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     ●


 工場と川に挟まれた、その小さな公園にたどり着いた頃には、夕日にかわって外灯の光が辺りの暗さを補い始めていた。周囲に民家が少ないので、園内に植えられた樹木が風にゆすれて立てる不気味な音以外、聞こえるものは何もない。どうしてこんな、大声を出しても人が来なさそうなところを針桐はりぎりは選んでしまったのだと、わたしは内心腹を立てた。

「あ、あそこです!」

 鶸沢ひわさわがささやき声で指を差す。木の影に隠れながら忍び足で近づいていくと、徐々に前方のふたりの輪郭が薄闇の中にぼんやりと浮かび上がってきた。

 針桐とストーカーは、向き合い、言い争いをしていた。「なんでだよ!」だとか「関係ないだろ!」だとか叫ぶ男に対し、針桐の声は小さく、何をしゃべっているのかわからない。

 男の姿には、見覚えがあった。この間のライブで、わたしにチケットを売ってくれとせがんできた、あの前髪君である。あいつは針桐のファンではなく、鶸沢を追ってやってきていたのだ。悪魔の囁きに導かれてチケットを売っていたら大変なことになっていたな、と身震いする。

 くそ! と叫んだ前髪君は、突然その場にしゃがみ込むと、足元の鞄を探りだす。次に立ち上がったとき、その手に何か握られているのが見て取れた。園内の照明が、そのかすんだ銀色の表面に反射する。

「スパナだ」

 わたしがそう口にした途端、傍らに潜んでいた鶸沢がいけないと言って勢い良く飛び出していった。

「ちょっと待った!」

 鶸沢の介入に反応した前髪君が、あっと叫ぶ。針桐は「何で来たの!」と初めて聞き取れる声を発したかと思うと、わたしの姿を捉え、

「……潤朱門さん?」と怪訝そうに目を細めた。仕方なく、わたしもおずおずと鶸沢についていく。

「針桐先輩、ごめんなさい。ここはわたしが、きちんと言います」状況の飲みこめていない針桐にそう言った鶸沢は、前髪君の方を振り向き、腰に手を当てる。

「あのねえ。あなたのやってることは、完全にストーカー行為なの。一日に何十通もメールを送ってきたり、学校の前で待ち伏せしたり。はっきり言って、迷惑。これ以上同じことを続けるようだったら、警察呼ぶからね!」

 毅然とした調子でそう啖呵を切る。よく言ったとわたしは心の中で彼女を褒めてあげた。しかし、この状況でのその明確な拒絶は、一番やってはいけないことでもあった。

「おれは何も悪く無いだろ・・・・・・おかしいだろ、沙綾ちゃん、なんでそんな、。そいつらに言わされてるんだろう?」

 前髪君の目は虚ろで、声もうわずっている。スパナを持つ手は震え、腰は引けている。

 おそらくこいつはスパナをただの脅しとして用いているに過ぎない。人を殴る度胸も意志も無い。そういう気の小さいやつだ。

 ただ今の前髪君は、追い詰められている。精神的な限界に来ている。今のこいつに鶸沢を殴る意志がこれっぽっちも無くとも、五秒後には気が変わっているかもしれない。「衝動的」とは、そういうことだ。

 もしもこいつが襲いかかってきた時、なんとかできるのはわたしだけだ。それ自体はたやすい。平静さを失ったやつの攻撃ほど、見切りやすいものはない。

 けど、

 襲いかかってきたところを取り押さえたところで、こちらが明確な被害を警察に訴えられるわけでもない。かといって逃げたところで、問題が解決するわけでもない。今わたしたちはこうして彼を限界まで追い詰めてしまったのだから、もしここでこいつを説得できなかったら、今後鶸沢はより危険な目にあうかもしれない。わたしたちは今ここで、こいつが鶸沢をストーキングする意志を、きれいに折っておかなければいけない。

 目の前でうろたえている前髪君は、あまりにも幼く見える。幼いからこんな、見境のないことができる。自らを省みないでいられる。しょうもない。くだらない。こんなガキに振り回される鶸沢に、針桐に、そしてわたし自身に、うんざりする。ストーカーにつきまとわれているという事案自体がそもそもばかばかしい。ありふれてるだろ、そんなこと。そんなありふれた出来事にこうして直面して、何の手段も思い浮かばない自分にまたうんざりする。

 いや、手段がないわけではなかった。わたしに思いつく限りで、一番有効そうな手段。それは脅迫することだった。痛めつけて、これ以上鶸沢につきまとうなと脅す。こういう気の弱いやつは、ある程度けがをさせれば、あっさり屈服するだろう。もっとも、けがの程度がたいしたことなさすぎると、仕返しの恐れが生まれてしまう。仕返しする気力が湧かないくらいには、きっちり、傷を負わせなければいけない。


 体が熱を帯びたのがわかった。

 わたしにとって、その選択肢が、

 知り合いの目の前で、人を傷つける。

 これはまさに、二年前にわたしが教室でしでかしたことと、全く同じではないか。

 嫌だ――


 飴色に熱された鉄棒が喉元をつらぬいた。

 棒からトロトロと溶け出した鉄が食道や気管を舐めるようにつたっていった。

 瞼の裏で火花が響いた。

 火花はそこら中に引火してまた別の火花をあちらこちらで散らした。

 血がボコボコと泡を立てて臓器という臓器を硬化させた。

 固まった臓器は火花によって焦がされ、鉄に飲み込まれてひとつの真っ赤な濁流となった。

 眼球から水分が蒸発し失われた。口内の粘膜が炙られくっつき開かなくなった。

 濁流は骨や筋肉をも埋もれさせ、わたしの皮のすぐ内側では巨大な熱塊が狂ったようにたぎっていた。わたしは動くことも息をすることもできなくなっていた。神経だけが生き残り、その熱をわたしの妙に冴え渡った意識に忠実に伝えていた。

 熱かった。痛かった。二度とあの場面を繰り返したくない。二度とあんな思いはしたくない。絶対に嫌だ。そのためにわたしはここまで努力してきたのにどうして! 

 熱い、痛い、嫌だ。熱い、痛い、嫌だ。三つの言葉がぐるぐる渦を巻き、炎と轟音を噴きあげながらわたしを焼き尽くそうとしていた。



 その言葉は実際よりもかなり遠くから聞こえたように思えた。

「潤朱門さん?」

 痛みをこらえながら声のした方に目を向けると、Tシャツ姿の天村あまむらが立っていた。

「きさぎも、それから……鶸沢もいるし。これは、どういう状況?」

 そのあまりにも呑気な声を聞いて、わたしの頭の中に理性のかけらが舞い戻った。熱がじわじわとひいていき、心に若干の余裕が生まれた。その余裕を利用して大きく息を吸い、体の中に夏の夜のぬるい空気をめいっぱい取り込む。無理矢理体を冷ます。まだ熱いし、苦しい。それでもこの状況で何ができるか、その最善を考える。

 天村とは対照的に今にも理性を失いかねない前髪君に気を配りつつ、わたしは簡潔に今の事態をできる限りシンプルに説明した。

「あの男は鶸沢のストーカーで、わたしたちはそれをやめるよう説得したい」

 それから小声で付け加える。

「身体的な脅迫が手っ取り早いけど、わたしはそれをできればしたくない」

 少しためらい、もう一言足した。

「助けてほしい」

 天村は、完全に予想外といった表情の針桐と鶸沢、それから「なんなんだよ……」と唸るストーカー、その手に握られたスパナという順番に目を移し、もう一度わたしの目を見ると、

「潤朱門さん」

「何?」

「文芸部の、茨島ばらしま先輩。覚えてるよね?」

 言うが早いか、天村はストーカーに近づいていった。

「くるな!」とスパナが振り下ろされる。

 鶸沢が短い悲鳴を上げた瞬間、天村は振り下ろされた腕の手首を器用にキャッチした。そのままぐいとひねると、前髪君はうわっと叫んでスパナを地面に落とす。ふたりはそのままお互いの腕や肩を掴み、取っ組み合うかたちになった。

 ふたりのもとに歩み寄ったわたしは、落ちたスパナを拾い上げる。

 針桐と鶸沢は、唖然とした顔でこの光景を眺めている。 

 わたしは今から、自分の手で、非日常を引き寄せてしまうのだと自覚する。本当は嫌だった。それでも天村が、それまで見えなかった道の先で手を差し伸べてくれたのだから、わたしは彼の手を取ろうと決める。

 ぐっぐっとスパナを握った感触を確かめ、二度三度と軽く素振りもしてみる。天村ともみ合う前髪君がそれを目にし、この後の展開を察したかのように「やめろ……」と懇願する。

 わたしは後ずさってふたりから若干の距離をとり、助走で勢いをつけ、スパナを目一杯振り上げると。


 タイミングよくこちらに背を向けた天村の、左の肩甲骨の少し外側めがけて、スパナを思い切り叩きつけた。 


     ○


 潤朱門さんが騙されたくらいだ。僕にはその勢いしか感じ取ることができなかったけれど、先輩があのとき部室で見せてくれた演技は、この状況で生きると思った。

「痛い痛い痛い!」

 左肩を押さえ、全力で地面をのたうちまわった。潤朱門さんいわくストーカーの男は、腰を抜かし、ひええと息を漏らしている。

 きさぎと鶸沢が、「大丈夫!?」と、こちらへ駆け寄ってきた。僕は顔をしかめながら痛いよーと苦しげな声を出す。それを見て何かを悟ったふたりは、今にも泣き出しそうな、それでいて笑いをこらえているかのような奇妙な顔をした。

 鶸沢に背中をさすられながら体を起こすと、潤朱門さんがストーカー男へ詰め寄っているところだった。

「あ、あいつ……おまえの知り合いじゃないのかよ……」

「あんたを殴ろうとしたのに、避けたからああなっちゃったんでしょうが。それより、わたしはあいつの怪我を、あんたのせいにしたっていいんだよ?」

「ええ……」

「だって知り合いの肩を平気で殴るなんて、誰も思いやしないでしょう? わたしたち四人が『あんたが殴った』って言えば、みんな信じてくれるよ」

「そんな……」

「でもね、わたしは優しいから、条件次第では、許してあげようかな。つまり、もう沙綾ちゃんと連絡をとらず、かつあの子の半径百メートル以内に近づかないって約束してくれるんだったら、あいつの怪我は特別にこっちでなんとかするし、わたしもあんたを今から殴り直さないであげる」

 ストーカーは口をぱくぱくさせて、何かを言わんとしていた。何も言えないようだった。

「どっちが得か、君の賢い頭でちゃんと考えれば、わかると思うけどなあ」

 ふたりとも、まったく別の意味で、鬼気迫る表情だ。

 きさぎが、珍しく驚いたような口調で、僕に訊ねる。

「潤朱門さんって、ああいう人だったの?」

 僕は彼女の本性がばれてはいけないと思い、言い訳をした。

「噂によれば、潤朱門さんは、演劇部の秘密兵器らしいよ」

 言ってから、そういえば演劇部だってことも秘密だったかと気づいた。あとで謝らないといけない。


     ○


 ストーカーが逃げるようにして公園を飛び出していったのを見送った後、潤朱門さんはいつかのように電話でタクシーを呼んだ。

「本当に、痛くないんですか?」と恐る恐る鶸沢が訊ねる。

「大丈夫。肩はきれいに外れてるから」

「どうして?」潤朱門さんがぽつりと言う。「どうして天村が、ここにいるの?」

「ふたりが、友だちになれるきっかけがないかなあと思って」僕はきさぎの方を見た。「潤朱門さんはね、きさぎと仲良くなりたいって、ずっと言ってたんだよ」

 バッと顔を伏せた潤朱門さんを、きさぎが見つめる。

「そうだったの?」

「いや、それはそうなんだけど」顔がみるみる赤くなる。「だからそれがなんで、この公園につながるの!」

「蛍だよ」

「蛍?」潤朱門さんは顔をしかめる。

「ふたりが仲良くなるにはどうしたらいいだろうって考えた時、何か共通の好みみたいなものがあればいいんじゃないかとはずっと思ってた。それで、潤朱門さんが虫好きだと聞いたとき、良さそうなアイデアを思いついた。小さいころ、きさぎと一緒にここの公園の川に、蛍を見に来たことがあったんだ。きさぎはそのとき、蛍を見て喜んでたでしょう?」

「よく、そんな昔の話、覚えてるね」と言って、きさぎはわずかに眉をひそめた。彼女とつきあいが長い僕には、それが恥ずかしがっているときの顔だとわかる。滅多にこういう、弱みを見せるような表情はしないのだけれど。

「だから、ふたりは、一緒に蛍を見に行けばいいのではと思って、下見のために久しぶりにここに来たんだけど、もうこの公園には、蛍はいないみたいだ。前に見たのが、もう十年くらい前だから、環境が変わっちゃったのかな」

 だったらと、きさぎが耳に髪をかける。「ヒナの家の近くに川があるから、そこにならいるんじゃないかな」

 それは名案だ、と僕は思った。なにしろ弋の住む場所には、メダカが住んでいるくらいである。

 それならば今度、みんなで弋のところへ行こう、と言おうとしたときだった。

 ううう……と、潤朱門さんが呻いている。見ると、彼女の目から、ポロポロと大粒の涙がしきりにこぼれ落ちていた。

「先輩!?」と、鶸沢がびっくりする。「潤朱門さん!?」と、きさぎも戸惑っている。僕も僕で、それまで見たことのなかった彼女のまた新たな一面を目にしてしまい、ぎょっとした。

「どうしたの。なにか僕、まずいことをしてしまっただろうか」

 そう訊ねると、潤朱門さんは「だって……」と嗚咽をもらした。

「だってわたしには……天村の痛みも、心も、わからないから!」

 そしてとうとう、うわああと声を上げて泣き始めた。

 僕は、潤朱門さんを慰める。

「大丈夫だよ。ちゃんと肩は外れてるから、僕はまったく、痛みを感じてないよ。だから、心配することなんてないんだ」

 そう説明しているにもかかわらず、潤朱門さんは、だって、と繰り返し言いながら、いつまでもいつまでも泣き続けるので、僕はどうしたらいいかわからず、すっかり、困ってしまった。

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