Ep.2 The proof of existence

 しとしとと、静かな雨が見守る中、黒塗りの車が、雨宮の遺体を運んでいた。

 僕は何がなんだかわからないまま、防虫剤の臭いが抜けない真っ黒なスーツを着て、黒い傘を差しながら立っていた。冷たい湿気はシャツの隙間から徐々に体温を奪っていく。それでも僕は、立っていることしか出来なかった。葬列に参加するでもなく、かといって無視するでもなく、そこに立っている僕を不審に見つめる人は、そういえば誰もいない。

 誰に話しかけられるでもなく、誰に話しかけるでもなく、葬式は進んでいく。不吉なほどに陰惨な天気で、何よりも「それらしい」のに、信じられないくらいに現実感に欠けている景色だ。

 まるで、映画の中の一シーンを見ているかのように、目の前の光景がただただ過ぎ去っていく。


 所詮、僕にとって他人の死は、それ以上の価値を持たないということなのだろう。


「真中さん、どうしましょう」

 佐貫が神妙な顔をして僕を見下ろす。真っ黒に日焼けした、どこか南国を思わせる穏やかな顔に、どこか思い詰めたような表情が浮かんでいた。

「何がだ」

「僕、一度も雨宮さんのことをミヤコさんて言いませんでした」

「……確かに」

 それは気にしすぎじゃないだろうか。

 確かに、雨宮はミヤコと呼んでくれと、彼の前で言ったことがあるが。

「別に、呼びたくなかった訳じゃないんですよね。いつでもそう呼べそうなのに、あえて雨宮さん、って感じで呼んでいたんです」

「はあ」

「何で、ミヤコさんって呼べなかったんだろうなあ……」

 佐貫は今にも泣きそうなほど目に涙を浮かべ、うつむいた。

 でも、僕としてはそんなことを言われても困るだけだ。

「僕、たぶん雨宮さんのこと、好きだったのかもしれないですね」

「……ああ、なるほどな」

 それは、なんか、なんとなくわかる。

 佐貫のようなタイプの男は、おしとやかな女性らしい女性よりも、むしろ雨宮のような文化系でかつ物事をはっきりと言ってくれるようなタイプの方が似合う。

「でも、不思議なんですよね」

「何が」

「僕、思ったより悲しくないんですよね」

 佐貫は、心底不思議そうな顔をした。

「そりゃそうだよ」

「はい?」

「たかだか二十年程度しか生きていない僕たちにとっては、他人の死は所詮他人の死なんだよ」

 自分が感じている違和感の答えを既に無意識に理解し、それを言葉にできていることに驚いた。

「そういうもんなんですか」

「僕は、そういうものだと思ってるよ」

「そうなんですかねえ」

 首をひねる佐貫に掛ける言葉がイマイチ見つからず、僕は逃げるように無言で側を離れた。

 斎場を出かけた坪井を見つけたので、何かに救われるような気持ちでそこに向かった。

 坪井は至極無表情で、僕を見つけると軽く会釈をして、

「嘘みたいだよな」

 と、珍しく静かな口調でそう言った。

 こんな時こそ、彼は全力で明るく振る舞うものだと思っていたので意外だ。

「ついこの間、花見の約束をしたばかりだったのにな……」

「ああ」

 そういえば、花見の前夜から当日は雨だった。だから、翌日にしようとして、電話したのだった。

 それが雨宮桃子の最後の会話だと知る由もなく、僕らは何気ない会話で電話を切った。

 いまさらになって、それがとても悔しく思えてくる。なぜ、あの時気をつけろとか、何かがおかしいとか、気の利いたことを言えなかったのだろうか。

「なんだか、嫌な予感がするぜ」

 いつにない真顔で、坪井は言った。

「どういうことだ?」

 坪井の言いそうな言葉ではない。なんとなくそれがひっかかった。

「なんつうかさ、これが悪夢の始まり、って感じしない? こう、うまく言えねえけど、こんな感じで人が死んだりもっと酷いことが起きそうな、そんな気がするんだよね」

 坪井は極端に声を落としてそう言った。

「なるほどな」

「わかるだろ?」

「ああ」

 現に、御厨や札切によれば世界は終わりに近づいているのだ。雨宮が何者かに殺されたことも、もしかすると世界の終わりと何か関係があるのかもしれない。

 確かに、これで終わりというよりは、まだまだ何かがある、と考えた方がいいような気がした。そもそも、あの日から六本木舞ろっぽんぎまいはまだ僕の前に現れていない。この悲劇が六本木舞の仕業ではないとは思うが、何らかの予兆であることは確かなのだ。

「フヒトさん、気をつけろよ」

「何にだよ」

「さあな……強いて言えば、『不運』かな」

 こんな坪井らしくない言葉を連発されても笑うことができなかったのは、坪井の表情と口調が余りにも重たかったからである。

 視線を落とし、去っていく坪井は、何かが抜け落ちた人形のような不気味さを放っていた。


 そして、雨宮の死を知らせた吉岡は、ついぞ見ることがなかった。


「吉岡くんと東雲さん、いなかったね」

 帰り道、隣で眞鍋がそうつぶやいた。

「吉岡の姿を見てないな、最近」

「うん。東雲さんも」

 東雲さんも。

 僕は東雲真理菜しののめまりなだけは見ている。

 いや、あれは。

「僕の幻想だとでも言うのか」

「なんだよ突然」

「いや、東雲さんは何度か見たんだ」

「え、そうなの?」

 そうまじまじと見つめられるとなんとなく違うような気もしてくるのが僕の弱いところである。

「僕は何度か会っているんだ」

「え、吉岡くんに内緒で? やばくね?」

「そうじゃねえよ」

「じゃあ会ってないの?」

「そういう意味じゃねえよ」

「わかってるよ」

 でしょうね。

 ふと見ると、何か言いたげに口をとがらせているので、なんとなく唇を右手でひっつかんでやった。

「んー! んーーーー!」

 手足をばたばたさせる様はどことなくいたずらをされた妖精のようで可愛らしくもあり滑稽でもある。

「んはあ」

 絶妙に色っぽく息を吐きながら、眞鍋は僕に抗議の視線を向けた。真っ黒なワンピースに覆われていてもはっきりとわかるほど大きな乳房がたぷん、と水のように揺れた。

「何すんだ」

「ちょっと面白そうだったから」

「そういうことは考えてもやらない方がいいよ」

「お前じゃなかったらやらなかった」

「ふええ」

 そうして僕は、






 突然意識が吹き飛んだ。






 青白い満月に、フードをかぶったパーカー姿の男が立っている。

 無造作にぶら下げている右腕の先には、ナイフが月の光を浴びてきらきらと光っている。

 一つの直感がよぎる。

 雨宮を殺したのは、こいつだ。

 そう思った瞬間、彼はこちらに顔を向けた。

 ぎらぎらと光る右目。長すぎた前髪が覆い隠す左目。

 その鬼気迫る表情。

 僕はその人物をよく知っていた。









「一瞬、君の景色が見えたよ」

 静かに、しっかりと眞鍋陽子はそう言った。

 気がつけば僕は自分の部屋で寝かされていた。

 眞鍋は下着姿でくてん、と寝転がっている。そんな退廃的な姿で添い寝されても困る。

 金色の髪がくるくると丸まっている。最近気づいたのだが、彼女の吸精鬼の力が使われると髪が丸まり始めるらしい。

「ミヤコちゃんを殺したってことは、きっと他にも……」

「おそらくそうだ。全てを殺しきるまで、止まらない」

 あの青年の眼差しから、なんとなくそう思った。

「一体どこまでいくんだろうね」

「わからない」

 こんな時こそ、札切や吉岡、できればそれ以上の能力を持つ宮町家の巫女たちにも相談したいところだが。

「とりあえず、ゼロに会おう」

「そう、じゃ私いったん家帰るね」

「何で?」

「いや、あれだよ、家って実家のことだよ。……そろそろ帰らないと心配するからさあ。君と同棲しているなんて言ってないし、言えないし」

 なるほど。

 そういえば、世間では今は春休みなのだった。

 なんだか巧く言いくるめられてしまったような気もするのだが、とにかく身支度をした眞鍋とともに外に出た。

 札切に電話をしたら、彼女の通う高校の近くまで向かうことになった。

 いつものように縦波市営地下鉄に乗る。

 縦波駅で眞鍋と別れ、いつも降りる「ヒルズ中央」駅を過ぎた。

 巨大住宅街である縦波ヒルズを過ぎると、地下鉄の車内はあからさまにまばらになる。ここから先は縦波市ではなく、泉谷市になるということもあるのかもしれない。

「次は、終点、霧遠台むおんだい、霧遠台です」

 泉谷市霧遠台。今や日本を代表する企業グループで、旧財閥の中でも異彩を放つ久遠院くおんいん一族が高台一帯を買い占めて開墾し、そこに自らの従者を住まわせたことが名前の由来であると言われている。

 ちなみに、久遠院本家はその筋では有名な霊能力者一族として知られる。札切家など霞むレベルらしい。よく知らないけれど。

 閑散としたホームに降り立った。周囲には誰ひとりとして人がいない。さっきまで何人か乗っていたはずだったのだが、いつのまにかどこかへ消えてしまっていた。

 長いエスカレーターを上りきると、予想に反して数えられる程度の自動改札機が並んでいるだけの小さな出口が現れた。なるほど、だから人がいなかったのか。

 改札を抜けると、見知ったツインテールの女が、不敵な笑みを浮かべてたっている。

 見知ってはいるが、名前をすぐに思い出すことはできなかった。

「ここで会うのは初めてだな、真中浮人まなかふひと

 彼女はまばゆいほどの真っ赤な袴をはためかせて、僕の行く手を遮る。

 そう、この巫女服も、既視感があるし、おそらく宮町四姉妹のうちの誰かだということはわかる。

 ただ、彼女の名前を知らなかった。

「あたしは親切だからもう一度名乗ってやる。宮町礼奈みやまちれなだ。四姉妹の末っ子ってやつだな」

 よく見ると、彼女はすらりとした長身で、首もとが少しほっそりとしている。中学生か、あるいは高校生くらいだろう。

「さて、わかってるだろうが、れーなねーちゃんに会いたかったら、あたしを倒して……」

 宮町礼奈が言い終わらないうちに、彼女のツインテールの右が吹っ飛んだ。

「げええっ!」

 僕は視線を奥へと遣った。

 巫女の服装をしている女が、遙か後ろにもう一人いる。

 からん、からん。

 地下道に下駄の音が響いた。

「止めな、礼奈」

 夏の終わりに髪型を変えた札切のような、思い切ったベリーショートの髪型が、中性的な顔に映える。それでいて、巫女服とも不協和にならない、どことなく和を残した顔立ち。女の侍がいたら、おそらくこんな感じだろう。

「妹が狼藉を働いて申し訳ない。僕の名前は宮町倫みやまちりん。次女、風の巫女だ」

 よく見ると、左手にはかなり長い和弓を持っていた。

矢はどこにも見あたらない。

「札切零七が待っている。僕と共に来てもらおう」

 宮町倫も、礼奈ほどではないにせよ、僕に対してどこか好戦的だった。小柄な身体から常に射抜くような眼光を向けており、それは明らかに好意からくるものではない。

「興味本位であっても、断ったらどうなるか、などは考えない方がいい。君の考えは、僕たちには筒抜けだから」

 そういえばそうだった。

 元々断るつもりもない。そもそも札切に会おうと言ったのは僕の方だ。

 宮町倫は無言で歩き出す。

 地下道は巫女の姉妹とパーカー姿の大学生がいるだけで、他には誰もいなかった。どこかシュールな画だと僕自身も思う。

 やたらと長いトンネルを抜けて、つづら折りの階段を上る。霧遠台駅自体はさほど深いところにはないのだが、なにしろ他の地域とは少し隔絶されるほどの台地なので、地上に上るのもそれだけ時間と労力がかかるのだ。なぜエレベーターやエスカレーターが設置されていないのかは、きっと僕にはわからないだろう。

 長い階段を上りきると、開けた交差点の角に出た。目の前には小ぢんまりとした時代遅れのショッピングモールが建っている。みすぼらしさを感じさせないのは、周囲もまた、タイムスリップしたかのように十数年前、僕が小学生だった頃のような衛星都市の雰囲気を堅持しており、そこから何一つ進化も進歩も進展も退化もしていないからなのだろう。

 僕からすれば、それは少年時代の原風景のようでもあったが、頭の中の冷静な部分がどこか警告のように違和感を訴えている。

「君もそんな風にとらえるんだね」

 音もなく近づいていた宮町倫がすぐとなりでぼそりとつぶやくように言った。

「この街は、造られた時から時間が進んでいないようだ、って姉さんも言うんだ」

 姉さん。

 彼女の言うそれは、大地の巫女にして宮町四姉妹の長女、宮町蘭のことに他ならない。

「なあ、蘭さんっていくつなんだ?」

 女性に対して禁忌である質問であることは、常識はずれの僕でもわかっていることだけれど、思わずそう訊ねざるを得なかった。

「同い年だよ」

「誰と?」

「君と」

 マジかよ。

 二十一にしてあの超然とした雰囲気を持つことができるということは、やはり並大抵の人間ではないことの証左でもある。

「妹の瑠璃るりと札切零七が聖アーカンゲル女学院の同級生なんだ。ちなみに僕は零七の二つ上で君の二つ下にあたる」

 宮町倫は驚くほど、いや驚くほどでもないけれど、不思議なほどさっぱりと答えた。

「ちなみにあたしは瑠璃の三つ下だよ」

 何を偉いと思ったのか、宮町礼奈は胸をつん、と反らせてそう言った。小生意気なツインテールがぴょん、と跳ねる。

「お前中学生なのか」

 それにしては全体的に発育がいい。

 全体的に。

 きわめて純粋に、そう思った。

「うわ、最低……セクハラだ」

「まあ否定はしない」

「中学生にそんなことを考えるなんてキモっ」

 否定しようもない。

 その純粋さは中学生らしいと言える。

「ほんとなんでれーなねーちゃんがこんなちんちくりんのネクラのクソ変態野郎に惚れたのかわからないんだけど」

「さすがにその言い草はひどくないか」

 とはいっても正直僕も、それがどこまで的を射た表現であるのかは全くわからない。

 宮町倫は口を閉ざしたまま、ただ先へと進んだ。


 どっしりとした白い門が、僕を出迎えた。

 姉妹たちは僕をここまで送り届けると、これ以降は自分でやってくれとばかりに投げやりに引き返していった。

 手に入れたセキュリティーカード(合法かどうかもよくわからない)をかざして、姉妹から教えてもらった八桁のパスワードを入力する。このカードとパスワードを受け渡すために、彼女たちは迎えにきたのだろう。そうでもなければ、僕と彼女たちに会う理由などどこにもないのだ。

 門は甲高い金属音を立ててゆっくりと横に開いた。僕はゆっくりと門をくぐって、寮棟へと向かった。聖アーカンゲル女学院の広大な庭は、みるものを圧倒してしまうほどに美しく造られているのだが、なぜだろうか、今の僕にはそれが不思議となにか怖いもののように思えて仕方がなく、こそこそと泥棒のように、何かに怯えるように進まざるを得なかった。

「そんなに挙動不審で入ってくるとは思わなかった」

 不意に札切が傍らに現れ、僕の身体をつかんだ。そのまま植え込みに押し倒される。よく手入れされた低木の枝がちくちくと身体を刺して痛い。

「何するんだよ」

「お前は知らないだろうが、ここは徹底した男子禁制だ。男性はこの庭園含めて、校内には入れない。警備ですらロボットに任せているほど徹底している」

 つまり。

「それを破った罪は、でかいと」

「そういうことだ。来い」

 札切はスカートのポケットから式紙を出すと、オイルライターで燃やした。

 たちまち意識が暗転する。


 ふと我に返ると、僕は部屋の中にいた。

 部屋は大して広くないのに、やたら高級感に満ちあふれている。きっと家具が全て桐で造られた特注品だからかもしれない。

「お前を待っていた」

 そりゃどうも。

「なあ」

「単刀直入に言うと、雨宮桃子あめみやももこの死はこの世界の終焉を告げる最初の標識だ」

 こともなげに札切は、言葉を先回りして答えた。

 どいつもこいつも僕の思考を読みやがって。

「これから、何人も……」

「ああ、それどころじゃない、最終的には全てが殺される」

 あのパーカーの男に。

「アレは六本木舞が造りだしたモノではない。言いたくはないし、認めたくはないが……」

 六本木舞より上位である何者かが、あの男を造りだしたというのか。

「智子さんじゃないし、六本木舞でもないとしたら、一体……」

「そこまではわからない。だが、一つだけ言えるのは、六本木舞を殺したのはアレを造りだした人物だ」

 六本木舞を殺した?

 僕は耳を疑った。そんなはずがない。あの時、確かに六本木舞は僕に「何か」を注入していた。つまりあの時点では生きていた。

 それが、誰にも何も痕跡を残さず死んでいるはずがない。

「なぜそれが言える」

 思考をいくつかはしょらざるを得なかった。

「六本木舞は死んだ。彼女に付けた標識が消えた。……そして、六本木舞を殺せる人物は非常に限られている」

 なるほど。

「そいつ以外に六本木舞を殺せない、ってことか」

「つまりはそういうことだ」

 札切は低い声でそう言った。

 というか。

「お前なんでずっと抱きついてるんだ?」

 移動させられてから今まで、僕は部屋の隅に追いつめられて、札切に組み伏せられている。生ぬるい体温と、異常なまでに深い彼女の呼吸を身体で感じている。

 そんなことを言ったら、札切の呼吸と鼓動が一気に早くなった。心なしか、体温も少し高くなってきたような気がする。

「それは……その……あの」

 なんなんだよ。

「なんか、そう、成り行きだ」

 少し息が荒い。

 あえて無視をしようと思った。

 と。

 札切の顔が近づく。

 おい。

 ばさりと垂れた髪が頬や首に刺さってくすぐったいが、身をよじることもできないほど、彼女は僕の身体をしっかりと固めていた。

「お前、まさか」

 唇に湿ったものが押し当てられ、中に柔らかい肉が入ってきた。ぬるぬるとしたそれは僕の口内を貪るように動き回る。

 気持ちいいのか気持ち悪いのかもわからない。右にも左にも逃げられない環境で、突然こんなことをされてしまっては感情どころか本能すら追いつかない。

 札切は僕が抵抗しないのをいいことに、強い力で床に身体を押しつけながら、ただただ、舌を絡めようと迫ってきた。

 というか、こいつ、ここから先に進むつもりが全くない。

 少し魔が差して、札切の制服の隙間に手を入れてやった。


 何もない。

 一瞬の静寂。

 空間が分断されたような、そんな感覚が襲う。


 左から来た真っ白な太股が顔を薙いだ。

 とっさに受け身をとって勢いを殺さなかったら、首が折れていたかもしれない。

「力を出し過ぎた」

 はっと我に返って、札切はばつがわるそうに僕を見つめた。

「一歩間違ってたら死んでたぞ」

「そうだな、済まない」

 札切の顔が若干青ざめているのを見ると、今の蹴りは本気に近かったのだろう。むしろ、受けきった僕はかなり運が良かった。

「元はと言えばお前が余計なことをするからだろう」

 なんだそりゃ。

 あれだけディープキスをしてきたくせによく言いやがる。

「あれは余計なことじゃねえよ。むしろお前がやろうとしてたことに向かうためだろ」

「えっ……」

 札切は顔を赤らめた。

 処女かよ。


 いや、待て。


 札切家の霊能力者は、女に限られているのだが、その霊能力を保持するのには一つの条件がある。

 すなわち、純潔であること。

 つまり。

「お前、そういや処女なんだな」

「今さらだな。そう言うお前だってつい最近まで童貞だっただろうが」

 それに関しては何も言えない。

 札切が少しだけ、僕と距離をあける。

「早すぎたようだな」

「いや、早すぎたも何もねえだろ」

 お前が一方的に好意を寄せているだけなんだから。

「いや、それじゃない」

「じゃあなんだよ」


 一瞬、札切の顔が歪んだように見えた。

 強烈な眩暈。

 そして違和感。


東雲真理菜しののめまりなが殺された」


 札切の切り立った崖のような表情が、凍り付いた空気を表していた。



 僕はどうしてこんなことをしているのだろう。

 彼女をこの手で抱きたいから。

 そんな単純な動機で、人を殺していくのだ。

 それが近道だと知っているから。



 東雲真理菜はやはり腹部をメッタ刺しにされていた。

 あいつの仕業だ。

 そう直感するまでもない。確定的すぎる。

 なぜなら僕自身が彼と繋がっているというのが、すでに絶望的に答えを示している。

「覚悟を決めろ」

 現実でも幻想でもない空間で、傍らの札切がつぶやく。

 式紙は勝手に燃え続けていた。

「これは、お前の物語だ」

 おい。

 それ、聞いたことある台詞だぞ。

「ふざけやがって」

 思わず本音が漏れるほどにナンセンス。

「お前は、繋がりたくて、繋げ過ぎてこんがらがってしまったんだ」

「それが世界の崩壊を招いている、と」

「極端に言えば、そうなる」

 僕の意識が無限大へと吹き飛んだ。



 僕は。



 何のために、生かされているのだろうか。



 雨宮は。

 東雲は。

 何のために、死んでいったのだろうか。



「そこに意味など、あるものか」

 虚空に向けて僕はつぶやく。

 まるで孤独になれなかった恨みを晴らすかのように。

「生きている意味?」

 冷たく切り立った少女の声がする。


「それはね」

 甘く涼やかな彼女の声がする。

「欲しいものを全て手に入れるってこと」

 背筋が強烈にぞくぞくする。

 その感覚が何によるものか、よくわからない。


「そんなもの、■■■■■■■■」

 彼女の言葉がフェードアウトして、身体が漂流を始める。

 そうか。


 完全に誘導されていたんだ。

 六本木舞を超える能力者などいないと思っていた。

 とても近くに、思いがけないところに、彼女はいたのだ。


 けれど。

 どこに。


 彼女は、今、どこにいるのだろう。


「あーもう」

 少し媚びたような、鼻にかかった声がした。

 目の前に、吸精鬼になった眞鍋がいる。

「少し目を離すとすぐこれだよ」

 彼女は呆れたように僕をみつめる。

 はあ、と漏れたため息が、どこか官能を煽っているように聞こえるのは、彼女のさがのせいなのだろうか。

「いい加減、自分を強く持って」

 眞鍋陽子は強引に僕の手を引いてどこかに連れて行こうとする。

 けれど、行く先は未だに闇の中だ。

「そんなんだからいろんなモノに魅入られるんだよ、たぶん」

 仕方ないんだから。

 そんな声が聞こえてきそうなため息混じりの声。


「私は、ずっと前から気がついてるよ」


 意識が。

 思考が。

 途切れ、また。

 繋がれていく。


「もう絶対に、離したりしないから」


 雨の中、彼女は僕を抱きしめていた。

 その言葉の裏にある彼女の想いに、僕は気づくことはない。

 これまで気が付かなかったものを、これから先気が付くとも思えない。


「おめでとう」


 誰かのゆがんだ声が、虚空に響く。

 ここは、どこだ。


「俺は、お前を許さない」

 吉岡の声だ。

 その声はくぐもっていて、いつもよりもかすれていた。

 気持ちは分からなくもない。

 だからこそ。


「お前のせいだ」


 目の前の長方形の顔に言葉の礫をぶつける。

 冷たいのは、お互い様だろう。


 その冷たさで、東雲真理菜は死んだ。


「仕方がない」

 吉岡は、厳然と僕を見つめ、腕を組んで立ちはだかる。黒縁眼鏡の奥の小さな瞳が腰を落ち着けられずに小刻みに震えていた。

「次会うときは、■■■■」

「わかった」

 そうして僕は、闇の中の吉岡を見送った。



 しとしとと、静かな雨が見守る中、黒塗りの車が、東雲の遺体を運んでいた。

 僕は何がなんだかわからないまま、よれよれの真っ黒なスーツを着て、黒い傘を差しながら立っていた。冷たい湿気はシャツの隙間から徐々に体温を奪っていく。それでも僕は、立っていることしか出来なかった。葬列に参加するでもなく、かといって無視するでもなく、そこに立っている僕を不審に見つめる人は、そういえば誰もいない。

 誰に話しかけられるでもなく、誰に話しかけるでもなく、葬式は進んでいく。不吉なほどに陰惨な天気で、何よりも「それらしい」のに、信じられないくらいに現実感に欠けている景色だ。

 強烈な既視感によって、葬式の意義は簡単に失われた。ここで行われているのはもはや何の非日常性も神聖さもない、ただの漫画の一コマに過ぎなかった。


 わかっている、僕にとっては所詮他人だ。


「東雲さん、雨宮さんと同じ、通り魔に殺されちゃったんですよね……」

 佐貫はひどく沈痛な面持ちで、ぼんやりと立っている僕にそう言った。

「ああ」

「縦波は一体、どうなってしまうんでしょう」

「僕に聞かれても困る」

「え、あ、そうですね……」

 佐貫は心底申し訳なさそうな顔をした。

 お前がそんな顔をする必要はない。

 そう言おうとした時だった。

「なんだか、世界が終わってしまいそうなくらい、重苦しい雰囲気ですよね」

 彼の言葉に、一瞬固まった。

 何一つ事情を知らない彼が、正鵠を射ていたという事実。そこに世界の崩壊の本当の恐ろしさがある。

 などという戯言はさておくとして。

「お前は、いつものお前でいればいいんだよ」

「……はい」

 励まそうとした結果言ったことだが、よく考えると何がなんだかわからない。

 それでも佐貫は、ほんの少しだけ明るい表情になってくれた。こういうところが、佐貫の本当にすごいところなのだ。

「そういう言葉をかけてくださるの、真中さんだけです」

 何を言ってるんだ。

「お前、友達たくさんいるんじゃねえのかよ」

「いや、確かに遊ぶ友達ならいますけど……こうしてきちんとお話しできる人はそんなにいないんです」

 なるほど。

「僕は世界を変えるなんてことは出来ないよ」

「ええ、それはわかっています。……けれど、真中さんのおかげで何かが変わった人はたくさんいると思います。真中さんが、気がついていないだけですよ」

 佐貫はまっすぐに僕を見つめた。心底真面目そうな表情に、黒縁眼鏡の無骨さがどこか不釣り合いに見える。

「そうやって、世界は変わっていくんじゃないかなって、僕思うんです」

「そうか」

「誰かが変えるようなモノじゃなくて、みんなが、そうやって変えていくモノなんじゃないですかね」

「そう、かもしれないな」

 佐貫のくせに、なかなかいいことを言うな。

 とは、言わなかった。

 言いたくもない。

「だから真中さん、僕と一緒に、この重苦しい世界を変えていきましょう!」

「なんでそうなるんだよ」

「え? 僕じゃダメですか?」

「そこじゃねえよ」

 縮れた髪と地黒の肌から心底困惑した表情がのぞいた。なんでだよ。天然かよ。

「世界がどうであろうと、僕らはそこに生きているんだ。だから、何をどうしようなんて、本当は考えちゃいけないんじゃないか。僕は、そう思う」

「なるほど」

 佐貫は少し目を丸くして、心底納得したようにうなずいた。本当に納得しているかどうかは、誰にもわからない。

 そんな佐貫に、この世界は本格的に終わりへと向かおうしているなんて言えるはずもなく。

 僕らはそこで別れた。


 ヒルズ中央駅へと降りる地下道で、僕は妙な既視感を覚えた。

「よう、真中」

 宮町礼奈。

 札切零七を慕う彼女は、僕を敵視している。

 ツインテールはまっすぐに、あの時と変わらず下まで伸びていた。

 その彼女が、ぎらついた笑みを浮かべて立っている。

「やっぱりお前は殺しておくべきだったんだ」

 そう言うなり、宮町礼奈は大きく右手を振りかぶった。

 握り拳くらいの火球が、少女が投げたとは思えない速度で近づいてくる。

 僕は素早くかがみ込んでそれをかわすと、右腕を大きく引き、一気に地を蹴って彼女の身体めがけて打ち込んだ。

 拳の先が灼熱に包まれる。

 じゅっ、と何かが焼ける嫌な音がした。

 知ったことか。

 構わず僕は地面を左足で思いっきり蹴り、左の掌を彼女の身体に叩き込んだ。

 大きな手ごたえと種類すらわからないほどの激痛を同時に感じる。

「ぐえっ」

 潰れた悲鳴をあげて、宮町礼奈はいとも簡単に吹き飛んだ。思っていたよりも、ずっと軽い。


 今、僕は何をした。


 右手は黒く焦げており、指は閉じられたまま動かなかった。

 そんな馬鹿な。

 確かに、肉を切らせて骨を断つにはそのような戦い方もありだろう。

けれど、これは。

 僕の戦い方ではない。

 呆然と右手を見ているうちに、またも不思議なことに気づいた。

 完全に黒焦げだったはずの拳が徐々に、ビデオを巻き戻しているかのように戻っていた。炭化していた骨は(そもそも、骨まで焼けていたことにさっきまで気づかなかった)みるみるうちに生き物としての色を取り戻し、さらにその周りを淡い色の筋肉や血管、神経が覆っていく。

「今さらか」

 吹き飛ばされた宮町礼奈は、ぺっ、と口から血を吐き出すと、見下すようにそう言った。

「お前、鈍感にもほどがあるぞ」

 そうか、そういうことだったのか。

 六本木舞に渡された力は、ただ単に意識が別の場所に繋がるだけのものではなかったと、そういうことだったのだ。

 僕は再び地を蹴る。


 思えば、この速さ。


 迫る火球を両手でもみ消した。

 焦げた両手はみるみるうちに元に戻る。


 この回復力。


 左足が地面についた瞬間、右足を彼女の脇腹に放つ。

 革靴がぎい、と嫌な音を立てる。右のつま先は確かに手応えを掴んだ。

 宮町礼奈は先ほどと同じように簡単に吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。


 この力。

 どうして今まで、尋常でいられたのか。


「くそっ」

 蹴られた部分を押さえて、宮町礼奈は蹲った。真っ白だったはずの巫女服は、いつのまにか黒や茶色や赤い染みで汚れている。

 僕はスーツのポケットから……。


 一体何を取り出そうとしたんだ。

 僕は何を何と間違えたんだろう。


 いや、既に答えは出ている。

 認めたくない、それだけだろう。


「なんでお前ごときに……」

「いや、知らねえよ」

 泣き始める宮町礼奈。

 どうしろというのだ。

 面倒だなと思ったその時。

「もうやめろ」

 聞きなれた声が聞こえて、ゆらり、と巨大な炎が目の前に現れたかと思うと、一瞬で熱と光を放出して、札切零七の身体が中から現れた。

「礼奈。馬鹿げたことをするな」

「でも、こいつは……」

 宮町礼奈のまぶたは赤く腫れていた。

 ツインテールがはらり、と儚く揺れる。

「だからと言って、お前はその能力を人殺しに使うと言うのか?」

 対する札切は仁王立ちで冷たい視線を彼女に向けている。

「で、で、でもっ、あたし……う、うわあああああん」

 満身創痍の巫女が地べたに座り込んでアニメのように泣き出した。いや、今時のアニメはこんなに雑に泣かない。どういう感情表現の仕方をしていたらこうなるんだ、こいつ。

 などと、冷静にツッコミをいれている場合ではなかった。

「礼奈、悪い。蘭と倫を呼んでおいたから後はなんとかしてくれ」

「そんなにそいつと一緒に逃げたいのかよ!」

 礼奈は泣きながらそんなことを言う。

 僕はいろいろな意味で会話から取り残されていた。

「ああ、悪いな……」

「ねーちゃんのばか!」

「ああ、馬鹿だよ。本当に私はどうしようもない馬鹿だ」

「もう知らない!」

 激昂した宮町礼奈を見つめる札切の顔は冷たく、重い。何かに疲弊したような、どこか思い詰めたような、そんな表情だった。

 札切は式紙を取り出して、万年筆で何かを書き入れた。

 万年筆。

 まさか。

「なあ、その万年筆……」

「ああ、御厨智子のものだ」

 御厨のものを札切が持っている。

「智子さんは……」

 消えたというのか。

 札切は目を見開く。

「言っただろう、世界は着実に崩壊へと向かっている」


 暗転。


 再び僕は、彼女が創りだした空間に閉じこめられる。

 柔らかな両腕に拘束される。

 彼女の身体からほんのりと体温が伝わってきた。びっくりすることに、札切の胸は、ほんの少し柔らかい。

 ■■とは、そこが大きく違っていた。


 あれ。

 名前が、思い出せない。

 そんなはずはないのだけれど。


「世界は確実に崩壊する。それほど時間も残されていない」

 おおよそ清廉潔白な札切のものとは思えない、低く重たい声が、僕の深奥を揺るがした。

「そうだとしたら、私の霊能力者としての存在意義、役割はもう既に終わっている。それに気がついたのだ」

 霊能力者としての存在意義?

「……ああ。私が札切家の人間として生まれた、その理由、その役割。それを自分で意識するところから、霊能力者としての札切零七は始まっている」

 それは、なんとも苦痛を伴う旅路であったに違いない。

 そもそも、人間に存在意義などないのだ。牛や豚に存在意義があるとは思えない。それと同じである。自らに役割があるのだとすれば、それは誰かから勝手に与えられたものか、自分で創りだして誰かに押しつけたものだ。

「札切零七として生きる意味を失ったのだ。あの修行はなんだったのか、これまでの私は、一体なんだったのかと、自分を問い詰め続けた」

 不毛すぎる。

「簡単だった。霊能力者としての札切零七は死んだけれども、私には、もう一つ、今まで封印してきた生き方がある」

「まさか……」

 お前、それはいくらなんでも。

 と言おうとしたとき。

 その唇を塞がれた。

「もともと人間の存在価値など、たったひとつしかなかったのだ。それを無理矢理に、社会の中に当てはめて、多様化させているように見せかけているだけに過ぎない」

 僕の脳裏に、直接彼女の声が入り込んでくる。

 ほんの少しずつ、身体の奥がじわじわと炙られるように温められるような感じがする。僕自身が考えもしなかった、いや実は気がついていたけれども見ようともしなかった感情の塊がどす黒い液体と化して、全身に染み渡りそのまま沸き上がるように身体を侵していく。


「どうせ僅かな時間で総てが終わってしまうのならば、私は霊能力者としてではなく、女として、自由に生きる。――そう、決めたんだ」

 低く、重たく、それでいてどこか切なさが残る声は、例えるならば、何かを諦めることで逆に別の何かから解放されたような、そんな印象を与えるわけだが。

 僕は実際のところそんなことを考えられる余裕はなかった。札切は全身のあらゆる部分を駆使して僕を犯そうとしている。

 そして、それに対してさして抵抗する気もなくなってきている自分に気がついてもいた。

 一体今までの僕はなんだったのだろう、そう思ったとき、ふと気がついた。

 自分を信じることなど、とうの昔にやめたはずだった。それがなぜ今更、本当に今の今になって、そんなことを考えるようになってしまったのだろうか。

 札切の指が僕の服を少しずつ脱がしていく。息は荒く、視線はどこかあさっての方を向いていた。けれどそれは紛れもなく、僕が知っているどの彼女よりも、解放された表情をしていた。

 瞬間的に、様々な思考が流れ込んでくる。その奔流に意識が押し流されていくが、もはやどうでもいい。

 彼女の身体の奥が空虚に開き、僕から総てを吸い上げていった。


 にゃあ。


 遠くで猫の鳴き声が聞こえたような気がする。

 彼女の支配下に入っているから、今は答えることが出来なかったけれど、僕は確かに聞いた。



 物語の終焉。彼女自身、それを感じ取っていたのかもしれない。

 彼女の腹は横一文字に紅い線が開かれている。

 自らの命が終わるその時になっても、彼女は不敵な微笑みを浮かべていた。

「お前に感謝しよう」

 そう言って彼女は。

 朽ちるでもなく。

 果てるでもなく。

 自らの影と同化して、闇へと消えていった。



「真中さん」

 玄関のドアを開けた先の佐貫は、あの日と同じように、真っ黒なスーツを着ていた。ちりちりの細かい天然パーマ(というのかどうか、ちょっとわからない。なにせ、あまり見たことがない特殊な髪質なのだ)は必要以上に短く切られており、心底緊張した面持ちで、僕の目をのぞき込んでいる。

 その姿勢、苦手だからやめろと何度も言ったのに、それすらも忘れてしまうほどに、彼は今緊張しているのだろう。

「どうしたんだよ」

 小雨が降っている中、来訪者を立たせておくわけにはいかない。急に訪ねてきた佐貫に、ろくなおもてなしが出来るほど僕の家に備蓄はないが、僕は彼を部屋に招き入れるしかなかった。眞鍋が実家に帰ってしまってから、明日で一週間になる。

 にゃあ。

 雪月花せつげつかが明るく鳴いた。歓迎しているのだろう。

「いや、その、あんまりおじゃまするつもりはないんですけれど……そういえば真中さん、この猫、なんですか?」

 佐貫は心底興味深げに雪月花を見つめて、にこにこと笑みを浮かべている。黒スーツだが、大丈夫なのだろうか。白い毛とか、結構簡単についてしまうが。

「雪月花っていうんだ。あだ名はユキ」

「へえ。綺麗な猫さんですね」

 にゃあ。

 まるでお礼を言うかのように真っ白な猫は鳴いた。

「だろう。捨て猫だったんだけど、放っておけなくて」

「なるほど」

 佐貫は心底納得したかのようにうなずいた。

「で、佐貫」

「はい、なんでしょう」

「何の用だ」

 いやなんでしょうじゃねえだろ。

 とは思ったが、そこは言葉を飲み込んだ。

「実はですね、僕、今日、就活の面接なんです」

「えっ、早くない?」

 僕は素直に感想を漏らした。

「そういう会社なんです」

「なるほど、だからネクタイも黒いんだな」

「眼鏡も黒いです」

「地肌もな」

「眞鍋さんも黒いですよね」

「そうだな」

「ユキちゃんは白いですね」

「だからなんだよ」

 わけがわからねえ。

 佐貫は心底楽しそうに、にこにこと笑みを浮かべて僕を見ている。どことなく気持ち悪い。

「で、なんなんだよ。面接だから僕に激励の言葉でも掛けて欲しかったのか?」

「はい」

 佐貫はあっけらかんとそう答えた。

「そこまで気の利いたことは言えないぞ」

「気の利いたこと、というよりは、真中さんの声が聞きたかったというか、そんな感じなんです」

 カノジョか何かかお前は。

 そう言いたくなるのをこらえる。言ったら言ったでなんか変な感じになりそうだった。

「で、なんで葬式スタイルなんだよ」

 さっき微妙にツッコミかけたが、ネクタイが真っ黒で、どう見ても喪に服しているようにしか見えない。

「なんでしょう、これは、こうしなきゃならないような気がしたんですよね……」

 少し恥ずかしそうに笑った佐貫に、僕ははっとする。

 彼と札切は面識がないものの、僕を通じて繋がっている。それを勘で察知したのかもしれない。

 あくまで仮説だけれど。

 どうも、佐貫にはそういうところがあるのかもしれない。

「どっちにしても、その恰好で会社に行くのはよせ」

 僕はタンスから自分のネクタイを取り出した。二つあるうちの黒くない方だが、仕方がない。

「これ、後で返してくれ」

「ありがとうございます」

 佐貫は心底うれしそうにそれを受け取った。

「では、面接がんばります!」

 部屋を出る佐貫の背中は、少し大きく見えた。

「おう、しっかりやれよ」

 僕はその背中に力強く声を掛けた。

 頑張ったほうがいいのかどうか、僕にはよくわからないが、こういう場合はつべこべ言わない方がいいことは、二十一年生きてきた経験上知っていることだ。


 急に眠くなって、僕は布団に倒れ込んだ。


 にゃあ。

 雪月花が僕にしゃなりと近づいてくる。

「なあ、ユキ。僕は、これからどうすればいいんだろうな……」

 にゃあ。

 その白くすらりとした身体は。

 そう、彼女のようだ。


 これでようやく、私のものだね。

 待ってたよ、ふーちゃん。


 甘く涼しい声が、全身を優しく包み込んだ。

 彼女の名前を、どうして忘れてしまったのだろう。

 絶対に忘れるはすのない、

 絶対に忘れてはいけない名前だった、はずなのだ。











 私は満足した。

 彼は、体内に刺さった冷たい刃を、無表情で横に引いた。

 当たり前のように、腹が裂けて、暖かい血が身体の外へ流れていく。

 不思議と痛みは感じない。

 彼は、霊能力者の私を殺し、そしてただの女子高生の私を再び殺した。

 そう。

 殺されること、彼に存在を消されることが、私の最後の望みであった。それこそが、私がこの世界に存在していた、唯一にして絶対の証明になるのだ。

 消されるということは、今まで存在していたということと同値であるのだから。

 家を滅ぼすことも、運命を断ち切ることも、すべてはこのためであったのだと、私は死の際になってようやく理解したのだ。


 ありがとう。

 私は彼の名をつぶやき、この世界の終わりを見届けずに闇の海の一部へと還っていく。

 さようなら。















 真中浮人。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る