに怯えるこの世にないさありえないなんて霊能力者それは最初からしまうのでしょう崩壊への道を突き進む最後の少女ふーちゃんは黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子少女とも言えないきまっていたことだから私のもの殺して壊れかけた世界はやる空間が分断される時間など私たちってなんこにもないなんだろうね私は彼を愛総ての道はしているローマに通ずそんなんだからモテないんですよ童貞の純潔というものいやあいい狂わない人間こそが援助交際するですねえの真の価値人じゃないものを好きもっとも狂っている吸精鬼になって何が悪いのどうしても妹と比べないで僕は一体どうなってもらいたいここにいなくちゃスティグマに怯えるこの世にないさありえないなんて霊能力者それは最初からしまうのでしょう崩壊への道を突き進む最後の少女ふーちゃんは黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子少女とも言えないきまっていたことだから私のもの殺して壊れかけた世界はやる空間が分断される時間など私たちってなんこにもないなんだろうね私は彼を愛総ての道はしているローマに通ずそんなんだからモテないんですよ童貞の純潔というものいやあいい狂わない人間こそが援助交際するですねえの真の価値人じゃないものを好きもっとも狂っている吸精鬼になって何が悪いのどうしても妹と比べないで僕は一体どうなってもらいたいここにいなくちゃスティグマに怯えるこの世にないさありえないなんて霊能力者それは最初からしまうのでしょう崩壊への道を突き進む最後の少女ふーちゃんは黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子少女とも言えないきまっていたことだから私のもの殺して壊れかけた世界はやる空間が分断される時間など私たちってなんこにもないなんだろうね私は彼を愛総ての道はしているローマに通ずそんなんだからモテないんですよ童貞の純潔というものいやあいい狂わない人間こそが援助交際するですねえの真の価値人じゃないものを好きもっとも狂っている吸精鬼になって何が悪いのどうしても妹と比べないで僕は一体どうなってもらいたいここにいなくちゃスティグマに怯えるこの世にないさありえないなんて霊能力者それは最初からしまうのでしょう崩壊への道を突き進む最後の少女ふーちゃんは黒髪ロング一重まぶた微乳お嬢様系女子少女とも言えないきまっていたことだから私のもの。



 だからこんな、回りくどいことまでしないといけなかったの。ごめんね。

 でも、これって、一昔前のライトノベルみたいじゃないかな。



 甘く涼やかな声が呪いのように響く。

 僕は彼女の名前を思い出そうと必死だった。



 目を覚ました。

 時計を見て、今日の日付を確認する。

 四月二日。木曜日だった。

 大学四年の春休みまっただ中だ。

 僕はほとんど単位をとってしまっていたので、はっきり言ってしまえば新学期も何もないのだが、かといってうだうだしながら休みを過ごしていると、どことなく憂鬱な気分になるので、今日はどこかに出かけようかなと思った。

 いつものようにジーパンを履きパーカーを着ると、煙草に火を付けてゆっくりとふかした。

 身体の中に不純物が広がっていく感覚は、他の嗜好品では味わえない不思議なものだ。

 にゃあ。

 雪月花せつげつかが悲しそうに鳴いた。猫だからかもしれないが、彼女は煙草が苦手なのだ。白くすらりとした美しいフォルムは、どこか裕福な家で飼われていそうな気品を感じる。

 彼女は僕が出かけそうな気配を感じ取ったのかもしれない。すたすたと近づくと、僕の肩に乗った。

 よくよく考えたら、最近は出かける前に煙草を吸うことが多くなった。そのせいもあるのかもしれない。

 猫を携帯するためのケージに雪月花を入れようと、彼女を抱き上げた。

 にゃあ。

 家に入れた頃は抱き上げると暴れ回っていたのが、いつの間にかおとなしくなるどころか、最近の彼女は抱き上げられると少し甘い声で鳴くようにすらなった。何となく、喜んでいるような感じがするのは僕の単なる妄想なのかもしれないけれど。

 にゃあ。

 どことなく急かしているような、そんな声がした。

「はいはい」

 雪月花をケージに入れて、今日はどこに行こう。ピンク色の毛虫がついた鍵で部屋を後にするが、雪月花に聞くわけにもいかない。

「電車にでも乗るか」

 そうだ。

 僕はあることを思いついた。

「ユキ、いいところに連れて行ってやろう」

 にゃあ。

 小さくかしこまるような鳴き声が聞こえた。


 縦波駅で帝国鉄道ていこくてつどうに乗り換えた。国鉄東西線こくてつとうざいせんに乗っておよそ三十分、帝都駅ターミナルで湾岸線わんがんせんに乗り換える。そこから二十分ほどすると、僕と■■が生まれた元島もとしまという街にたどり着く。

 そう、彼女は同郷であった。

 もとは小さな港町であったのが、松原まつばら県でもっとも帝都と地理的距離が近いことを利用して十数年前に大規模な埋め立て計画を実施し、同時に国鉄湾岸線計画も積極的に推し進め実現したことにより、衛星都市として急激な発展を遂げた。また帝松工業地帯ていしょうこうぎょうちたいの工場群や高層マンション群などの埋め立てによって誕生した地区の近未来的な景色と、かつての漁師町の風貌を残した趣ある本来の港町地区とのコントラストは全国的に有名で、観光都市としても売り込みを始めているとかいないとか。

 湾岸線は埋め立てで出来た新町部分を走っているので、途中までは無骨な工場群が車窓を流れている。それが突然、大きく豪華な高層マンションが立ち並ぶ、リゾート風情あふれる街並みに変化してくると、車両は減速を始めるのだ。

「着いた着いた」

 新元島駅しんもとしまえきに着いた僕は、まずホームを見回した。当然ながら迎えにくる人は誰もいない。というか、そもそも■■はこの駅をほぼ毎日使用しているはずだった。

 にゃあ。

「疲れちゃったか」

 雪月花は退屈そうに鳴いた。

「もう少しの辛抱だ」

 僕はケージを抱きかかえて、おとなしく縮こまっている彼女にほほえんだ。

 新元島駅は、帝都と海浜松原かいひんまつばらを結ぶ国鉄湾岸線のちょうど中間地点にある。なので、複々線で上りと下り両方に二つずつホームがあるし、快速どころか特急も停車駅になっているほど主要な駅だ。

 特に様変わりしている様子もないので、僕はエスカレーターを降りて駅舎の中に入る。

「うわあ」

 自動改札を出た途端、様変わりしてしまった駅ビルを見て思わずそんな声を上げてしまっていた。コーヒーショップ、ハンバーガーショップ、その隣におしゃれな総菜屋がある。奇しくも縦波駅中央口にある縦波センタービル内のショッピングエリアと全く同じ並びだ。

 にゃあ。

 雪月花はむしろ冷静に鳴いた。もしかするとそんなことには興味がないのかもしれない。

 もっとも、僕の目的もこの駅ビルではない。僕はすっかり没個性的な「おしゃれ」という概念のみで形成された空間をひたすら奥へ向かう。目的の店だけは、なくならないでいてくれと祈りながら。

「あった」

 そしてついに、駅ビルの端、新元島駅のバスロータリーとは全く逆の、ほんの少し閑散とした空間に、その店はあった。

 尼崎あまがさきおにぎり店。

 内装こそほんの少し綺麗になっているが、ショーケースには大きなおにぎりが並んでいて、それぞれ値札が貼られている光景は、僕の記憶と一致している。この、何の変哲もないおにぎりが昔から好きだったのだ。

 鼻の奥を、海苔の匂いがくすぐった。そういえば、かつて元島では、海苔の養殖が盛んだったらしい。小学校の時に習ったことを思い出した。

 僕はおにぎりのショーケースを見つめた。しゃけ、梅、ツナマヨ、焼きたらこ、岩のり。色彩豊かな具を内包したおにぎりが整列して、行儀よくガラスケースに納められている。

「あれ、もしかしてふっちゃんじゃない?」

 声を掛けられて初めて、ショーケースの後ろに女がいたことに気がついた。小綺麗に帽子とエプロンを掛けた女の顔をしばらく凝視して、ようやく彼女の名前を思い出す。

「みかちゃん」

「そう! 忘れられたかと思った!」

 小学生の頃と全く変わらない明朗快活な笑みは、あの頃と全く異なる髪型であっても、やはり変わらないなと思った。

 小学校六年間、奇跡的に同じクラスだった牧島美佳まきしまみか。二つ結びにしていたかつての長い黒髪は、現代を生きるのにちょうどよい長さに切られ、色も明るい茶色に染まっていた。

「ひさしぶりー、元気?」

「ああ、まあな」

「帰ってきたの?」

「そういうこと」

「そっか」

 牧島はおにぎりを取ろうとして、僕が右手に持っているものに興味を示した。

「猫、飼ってるの?」

「いろいろあってな」

「へえー。はい、これ」

 彼女は三つのおにぎりをとって、プラスチックのケースに入れた。

「まだ何も注文してない」

「アサリの佃煮、昆布、焼きたらこ。ふっちゃんならこんな感じかなって」

「しょっぱいだろそれ」

 全部大好きだけど。

「そうかな。ふっちゃんぽいなって思ったんだけど」

「それは間違ってない」

「あ、やっぱりこういう系統好きなんだあ」

「ああ」

 ほとんど会ってないのになんで僕の好みを知っているのだろうか。やっぱりそういう商売をしているとわかるものなのだろうか。

「そこに玉子焼き入れてください」

「はいよ」

 牧島は慣れた手つきで三個入りのケースに玉子焼きをねじこんだ。

「なあ、もしかして僕に玉子焼きを注文させるために……」

「あっ、ばれちゃった?」

 牧島はいたずらっぽく僕を見つめる。

 彼女がバイトに入ったおかげでこの店は生き残れたんじゃなかろうかと、少し思った。

「いや、すげえよ。まんまとのせられちまった」

「まあ、ふっちゃんを騙すのは簡単だよ」

「本当に?」

「うん、ふっちゃんって意外と素直だからね」

 牧島はわざとらしくウィンクしてみせる。

 にゃあ。

 間延びした鳴き声とともに、ケージの中ががさごそと騒がしくなった。

「あら、猫ちゃんお腹すいてるんじゃないの?」

 牧島は何かを思い出したように、店の奥に小走りで向かった。

「みかちゃん、すげえな」

 僕は誰にでもなくそうつぶやく。

 にゃあ。

 さっきから雪月花が少しご機嫌斜めだ。長い間ケージに入れっぱなしにしているからだろう。


 戻ってきた牧島の手には、大きめのツナ缶が握られていた。

「猫缶じゃないんだけど、ごめんね」

「いいのかよ、それツナマヨのやつだろ?」

「大丈夫大丈夫、ツナマヨそんなに売れないから」

 そこじゃねえだろ。

 こちらとしてはむしろツナ缶のほうがいい。なぜか雪月花は猫缶を食べないからだ。

「おう、ありがたくいただいてくぜ」

「百円になります」

「お金とるのかよ」

「あたりまえでしょ、店の品物なんだから。……なーんて、うそうそ。全部で三八〇円ね」

「はい」

 なんだか最初から最後までずっと牧島に翻弄されていたような気がするが、とにかく助かったことには変わりがないので、僕はお金を払って彼女に礼を言った。

「とにかく、いろいろありがとうな」

「いいのいいの。小学生からの仲じゃん」

「そうか」

「うん。また来てね」

「もちろん」

 僕はすぐそこにある出口から、駅ビルの外へ出た。

 うららかな陽射しが心地よい。すぐ近くに県道があって、ひっきりなしに車が通っている。僕はおにぎりとツナ缶が入った袋を左手に提げながら、遠くに見える歩道橋に向かって歩いた。

 県道沿いの景色は、僕の記憶とほとんど変わらなかった。歩道は綺麗に整備されてはいるものの、排気ガスの色にくすんでしまっている。その先には駐輪場がひたすら並んでいる。振り向けば視線の先に大きなペデストリアンデッキがあって、それを使って駅ビルから県道を渡ると、高層のツインタワーがある。カジュアルなホテルとオフィスビルなのだが、どっちがどっちだったか、もう忘れた。

 そんなことはどうでもいい。僕が向かっている先は、そこではないのだから。

 古びた歩道橋は、もとからの塗装の青色が排気ガスと赤錆で汚れてしまっていて、どんな色かもよくわからなくなっていた。大学に入るころには既にこうなっていて、真新しい頃の歩道橋は影も形もなく、当然思い出の中にもどこにもない。

 にゃあ。

 雪月花はどこか拗ねたように鳴いた。

「もうちょっとだから」

 僕は彼女をなだめすかし、歩道橋をわたった。さすがにぎしぎしと軋むことはないが下の車は県道を容赦ないスピードで走っていて、落ちてしまったらどうしようなどと無用なことを考えてしまう。さほど小さくない歩道橋なのに不思議だ。

 住宅街と工業地がちょうど県道を挟んで隣り合っているという構造なので、工業地側、すなわち新元島駅側からこちらの住宅地側に歩いて向かうにはだいたい大きく分けて四パターンほどあり、ひとつは駅ビルから延びるペデストリアンデッキを伝ってツインタワーに向かう方法、もう一つは駅の反対側の出口からさらに歩いて駅前ロータリーの出口のすぐ近くにある交差点を渡る方法、三つ目が今やったようにこの歩道橋を使う方法、最後のひとつは、湾岸線の高架下を県道にそってさらに帝都側に進んだ先にある陸橋前の交差点を渡る方法である。陸橋がかなり遠くにあるため、駅前の駐輪場を使用する者と、陸橋の先の住宅地に住んでいる者以外はあまり使わない。

 ちなみに、■■の家はその陸橋の先、埋め立て地の中でも比較的早くに造成された地区にある。

 今日はそこまで向かわない。

 歩道橋を伝って遮音壁の奥に回り込み、緑地帯の中に入ると、今までの車通りと駅前の喧噪が嘘だったかのように閑静な住宅街に入る。

 ここが僕の生まれ育った地区、松平まつひらである。かといって自分の生家に用があるわけではない。行ったところで何もない。

 路地に入り数ブロックほど進むと、急に大きな公園が現れる。広い野原を取り囲むように植えられた様々な木々が僕らを迎えた。

「ようやく着いたな」

 僕は手近にあるベンチに座ると、ケージのドアを開けた。

 にゃあ。

 雪月花は少しくたびれたようすで、のろのろと外に出てきた。

 僕はあさりの佃煮が入ったおにぎりを食べる。海を思わせるような塩気と、ほんのりとした甘みが海苔やご飯にぴったりだった。時折くる生姜の食感も気持ちいい。

 ふと、膝に暖かくて重たいものが乗っかった。

 雪月花は白くて長い身体をくるりと器用に丸めながら、膝の上に寝そべっている。ひなたぼっこでもしたいのかもしれない。

 思わず、彼女の頭を撫でていた。

 にゃあ。

 雪月花はふわりとしたような、気持ちよさそうな声をあげている。風と陽射しが心地よいのだろう。

 おにぎりを食べ終わり、雪月花にもツナ缶をあげた。

 にゃあ。

 どうやらあまり腹をすかせているわけではなかったらしく、彼女はくつくつと非常にゆったりとしたペースで食べ始めた。

 のびのびとした一日が、久しぶりに訪れたような気がする。

 ベンチに腰掛けながら煙草を取り出して、ライターで火をつけようとした。

 にゃあ。

「いてっ」

 膝に爪を立てられたので、喫煙は仕方なくあきらめた。

 そうして雪月花の身体を撫でたり、風景を見回したりしているうちに、気がついたら太陽は傾いていた。

「じゃあ、帰るか」

 にゃあ。

 真っ白な塊は大きく伸びをして、ケージの中に戻った。お利口さん。

 ケージを片手に縦波まで電車でがたごとと揺られながら、今日という日の余韻に浸った。

 何もない日常こそが、僕の最後の望みであり、唯一守ろうと努力してきたものだ。だからこそ、怪異と戦ってきたのだし、■■を救おうと決意したのだった。その結果、非常に多くの犠牲があって、挙げ句の果てに世界はもうすぐ崩壊してしまうけれど、このような日常を最後に送ることが出来て、生きていてよかったなあと感じたわけだ。



 楽しかったよ、ふーちゃん。

 でもね、それだけじゃ、満足できないんだ。

 ごめんね。


 甘く涼やかな声が呪いのように響く。

 僕は彼女の名前を思いだそうと必死だった。



 目を覚ました。

 時計を見て、今日の日付を確認する。

 四月二日。木曜日だった。

 大学最後の春休みがもうすぐ終わろうとしている。

 僕はほとんど単位をとってしまっていたので、はっきり言ってしまえば新学期も何もない。

 外も雨だし、今日はゆっくりするのもいいだろう。

 いつものようにジーパンを履きパーカーを着ると、煙草に火を付けてゆっくりとふかした。

 身体の中に不純物が広がっていく感覚。いつも味わっているのに、どことなく新鮮なのは煙草を変えたからかもしれない。

 にゃあ。

 雪月花が悲しそうに鳴いた。猫だからかもしれないが、彼女は煙草が苦手なのだ。白くすらりとした美しいフォルムは、どこか裕福な家で飼われていそうな気品を感じる。

 突然、がちゃりと玄関のドアが開いた。

「ただいまー」

 眞鍋陽子が勢いよく部屋に入ってきた。胸のあたりがたぷたぷで、ちょっと苦しそうだ。

 また太ったのか。

 言いたくなるのを必死で押さえた。

「ユキちゃん、大人しくしてた?」

 眞鍋は雪月花に近寄って抱き上げた。

 にゃあ。

 彼女は大人しく鳴いた。

 部屋に入るなり僕じゃなくて雪月花の心配をするあたりに何か違うような違わないようなどうしようもないモヤモヤを感じながら。

「長かったな」

「なんか心配されちゃったよ」

 眞鍋はくう、と眉を上げて僕を見上げた。損な顔をされても困る。

「とりあえずシャワー浴びるね」

 あまりにも突然に、強引にシャワー室に入っていったのでツッコむことができなかった。

 そんなことはどうでもいい。

 にゃあ。

 雪月花がなだめるように傍にすりよってきたので、まあいいかと思って僕は再び寝ころんだ。


 ちょっとだけ、近づいてきたね。

 今日の方が楽しかったかな。


 甘く涼やかな声が呪いのように響く。

 僕は彼女の名前を思いだそうと必死だった。



 目を覚ました。

 時計を見て、今日の日付を確認する。

 四月四日。大学の開講日だ。


 朝食を作らないと、眞鍋は困ったことになるだろう。

 僕は起きあがって、適当に朝食を用意すると、眞鍋をたたき起こした。

「んー大丈夫だよ最初くらい」

「そんなことばっかり言ってるから単位落とすんだろうが」

「やーだー」

「やだじゃないだろ」

 だんだん腹が立ってきたので、肘のあたりをつまみ上げた。

「ああああああああ痛い痛い痛い痛いって」

 直後に強烈なビンタで視界が右に歪む。

 痛い。

 むっとして睨みつけると、彼女は寝ぼけた微笑みで、

「おはよ」

 と言った。

 なにがおはよ、だ。

 こうして全力で登校を拒否する眞鍋の背中を蹴って追い出してやって、ようやく朝が始まった。

「はあ、疲れた」

 にゃあ。

 雪月花は僕を見上げている。

 彼女はとても美しい。猫なのに、人間の言葉をわかっているかのように反応する。

 大人びた雰囲気の中にあるあどけなさ。

 それはまるで、■■を彷彿させる。


 ここまで、出掛かっているというのに。

 なぜだ。


 お前が偽物で、僕が本物だからだ。

 僕たちはもう入れ替わっている。


 不意にそんな言葉がよぎる。

 あいつの電波を受信した。

 そんな馬鹿な。


 僕は怖くなってきた。

 彼と僕とを分け隔てるものなど、アレしかないことに気がついているからだ。

 アレを持っているのが、僕だったなら。

 着ているジーンズの右ポケットを探った。

 今まで何も無かったそこに、ずしりと重たい、それはあった。


 血糊のついたナイフを持って、僕はただ立ち尽くしていた。


 ふと見ると、雪月花は僕を見つめている。


 ようやくわかったんだね。


 甘く涼しい■■の声が、頭の中に染み渡っていく。


 総て、終わりにしましょう。

 

 雪月花。

 いや、白く美しい猫と化身した■■■■は、痺れるほどに甘い声を響かせる。


 この世界を、真中浮人まなかふひとを殺して。


 彼女の支配は絶対だった。

 従わざるを得ない。

 僕によく似た。

 いや、彼に似せて作られた僕は、やはり彼を殺さなくてはならない。



 もう、厭になったの。



 ■■の声が甘く響く。

 次第に思考を失って、別人の思考の奔流に巻き込まれる。



 現実と異なる世界を、どうして私たちは生きなくてはならないのかしら。



 自分を取り戻すために。



 壊すことが簡単だったから、作り上げることが難しいことに気づけなかった。



 君を取り戻すために、僕は僕を壊さなくてはならない。



 もう、すべて終わりでいいの。

 壊してしまいましょう。



 結局、そうやって終わることになるのか。



 そうでなくては、幕引きができないから。



 僕はただ。



 私はただ。




 君を■■したかっただけなのに。


 ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■。



 全てを振り切るようにして、僕は部屋を飛び出した。

 見上げた空は、確かにいつも通り青く澄んでいて、これから世界が終わるとは考えられなかった。




 全てを失った僕は、ただ雨の中の縦波に沈む以外に道がなかった。

 何もかもをあの虚像に奪われ、ナイフで人を殺すことも出来ず、かりそめの縦波に囚われていた。

 御厨智子みくりやともこは消滅し、六本木舞ろっぽんぎまいは死んだ。

 そして札切零七ふだきりれいなは、僕が殺した。


 彼女だけは確かに、僕が殺したのだ。

 その存在を、確かなものにするために。


 僕は座り込む。ジーパンが急に水を吸って下腹部を濡らしていく。重くなったデニムの生地はまるで足かせのように再び立ち上がる気力を奪った。

 ひたひたと、水面をかき分けるような足音が遠くから聞こえる。この空間に踏み込むのは、一体誰だろう。

 視線の先に、灰色の長靴が映り込んできた。僕は目を上げる。

「久しぶりだな」

 霊能力者、吉岡和則よしおかかずのりだった。

 灰色の長靴にカーキ色のレインコートで雨から全身を守っている。

「なんでお前がこんなところにいるんだ」

 僕は素直に疑問を口にする。

「それは、お前を助けるためだ」

「何を言ってるんだよ?」

 馬鹿じゃないのか。

 恋人を殺した人間に、情けをかけるほどの人徳があるようには思えない。

「もう全て、わかっているんだろう?」

 吉岡は諭すように語りかける。

「真理菜は殺された。でもそれをしたのはお前じゃない」

 東雲真理菜しののめまりなを殺したのは、確かに僕ではない。

 でも。

「どうしてそれがわかるんだ?」

 それが謎だった。

 「彼」は、僕と見た目が全く同じだった。唯一異なっている点は、他人から見ると非常に微妙なところなので、判別はほぼ不可能といえる。

「俺はあいつと戦ったからだ」

 吉岡はコートの袖をまくった。左腕の手首から肘にかけて長い傷跡が一直線に走っている。

「水嶋先生が助けに来てくれなければ死んでいた」

 なんだって。

 まず、吉岡と「彼」が対峙しているだけでもかなり驚くのだが、そこに水嶋が割り込んできたというのが非常に想像しにくい。どんな因果があればそんな風になるのだろうか。

「それで、わかったことがある」

 吉岡は表情をまったく変えずに僕を見つめる。四角い眼鏡に水滴がついていないことに気がついた。

「あいつは、お前と決定的に違うものがある」

「違うもの?」

「ああ。……お前、自分の幼馴染の名前、言ってみろ」

 幼馴染。

 吉岡が言うのなら、該当する人物は一人しかいない。

「志島咲子」

「そう、お前は本物の真中浮人だから言うことが出来る。だが、あいつはそれが出来ない」

「出来ない?」

「ああ。あいつは、志島咲子の名前を言うことが出来ない。まるで、覚えていないというか、言葉にできないようになっているんだ」

「どういうことだ……」

 あれほどまでに精巧なものを造る咲子が、そんなくだらないバグを意図せず造るはずがない。

「さあな。とにかく、お前は本物の真中浮人だ。だから、まだなんとかなる」

「どういうことだよ」

 吉岡の表情が変わらないのは、何かを決意しているからだという単純なことにすら気づかなかった。

「俺たちが目指しているのは、世界の崩壊からの逃避、だ」

 物陰から聞き慣れた声とともに、サンダルをぴちゃぴちゃと言わせながら現れたのは水嶋准教授だった。

 彼も彼で、呪術師として経験を積んできた人間である。

「真中くん、君が俺たちに協力してくれるならば、戦いは今よりほんの少しだけ、望みがあるものになる」

 雨の中、トレンチコートを羽織ってボルサリーノ帽だったか、そんな派手な恰好をしている水嶋は、さしずめ映画の中の悪党のようであった。背格好的にちょっと小ぢんまりとしてはいるが。

 しかし。

 僕としては、ここから出るためには協力せざるを得ない。かといって、世界の崩壊はとうていくい止められるものでもない。そんなことは4わかりきっているのだ。

「真中の『繋ぐ』能力と俺の『切る』能力を合わせれば、少なくとも世界が、俺たちの思わぬ方向になるのを防ぐことは出来る」

「本当にそうか? 僕の能力は自分の意識の外で発動するんだぞ?」

「だが、間違って繋げてしまったものに関しては、俺が切れる」

 本当にそんなもんか。

 僕の能力を甘く見ない方がいいと思うが。

 とかなんとか言い始めるとキリがない。

「なるほど、とにかくこの歪な空間から逃げられるなら、僕はなんとでもするさ」

 こうなってしまったら、半分はヤケクソだ。

「ここは、お前自身が他人との怪異で作り上げた、言わば怪異の巣みたいなものだ」

 怪異の巣。

 そうか、だから雨が降っているのか。

 これは、雨宮の怪異を再現しているというのだ。

「なるほど」

「あー、お二人さん、能書きはいいが、あんまりグズグズしてると、本当に世界が崩壊しちまうからな?」

 水嶋は微妙な微笑みを浮かべた。絶妙に軽薄で、それ以上の印象を与えることのない表情だなと何となく思った。

「いや、そもそも、世界が崩壊しないなんてことが、あるんですか?」

 僕は純粋な疑問を口にする。御厨と札切が揃って崩壊を口にした世界にその可能性が残されているとはとうてい思えない。

「無いわけではないし、これからその場合を作りだそうというのが、俺たちの目的だ」

 水嶋はもうすぐ世界が終わるというのに相変わらず自信たっぷりに、毅然とした口調でそう言った。決まりきったことを言うとき、もしくは全く根拠のないことを悟られたくないときに、彼は半ば無意識的にこのような口調になる。

「その目的に精一杯努力しなければならない。――当たり前だな、達成しなければ俺たちは即、死亡だ。世界の崩壊に巻き込まれる」

 相変わらずの水嶋節。

 こんな時でも彼は僕たちに講義を行う。

「つーわけで、行くぞ」

 水嶋はコートの襟を立てて歩き始めた。

 雨が降り続けるただの住宅街。微妙に傾斜があるのも、縦波の中ではよくある風景だ。

 けれどもどこか違和感が拭えないのは、それこそ僕らがいつもいる縦波と、この空間が根本的に異なっているということなのだろう。

 水嶋がどこに向かおうとしているのか、僕にはわからない。

「元の縦波に戻るんですか?」

「ああ、もちろん」

 僕の言葉に水嶋は振り返ってそう言った。

「だが、いくつかやることがある」

「やること?」

「言っただろ、ここは君が関わった怪異で出来た空間だって」

「はい」

「ということは、その怪異をもう一度全て解決して、この空間自体を壊さないと。そもそも君がなぜこの空間にいるかということなのだが、それは君自身がこの空間の主であるからであって、だからこそ俺たちは君を元の縦波に連れて行くのに、こうして面倒な方法を取らなくちゃならないわけだよ」

「はあ、すみません」

 なんだか僕のせいになっている。

 もっとも、実際僕のせいなのだけれど。

「君の能力は本当に厄介だ。これで普通の人間を名乗っていられるのだから気楽なもんだ」

 水嶋の言葉にまったくだ、という顔をしてうなずく吉岡。

 はいはい。

 そんな僕らを一瞥すると、水嶋はいよいよ急いだ様子で閑散とした縦波の住宅街を歩き始めた。


 しばらく坂道を下って、どこにでもあるような、どこか思い出せないような無個性な住宅街を淡々と進んでいく。坂道を下りきったかと思えば上って、路地に入ったかと思いきや幹線道路にさしかかる。

完全にどこを歩いているのかわからなくなった頃。

「よし、着いた」

 水嶋は右手である家を指さした。

 流線型が特徴的な近代風のデザイン。

 東雲真理菜の家だった。

 水嶋は遠慮なく門を開けた。

「何奴だ!」

 玄関の扉を勢いよく開けたのは、見覚えのある男。

 中性的ではあるものの日本人離れした彫りの深い顔、短く切られた金髪。

 灰色の着物は、どこか薄汚れて見えた。

 吸血鬼侍のビリー。

 三度の登場。もはや、作為すら感じさせるが、もともと彼は創り出された存在だ、最初から最後まで作為に満ちているはずだろう。

 ある意味、これも因果でしかない。

「怪異の巣って、まさか……」

 問答無用で刀を抜き突き進むビリーを見て、僕は思わずそうつぶやいた。

「そういうことだ」

 吉岡はそう言うと、ぱちん、と指を弾いた。

 途端に、水嶋に向けられた刀の切っ先が切れて、落ちた。

「な……」

「お前、俺と会うのは初めてだったな」

 吉岡は至極冷静に呼びかける。

「まさか、吉岡というのは貴様か?」

「ああ、そうだ」

「貴様が、真理菜様を殺したのか!」

 ビリーの顔がみるみるうちに赤くなる。

「そうじゃないが、そう思ってもらっても構わない」

 なんだそりゃ。

「ならば、貴様を許すことはできまい。問答無用!」

 ビリーは再び刀を構え(不思議なことに元に戻っていた)、吉岡に突進する。

「ここは俺に任せてくれ」

 吉岡はそう宣言すると、水嶋を前に促した。

「そうさせてもらう。こいつ苦手なんだよ」

 水嶋はそう言い捨てて玄関の先へ消えてしまった。何がどうなっているのか全くわからない。

 吉岡は指をぱちん、と鳴らす。

 途端に、ビリーの両足が切り離され、彼はすてんと転んでしまった。

「貴様……」

 刀が刺さって血塗れになったビリーだが、当然持ち前の治癒力ですぐに回復する。吉岡が切り離した足もすでに繋がっている。

「なあ、お前、こいつに勝つつもりか?」

「当たり前だろ」

 それにしては、攻撃手段がのんき過ぎる。

 そもそも、吸血鬼侍という属性のビリーは、同じタイプの眞鍋でもないと攻撃が出来ないように思う。殴ろうが切ろうがすぐに回復してしまうからだ。

 吉岡は指を二回弾いた。たちまち、ビリーの両腕が切り離される。

 が、予想通りすぐに繋がる。繋がった瞬間、ビリーは跳んだ。吉岡の背中から血が迸る。目にも留まらない速さの太刀筋に、彼は抵抗する事が出来なかった。

 あまりにもあっさりと、吉岡は崩れ落ちた。

 だが。

 彼は立ち上がり、ビリーに向き直る。

「な……貴様はただの人間のはずでは?」

「いや、ただの人間ではない。既にな」

 その言葉と同時に、ビリーの顔が歪む。

 彼の身体は少しずつ朽ちていき、やがてドロドロの液体となって沈んでいった。

 わけがわからないんだけど。

「何をしたんだ」

「俺に繋がっている人間としての制約を一瞬切り離した。そして、あいつの身体から吸血鬼侍としての業を切り離した」

 よくわからない。

 というか、そんなことが出来るのか。

 だいたい、それが出来るんだったらなんで最初からやらなかったんだよ。

「エンジンがかからないと能力を発揮できない」

 吉岡が見透かしたようにそう言った。

「水嶋先生を追う。行くぞ」

 そうして彼は走り出す。

 僕はただただ、雨で濡れた重たい身体を引きずって追いかけるしかなかった。


 玄関の扉を開けると、またも雨が降っていた。

 室内ではなかった。静かで落ち着いた森の中、砂利が敷き詰められた空間にいる。吉岡は辺りを確かめるように見回したが、水嶋はいない。

 振り向けば、真っ赤に塗られた大きな鳥居が、でん、と森と砂利の間に鎮座していた。落ち着いた雰囲気の空間にあまりそぐわないほど大きくて派手な鳥居。

 ここは。

「山都大明神」

「なるほど」

 ざあざあと降っていた雨が、徐々に弱まっていく。

 僕は、なんとなくこの空間を理解した。

 おそらく、この空間にいたはずの怪異はすでに水嶋の手によって片付けられたのだろう。

 ということは。

 この先に行くためには。

「次の空間への扉は、どこだ」

 吉岡は顎を捻りながら辺りを見回す。

 僕は心当たりがあった。

 恐らく水嶋が倒したであろう、雨降らしが祀られていた場所だろう。

 広場の奥、大きな社の横に、それはあった。

 雨降らしが祀られている小さな祠だ。

 その祠の扉が、閉じられている。

「なあ吉岡」

 僕を見つけた彼は、不思議そうな表情をした。

「これか?」

「おそらく」

「……入れないだろ」

「知るかよ」

 僕は祠の扉を開けた。


 気がつくと、縦波大学のメインストリートに立っていた。正門をちょうど通り過ぎた、なじみ深い場所である。

 隣ではやはり吉岡がやはりぼおっと突っ立っている。

 やはり、ここか。

 こうなったら、経済学棟へ向かうしかない。

 そう思って走り出すと、吉岡も同じことを考えたのか、ほぼ同時に走り出した。

 この先に待っているのは三嶋さくらだろう。

 しかし、どのような状態なのだろうか。

 彼女は、僕らに危害を加えていた訳ではないのだから。それに、元々怪異と接点がない彼女は僕らに攻撃する理由も手段もない。

 走りながら、僕はどこか胸騒ぎがした。

 何かが違う。

 しかし、それが何かはわからない。


 いやな予感ばかりが的中するもので、それは僕の怪異が生み出した特殊で奇異な空間でも同じことだった。

 もう少しで経済学棟、というところで、目の前に何かが吹き飛ばされた。

 すでに帽子はどこかへ吹き飛ばされ、白髪交じりの長い髪の毛がぺたりと顔に張り付いている。

「くそっ」

 苦悶の表情を浮かべた水嶋准教授は、倒れた身体を大義そうに持ち上げ、経済学棟の掲示板のあたりを睨んだ。彼の身体にはブロック体の英字が高速で犇めいている。非常事態なのだろう。

「大丈夫ですか?」

 僕が声をかけると、水嶋はさっと振り向いて意外そうな顔をした。

「なんだ、意外と早かったな。――こいつは強い」

 そう言いながら水嶋は大きなノートブックを取り出し、一生懸命に文字を書き込んだ。次々と英字がノートから飛び出し、経済学棟へ向かっていく。掲示板の辺りに何かがいるのが見えるが、僕はそれが何なのかわからない。

「あれは……」

「恐らく、霊能力者の幽霊ってところか。亡霊の癖にやたら強い。どう考えても俺一人じゃ無理だ」

 水嶋は吉岡と僕を交互に見てそう言った。

 霊能力者の幽霊。

 そりゃ、水嶋も苦労するだろう。

 僕たちは恐らく同じことを考えたのだろう、ほぼ同時に掲示板の方へ向かって走り出した。

 視界の奥にいた人影が、だんだんと形を露わにしていく。背の高いグラマーな女性が、黒い着物を着ていた。縁のない眼鏡をわざとらしいくらい下に掛け、顎のほくろがやたらとセクシーだ。

 札切二三ふだきりふみ。札切零七の姉にして、生前は札切家始まって以来と言われる程の大霊能力者だ。その力は、死してなお生きていた妹を凌ぐほどの能力を持っていることからも半端ではない。

 彼女は手元から手品のように一瞬で扇子を取り出すと、僕らの前でひと仰ぎした。

 無数の砂が目に刺さって、僕は目を閉じる。

 直後に柔らかい壁にぶつかったような感触がして、空中に投げ出されたように感じた。

 バランスを崩し、地面に激突する。

 目を開けると、吉岡が同じように倒れていた。

「ここから先を通すわけにはいかない」

 札切零七のものと全く同じ声が、静かな構内に響きわたった。

「何でこの期に及んで邪魔をするんだよ」

 吐き捨てるようにそうつぶやかざるを得ない。

「知ったことか。これは私の意志ではなく、お前自身が創りだしたものだ」

 札切二三は慄然とそう言った。

 彼女は再び扇子を翻す。途端に強烈な風が吉岡を貫いた。

 彼の腹からは穴が空いている。

「吉岡!」

 思わずそう叫んだが、彼は涼しい顔で元に戻った。さっきビリーに使ったのと同じ技を使ったのだろう。指を鳴らした音が聞こえなかったけれど。

 僕は突進して、札切二三に拳を突き入れた。

 が、拳は空を切る。

「馬鹿か? 幽霊の私にそんなものが利くはずないだろう」

 強烈な衝撃が全身を吹き飛ばした。再び身体は宙を舞い、舗装された道に身体を強く叩きつけられる。

 思わずぼおっとしてしまったが、僕は彼女を殺すことができない。つまり、吉岡と水嶋を全力で守る必要がある。

 水嶋は全身にブロック体のローマ字を張り巡らせている。彼の肌を無数の文字が蠢いていて、非常に不気味だ。トレンチコートを露出狂のように開くと、彼の身体から夥しい量の黒い粉が吹き出た。

 いや。

 あれは。

 文字だ。

 その文字たちは一直線に札切二三に向かっていく。

 彼女の扇子から繰り出される風圧で、文字は次々と四散していく。風は淀みなく扇子から生み出され続け、もはや文字が抵抗することなどないように思えた。しかし、文字は後から後から、まるで無限とも思えるほどに出現し続ける。

 そして、扇子に文字の群れが到達した途端。


 ばりばり。


 乾いた音とともに、扇子が溶けて消えていった。

「な……」

 それが、彼女の発した最期の言葉だった。

 無数の文字の群れに、扇子ごと体は飲み込まれ、そのまま喰われて消えていった。

 虫か何かをイメージしたのだろうか。

「水嶋先生」

 僕は札切二三を倒した本人の方を向いた。

 しかし、彼はトレンチコートを残して消えていた。

どういうことだ。

「水嶋先生は、自分の身体を全て文字に変換したんだ」

 吉岡は、なんとも言えない表情で残ったトレンチコートを見つめた。

 なんだその、RPGでよくある感じの死に方。

「何もそこまでしなくてもよかったんじゃ」

「いや、アレは俺か先生のどっちかは確実に犠牲にならないと先に進めなかった」

「そうか?」

「そうだ」

 吉岡は硬い表情でうなずく。

 納得がいかない。

 どちらにせよ、ここで僕は吉岡と二人でこの歪んだ空間を進まなくてはならない。

「とにかく、行くしかないか」

 僕は経済学棟の入り口の扉を開けた。


 たちまち景色が暗転する。


 右か左か、上か下かすらよくわからなくなるまで、ひたすら歩いた。なぜか、前を歩く吉岡の姿だけは見える。気が狂うほどの静寂に包まれた世界で、僕らはどこかに向かって進み続けた。

 と。

「ぐ」

 吉岡が急に立ち止まった。

 大きな身体が折られ、倒れる。

 一瞬目を疑ったが、僕は次の瞬間、全てを理解した。


 その先に、フードを目深にかぶった、パーカー姿の男が、血塗れのナイフを持って立っていたからだ。


 僕の姿を写し取っただけの偽物。

 志島咲子が創り、雨宮や東雲を殺し、ついに今、吉岡すら手にかけた。

 そして彼は、創造主の命令に従って、最後は僕を殺そうとしている。


 にゃあ。


 甘くかわいらしい、猫の鳴き声が響く。

 彼の肩には雪月花が乗っている。

 美しい猫は、僕が最も愛していて、救うべき少女であった。

 いや、もう少女と呼べるような、そんな生易しい存在ではなくなってしまっているのだけれど。

 清楚でかつ妖艶な彼女の立ち姿から、僕はもう少し早くに気が付くべきだったのかもしれない。


 そうすれば、こんな終わりは、きっと回避されたはずだった。


 彼は血塗れのナイフを掲げ、僕に向かって突進してきた。

 繰り出されたそれを掴んで、膝で蹴り飛ばす。あっけないほどに軽かった。

 だって、もう先がわかっているのだから。

 そのまま彼の顎に膝蹴りをかました。何かが砕けるような感覚があった。

 彼は倒れ込む。

 けれど、すぐに起きあがってこちらを睨んだ。

 砕けたはずの顎は、元に戻っている。

 その再生力は、普通の人間ではない。


 にゃあ。


 雪月花は悲しげに鳴く。

 僕は彼女の正体を知っていた。

 ここで、どうすればいいのだろう。


 咲子を救うために、僕は何をすればいいのだろう。

 彼はなおも、自動人形のように僕を狙う。

 ただナイフを振り回すのではなく、的確に僕を殺そうと狙って振り抜いてくる。殺意を持った線をかいくぐりながら、身体の空いた部分に拳を食らわせる。

 それが無意味であるとわかっていても、筋書き通りに戦う。なんとなく、そうすべきであるような気がした。

「まどろっこしいな」

 ふと、女の低い声が聞こえた。

 ナイフと人形が、僕の前から消え、僕の足は虚空に吸い込まれかけた。


 金色の髪の毛をした下着姿の女が、彼を押し倒している。差し出したナイフは下腹部に深々と刺さっているが、血はどこからも出ていない。

「全部投げ出して放っておくから、こんなことになるんだよ」

 眞鍋陽子は、僕を見つめ、どこか悲しそうな顔をして言った。それは何かを諦めたような柔らかさと切なさを持っているが、今の僕にはもう何も届かない。


「もう世界は、終わってしまったんだろ?」

 そうつぶやいた瞬間。


 にゃあ。


 新雪のように真っ白な猫が、気だるげに鳴いた。

 瞬きをすると、そこには。

「いっつも遅いんだよね」

 志島咲子が、不満げな顔で立っている。

 なぜだろう、僕はそんな表情の彼女をもかわいいと思ってしまうのであった。

 それこそ、こんな場面であったとしても。

「うん、確かにこいつ、なんでもかんでも遅いんだよ」

 眞鍋は指をさして笑った。

 笑うことはないような気もするが、笑われて当然なくらい、僕は愚かなことをしている。

「陽子ちゃんも、そう思ってたんだ」

 咲子はふわりと明るい笑みを浮かべながら、眞鍋の方を向いた。

「ごめんね、痛かった?」

「うん、ま、これくらい大丈夫だけど」

 彼女はナイフを引き抜いた。

 傷口からは何もこぼれ落ちず、その傷も一瞬で埋まってしまった。茶色の肌が何事もなかったかのように続いている。

 下着姿の眞鍋と、真っ白なワンピースを着た咲子。

 そうか。













 これが全てで。


 これで全てなのだ。














「やっぱり世界は……」

「もう、終わったよ」

「知ってる癖に」

「というか、そもそも世界なんて」

「あったんだよ、確かに」

「私が、創ったのだから」

「やっぱりそうなのか」

「そう。だから、これでおしまい」

「わけがわからないな」

「自分がわけのわかる人間だった自信でもあるのかよ」

「ねえよ」

「だから、それでいいんじゃない? わけがわからなくて」

「そういうことか」

「うん、そゆこと」

 ゆっくりと閉じていく空間に、もはや誰も残されていない。自己と他者との距離が、無限大に開いていく。

 分断されていた意識も、今や僕本来の思考を残して全て消えてしまった。この世界には、僕しか残されていないのだから、それも当たり前なのだけれど。

 そう、これが僕の、世界の終わりのイメージだった。

 そうして、イメージ通りに。

 何もかも、恐ろしいほどに僕が想像した通りに。




 世界は、終わった。



















「――それが、まじない」







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The magic nightmare ひざのうらはやお/新津意次 @hizanourahayao

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