第16話

 



 懐かしい夢を見た。胸の奥に大事に大事にしまっている幼い頃の記憶。今も色褪せずに輝いているその思い出の中で、名前も知らない男の子は自分の背丈に迫りそうなほどの大きな向日葵を抱えて笑う。太陽にも負けないほど眩しい笑顔に半べそをかいていたわたしの涙は引っ込んで、差し出される鮮やかな黄色に手を伸ばした——


 ぱちり、と瞼を開く。夢と現実の境にいるようなふわふわとした意識がゆっくりと浮上して先程まで見ていた懐かしい出来事が夢だったのだと理解する。あのとき向日葵をくれた男の子がどこの誰だったのかわからないまま、十年近くの時が経った。あのときのお礼と、渡さずに枯らしてしまった謝罪をしたくて出会ったあの場所へ記憶を頼りに退院した母に連れて行ってもらったけれど会うことは叶わなかった。せめて名前を訊いていればよかった。歳の頃は近いように思ったけれど、同い年なら今彼は15か16歳。もうお互いに会ってもわからないかもしれない。それは少し寂しいな。

 のそのそとベッドから降りてカーテンを開ける。朝の明るい光に目を細めた。今日も快晴、いい天気だ。


「——よし」



◇◇◇



 たしかこの辺だったはず。もうすっかり薄れた記憶を頼りに川沿いを歩く。家から小学一年生が歩いていける距離だ。そんなに遠くまでは行っていないはず。そう思っていたけど、川沿いを歩いている時点で想定を軽く超えていた。家からここまで結構な距離がある。記憶が正しければ川が流れていたのは間違いない。どうやらあの頃のわたしは今のわたしよりもずっとアクティブだったようだ。

 いくつかある川の中で、まだ記憶の新しい自分が母と共に訪れたこの場所に足を運んだ。けれど明確な場所までは特定できずにかれこれ一時間は辺りをうろうろと彷徨っている。

 というか、冷静に考えれば怖くないだろうか。十年前にたった一度話しをしただけの男の子を捜しにうろうろしているなんて、相手からしたら迷惑だったりするかもしれない。もちろんわたしは純粋にただお礼と謝罪がしたいだけだけど、あの男の子はもうそんなこと忘れているかもしれない。途端に言いようのない不安が広がって気持ちが降下していく。


「——いやいや、弱気になってどうするの」


 相手が何を思うかなんてわからない。お礼も謝罪も今となっては自己満足にすぎない。でもそれでも、もう一度会いたいと思う。会えるかなんてわからないけど、せめて記憶の中にあるあの場所は見つけたい。もしかしたらもう少し先かもしれないし、もうちょっと歩いてみよう。弱気になりそうな気持ちをぐっと堪えて記憶と照らし合わせながら一歩、また一歩と歩みを進めた。



◇◇◇



 ぐったりとベンチに沈む。結果としてあの場所を見つけることはできなかった。というかどこもかしこも似た景色でここだと自信をもって言えない。ついに疲労で足を止めてしまったわたしはたまたまタイミングよくやってきたバスに乗り込み、たまに来るショッピングモールの近くで降りた。

 モール内にあるお洒落なカフェのキャラメルマキアートを購入し、フラフラする足を動かして外に出る。出入り口を出てすぐのところにある、緑や花で彩られた休憩所。そこに設置されたベンチに腰を下ろしたところで力尽きた。歩き疲れたのは勿論そうなのだけど、まさかこんなに人が多いとは思わなかった。

 確かにこのショッピングモールはいつも賑わっている。土日、それも夏休みとくれば人の集まりも桁違いだろう。けれど建物自体が大きく広いために普段はそれほど圧迫感を感じることもなく、少し疲れる程度でそこまで気にしていなかった。その常に比べて今日は特別に多い気がする。夏休み故か、既にクタクタになっているから余計にそう思うのか、もう体力の限界だった。とにかく休みたくてベンチに座ったら最後、ぐったりとして動けなくなってしまった。真夏の気温の高さ、疲労に人酔い。重なったそれらにしばらく動けそうもない。



「ちょっと、大丈夫?」


 ただぼーっと電池の切れた玩具みたいに自分の足先に視線を落としていたわたしの前に人が立ったのを見て顔を上げる。大丈夫? の言葉はわたしに向けて発せられたものだったようで、彼女は心配そうにこちらへ手を伸ばしていた。わたしの顔を確認して目の前の彼女——二ノ宮さんの大きな瞳が見開かれる。


「は? 顔真っ青じゃない! なんでこんなとこにいるのよ。中入りなさいよ中!」

「二ノ宮さん……」


 普通に発したつもりの声が存外弱々しくて、二ノ宮さんは焦ったような顔をする。その表情に「大丈夫だよ」と笑えば「どこがよ」と顔をしかめた。


「とりあえず中入るわよ。立てる?」

「中は、ちょっと」

「なに?」

「人が多くて、人酔いするから」


 外の空気を吸ってる方がまし、そう言えば二ノ宮さんは何か言いたげに口を開いたあと、わたしの腕を掴んで顔を寄せた。


「中にも人が少ない場所くらいあるわよ。死ぬよりマシでしょ、着いてきなさい」

「は、ハイ」


 気迫に圧されて頷く。連れられるままに店内へと逆戻りしたわたしの腕はがっちりと拘束されていて逃げられない。フラフラと覚束ない足取りに気づいた二ノ宮さんが「もう少しよ」と言うのが聞こえて黙って足を動かした。

 エレベーターに乗り込み、三階で降りる。そのまま婦人服売り場を抜けた先、大きなボックスソファーが設置されている一角で二ノ宮さんは漸く立ち止まった。


「ここなら割と静かだし、涼しいわ」


 肩を押されてソファーに座る。無表情に見える二ノ宮さんの瞳には心配の色が見え隠れしていてふ、と頬が緩んだ。


「ありがとう。外より快適だよ」

「当たり前よ。こんな暑い中、いくら風があるとはいえ死ぬわよ。普通に」


 呆れたように溜め息を吐いて隣に座った二ノ宮さんは「ソレ、買い直してこようか?」と手に持っていたまだ一口しか飲んでいないキャラメルマキアートを指差す。氷が溶けて若干色が薄くなったそれに視線を落として苦笑した。「ありがとう、でも大丈夫。もったいないしちゃんと飲むよ」へら、と笑えば「そう」と気のない声が返ってくる。よく見れば二ノ宮さんの傍らにも同じカフェで買ったと思われる紙袋が置かれていた。しばらく沈黙が続いて、天井を仰ぎ見ながら二ノ宮さんがぽつりと話し出す。


「今日、ヒーローショーやってるのよ。普段より人が多いのはそのせいね」

「ヒーローショー?」

「今やってる戦隊モノ。知らない? 時空戦隊ミニッツ」

「ええっと、日曜日に放送してるやつ?」

「そうそれ。だから家族連れが特に多くて、ソレ売り場一階でしょ。一階は特設ステージが作られているし、あと北海道フェアだったかもやっているから人がごった返してるのよ」


 ソレ、と視線だけ寄越して二ノ宮さんは前を向いた。手元の飲み物に視線を落とす。なるほど、ヒーローショーに北海道フェアか……確かにこれを買うときいつもよりやけに並んでいたし、周りもガヤガヤとこれまたいつもより賑やかだった。夏休みのショッピングモールは侮れないなと思っていたけど、イベントによる集客のせいだったのか。


「ふふ、謎が解けた気分」


 先刻よりも幾分か楽になった身体で足をブラブラと小さく揺らす。


「……それじゃあ私は行くから。落ち着いたら帰りなさいよ」


 すっと立ち上がった二ノ宮さんに「あ」と声が漏れる。


「なによ」

「その、お礼がしたくて。また話してくれる?」


 二ノ宮さんの瞳が揺れた。それから唇を引き結んでぷいと顔を逸らされる。


「別にお礼なんていいわよ」

「でも、助けてもらったし、嬉しかったから」

「……」

「あ、む、無理にとは言わないよ。無理強いしたら本末転倒だもんね」


 お礼がしたいのに相手を困らせたら意味がない。感謝の気持ちは押し付けるものではないのだから。でも、二ノ宮さんとまた話せたらいいなと思う。そう思わせるような不思議な雰囲気を彼女は纏っているような気がする。

 言葉を選んでいるのか、口を開閉させて二ノ宮さんはぎゅっと拳を握った。


「——湖浜さん私が怖くないの? 嫌じゃないの?」


 そっぽを向いたままの二ノ宮さんの瞳がチラチラとわたしを見る。投げられた質問に首を捻るわたしを見て二ノ宮さんは深い溜め息を吐いた。


「私、あなたのこと一度呼び出そうとしたのよ? 湖浜さんだって警戒してたじゃない」


 呆れの混じった瞳で見つめられて逡巡し、ああ、と嘆息する。確かに最初に声をかけられたときはそれはもう怖いと思った。でもそれはわたしの想像が生み出した恐怖で、実際の彼女はわたしに敵意を向けているようには思えなくて、終業式の日も今日も二ノ宮さんはつーんとした態度を見せながらも纏う空気に棘は感じない。それどころか言動の一つ一つに彼女の優しさを見た気がする。

 わたしは緩く首を横に張って二ノ宮さんを見上げた。背けられていた顔が困惑した表情でわたしを見下ろす。


「あのときは勝手に怖がってごめんなさい。呼び出しってその、いろいろ言われたり叩かれたりするのかなって想像して、怯えたような態度をとってしまって」

「あ、あれは私が悪いわよ。言い方も含めてそう思わせた自覚はある」


 伏し目がちに落ちた視線を追って立ち上がる。いきなり立った身体はくらりと目眩を起こし、咄嗟に差し出された二ノ宮さんの腕に支えられた。


「ちょっと! まだ万全じゃないんだから気をつけなさいよ」

「ご、ごめんなさい」

「……」

「あのね、今は本当に全く怖いなんて思ってないよ。勝手にその先を想像して怖がってたけど、二ノ宮さんはいつも優しくてわたしを見て話を聞いてくれて、わたし、もっと二ノ宮さんを知りたい話しがしたいって思うよ」


 ぽかん、と開かれた彼女の唇が「バカじゃないの」と言葉を紡ぐ。「本当にバカ、普通はもっと警戒するでしょ」呆れたような困ったような微笑も綺麗でそのまま口にしたらスンッと真顔になってしまった。


「別に、話しくらいするわよ」

「本当?!」

「本当」


 だからもう座りなさいよ、と再び肩を押されて座らされる。「二ノ宮さんもよかったら座らない?」なんて調子に乗って言えばはあ? と顔をしかめつつも隣に腰を下ろしてくれた。やっぱり二ノ宮さんはツンデレなのかもしれない。言ったらまたツンとしてしまいそうなので胸の内に留めておくけど。


「……」

「……」

「……なによ。何か話があるんじゃないの?」

「え! ごめん。特に何かあるわけじゃない、です」

「……」

「あの」

「……別に怒ってないわよ」


 そう言って紙袋から取り出したホイップたっぷりの飲み物を飲む二ノ宮さんに「それなに?」と訊けば「新作のフラペチーノ」と一瞥と共に短い台詞が返ってくる。少々素っ気なく感じるけれど、おそらくこれが彼女の通常運転なのだろう。ふふ、と笑みをこぼすわたしを訝しげに見ながら首を傾げる姿を隣にキャラメルマキアートを口に運ぶ。氷が溶けて少し薄くなってもやっぱり美味しい。今日はたくさん歩いて正直本当に疲れたし目的は果たせなかったけど、出かけてよかった。

 それからお互い、ぽつりぽつりと話題を見つけて話しては、返事をする。少しぎこちなくて会話は全然弾まないけれど、それでもこのゆっくりと流れる時間が不思議と心地よかった。





 

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ただ、君が好き 姫野 藍 @himenoai

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