狐の話―未知との遭遇―
……おろかなる人をたぶらかしてものをうばふ。気をしりて人に近づくことなし。
――『絵本百物語』――
日本の妖怪として、狐は非常に有名なものだろう。狐には大きく分けて
善狐は稲荷神の使いであり、
野干は仏典に見られる名で本来はジャッカルを指している。日本にはいない動物なので伝統的に狐と解されて来た。
(之は寛永二年冬、
寛永二年如月壬、月も出でらぬ暗らき夜の事。オオゝといふ猛風のような甲高き音とどろきて、家人女中どもに至るまで皆目覚むる。
やがて雷鳴のごときさわがしき音響きわたれり。家人みな怪しみ女ども怖れ皆泣く。
ただ一人、嫡男渋右衛門のみ「火薬の炸裂する音に似たり」と
如何かと飛び出せば、近隣の百姓どもまで皆ゝ起き出し、ひと騒動なりし。
百姓どものうち「
火を見たと申す者あれども五十一山に火気なし。五十一山は古くより稲荷山なり。中腹に稲荷の社あり。ゆへに其は狐火が飛べりと申す者あれど、甚だ迷妄なりと一笑にふされる。
侍衆、幾人か提灯を携えて山の麓まで参るも、夜深く稲荷の参道まで参るも断念。その折、微かに焦臭を感ずと申す者あり。
村中より音の元は見つからず。雨も降らず雷が降る事果たしてありしかと者ども首をかしげる。
明朝、こやしを汲みに出た百姓ども、肥溜めにいとあやしき異人の姿を見る。
異人、肥溜めにはまりて逃れられず、身命尽き果てて消え入りけりといふ。
百姓ども、この者をひとまず肥溜めより引き出し、水にてその身を清めたり。戸板にのせ我家まで運び来る。
――その姿、いよゝもつて奇妙のことこの上なし。
五男この異人を見ていと驚き、「之は
異人の姿かくの如し。
灰色をした死人の如き肌に黒く大きな眼なり。耳在らず。鼻在らず。唇在らず。常ならば耳鼻あるところに穴のみが在り。之梅毒で落ちたる様に似たり。頭髪は一切あらず坊主の如し。その姿、人に似たるも人に非ず、さりとて獣にも非ざるなり。
こうじ果てて消え入りけれど、息は未だあり。胸の辺りが微かに動きし。此の異人何者かは知らねども、いと哀れに思はれ、当家にて手当てを施す。
奇異なる姿と屎尿臭を嫌ひて、女中ども異人に近付こうともせず。情け無し。やむをへず我と嫡男にてこれを拭けり。
異人の胸の辺りがうごき、脈の如きものもあり。死なず息の未だ在る事がうかがえり。
消え入りて眠り込むも、目をつぶらぬ事が聊か不気味なる。そもゝこの異人には瞼も在らず。さながら魚眼のごとし形にして、黒眼のみよりて眼と成す。
臭気の酷きにたえかね、ひとまず衣服を脱がす。その奇妙なる銀の服、身にぴたと張り付くやうに見へゆるも、引けばさながら皮を剥ぐがごとく脱げり。
その衣服もまた、布とも紙とも皮ともつかぬ奇妙な生地より成れり。色は銀色なり。
異人の身、背丈は小さく肌色も異なり、また男根も在らず。或いは婦人なりしか。剃髪様とあらば比丘尼やも知れず。さすれば女中どもが怖れて介抱せぬ事、反す反す面目なし。
異人の身、我らと異なる所多しといへど、大まかな形は我らと相違せぬようにも思えたる。手在り足在り頭在り。
異人には浴衣を着せ、客間にて寝かせる。息はあれど寝息は立てず。
此日は終日起きることなし。
――明朝、異人目を覚すなり。立ち上がり、周りを見る。是をたまゝ見た女中とりみだして悲鳴をあげ、その折異人おどろきて転ぶ。異人もおどろきし様なり。
悲鳴を聞きて家中の者どもかけつけ、異人の目覚むるを知る。
異人、その身を熱感者のやうに震えさせたり。されども汗はかかず。
いと弱りし様子と見うけ、食を進ぜる。粥と菜と茶を膳にのせて出すも異人これを一口たりちも口にせず。水を椀に入れて与ふると、穴のごとき口から少し飲めり。多くを端から
異人、水を飲む様を見る我の顔をじつと見つむる。何か言うた気なるも言葉は在らず。あるひは唖者なりしか。
我、一計を案じて異人に紙と墨を与え筆談をぞ試みる。硯に筆をつけ文字を書く様をしばし見するに、その意を解する様にして、震える手で筆を受け取れり。
筆談を試みれど、異人文字を書かず。筆を拳でにぎり、紙に絵を描けり。
その絵むつかし。家中の者ども殆どその意を解せず。見たままをここに書きつけ、また異人の絵をも残し置くなり。
(註・この絵と申すは現物あらず。かへすがへすも残念なり。書付は以下なり)
○皿を描けり。続けて大きな丸を描けり。皿と丸の周りを黒く塗りたり。意を解せず。
○異人が椅子に座る絵を描けり。大勢の異人あり。続けて火を描けり。異人達多くが燃えたるさまを描けり。案ずるに、これは異人の乗る舟なりしか。火災ならんか。
○大きな皿が地面に刺さる絵を描けり。また火を描けり。これ燃える皿なり。異人ただ一人その皿の傍に立てり。
○立つる異人の上に大きな皿を一つ描けり。これ空に浮く大皿なり。
○異人が光の中に立てる絵なり。宙に浮くさまを描けり。
○異人、多くの異人に囲まれる絵を描けり。これ異人の仲間なりしか。
○異人、異人の仲間に囲まれ横になって眠る絵を描けり。
○異人、肥溜めを描く。異人の半身その肥溜めに浸かれり。
○空を黒く塗る。夜闇なり。そのまわりに多くの獣の走り回る絵を描けり。これ、尻尾の描き方からして狐に相違なし。けだしこの異人、狐に化かされ肥溜めにはまりしか。古今に同様の話多し。
この異人、この絵を描きて後、身動きをとらず。翌日に冷たくなつて死ぬる。怪しき異人なれど哀れなり。屋敷にて葬儀をとり行ひ、経をあげて荼毘に伏して弔ひたり。
この異人、舟で遭難したかの様な絵を描けり。然れどもこの村は山に囲まれ海川は在らず、不審の事なり。
また狐を描けれども怪しけり。狐が人を謀るなどとは根拠なき迷妄なり。実にあらざる事なり。異人もまた迷信者にあらん。
然れども異人が顕れ死した事は真なり。ありしままを此処に書置き残すものなり。
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