枕返しの話―夢の牢獄―

 返された枕にふつと目ざむれば、南を北にする姿恐ろしい変化。

  ――藤澤衛彦『妖怪画談全集』――


 その名の通り、眠っている人の枕をひっくり返すといわれる妖怪。

 それだけ聞くと単にイタズラをする妖怪のようにも思えるが、俗に北枕にして人を死の世界へ連れ込む恐ろしい妖怪なのだともいう。

 古代の日本では枕は神聖な道具なのだと言われていた。「眠る」という行為は夢を通じて魂が別世界へ行く、或いは覗き見る行為であると考えられ、枕はそれを担う重要なまじない道具としての性質を持っていたからだ。

 平安時代には枕を動かしてしまうと夢の世界へ行った魂が帰って来れなくなると言われており、眠っている人間に触れるのは堅く戒められていた。

 枕返しという妖怪伝承もこの頃には既に存在し、大変恐れられていたようである。



 1940年代の事。

 アメリカ合衆国ロサンゼルスに住むビジネスマン、ロバート・マクミランという男は、四十歳を過ぎた頃から悪夢に悩まされるようになった。

 彼が家族に漏らしたところによれば、夢の中で彼は檻の中に閉じ込められているのだという。


 薄暗く嫌な臭いの充満するその部屋で、マクミラン氏はひたすらに孤独だった。

 それが夢だと理解しているのになかなか目は覚めない。

 檻の中でいくら喚いても祈っても、よくある話のように頬をつねってもはたいても、何も起きない。

 マクミラン氏は数時間……時には数日にも感じる時間を夢の中で過ごしていた。

 その間はひたすら「朝になれば目も覚める。家族に会える」と信じ、時が経つのを待っていた。そのため、彼は目が覚めるたびに大喜びして家族達を抱きしめていたそうだ。

 彼の家族もはじめのうちはその感激ぶりに戸惑っていたが、彼の「夢の牢獄」という風変わりな苦悩を理解するとそれを受け入れ、彼の夢からの生還を毎朝共に喜ぶようになったという。

 マクミラン氏の「夢の牢獄」は奇妙なものだったが、それ以外は大した不幸も無く、順調で満ち足りた日常生活を過ごしていた。

 1987年の冬、マクミラン氏は妻と二人の息子と五人の孫に見守られ、穏やかな顔で息を引き取ったという。



 1940年代の事。アメリカ・ロサンゼルスで殺人事件が起きた。

 身寄りの無い浮浪者、リチャード・グレアムが民家に侵入し、ビジネスマンのジレーヌ夫婦とその息子2人を拳銃で殺害。

 銃声を聞いた近隣住民の通報で駆けつけた警察官が、遺体のそばに座っているグレアムを発見。殺人の現行犯で緊急逮捕した。拳銃は同家庭で護身用として保管されていたものだった。

 警察の取調べにおいて奇妙な発言を繰り返した事から精神鑑定が行われ、グレアムは心神喪失状態にあると判定された。裁判は難航したが最終的にグレアムは警察病院の閉鎖病棟に措置入院される事となった。事実上の隔離措置であった。

 殺人犯である事から彼の隔離病棟には鉄格子がかけられ、厳重な監視下で治療が行われた。

 しかし彼の症状は治療下においても改善はほとんど見られず、奇声をあげる、暴れだすなどの異常行動は増していくばかりだった。最終的には医師達も治療を放棄し、彼の閉鎖病棟は彼を社会に帰さないための牢獄と化したのである。


 収監から十五年にもなると彼が暴れたり喚く事は少なくなったが、看守や医師達はそれは彼が年を取り、体力が落ちたためだと考えた。それを肯定するかのように、彼は目を離せばウトウトと眠っている事が多かった。

 常に何かに怯えているようだった彼の表情も、眠っている間だけは非常に穏やかなものだったという。


 1987年の冬、グレアムは病棟のタオルで首を吊り、自殺した。遺体のそばには「夢が覚めない」と殴り書かれたメモが書き捨てられていた。

 ご丁寧に署名までなされていたが、そこに書かれた名は「ロバート・マクミラン」だった。それはグレアムが生前「私の本当の名前」として病院関係者に語っていた架空の名前だった。

 彼は夢の中の光景で見るロバート・マクミランの人生こそが現実で、病院に隔離されたリチャード・グレアムの人生は夢なのだと死ぬまで信じていたのである。


 さて、あなたは今、本当に目を覚ましているのだろうか。

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妖怪談義 ハコ @hakoiribox

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