終 「スピンオフ・バンカーズ」

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     ○


 黄泉の国にでも向かっているんじゃないか。

 そう思ってしまうくらいに人の気配の感じられない草っ原の中を長いこと走っていたバスは、やがて目的地の名を告げ、速度を落とした。本当にここで合っているのかと訝しむも、さびれた停留所のベンチに座るいぐるみときさぎ、スカスカの時刻表を眺めている鶸沢ひわさわ潤朱門うるみかどさん、それからこちらに手を振る青柳あおやぎを見つけ、間違ってなかったと安堵しながらバスを降りる。

「なんで、青柳が来てるの?」

「開口一番がそれかい」と、青柳は苦笑する。「昨晩、鶸沢さんにメールしたんだよ、明日暇だったら遊びに行かないかって。そしたら素雄もとおたちと予定があるからダメだと返ってきた。ならば素雄の大親友である俺も、そこに便乗するしかないでしょう」

 それを聞いた鶸沢が、潤朱門さんの腕にしがみついた。

「潤朱門先輩、助けて! 青柳先輩がうっとおしい!」

「ちょっと、暑苦しいからやめてよ」

 潤朱門さんは腕を引くが、鶸沢はがっちりと抱きついて離れない。このふたりが、こんなに仲よくなっていたなんて知らなかった。

「もう腕は、ちゃんと動くの?」と、針桐が僕に訊ねた。もちろん、と僕は答える。

「それじゃあ、いざ蛍狩りへ行かん!」

 弋が勢い良く天を指した。


 水曜日の夜、病院を訪れてまた腕がとれたことを告げると、八重さんは自分のメンテナンスに不備があったと勘違いし、「ええ、ごめん!」と平謝りをした。

 潤朱門さんが事情を説明したら、八重さんは腹を抱えて爆笑する。

 きさぎがそれを咎めた。

「不謹慎だよ、八重さん。沙綾はずっと怖い思いをしてたんだから」

「いや、それはわかるけども」ひいひいとあえぎながら八重さんは目の端を拭う。「こんな愉快な話があるとは」

 結局その場で、潤朱門さんは自身のことについてきさぎと鶸沢に打ち明けた。自分が、人の心のわからないサイコパスだということを説明したのだ。

 こわごわと反応を伺う潤朱門さんに対し、きさぎは「なんだ、そんなことか」とそっけない感想を述べた。

「不謹慎だよきさぎ。茜ちゃんは苦しんでるんだから」八重さんがからかう。

「だってそれって、素雄の逆パターンみたいなものでしょう?」

「逆?」と僕が訊ねる。

「素雄は、心の動きに乏しい。潤朱門さんは、心の動きがわからない。わたしにとっては、どちらも似たようなものです」

 なるほど、と一応相槌を打つが、実はきさぎの理屈はよく飲み込めなかった。ただ単純に、潤朱門さんが安心するであろう言葉を選んだだけなのだと思う。きさぎは昔から、そういう奴だ。

「一方沙綾ちゃんは、今の話を聞いてどう思ったのかな?」八重さんと今回が初対面の鶸沢は、腕を組んでううんと考えると、

「まだ、話の実感が沸かないというか、今の話以上にある意味インパクトの強い出来事を、さっき目の当たりにしたので、そっちの印象に引きずられてるというか」

「わたしが、天村を殴ったこと?」

「それもありますけど、そっちじゃなくて」と潤朱門さんに向けて手を振る。「わたしは潤朱門先輩が号泣したことにびっくりしました」

「そ、」潤朱門さんの顔が赤くなる。「その話を蒸し返してはいけない」

 ええ、いいじゃないですか、と鶸沢はテーブルの上のカップを手に取り、口をつけた。途端、その黒蜜を八重さんに向けて思い切り吹き出す。

「甘すぎる! なんだこれは!」


 急な来院だったので、腕の修理はその日のうちにはできず、次の日の昼から始めることになった。そこで僕は、リハビリが終わるであろう土曜の夜に、蛍を見に行こうと提案したのだ。暗くなる前に弋の家へ行ってみんなで遊ぼうかという予定も組まれたのだけれど、僕の病院を出るのが遅れたため、みんなは先にバスに乗り、後から僕はひとりで追いかけるかたちになったのだった。

「なあ、素雄」

 川原への道を弋に先導されながら歩いていたら、それまで鶸沢をおちょくっていた青柳がこちらにやってきて、申し訳無さそうに頭を掻いた。

「俺、なんだかんだいって、勝手に付いてきちゃってよかったのだろうかと思ってるんだけど、よかったのかな? なんか俺の知らないところで、いろいろあったみたいだし」

 ちゃっかりしているようで、実は結構気にしていたのかと、おかしくなった。「いいと思うよ。青柳のアドバイスがなかったら、僕らはここに来ることはなかった。青柳は結構、貢献してるよ」

 そう言って、はたと自分の言葉にひっかかる。

 青柳は誰に、「貢献」したのだろう? 彼のアドバイスは、僕が潤朱門さんときさぎの共通項を見つけるきっかけとなった。その意味では、青柳は僕を助けたということになるのだろうけど、そもそも僕がそのようなことに取り組んでいたのは、八重さんに頼まれ、潤朱門さんの手助けをしていたからだった。すると青柳の貢献は、めぐりめぐって、彼女のもとに流れ着いたことになる。

 そうだ。この二週間ちょっとの出来事の中心は、完全に、潤朱門さんだった。何も起こらない日常を必死で守るため、きさぎと友だちになりたかった潤朱門さんによる、この約半月ほどの奮闘。僕は今回の諸々において、彼女が主人公たる物語に参加させてもらった、脇役に過ぎない。

 それはよいことなのだと思う。僕らは基本的に、自分自身の人生しか生きることができないのだから。その中でもし、自分が他の人の人生の内側で生きていると実感する瞬間が訪れたとしたら、それは自身の人生に、プラスアルファのおまけが与えられた証なのだと、僕は信じることにする。

「おい、聞いてるか、素雄」

 頭を小突かれ気がつくと、いつのまにか前をあるく女子たちに結構距離を離されていた。置いてかれるぞと、青柳に叱られる。

「もしかして、またぼーっとしてた?」

 そう訊ねると青柳は、見とれてたんじゃないか、とおちょくるように言った。


     ●


 かけがえのないものが嫌いだ。

 かけがえがないということは、とりかえしがつかないということだ。

 とりかえしがつかないということは、ひとつしかないということだ。

 そうわたしはひとつしかないものが嫌いだ。 


 人はそう簡単には変わらないし、変われない。相変わらずわたしは、ひとつしかないものが大嫌いで、たくさんあるもの、とりかえしのつくこと、なにも特別なことが起こらない日々が大好きだ。

 だから、天村の肩が外れたところから始まり、くっついて、また再び外れたところで終わったこの二週間ほどの非日常な出来事は、わたしにとって、人生のレールから外れたところにいきなりあらわれた、おまけのようなものに過ぎない。それは本来わたしにとって忌むべきことで、そのおまけを担っていた主人公がまさかわたしであるなどとは何があっても認めるわけにはいかない。これは間違いなく、色の無い水のような心と、人工の身体を持つ天村の巻き起こした物語だったのだ。

 わたしはこれからも自分のつくった論理を、すなわち「かけがえのある」、交換可能なものを重んじるという論理を、遵守し続けることだろう。


 空は曇り、星はまったく見えない。普通であれば悪天候の側に分類されてしかるべきだが、このような光の少ない蒸し暑い夜は、蛍狩りをするのにはこれ以上ない絶好の気候と時間帯だ。

「川が見えてきたよ!」と弋が声を上げ、それまでずっとわたしの腕を掴んでいた鶸沢が「ホントですか?」と前方へ駆けていった。

 そのタイミングを見計らっていたかのように、少し前を歩いていた針桐はりぎりのペースがぐっと落ち、わたしは自然と彼女に追いつく。

「ありがとう」

 突然のことだったため、一瞬、なんといったのかがわからなかった。「え?」と聞き返した後、それがお礼の言葉であると気づく。

「沙綾と、わたしのことを、助けてくれてありがとう」

 針桐はこちらをじっと見つめた。一見真剣な表情だったが、照れくささを押し隠して無理矢理シリアスさをとりつくろっているかのような、逆に真剣さを表すことに躊躇をしない余裕さも感じられるような。要するによくわからなかった。わたしは確かに針桐と距離を近づけることができたが、友だち同士にまで発展しているとは言えないと思うし、それ故彼女の言葉や表情をそのまま真に受けてよいのかまだ判別しかねている。

 ただ、仮に本心だったとして、それでもお礼を言われる筋合いは無いと思った。わたしの目的はあくまで、彼女を操作することにあったのだから。わたしはそのようなことを、針桐にやんわりと伝えることにした。

「あれは別に、針桐さんたちのためにやったわけじゃない。この前病院で話を聞いたんだから、わかるでしょ? わたしは、針桐さんを助けたらわたしに好意を抱いてくれるだろうっていう浅ましい魂胆のもと、わたしの利益のために、動いたの」

 横を歩く針桐の顔が緩み、こちらにぐっと歩みよってきた。そのまま耳打ちするようにして、顔を寄せる。同い年にしては艶っぽい、そのミステリアスな顔立ちに、思わずたじろいでしまう。

 針桐はわたしの耳元に手をかざし、ささやいた。

「わたしが潤朱門さんに好意を抱くと、潤朱門さんの利益になるって、それなんだか、告白されたみたい」

 途端、頬が火のように熱くなる。針桐はわたしのリアクションをあえて無視するかのように、涼し気な面持ちで空を見上げた。彼女にそういう嗜虐的な面があることをそれまで知らなかった。いつか絶対仕返しをしてみせる、とわたしは固く心に誓う。

 すうっと前方の明かりが消える。

 弋が懐中電灯を消したのだ。「いた! 蛍いた!」とこちらに振り向き、大きく手招きをしている。

 早足で弋のもとへ行くと、そこはこちら側だけが小さな土手のようになっており、斜面を少し下がったところに、石の転がる両岸に挟まれて細い川が流れていた。向こう岸の奥は草が茂り、さらに奥には林が広がる。

 その向こう岸の草むらと水辺の間あたりに、蛍火がちらちらと舞っている。幽かな光彩がゆっくりと静かに宙をなぞる。それは、目の前の景色が光の粒子となって夜の闇に溶けていっているかのような、胸の締め付けられる、物悲しい眺めだった。川岸にたどりつく間にも光は数を増していき、わたしにはその穏やかに同期と非同期を繰り返しながら明滅する全体の、時間の大きな軌道が感じられるようだった。

 きれい、とわたしと針桐が、同時にそう口にした。思わず顔を見合わせて、笑う。

「心なしか、向こう岸ばっかりにいるような気がしますね」と、鶸沢が言った。

 ホントだ、と青柳が答える。たしかに、蛍は川のこちら側にはあまりやってこない。草むらが向こうにしか無いからかな、と針桐が推測する。

 それを聞いて、弋が歌い出した。

「ほう ほう ほたるこい あっちの水はにがいぞ こっちの水はあまいぞ」

 きれいな歌声に、少し驚く。そういえば弋は、合唱部だった。

「蛍には、水の甘さとか苦さが、わかるのかな」

 いつの間にか隣に立っていた天村が、そうぽつりとつぶやいた。

「やっぱり蛍も、苦いのよりも、甘い水のほうが、おいしいと思うのかな」


 わたしはこれからも自分のつくった論理を、すなわち「かけがえのある」、交換可能なものを重んじるという論理を、遵守し続けることだろう。

 あの夜、わたしが再び天村の関節を外した夜、湯之寺さんはわたしにしみじみとつぶやいた。

「まさか本当に、もとえもんが茜ちゃんを、助けすぎるとはね」

 そう。あの日わたしは、天村が思っている以上に多くのものを彼から与えられてしまった。

 これからわたしは、自分の論理にしたがって、天村に与え返さないといけない。

 与えるものはすでに決まっている。

 湯之寺さんは「心を回復する手助けを」と言った。

 だからわたしは天村に、心を与えないといけない。

 たくさん与えて、心を取り戻した天村に、再び、与え返されたい。

 今のわたしの新たな目論見を達成するには。

 天村の心にはまだ、甘さが足りない。


 じわじわと蛍の光の数は増え続け、川のこちら側に寄ってくるものもちらほらと現れ始めた。弋が「歌が効いた!」とはしゃいでいる。わたしは目の前の光景がこれ一度きりの、とりかえしのつかないものだと知っているから、五感を全力で研ぎ澄ませて、今この瞬間をできる限り味わおうと試みる。

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スピンオフ・バンカーズ 田中校 @ktanaka

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