狐の話―未知との遭遇―

 野干やかんは蝋、油、ならびにをんなの気血をこのむものなりと心要論しんやうろんに出たり。疑ひぶかきものにして日の光を恐れ刃をきらふ。

……おろかなる人をたぶらかしてものをうばふ。気をしりて人に近づくことなし。

――『絵本百物語』――


 日本の妖怪として、狐は非常に有名なものだろう。狐には大きく分けて野狐やこ善狐ぜんこの二種類があるという。野狐は文字通り山野に住む動物としての狐そのもので、人を化かしたり騙したりする狐は多くはこちらであるとされる。狐が人を化かしたり襲う話は『今昔物語』などにも多く描かれており、古くから狐が霊的な動物と見なされていた事がわかる。

 善狐は稲荷神の使いであり、御先稲荷おさきいなりとも称される。善狐は神、あるいは神の使いであり、人に害を成すことは少ないとされる。

 野干は仏典に見られる名で本来はジャッカルを指している。日本にはいない動物なので伝統的に狐と解されて来た。




 (之は寛永二年冬、茶部巣さべす藩 六据ろず郡 植得うえる村の武家の蔵にて発見されし古文書なり。虫喰による欠落箇所多く判読困難なり。寛永二年当時同家当主の筆とあり。以下同文書より読みうる限り抜書けり。その内容の信憑性を我保証せず。)


 寛永二年如月壬、月も出でらぬ暗らき夜の事。オオゝといふ猛風のような甲高き音とどろきて、家人女中どもに至るまで皆目覚むる。

やがて雷鳴のごときさわがしき音響きわたれり。家人みな怪しみ女ども怖れ皆泣く。

 ただ一人、嫡男渋右衛門のみ「火薬の炸裂する音に似たり」とまをす。

 如何かと飛び出せば、近隣の百姓どもまで皆ゝ起き出し、ひと騒動なりし。

 百姓どものうち「五十一ごとい山へ火のやうに光りしものが落ちるを見たり」と申す者幾人かあり。

 火を見たと申す者あれども五十一山に火気なし。五十一山は古くより稲荷山なり。中腹に稲荷の社あり。ゆへに其は狐火が飛べりと申す者あれど、甚だ迷妄なりと一笑にふされる。

 侍衆、幾人か提灯を携えて山の麓まで参るも、夜深く稲荷の参道まで参るも断念。その折、微かに焦臭を感ずと申す者あり。

村中より音の元は見つからず。雨も降らず雷が降る事果たしてありしかと者ども首をかしげる。


 明朝、こやしを汲みに出た百姓ども、肥溜めにいとあやしき異人の姿を見る。

 異人、肥溜めにはまりて逃れられず、身命尽き果てて消え入りけりといふ。

 百姓ども、この者をひとまず肥溜めより引き出し、水にてその身を清めたり。戸板にのせ我家まで運び来る。

 ――その姿、いよゝもつて奇妙のことこの上なし。

 五男この異人を見ていと驚き、「之は河太郎かはたろであらうか」と云ふ。我、其れは迷妄なり妖怪変化など現世にはあらずと戒む。

 異人の姿かくの如し。

 灰色をした死人の如き肌に黒く大きな眼なり。耳在らず。鼻在らず。唇在らず。常ならば耳鼻あるところに穴のみが在り。之梅毒で落ちたる様に似たり。頭髪は一切あらず坊主の如し。その姿、人に似たるも人に非ず、さりとて獣にも非ざるなり。

 こうじ果てて消え入りけれど、息は未だあり。胸の辺りが微かに動きし。此の異人何者かは知らねども、いと哀れに思はれ、当家にて手当てを施す。

 奇異なる姿と屎尿臭を嫌ひて、女中ども異人に近付こうともせず。情け無し。やむをへず我と嫡男にてこれを拭けり。

 異人の胸の辺りがうごき、脈の如きものもあり。死なず息の未だ在る事がうかがえり。

 消え入りて眠り込むも、目をつぶらぬ事が聊か不気味なる。そもゝこの異人には瞼も在らず。さながら魚眼のごとし形にして、黒眼のみよりて眼と成す。

 臭気の酷きにたえかね、ひとまず衣服を脱がす。その奇妙なる銀の服、身にぴたと張り付くやうに見へゆるも、引けばさながら皮を剥ぐがごとく脱げり。

 その衣服もまた、布とも紙とも皮ともつかぬ奇妙な生地より成れり。色は銀色なり。

 異人の身、背丈は小さく肌色も異なり、また男根も在らず。或いは婦人なりしか。剃髪様とあらば比丘尼やも知れず。さすれば女中どもが怖れて介抱せぬ事、反す反す面目なし。

異人の身、我らと異なる所多しといへど、大まかな形は我らと相違せぬようにも思えたる。手在り足在り頭在り。

 異人には浴衣を着せ、客間にて寝かせる。息はあれど寝息は立てず。

 此日は終日起きることなし。


 ――明朝、異人目を覚すなり。立ち上がり、周りを見る。是をたまゝ見た女中とりみだして悲鳴をあげ、その折異人おどろきて転ぶ。異人もおどろきし様なり。

 悲鳴を聞きて家中の者どもかけつけ、異人の目覚むるを知る。

 異人、その身を熱感者のやうに震えさせたり。されども汗はかかず。

 いと弱りし様子と見うけ、食を進ぜる。粥と菜と茶を膳にのせて出すも異人これを一口たりちも口にせず。水を椀に入れて与ふると、穴のごとき口から少し飲めり。多くを端からこぼす。椀から水を呑む方法を知らぬ様なり。

 異人、水を飲む様を見る我の顔をじつと見つむる。何か言うた気なるも言葉は在らず。あるひは唖者なりしか。

我、一計を案じて異人に紙と墨を与え筆談をぞ試みる。硯に筆をつけ文字を書く様をしばし見するに、その意を解する様にして、震える手で筆を受け取れり。

 筆談を試みれど、異人文字を書かず。筆を拳でにぎり、紙に絵を描けり。

 その絵むつかし。家中の者ども殆どその意を解せず。見たままをここに書きつけ、また異人の絵をも残し置くなり。

(註・この絵と申すは現物あらず。かへすがへすも残念なり。書付は以下なり)


 ○皿を描けり。続けて大きな丸を描けり。皿と丸の周りを黒く塗りたり。意を解せず。

 ○異人が椅子に座る絵を描けり。大勢の異人あり。続けて火を描けり。異人達多くが燃えたるさまを描けり。案ずるに、これは異人の乗る舟なりしか。火災ならんか。

 ○大きな皿が地面に刺さる絵を描けり。また火を描けり。これ燃える皿なり。異人ただ一人その皿の傍に立てり。

 ○立つる異人の上に大きな皿を一つ描けり。これ空に浮く大皿なり。

 ○異人が光の中に立てる絵なり。宙に浮くさまを描けり。

 ○異人、多くの異人に囲まれる絵を描けり。これ異人の仲間なりしか。

 ○異人、異人の仲間に囲まれ横になって眠る絵を描けり。

 ○異人、肥溜めを描く。異人の半身その肥溜めに浸かれり。

 ○空を黒く塗る。夜闇なり。そのまわりに多くの獣の走り回る絵を描けり。これ、尻尾の描き方からして狐に相違なし。けだしこの異人、狐に化かされ肥溜めにはまりしか。古今に同様の話多し。


 この異人、この絵を描きて後、身動きをとらず。翌日に冷たくなつて死ぬる。怪しき異人なれど哀れなり。屋敷にて葬儀をとり行ひ、経をあげて荼毘に伏して弔ひたり。

 この異人、舟で遭難したかの様な絵を描けり。然れどもこの村は山に囲まれ海川は在らず、不審の事なり。

 また狐を描けれども怪しけり。狐が人を謀るなどとは根拠なき迷妄なり。実にあらざる事なり。異人もまた迷信者にあらん。

 然れども異人が顕れ死した事は真なり。ありしままを此処に書置き残すものなり。

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