猫又の話―眠り―

 おおよそ牝の老猫、妖をなす。その変化、狐狸に劣らず、よく人を食う。俗に猫麻多ねこまたと称す。

 ――『本朝食鑑』――

 凡そ十有余年の老牡猫、けて災をなすものあり。相伝う、純黄色赤毛、多く妖をなす。

 ――『和漢三才図会』――

 首に手巾をかぶりて立ち、手をあげてまねくが如く。そのさま小児の跳舞とびまふが如く。

 ――『甲子夜話』――


 猫又ねこまたは化猫と同一視される事も多いが、厳密には異なる妖怪である。化け猫の風貌は普通の猫となんら変わるところが無いが、猫又は名前の示す通り、尻尾が二股に分かれているのが最大の特徴と言える。

 鎌倉時代の『徒然草』には〝奥山に猫またといふものありて、人を食ふなると人の言ひけるに〟……という有名な一文があり、この時代には既に多くの人が知る妖怪であったようだ。猫は十年生きると言葉を話せるようになり、尻尾が二つに分かれ、二本足で歩くようになるのだという。飼い主を食い殺して化け、その人に成り代わる事もあるともいわれてる。

 猫を飼う時に「お前は○年間飼う。それを過ぎたら出て行きなさい」と告げておく習慣は昭和期まで残っていたが、これは年老いた猫が猫又になるので追い出すという習慣を残したものだといえる。



 ――僕は猫を飼っている。真っ白な猫だ。名前はミータ。僕がまだ子供の頃につけた名前だ。

メスなのにミータ(ミー太?)はおかしいと笑われた事もある。だけど僕はその名前を気に入っているし、彼女もきっと気に入っていると思う。

 ミータはもう十年以上飼っている。だいぶ歳をとって最近は眠ってばかりいるけど、とても可愛い――いや、品があるといっても良い猫だ。

 今は外にもほとんど出なくなってしまったが、昔の彼女はしばしば猫の集会を開いていた。僕は夜道で何度も見た。ミータを中心にして野良猫達が道端に集まっているのを。暗闇の中で猫達の瞳だけが不気味なほどギラギラと輝いていた。

 まだ子供だった僕はそれが泣き出しそうなほど恐ろしかったが、ミータがニャアと鳴きながら足に擦り寄ってきた事にほっとした事をまだ覚えている。

僕は彼女を愛していると言っても良かった。

 人間の恋人を作るくらいなら、猫になりたい。ミータとお揃いの真っ白な猫に。そう断言してしまってもいいくらい、好きだった。


 ある日の事、講義を終えて帰宅する途中に〝妙な奴〟に出会った。僕はというと、帰り道のペットショップで買った、ミータのためのキャットフードを抱えていた。

 それは妙齢の女性で、頭から煤けた色のローブか何かを被っていた。シスターか、尼僧か、あるいはマンガに出てくるような占い師か……とにかくそんな感じの胡散臭い風貌だった。

 ローブの下から薄笑いを浮かべながら、その女性はこう告げてきた。

「貴方の願いを叶えさせて下さい」

 ――宗教勧誘?関わらない方が賢明だろう。だが〝貴方の幸せを祈らせて下さい〟とかなら聞いた事がある。だけど〝願いを叶えさせて下さい〟は初耳だった。

 妙な言い回しが気にかかり、僕は思わず足を止めてしまった。

「……願いを叶える?」

 僕は疑わしげに質問した。

「はい。私は貴方の願いをかなえて差し上げたいのです」

 はつらつとしたような、掴みどころのないような、不思議な話し方をする女性だった。

「よく分からないな……どうせお金取るんでしょ?」

「いいえ、お金なんていただきません。私達が叶えたいから叶えるだけなのです」

 女はニコニコと笑いながら首を横に振る。目の前で会話しているのに、なんとも実感の無い人だ。支離滅裂な事を言っているのに、さも当然とばかりな顔をしている。

 ふと気になった。もし頼みごとをしたら、この女性はどんな顔をするのだろうか? それも無理難題、ごまかしの効かないような頼みだったとしたら……。

 そんな奇妙な疑念の中、手元にあるキャットフードを見て、フッと思いついてしまった。

「――じゃあ、僕を猫にしてくれ。真っ白な猫に」

 僕がそういった途端、彼女は満面の笑みを浮かべ、こくりと首を縦に振った。それだけで何をするでもない、彼女はそのままニコニコ微笑みながら去っていった。僕はなんだか、狐にでもつままれた様な気分になった。


 妙な気持ちのまま、家に帰る。部屋では相変わらずミータが丸くなって眠っていた。

 チチチ……と舌を鳴らすと、億劫そうに僕の方に目をやってくる。そうして帰宅を確認すると、彼女はまた満足そうに眠り出すのだ。


 それがいつもの習慣だったのに、この日はなぜか違っていた。僕を一目見るとノソノソと起き上がり、足元を不可解そうに歩き回るのが不思議だった。何か不安がっているようにも思えたので、撫でてやった。

 それでも彼女は不安そうに、珍しい事にかすれた鳴き声まで出して僕に擦り寄ってくるのだった。


 ――ある朝、僕はなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の猫に変わっているのを発見した。

 僕は毛布を敷き詰めたバスケットの中で、鞠のように丸くなっていた。頭をすこし持ちあげると、自分の全身を覆う体毛が雪のように真っ白な事にも気がついた。

 僕は一匹の猫になっていた。その事実を大した混乱もなく受け入れた事が、奇妙と言えば一番奇妙な事であった。


 体が至極変な感じがした。四足動物の体なのだから当然かと一瞬考えたが、どうも体自体に異変があるようにも思えた。体の節々がどうもキリキリと痛むのだ。ずいぶん高いところにある時計を見れば、今は午前五時をまだ少し回ったところであった。

 この時間はミータがいつも起きだして、部屋の中を散歩している時間だ。とりあえず、この体に慣れるまでは、あまり動かない方が良さそうだ。というか、起き上がる気になれなかった。身体が重たくて、起きだすだけで一仕事のような気がしたのだ。


 どれくらいそうしてたのだろうか、いつの間にか僕はまた眠っていた。ふと気がついたときにはもう、日は完全に昇りきっているようだった。そしてそこは、自分が丸くなっていたあのバスケットの中ではないようだった。

 ――そこは膝の上であった。僕はいつの間にか、人間の膝の上に乗せられていた。

 一体、誰が僕を撫でているのだろう?

その素朴な疑念を解消する顔をあげた僕は、さすがに驚いた。

 ――僕を僕が撫でている。

 いや、人間の僕が、猫の僕を撫でている。

 どこか寂しげな顔をした僕が、猫の僕を撫でているのだ。それはとびきり奇妙な事だった。

 しばらく撫で続けた後、人間の僕は猫の僕を優しく抱え、居間に連れてきた。居間には大鏡があり、その前に僕は連れてこられた。

 そこに映るのは、ミータを抱く僕に他ならなかった。

「――貴方が猫になったわけじゃないのよ」

 人間の僕が、口を開いた。女性言葉だった。

「そんな事はしたくないと言ったのだけれど、彼女達は聞かなかった。間に合わないからと言っていた。元に戻したいけれど、私じゃどうすることもできないわ。……ごめんなさい」

 人間の僕は消え入りそうな声で、本当に申し訳なさそうな声で呟いている。

 ――つまり、僕はミータになって、ミータは僕になったわけだ。そういえば、小さい頃に聞いたバケネコの話にもこんなのがあった。

〝猫はね、年寄りになると知恵がついてバケネコになって、飼い主を食い殺して入れ替わる事があるんだよォ……〟

 小さい頃の僕はそれを聞いて、ミータも人を食べるのかと怖がった時もあったっけ。

「本当にごめんなさい……」

 人間の僕――いや、ミータはとても悲しそうな顔をしている。僕は何か言いたかったけれど「にゃあ」というかすれた声しかあがらなかった。

 ミータは再び僕を膝にのせると、また丁寧に撫で始めた。それはくすぐったいような暖かいような、不思議な心地良さだった。

 これまで撫でていた猫の膝にのり、撫でられる。そんな変な感覚にも慣れた頃……。自分の体が浮いていく様な、奇妙な感覚が代わりにやってきた。

 ――そうだ、ミータの体はだいぶ歳をとっていたではないか。ミータのいう〝彼女達〟が時間がないと言っていたのは、こういう事だったのか。

 冬は空けたとはいえ、まだ肌寒い日。僕はミータに抱えられている。痛くは無いし、苦しくも無い。だけど抱かれる暖かさだけは伝わってくる。

 どうやら僕は死ぬらしい。ミータの〝身代わり〟として。これまでの人生は決して満足のいくものではなかったし、後悔は沢山ある。

だけど今の僕は……とても幸せだ。

 ミータは何も言わず、優しく僕を撫で続ける。やがて僕は眠る。二度と醒めない深い眠りにつく。

 僕が眠っても、ミータはいつまでも僕を撫で続けていた。

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