Ep.1 blue moon child
煌々とした満月が、やけに重たい夜空を飾る。
青白く光るナイフをジーパンのポケットにしまって、狼に憑かれたようにおもむろに外へ出た。
春とはいえ夜はまだ肌寒い。肌着の上に着たパーカーは幾度にもわたる洗濯でよれよれに型くずれし、裏地はもうごわごわで、袖には何ともいえない感覚がまとわりついている。
からりと冷えた空気が、靴音を無用に響かせていた。そのせいで自分がどこにいるのか、他に人がいるのかがあからさまになってしまう。それは僕にとって好都合だった。
前を歩くスーツ姿の女子大生が、ヒールをかつかつと鳴らして歩いていた。どことなく歩き方がぎこちないのは、普段はスニーカーを履いているからに違いない。彼女のトレードマークだったボブカットは、就職活動にあわせてやめたらしく、毛先が妙に跳ねている。
ナイフをジーパンのポケットから、パーカーのポケットに移した。僕はほんの少しわざと足音をたてながら、彼女に近づく。
女の足が止まった。
その瞬間、僕はまっすぐ彼女へと駆け寄る。
振り向いた彼女の表情は、すぐに忘れてしまった。何かを思いだそうとすればするほど、それを忘れてしまう。僕の悪い癖だった。
最後の試験が終わり、講義室にざわめきが帰ってきた。僕はため息をついて筆記用具を片づけると、席を立ち教室を抜け出した。
「よっ、フヒトさん最後まで解いてたのあれ?」
教室の出口で坪井がへらへらと笑いながら僕に近寄る。彼はまた誰かから要領よく試験範囲を教えてもらったのだろう。それで問題をあっさり解いて、片手で数えられるほどしか出席していない科目の単位でも簡単にもらえるのだからすごい。僕には絶対に出来ない。まず、そこまで信用できる友達がいない。
「まあ、本当は出て行ってもよかったんだが、時間ぎりぎりだったし、見直してたら退出禁止になってた」
「なるほど、フヒトさんらしいや」
彼は軽薄な笑みで静かに笑った。
チャラさに隠れた冷徹な計算高さ。
僕はようやく、彼のそういった一面を認めることができた。僕にとっては自分の通えるギリギリの偏差値の大学(もちろん、高いという意味ではない)なのであるが、縦波大学といえば、一般的には優等生だけが通うことの出来る国立大学のひとつなのだ。縦波という地名が作り上げた潮風の香り漂うブランドにも似たそのイメージは、もはや全国レベルである。
もっとも、実際に来てみるとそこは山の中、幹線道路と住宅街に囲まれた何の面白味のない土地にどてーんと横たわっているだだっ広い森、でしかないわけで、多くの人間は試験を受ける日にその事実に直面し唖然とするわけだ。
僕はといえば帝都大学の志望を諦めた時点で、もはや国立に入れればどこでもいいと思っていたのでこの森のようなキャンパスを見ても何とも思わなかった。むしろ、ここならきっと静かに勉強できるだろうなあ、などとのんきなことを考えていたものだ。
「ほんとさ、お前って一年から変わらないよなー。見た目がフツウなのにやたら変なオーラあるというかさ」
「変なオーラ?」
僕のどこにそんなオーラがあるのだろうか。
「変、というか。なんだろな、初めて見た時からただ者じゃねえなっていう感じ? するんだな」
坪井は真顔でそう言った。真顔で言うな、真顔で。
「そういや、就活はどうなったんだ?」
僕はおもむろにそう言って、しまったと思った。この時期に就活の話をふるのはあまりよろしくない。
「あれ、言わなかったっけ?」
坪井は少し恥ずかしそうな顔をした。
その顔は。
「俺、もう内定あるから」
「おめでとう。さすがだな」
「ありがとう」
本当に、さすがとしか言えなかった。こういう要領のよさは驚嘆するほかない。
「まあそういうことだから、フヒトさんもいろいろがんばってくれ」
「ああ」
「大学院の結果、楽しみにしてるぜ」
「ん?」
僕は大学院を受けるとも言ってないし、受けるつもりもないのだが。
「あれ、フヒトさんじゃなかったっけ? 大学院受けんの」
「僕ではないな。僕はすでに仕事が決まっているから」
とは言っても、御厨智子は現状行方不明というか、もしかするともうこの世界にはいないのかもしれないわけで、そういう意味で僕は自由なのかもしれないけれど。なにせ、縛っている者が消えてしまったわけなのだから。
「そうか。てっきり院にいくもんだと思ってた」
坪井は不思議そうな顔をしながら、友達を見つけたのだろう、
「おっ、じゃあな」
と、廊下の向こう側へ消えていった。
僕も静かに、講義棟を後にした。
うららかな春の陽射しが、キャンパス全体を柔らかな印象にまとめあげていた。キャンパスのメインストリートを歩く大学生たちが浮ついたようすなのは、どうも試験が終わっただけのことではないように思う。
「おつかれー」
どこからともなく、聞き飽きた女の声がした。
振り返ると
白いブラウスにピンク色のカーディガン、そして黒のプリーツスカートというどうにも普段通りではないような恰好だが、どうしたのだろうか。おまけに縁なしの眼鏡までしている。
「おう」
どうつっこんでよいものやら。
「あのさ、せめてなんか言ってよ」
その様子を目ざとくとらえたのだろう、彼女はそう言って唇をすぼめた。
「じゃあ言うけど、なんだその無駄なお嬢様アピールは」
「無駄って言うなよ」
「いや無駄だろ」
本物なんだから。
「こういう服を着ることもあるんですよ、女の子なんだし」
「まあそこは否定しない」
僕も女の子だったらお嬢様風にキメてみたいものだなと思うし。
って思ったらこの前そんな風にさせられたな。
しかも無理矢理。
「というか、やっぱりこれがおっきすぎるね」
といって胸の巨大な膨らみを持ち上げる眞鍋。
たしかに、お嬢様を気取るには清楚さがどうしても足りない。そういう風に、身体が出来ていないのだ。
「ふーちゃんが着た方がいいかもね」
「やめろよ」
「そういえば、あの子、どうなったんだろうね」
「
「うん、あれから姿を見ていないけど」
僕も、不穏なつぶやきを残したあの日以降、会っていない。
「まあ、どうでもいいんだけどね」
自分で言っておいて、本気でどうでも良さそうな顔をする眞鍋。まあ、こういう女なんだけどね。ある意味で天性的なサディズムの才能を持っている感じ。
だからこそ、彼女は吸精鬼になってしまったのかもしれない。怪異には必ず因果がある。僕がこんな怪異を背負っているのも、僕が自分勝手で自己完結的な人間だからだ。
咲子はいったい、どんな因果を持っていたのだろうか。僕には想像できなかった。
「また咲子のことを考えてるな」
メインストリートを下りながら、眞鍋は肘で僕を小突いた。
「呼び捨てにするなよ」
「なんで? 同い年だよ、君と違って」
「そういう問題じゃねえよ」
自分でなく他人の名前なのだが、僕はなぜだか、咲子を「咲子」と呼び捨てにされることに生理的な違和感があった。なぜだか、普通の人間がそう呼んではいけないような、そんな気がするのだ。
「ふうん、変なの」
眞鍋の足取りが少し早くなって、右手が彼女に引きずられるように伸びていく。仕方がないから歩調を早める。機嫌がほんの少し悪くなるとすぐこれだ。たしかに、こういうところはちょっとお嬢様っぽい。どうでもいいところだけれど。
というか。
「何で手を繋いでるの僕たち?」
「さあ。しーらない」
眞鍋はずんずん前へと歩いていく。
そうして僕らはキャンパス内で最も大きな交差点にぶつかる。正門から講義棟を通り西門へと続くメインストリートと、北門から食堂や生協棟、学生支援センターやサークル棟を通り南門へ抜けるサブストリートが交差している。
そして、南門側からあまりにも唐突に、彼女は現れた。
「あなたみたいな人にもカノジョが出来ることってあるんですね、びっくりしました」
スーツを着た背の高い女子大生。
不思議な色彩の眼鏡からも、ボブカットからも卒業しているその姿は新鮮であるが、言葉だけは普段と全く変わったところのない
「お久しぶりですね」
「ああ、そう言われれば結構久々だな。相変わらず元気そうで何よりだよミヤコ」
眞鍋となんとなく繋いでしまった手をそのままにすべきなのか放すべきなのか、非常に迷うところだ。けれどお互い放そうとする気はないようで、なんとなく繋がったまま雨宮の方を向いた。
「そして初めましてですよね、カノジョさん」
「こんにちは。あなたがミヤコちゃんなのね、はじめまして、眞鍋陽子でーす」
眞鍋はいつもよりテンションのギアをひとつあげて、雨宮に精一杯の愛想を振りまいた。あまり身のある行動とは思えない。
「よろしくお願いします。しかし、真中さん、やりますね」
雨宮の視線は不躾に眞鍋の胸と僕を往復した。彼女にしては高等なコミュニケーションテクニックである。
「それに関してはノーコメントだ」
いずれにしても大きなお世話だし失礼極まりないが、だからこそ彼女がいつもの雨宮だということがわかる。
僕はまだ疑っているのだ。
目の前の光景が、いつものそれではないかもしれないということを。
あの作務衣姿の札切が現れてから、僕のいる世界は一応元の形を取り戻しているように見える。けれど、相変わらず
あの突然の告白があった後も、札切は姿を見せない。僕の返事を期待した割に、聞きにこないのである。
もしかすると、もう答えがわかっているのかもしれなくて、それで渋っているのかもしれない。
そんなことはどうでもいい。
「しかし、その恰好はなんだよ」
「インターンです。今日、二次面接なんです」
「へえ」
そりゃたいへんだ。
インターンシップが何かなんて実はよくわからないのだけれど、とにかく就活も進学もしない僕にはさして関係のないことくらいはわかった。インターンシップをすることで社会人の気持ちがわかって就活に有利になるとか、大学院に進学するのに就業体験としてそれを課しているとか、そんな話しか聞かないし、要は安い給料である程度の事務作業をさせて、企業はその適性を見て優秀者を囲い込み、学生は学生で、社会で働いたという達成感を得るためにやっているのだろうと思っている。
「真中さんには全く関係なさそうですよね」
「ああ、全然関係ないよ。職は決まってるし」
「すごいですね、一生自由業で暮らすつもりですか?」
「というよりは、正業に就けるチャンスがない」
「なるほど、言えてる」
眞鍋が間に入って僕を見つめた。
重たい一重まぶたの上には、ほんの少し濃いめのつけまつげが乗っていて、余計に眼差しがもったりとしている。こういうのは嫌いじゃない。
そういえば、咲子も綺麗な一重まぶただった。水分が少し多い崩れかけの雪のような、あの。
ぎゅっ。
繋いだ手が急に強く締まった。
なんなんだ。
「そういえば、最近、雨降りましたか?」
唐突に、雨宮桃子はそう言った。
「この季節は降らないからな」
この答えが正解かどうかはわからないけれど、最近雨が降ったかどうかを思い出せなかったことをごまかすものとしては比較的いい返しであるような気がした。
「そういうごまかしはいいんですよ」
真顔の雨宮が、僕の作戦を見通していた。
「そういえば、この前降ったね、雨」
思い出した。
あれは雪月花を拾った日の朝だ。
「ああ、やたら寒かった」
季節はずれのあの雨を、僕はついさっきまで忘れていた。あの真っ白な猫を拾った朝、僕は確かに何かが変わったようなそんな気がしたはずだった。けれど、眞鍋に言われるまですっかり忘れていたのだ。
まったく、早すぎた春ボケである。
「やっぱり降ってたんですね」
雨宮の顔が暗くなる。
「どういうことだよ?」
僕の言葉に、彼女は意を決したような目を向け、
「私の周りは、雨が降らないんです」
と、はっきりそう言った。
正直面倒くさいな、とか、なんなんだよ、とかそんな感じのことを思った。
もともと雨宮にかかっている怪異は、天気を操るものであって、雨を降らせるというものではないのだ。
「そういうこともあるだろ。だいたいなミヤコ、君が望まなきゃいくらお願いしたって雨は降らないんだぜ」
「ええ、だからおかしいんです」
「何がおかしいんだよ」
「私は心から雨が降って欲しいと思っている。けれど、私の周りでは今度は雨が降らなくなっている。これはどういうことですか」
そんな睨まんでも。
というかどういうことですかって、こっちが訊きたいくらいだ。
「さあな。お前の中で何かが変わって、雨を望まなくなったんだろ」
「そうですか」
どこか諦めたような表情の雨宮に、ほんの少しいらっとするが、なぜかいっこうに強く握りしめてくる眞鍋のせいで、強く出られない。
「では、そういうことで。テストがあるので失礼します」
何がそういうことなのか全くわからないが、雨宮はそう言って講義棟の方へと足早に去っていった。
「変な子」
正直すぎる感想を漏らしながら、眞鍋は繋いでいた手をふりほどいて正門の方へと歩き出す。
なんなんだよ。
とは言えず、あっけにとられてぼんやりしていると、
「なに、家帰らないの?」
と、くるっと振り返って言われた。
その絶妙さ加減、漫画のよう。
といってもことばで表現できるわけもない。いや、恐らく出来る人は出来るのだろうけれど、僕自身の表現力では出来なかった。
「こら、何妄想してんだ」
こつん。
ちいさな細い指が額を小突いた。
「何も」
「ぼんやりすんなよ人混みのど真ん中で」
はあ、とため息をつく眞鍋。
一瞬、自分が何をしようとしていたのかがわからなくなったが、そういえば家に向かっていたのだと思い出し、おもむろに正門の方へ歩きだした。眞鍋はそんな僕の背中をゆっくりとついて行く。さっきみたいに横に並ぶようなことはしないで、ちょこちょこと、二歩くらい後ろをついてくるのだ。どういうつもりだろうか。
作務衣を着た札切がこちらを見つめている。
「その選択が、お前の答えなのか」
抑揚のない冷たい声が、僕に向けられる。
開かれた両目は、いつもよりも鋭い。
「お前がどう言おうが、僕は僕でしかないし、それ以上でも以下でもないんだ」
そうして僕は口を開く。
「そうか。そう言われてみれば、お前はいつもそうだったな。自己を頑ななまでに堅持する。そんな姿勢だから怪異に魅入られる」
「うるせえ」
僕の軽口に、札切はただただ冷たい視線を送る。
「私がお前の思うとおりに動くと思ったら大間違いだ」
「そんなことを思うほどお前のことを考えてないから安心しろ」
「そうなのか。……少し、寂しいな」
札切は目を伏せ、自嘲気味にそう言った。
なんだその高等なコミュニケーションテクニックは。お前高校生だろ。しかもそういうキャラじゃないだろ。
「お前が見ていたのは私ではなく『ボク』だからな」
「なんだそのカッコつけたような言い方」
「真の私が、お前の目の前に解き放たれたということだ」
「へえ」
「お前のせいで『ボク』は死んだ」
言動が中二病なのは相変わらずだが。
なんだよ、僕のせいとか言うんじゃねえよ。
「感謝する。本当の私を解き放ってくれたことに」
居丈高なのも相変わらずだ。せめて目上を敬う心くらいは持っていてもいい。変わったと言うのなら。
「そんなことより……」
「
一瞬息が止まる。
「お前がそう訊くことなど誰でも予測できると思うが」
目をすぼめてしらけた表情をされた。
そんなにわかりやすい行動パターンだとは思わないけれど。
「変な奴だな」
ぶすっとした顔のまま、札切は僕にゆっくりと近づく。
いつになく、どきりとした。
札切の行動に色気を感じるなんて、屈辱以外の何物でもない。
彼女は僕の肩を抱いて、唇を引き寄せる。僕が抱き上げられる形になるのが男として少し嫌だが、僕の方が背が低いので仕方がない。
目を覚ました。
身体中がどんよりと重たい。
辺りを見回すと、いつもの僕の部屋だった。
すぐ横では眞鍋が横になっている。
あれは夢だったのか。
それにしては少し、記憶が飛んでいるような気がする。
記憶が飛んでいるかどうかも曖昧でよくわからない。なんだか、霧がかかったような不鮮明な部分が頭の中に広がっている。
僕は眞鍋を抱きしめた。暖かく柔らかな球形の物体に手をかける。
「もお、なあに?」
気だるそうな声が聞こえる。
なんとなく、その物体をもみくちゃにしてやりたくなったので、そうした。
全身をさわやかな疲れが駆けめぐった。
「なんか、変わったね」
まだ整いきっていない息をごまかすように、金色の髪をくるくるさせながら、眞鍋はやわらかな声でそう言った。人ならざる者とは思えないような、平和そのものといったような声で。
「何が?」
僕は正直に答えた。
「強くなったというか、激しくなったというか……なんか、嫌なことでもあったの?」
浅黒い一重まぶたが僕を気だるそうに見つめた。
「それはもちろん、あるにはあるさ」
僕は正直に答えた。
「いやまあ、そうなんだけど」
眞鍋は僕の答えに満足しないようだった。あからさまに目を伏せ、拗ねたように口をとがらせる。
「なんかいっつも君ってそういう感じだよなあ」
「どういう意味だよ?」
「だから、そういうところ」
言われている意味がよくわからない。
いや、正確に言うとなんとなくはわかる。けれど、明確な言葉としてはわからない。
「まあいいや」
眞鍋はふわあ、と大きく伸びをして、布団から起きあがる。褐色にはそぐわず柔らかい質感の肌がなめらかに揺れた。髪の毛は黒に戻っている。
彼女は無言で洗面所に消えていった。
僕は夕飯を作るために立ち上がった。
携帯電話が震えた。
誰からだろうとモニターを見るが、知らない番号が表示されている。
「もしもし」
「あっ、真中くん」
電話の奥から聞こえてきたのは、東雲真理菜の声だった。吉岡にでも番号を聞いたのだろう。
「あっ、って何だよ」
「いや、なんかメモ書きにあった番号に電話しただけなんだけど」
「するなよ」
よっぽど暇だったのか。
しかし、よりによってメモ書きされたのが僕の電話番号だったとは、恐れ入る。どういう場面でそうなったのか全くわからない。
「じゃあ用もないわけだ」
「そうなの。びっくりだよね」
「僕もびっくりだよ」
そんな電話をかけてきたのは彼女が初めてだ。今僕は、自分の知り得なかった新しい人種と接触を試みている。
「そうそう、なんかね、最近カズが変なんだよ」
東雲はどこか楽しそうな声で衝撃的なことを言った。
いや。
お前それ、そんな明るさで言うことかよ。
「変、って?」
「浮気してるのかな? 私がいってないことやしていないことをいったりしたりしているの」
言葉が若干ややこしい。
「なんだかそれだとよくわからないが、もしかして、君と行っていない場所のことを話したり、君じゃない人の話をしていたりしているってことか?」
「そうそう、そうなの」
メモ書きでたどり着いた相手にしていい話ではないような気もするが、僕と彼女は知り合いなので仕方がない。
吉岡はたぶん、東雲以外の女性と関係を持つなんてことはあまりしないような気がする。彼は間違いなく東雲が好きだ。ちょっと気味が悪いくらいには。
本当に推測の域を出ないが、恐らく吉岡もまた、何か別の因果律にとらわれたルートを巡っているのかもしれない。その結果、多数のルートの東雲真理菜と過ごしている、という仮説ができあがる。そしてそれは、僕が体験してきたこと、電話の先の東雲の言葉といずれも矛盾しない。
「最近電話もたまに繋がらなくなるし……どうなっちゃってるのかなあ」
電話が繋がらない。
これも先ほどの仮説を補強している。この世界の因果律から外れている間は、当然この世界の因果律に繋がれている人間と意志の疎通が出来ない。とくに、吉岡のような切り離すことを得意とする霊能力者は「繋げる」ということに不得手な場合がある。
「あんまり気にすることもないんじゃないか? もともとあいつは一人の時間を持ちたいタイプだからな」
などと適当なことを言ってみたりする。
「なるほど、確かに言われてみればそうかも」
どうやらそうだったらしい。
「あんまり怒らない方がいい気がするな」
「そうかなあ……そっちこそ、眞鍋さんとはうまくいってるの?」
なんなんだこの女は。
「うまくいく、ねえ。どうなんだろう、そんなこと、考えたことがない」
面倒なので特に何も考えずに本当のことを言ってみる。気の利いたことなんて言う必要もないだろう。
「そうなんだ」
東雲の声がほんの少し明るくなったような気がした。
「それは、きっとすごくいい状態なんじゃないかな」
誓って言うがそんなことはない。
強いて言うなら爛れているとか、拗れているという方が正しい。
「どうなんだろうな、僕にはよくわからない」
「いいんだよ、きっと。じゃあ、またね」
唐突に電話は切られ、ツー、ツーとおなじみの電信音がやけに耳に残った。
「もしかして、東雲さん?」
いつの間にやら、シャワーを浴び終わった眞鍋がドア越しに声をかけた。
「そうだけど?」
「やっぱり。そろそろ来るかなと思ったんだよねえ」
タオルを髪に巻き付けながら、がら、と引き戸を開けながらのんびりとそんなことを言った。彼女のコーヒー牛乳のような、どこかたぷたぷした肌に思わず視線を引き寄せられる。
「隠す場所がおかしいなそれ」
恐らくだけれど、頭にターバンのように巻きつけてあるバスタオルで全身を隠すのが普通なのではないだろうか。
「そうかな? 髪の方が大事だと思うけどな」
「だったら洗面所に服を持って入れよ」
「別に隠す必要ないじゃん。いつも見てるんだし」
なんで不服そうなんだよ。
「そういう問題ではないだろ」
「その冷静なツッコミをやめろよ」
逆にツッコまれた。
「私たちはもうすでに一般の人間ではないのぢゃ」
「ぢゃ?」
「ぢゃから常識に従って生きる必要などないのぢゃ」
まあそれは一理ある。
真顔で言うことではないけれど。
それより。
「ぢゃって何だよ」
「何でもないのぢゃ」
「戻らなくなってるぞ」
もはや迷子だ。
「というかさ、東雲さんって、ことあるごとになんか出てくるよねえ。なんでだろうね」
「知らねえよ」
急にキャラが戻ったので思わず思った通りのことを言ってしまった。
「ほら、ぼっとしてないで、行くよ」
眞鍋は僕の手をとって、外へ出ようと玄関へ向かう。
いつの間にか髪は金色に輝き、胸元と背中がざっくりと開いた空色のワンピースを着ている。吸精鬼仕様であるにもかかわらず、全力で正面から煽情的な恰好をするわけではなく、微妙な清楚さをクッションとして置くようになったのは、単純に彼女の吸精鬼としての能力が上昇したのか、それとも単に下着姿で外に出るのはさすがに無理があると思ったのか。
「どこに行くんだよ」
それ以外にも言いたいことは山ほどあるのだが、とりあえず一番言いたいことだけ口にした。
「東雲さんのところ」
「なんで」
「なんとなく。智子さんと会えてないんでしょ?」
それとこれとは別の話である。
「だからなんで東雲なんだよ」
「まあ行けばわかるって」
すたすたと歩いていく眞鍋を追いかけながら、僕は必死に考えを巡らせた。
地下鉄から駅を抜け、何の変哲もない道路を上り、クーロンマートの前の道を曲がった。
「智子さんの事務所はもうなくなっちまったんだよ」
「えっ、なにそれ?」
眞鍋の動きが僕の方を向いたまま一瞬フリーズした。
「どゆこと?」
「そんなことを言われても」
「なくなるって? え?」
そんなに詰め寄られてもわからないものはわからない。
「まあ行けばわかる」
さっき彼女が言った言葉を繰り返しながら、僕は御厨の事務所があった場所へと急いだ。
迷うはずのない住宅街を、ただひたすら小走りに駆けていく。個性のかけらもないような一戸建てが視界の側面を流れていく。
「あれ、本当にないね」
眞鍋が異変に気づく。
「というか、ここ、どこ?」
後ろの足音が急に聞こえなくなったのに気づいて、僕は足を止めた。
振り向けば、眞鍋はきょろきょろと辺りを見回し、不思議そうな顔をしている。
住宅街という名の迷宮。
とでも言えばいいのだろうか、気がつくと僕らは没個性な家に囲まれていた。いつの間にか星が出ていて、青白い月が不気味に顔を出している。
なんだこの既視感。
見たことがない迷宮の景色を、僕は一度だけ目にしたことがあるような気がした。
「なあ、ここ、今まであったか?」
「あんま来たことないからわかんないよ」
そりゃそうだ。
ふと、強烈な眩暈がして、視界が大きく歪んだ。
「この世界は徐々に終焉を迎えている」
虚空に佇む札切の顔は決然と整っていた。決断をしただけではない、何か、自分にとって覆しようもない運命を受け入れたような、そんな凄みがあった。
「よくわかんないんだよな、それ」
確かに、なんとなく僕の周りを取り巻く「世界」が、今までとは少しずつ違ってきているというのは感じている。
けれども。
「ちっとも終わりに向かっている感じがしないぞ」
「それはお前が鈍感だからだ」
「相変わらず失礼な奴だな」
「事実を言っただけだ。それに、お前がそう感じにくいのは、もう一つ理由がある」
黒くすっきりとした瞳が僕を見つめる。
人間離れしていると言えるほど、彼女の顔は整っている。美少女と言っても否定する者はほとんどいないだろう。
だからこそ、彼女を人間の女として見ることが出来ないのかもしれない。
僕が好きな女というのは、おそらく昔から変わっていないはずなのだ。
「何だよ、それ」
拡散しかけた意識を元に戻して僕は札切に言葉を向けた。札切はつまらなそうな表情をしている。頭脳明晰なこいつのことだ、僕の拡散しかけた思考なんてお見通しなのかもしれない。
「お前の能力だ」
「僕の能力?」
相手の言葉をオウム返しに繰り返すのは、思考をしていないことと同義である。という心理学だかなんだかの教授の言葉をほんの少しだけ思い出した。
「お前の持つ能力は、人間と霊――すなわち怪異のことだが――を結びつけるものだ。切り離され、崩壊していく世界とは相性が悪い」
相性が悪い。
それは、つまり。
「霊と人間の相対関係が崩れ、互いの持つ波動がお互いの間で作り出していた場を傷つけ、最後には修復不可能なほどに壊れる――これが、世界の崩壊だ」
全然意味が分からない。
「おいおい、世界が崩壊する理由と僕がそれを体感しにくい理由はともかくとして、霊だか人間だかの話は全くわからないぞ」
「私がお前に説明するのはこれで三度目のはずだが?」
札切が驚嘆と侮蔑の表情を入り混ぜながら僕を見つめる。お前は本当に馬鹿だな。そんな言葉が聞こえてきそうだ。
「いくら説明しようがわからねえもんはわからねえだろ。お前、小学生のガキに相対性理論を三回教えてみろよ」
「つまりお前の脳みそは小学生程度ということか」
「お前の話は相対性理論ほどのものなんだろうな?」
「さあ。人によってはそうかもしれないし、そうじゃないかもしれないな」
「禅問答やってるんじゃねえんだよ」
いい加減にしろ。
「まあ、とにかく、お前が感じている以上に、明らかに世界は崩壊へと向かっている。現に、意識はすでに連続性を保てていないだろう」
「そう言われてみれば……」
確かに、急に目の前の場面が変わることが増えた。
というか、今も。
「そんなことより、どこでどんな修行を積んだか知らないけれど、お前いったい今どこにいるんだよ?」
言葉にすると若干意味が分からなくなるのだが、言葉なんてそんなもんだろう。
札切の表情が急に暗くなった。
あ、しまった。
思わず声に出そうになった。
「お前の言葉で、私は封印を解かれたのだ。……言いたいことはわかるだろう?」
ふざけるな。
その言葉をぐっと飲みこんだ。強引すぎる。
「お前、ほんとなんというか、不器用というか、なんなんだよ」
高すぎるプライドと乙女のような心。
異常なまでに純潔という言葉がふさわしい。
まさに、異常なまでに、としか言いようがない。
「札切家の最後の能力者――札切零七だ」
そうじゃねえだろ。
「かっこつけてる場合か」
「場合だ。最後の能力者だからこそ、私は全力でこの場を張った。そう簡単には、この場を破ることはできない」
そういうことか。
「なぜ、僕を閉じこめた?」
「お前と二人きりになりたかったからに決まってるだろう」
吐き捨てるようにつぶやいた札切の顔はそれでも整っている。
まるで意思を感じさせない人形のように。
「お前は、僕が嘘を言ってもいいというのか?」
「嘘でも言って欲しい言葉なぞいくらでもあるだろう。そういう鈍感なところが人として欠けているんだ」
うるせえな。
だから人間はめんどくさいんだよ。僕も人間なのだけれど。
「先に言う。これは嘘だ」
「わかっている」
僕は覚悟を決めた。
「一度しか言わない」
「いいから早く言え」
冷たい視線を浴びながら。
僕は。
「ゼロ、愛してる」
眩暈。
「まったく世話の焼けるやつだな」
気がつくと眞鍋が僕の身体を抱えていた。
お姫様だっこ。
まさか、男で、しかもこんな歳になってまでされるとは思わなかった。
「ここは……」
いつの間にか最寄り駅を過ぎて自分の部屋の前まで戻ってきていた。
「緊急事態っぽかったから逃げ帰ってきた」
眞鍋の金色の髪がだんだんと黒へ戻っていく。
僕は彼女の肩に捕まって、地に足をつけた。
「緊急事態?」
「うんまあ、なんというかよくわからないんだけど」
眞鍋は部屋の鍵を開ける。
扉を開けるとそこに、札切がいた。
「お前……」
「ゼロちゃん」
僕と眞鍋が同時に声をあげ立ち止まる。
札切零七はいつもの通り真っ黒なセーラー服姿で、玄関に仁王立ちで立っている。光の加減だろうか、真っ黒なニーハイがどことなく不吉な影を落としている。
というか、ここ、僕の部屋なんですけど。
「戻ってきたぞ」
「戻ってきたぞ、じゃねえよ」
何で僕の部屋にいるんだよ。
「相変わらずお前の部屋は狭いな」
「そりゃ大して稼いでないからな」
事務所からもらえるお金は決して多くはない。
「まあ、何はともあれ、おかえり」
「その言葉を待っていたよ。ただいま」
そうして札切零七は、再び僕らの前に姿を現した。
いつもの通りに。
いつもと同じ表情で。
ただ、眼帯だけが、取れていた。
金色の髪をした女が、僕を見つめていた。
その眼差しは困惑したような様子で、口元はへの字に曲がっている。
僕はナイフの刃先を彼女に向けた。病弱な少女の肌のように青白い月光に照らされ、得物は幽玄に光を返した。
最初の一歩を踏み出した次の瞬間には、浅黒い女の肌にナイフを突き立てていた。刃先は彼女の肌に埋まっており、そこから虚ろな風穴が空いている。
だが、女は表情ひとつ変えなかった。
「しょうがないなあ」
彼女はそう言うと僕を抱きしめ、
唇を吸い上げた。
桜の蕾が今にも咲きそうになっているのを遠目に見ながら、僕は眞鍋を連れてショッピングモールへと買い物に来ていた。
「もうすぐ花見ができそうだね」
眞鍋の眠そうな声がする。
三月も後半に入って、急に暖かくなりはじめたためか、周りの雰囲気はこぞってお花見モードになっていた。もっとも、ここ数日は最高気温が二十度を超えるような日が続いているから、本当にもう少しで桜が咲くようになるだろうと、今朝のラジオでは言っていた。
生活必需品をあれこれ買って、買い物袋の数は順調に増えていく。が、荷物の管理に手間取る僕をよそに、眞鍋は自由にうごきまわって、
「うわーあのバッグかわいい!」
だの、
「ねえねえ見て見てあの財布めちゃくちゃかわいい!」
だの、
「ハムスター欲しいんだけど」
などとウィンドウショッピング(正確に言えば完全なウィンドウではない。ある程度は買っているのだから)を楽しんでいる。
バッグや財布は好きにすればいいと思うが、ハムスターを僕の部屋で飼うつもりならやめた方がいいだろう。うちには既に真っ白な猫が一匹いるのだから。
そうだ、そういえば。
「そういえば、ユキの餌と砂は買ったっけ?」
「買ってないよ。重いじゃん」
まあ、言われてみれば。これだけの荷物を持っているのに砂や餌を買った日には大変なことになるだろう。
「お前がもう少し荷物を持つとか、買い物を控えるとかすれば買えたんじゃないのか?」
「そうかもね。まあ、明日にでも買ってくるよ」
「言ったな」
「だから、明日はみんなで花見しようよ」
みんなで。
「みんなで?」
「せっかくだからいろいろな人呼んでさ、ぱーっとやるの」
眞鍋は僕を上目遣いで見つめた。だからなんだと言われてもなんでもない。
「そうか、ちょっと電話してみるかな」
うららかな陽射しの中、呼びたい人にどの順番で電話しようか考える。
考えてみれば、確かにこの時点で、世界は着実に終わりへと近づいていたのだ。
僕が気づかなかっただけで。
佐貫の電話番号を入力して、携帯電話を耳に当てた。
数回のコール音ののち、
「もしもし」
と佐貫の柔らかいテノールボイスが聞こえた。
「よう佐貫、明日暇か?」
「あ、はい暇です。何かやるんですか?」
「花見をしようと思って」
「いいですねえ。持って行くものあります?」
「好きなものでいいよ。あ、お前酒飲みだったな」
佐貫は飄々とした顔でずっと酒を飲んでいるようなうわばみ野郎なのだ。
「わかりました、持って行きます」
「明日十時に僕の部屋な」
「はい」
「よろしく」
「わかりました」
とまあ、そこそこ長いつきあいの佐貫にはこんな感じで約束ができてしまう。
さて、次は……あいつだ。
僕は全く違う番号を入力した。
「おうフヒトさん、どうしたん?」
「明日、花見やるんだけど」
「へえ、面白れえじゃん。じゃあ吉岡とそのカノジョ呼んじゃう?」
さすがは坪井である。
「察しがいいな」
「お前と一緒にすんなよ」
「確かに」
僕は察しが悪い。それは自分でもわかる。
「あと誰くんの? 桃子ちゃんは?」
桃子ちゃん。
ちょっと笑いそうになった。
「それは僕から連絡を入れるよ」
「ほいほい、んじゃ明日、十時くらいか?」
「ああ、それで」
「了解。楽しみにしとくぜ」
そう言って彼は電話を切った。
さて、吉岡たちへの連絡はあいつに任せるとして。
僕は登録していない電話番号を入力した。
「何だ」
電話口の先には不機嫌な声。
「驚かないのか」
「私の電話番号を知っていて、かつ私が登録していない番号なんてそうそうないからな」
「なんだよ、つまんねえの」
「驚くと思ってたのか」
札切の声のトーンが高くなった。そっちに驚いたらしい。何でだよ。
「そんなことより、何だ」
元の不機嫌な声に戻った。
何も戻ることはないと思うが。
「明日、花見やるんだけど……」
「行く」
「早っ!」
なんというレスポンスの早さ。即座に快諾するのも実に札切らしくない。
「なんだ、私が即答するのがそんなにおかしいのか?」
「そういうことじゃねえよ」
札切の今までの言動からすれば、むしろ行きたくないだろうなという感じがするのだが。
「私が根暗で人間が嫌いな中二病野郎か何かだと思ってないか、お前」
思ってるよ、現在進行形で。
「そういう訳でもないんだ。とにかく明日の朝、お前の部屋に絶対に行くからな。眞鍋さんよりも先に朝ご飯を作ってやるから覚悟しろ。では」
最後の方にわけのわからないことを残して、札切から電話を切られた。掛けた方が切るまで切らないっていうマナーを無視したのもなんだか札切らしくない。家柄なのか、こういうことにはうるさいはずなのだが。
思わず眞鍋の方を向く。
「ゼロちゃんのなりすましは無理だと思うよ」
「なんでわかったんだ」
「今のはさすがに誰でもわかるでしょ」
「そうか?」
「うん」
目に映るのは真顔。
そして巨乳。
そんなことはどうでもいい。
僕は最後の一人に電話を掛けた。
雨宮桃子は電話に出なかった。
「まあ、しょうがないか、就活中だし」
仕方なく、諦める。
また夜になったら電話しよっと。
「真中さん」
「おう、ミヤコか、明日暇か?」
「ちょうどいいですね、暇です」
「そうか。坪井とか眞鍋とかと花見やるんだけど、お前もこないか?」
「うーん……佐貫さんいます?」
「ああ、いるけど……」
「そうですか。では、私も混ぜてもらっていいですか?」
「ん……もちろん」
「ありがとうございます」
「じゃあ、明日、十時に僕の部屋まで来てくれ」
「それより、四ツ池公園に十一時の方がいいと思います」
「ああ……なるほど」
「それでいいですかね?」
「ああ、それでいいよ」
「ありがとうございます、では、また明日」
朝起きたら雨が降っていた。
雪月花がにゃあと間延びした声で鳴いている。餌をねだっているのだろう。
そういえば、彼女用のツナ缶がない。
《まあ、明日にでも買ってくるよ》
僕は確かに、その声を聞いた。
早速隣で寝ている女子大生の頬をつねった。
「む、むう?」
眞鍋陽子は目を覚まし、不服そうに腫れぼったい視線を向けた。
「ユキがおなかを空かせているぞ」
「ああ? 食べさせないの?」
「昨日お前言ったじゃないか、買ってくるって」
「あ、ああ? え?」
眞鍋は窓の外を見てようやく何かに気づいたらしい。
「いや、あの、ストックとか……」
「ない」
「でも、外雨じゃ」
「買ってくるって言ったの誰だよ」
「私です」
「ユキがかわいそうだろ」
同調するように、にゃあ、と可愛らしい鳴き声がする。
「ええ……」
じと、とした視線を向けられても困る。
「もう、しょうがないなあ」
そう言いながら彼女は一瞬で部屋着からちょっと外に出る用のくたびれた暗いピンク色のセーターとホットパンツに着替えた。
「いってきまあす」
自棄っぱちな声を出して、眞鍋陽子は雨の中に消えていった。
部屋の中に静寂が満ちる。
「ふーちゃん」
この声。
聞き間違えるはずがない。
「咲ちゃん?」
志島咲子。
どこに消えていたのだろうか。
彼女は確かに、六本木舞の呪縛から解き放たれたはずだ。
「ようやく、気づいてくれたね」
彼女の姿はどこにも見えない。
というか、ここはどこなんだ?
さっきまで僕は、部屋の中にいたはずなのに。
「私はずっと、ふーちゃんのそばにいたんだよ」
「どこにいるんだ?」
「すぐそこ」
周りは、真っ暗闇だった。
「本当に、すぐそばにいるよ」
天高く響くような澄み渡る声が、暗闇に響く。
けれど、何か、寂寥感を帯びているような気がした。
「ごめん、わからないんだ」
まだ、怪異が足りないとでも言うのだろうか。
けれど、あの時。
確かに僕は咲子を抱きしめたのだ。
一体どうして。
「待っててね。もう少しで、全て終わるから」
そう言って、彼女の気配が離れていった。
取り残されるのは、いつも僕だ。
咲子は常に先を走っていってしまう。
だからだろう、常に追いかけなくてはならないような気がするのは。
気がつくと、雨の中に僕は立っていた。
煌々と輝く青い月はどこかに消え、空には鈍色の雲が満たされている。
女がうつ伏せに倒れている。
スーツの上着がめくれ上がり、真っ白だったブラウスを深紅が浸食し始めていた。
雨は激しさを増している。
遠くの空で稲妻が見え、一呼吸おいて雷鳴が重く響いた。
パーカーとジーンズがみるみるうちに水を吸い、身体がどんどんと重くなる。
女の肩と足がわずかに動いた。
僕はそれをただただ見ていた。
「本当に恨めしいほど晴れちゃってるじゃん」
煙草をふかしながら、眞鍋は虹の架かっている空を見ている。
僕はすっかり煙草臭くなってしまったパーカーを洗濯機に放り込み、洗剤を突っ込んでボタンを押した。
重低音が鳴り始め、洗濯機が活動を始める。
雨のせいで洗濯物が急に増えてしまったのだ。階下の留学生から文句を言われる可能性もあるが、致し方ない。ここからコインランドリーまではかなりの距離があるし、水を吸った服はなにしろ重いのだ。
そんなことを考えながら、ふと何かを忘れているような気がした。何なのかは全くわからない。
眞鍋は煙草を灰皿に押しつけてもみ消すと、ふわあ、と伸びをして布団に倒れ込んだ。
「お前、寝るのかよ」
「おひるね」
にゃあ、と雪月花もどこか不満げな声を出す。
もっちりとした彼女の身体に、真っ白ですらっとした猫が乗っかった。
「ふえ」
にゃあ。
雪月花は眞鍋の身体の上で丸くなり、僕の方を向いた。
にゃあ。
「よかったな、いい布団を見つけられて」
「布団じゃないもん」
「ユキからしたら布団みたいなもんだろ」
「うう、ユキちゃん意外と重い……」
そりゃ猫だからな。
「あと爪がおっぱいに食い込むんだけど……」
そりゃ猫だしな。
にゃあ。
雪月花はぴょこん、と眞鍋の胸の上に器用に座って、僕を見つめた。
「なんだ、何か言いたいことでもあるのか」
にゃあ。
彼女が鳴いた瞬間、じりりりり、とけたたましいベルが鳴った。
なぜだろう、僕はその音色にどことなく、不吉な気分になった。
いつの間にか空は薄暗くなっていた。
震える手で携帯電話をとって、僕は電話に出た。
電話の相手は吉岡だった。
「真中」
「何だ」
「お前はもう、わかっているかもしれないな」
吉岡のくぐもった声が、やけに聞き取りやすいような気がした。
「何のことだ」
「……」
「というかお前、今どこにいるんだよ」
「……」
吉岡は黙り込んだ。何かを迷っているような、そんな印象だ。
遠くで雷鳴が聞こえる。
「悪いが、今質問には答えられない」
「あ、そう」
吉岡も一応霊能力者なのだ。他人に自分の手の内を知られることは、いくら相手が友人であろうとも場合によっては致命傷となりうることもある。それをよくわかっているのだ。
「わかった。言おう」
吉岡の声が一段と低くなった。
「雨宮桃子が死んだ」
その知らせを聞いたとたん、嘘みたいに空が暗くなり、雨が降り始めた。
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