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日は西に丸く浮かび、ようやく空へ少しずつ橙色が射し始めてきた。昼間より蝉の声も落ち着いてきて、トンボが目線の上の方を水を切るようにして飛んでいる。それでも、この時間帯が涼しいかと言えばまったくそんなことはない。正門の向かいの道路にうまいこと日陰を見つけ、そこで待つことにした。
一八時を一〇分ぐらい過ぎたところで、
鶸沢がこちらに気づき、青信号の横断道路を小気味良く駆けてきた。
「遅くなってごめんなさい、
「こっちこそ、急にメールした上に押しかけちゃって、ごめんね。誰かと一緒に帰る約束だとかしてなかった?」
そう言ったら、鶸沢の目がほんの少しだけ泳いだのがわかった。すぐにその困惑の色を消すと、「今日は、大丈夫です」と明るい笑顔をつくる。大丈夫じゃないなとわたしは速攻勘づいたが、あえて詮索したりはしない。本題に入るのを無駄に遅らせたくないからだ。
「ここらへんに、座れるようなところってある?」
「と言うのは?」鶸沢は首を傾げた。
「いや、ここで立ち話するのもなんだし、ファミレスでも喫茶店でも、公園のベンチでもいいから、座って話せるところないかなあって。わたし、この辺りに詳しくないから」
そうですね、と鶸沢は地面を見つめて考える。
ライブハウスで会った時は周りが暗かったのでよくわからなかったが、こうして明るいところで見ると、やはり鶸沢は中学三年生にしては垢抜けているな、と感じる。
「それじゃあ」と鶸沢は顔をあげ、こちらの機嫌を推し量るような目をして言った。「うちに来ませんか?」
「うちって、
「はい。いいですよね?」
「いいとかダメとかじゃなくて、おじゃまして大丈夫なの?」
「もちろんですよ。あわよくば夕飯を食べていきましょう」
「それこそ大丈夫なの?」こういうところが、天村に押しが強いと評される所以なのだろう。
「あわよくば泊まっていってくれたっていいんです」
「それはさすがに断ろうかな」わたしの寝起きを他人に見せるわけにはいかない。
こちらの質問が終わったらすぐに帰る予定だったのに、なかなかの長期戦の予感がしてきた。かといって答えが出るのを自らじらす意味も無い。学校から鶸沢の家までは徒歩で二〇分ぐらいだと言う。歩きながら、わたしは徐々にここへ来た目的を果たしていくことにした。
「沙綾ちゃん」
「なんでしょうか?」自然に応対しているが、わたしは、鶸沢がこちらにあまり悟られないようにしながら、時折後ろを確認したり、こっそり物陰に視線を配ったりしているのに気づいていた。幽霊の気配でも感じているのだろうか。
「部活、大変みたいだけど、何部に入ってるの?」
「吹奏楽部です。トランペットを吹いてます」
「そうなんだ」
「針桐先輩も、天村先輩も、去年までは吹奏楽部だったんですよ。天村先輩はバスクラリネットで、針桐先輩はわたしと同じ、トランペットでした」
イメージ通りといえば、イメージ通りだ。天村の名前が出たので、わたしはこのタイミングで訊ねようと決める。
「沙綾ちゃんは、天村くんのことが好きなの?」
ひぇっと鶸沢が小さな悲鳴を上げた。聞き方が率直すぎる気もしたが、彼女の反応もまた素直で、任務は大変順調なすべりだしを迎えた。
「潤朱門先輩、どうしてそれを」
うろたえている。ようやく中学生らしさが垣間見えた。
「もしかして針桐先輩から、聞いたんですか?」
その言葉に、今度はわたしが密かにうろたえた。
予感が的中している。悪い方に、的中している。
「そんなふうに言うってことは、やっぱり、そうなんだ」詰問調にならないよう気をつける。あくまで世間話のていで、わたしは念を押した。
「わかんないんです」鶸沢は言葉を一滴一滴、すでに縁まで満たされたコップの水をあふれさせまいとするような調子で置いていった。「自分が今、天村先輩のことを、本当は、どう思ってるのか」
推測が証言と照合され、修正され、仮説の輪郭に近似していく。近似するほど、わたしの気持ちが落ち込んでいく。
「わたし、自分から天村先輩にガンガン言い寄っていったくせに、すぐに冷めてしまって、しょうもない言い訳で振ったんです。こんなひどい話、無いと思います」
振った理由の核の部分を彼女は言わない。わたしに鶸沢自身の悪い印象を与えることをためらわない辺り、天村への配慮とは別に、自分を罰する念もあるのだろう。
「詳しい事情はわからないけど」と一応、知らないふりをする。「そういう自己嫌悪だったり、天村くんに対して申し訳ないと思う気持ちを、好意と取り違えているのかもしれない」
「針桐先輩に相談した時も、似たことを言われました。わたしは先輩にたくさん謝らないといけないんです。潤朱門先輩、この間の歌、わかりましたか?」
歌? と聞き返すが、もちろんわたしは鶸沢が何を言わんとしているかが手に取るようにわかる。といってもそれは、
「だって、針桐先輩が、天村先輩のことをああいうふうに思ってるなんて、知らずにわたしは……」
鶸沢の声が震える。肩を落とし、額を地面と平行になるまで深く傾けている。後悔しているのだ。わたしはそんな彼女になんて言葉をかけたらよいのか、まったくわからなかった。
なんてことは人に同情できないわたしにあるはずもなし。最低限の配慮をこなしながら、わたしはわたしの任務をこなしていく。
「それじゃあ、この間のライブは、針桐さんに誘われたわけじゃなかったの?」
天村によれば、彼とそして
突然、前を歩いていた鶸沢が立ち止まったので、勢いで追い越してしまったわたしは振り返る。
「そうなんです」
鶸沢の目はまだアスファルトに相対したままで、顔全体を垂れ覆う髪の毛が彼女の表情を見えなくしていた。日はさっきよりも下降し、ふたりの影が後方に長く引き伸ばされている。ようやく涼しい風が辺りを漂いはじめ、心地よいというよりも、わたしの意気消沈した心をさらにすうすう冷やしてくるようで不愉快だった。
「わたしはあの日、家から出るなと言われていたんです」
そうだったんだとわたしは表で納得してみせる一方、裏では小さな違和感を覚えていた。だってそうではないか。「ライブにこないで」ならまだわかる。「家にいろ」とはなんとも厳しい強制だ。針桐は、相手が鶸沢だからこそそんな強い言い方になってしまったのだろうか。その時点で天村への好意に感づかれてしまうことだって有りえたのに。
鶸沢は自分の言葉に自分で頷き、なにか意を決したような面持ちで顔をあげた。「潤朱門先輩」
「どうしたの?」
「やっぱりわたし、これ以上針桐先輩に迷惑をかけるわけにはいきません!」
危うく、その言葉を聞き逃すところだった。
これ以上?
そこにこめられた意図を測りかねる。このまま針桐の気持ちに気づかないふりを続けるわけにはいかないということなのか。それともこの話にはまだ先があるのか。
「先輩、本当にごめんなさい。今からわたし、針桐先輩のところへ行ってきます!」
「ちょっと待って」今にも走りださんとする鶸沢をわたしは引き止める。「どういうこと? 今から針桐に、謝りにでもいくってこと?」
「それもあるんですが」
だから待ってくれ。それもとはどういうことだ。
鶸沢は、今にも泣き出しそうな顔をして言った。
「わたしは、針桐先輩のことを、助けなきゃいけないんです!」
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針桐先輩は、お人好しすぎるんです、と鶸沢は怒る。
「お人好し?」と聞き返すが、そんなことはとっくに知っている。
わたしはただ彼女の後についていくことしかできない。どこへ向かっているのだろう。
「あんなに、見返りを求めずに人の頼みをほいほいと聞く人、他に見たことがありません。わたしは、それに甘えて頼りすぎてしまったんです」
前を早足で歩く鶸沢の背中越しにわたしは、「話がつかめてないんだけど」と声をかける。
「先月の半ば、わたし、帰宅途中に知らない男の子に声をかけられたんです。隣の中学の、一個下の学年の生徒らしくて、友だちになってくれないか、メールアドレスを交換してくれないかって言われました」
「青柳くんの件といい、モテる子だね沙綾ちゃんは」どうにかしてこのシリアスな空気をにごせないかとわたしはひそかに画策していた。
「多分、六月の頭に駅前で演奏する機会があったので、そこで顔を覚えられたんだと思います。無下に断るのが恐くて、結局、アドレスを教えてしまったんです」
深く考えずとも、この手の話の展開は読める。
「沙綾ちゃん、ストーカーに付きまとわれてるんだ」
「最初のうちは、普通にメールに応対してたんです。けど、そのうちメールのくる回数がどんどんと増えていって、返信をしないと、〈友だちなのに無視をしないで〉という内容の新しいメールがまた何件もくる。怖くなって、わたしはこっそりアドレスを変えました」
「そういうのは、反応したら負けだからね。一応、最善の判断だと言える」
よくそれで、青柳にアドレスを教えられたものだと彼女の未熟さに悪い意味で感心したけれど、彼が針桐と同じ部活で、なおかつわたしとも仲が良いように見えたことが、彼女の警戒を解いたのだろう。もちろん、青柳自身のコミュニケーションスキルも関与していたに違いない。
「アドレスを変えてから数日は何事もなかったんですが、今月の最初の金曜日、部活が終わって帰ろうとしたら、正門の前にその人が立ってたんです」
「ついに、直談判というわけだ」
わたしはその日何をしていたかと言えば、教室で天村に襲いかかり、その結果としてふたりで湯之寺さんのところへと赴いていたのだった。
「急いで隠れて、裏門からこっそり帰りました。帰宅してる間、もしかしたら後をつけられてるんじゃないかと思うと、心臓が止まりそうでした。家に着いても、これからずっとあの人に待ち伏せされるのだろうかとか、今回は正門だったけど、次はそうとは限らないだとか、いろいろと考えこんでしまって、その日は眠れませんでした」
わかるよ、怖いよね、といかにも同情していそうな声色をわたしはつくる。
「次の日、午前中の部活が終わって、びくびくしながら帰り道を歩いていたら、ちょうどバス停へ向かう針桐先輩に会って」
ようやく、話がつながった。
「わたしは、先輩にそのことを相談したんです」
鶸沢いわく、久しぶりに会った後輩から相談を受けた針桐は、自分が家まで送り届けると申し出たらしい。彼女の部活が終わったころに、ライブの練習を途中で抜けた針桐が彼女を迎えにいく。あらかじめ確かめておいたストーカーのいない門を出て、家に入るのを見届けた後、またスタジオへ戻る。わたしだったら絶対にしない。できない。スタジオと家を往復する時間も、バスにかかるお金も、もったいなさすぎる。
「針桐先輩の腕、見ましたか?」と、鶸沢が歩く速度を保ったまま上半身をひねり、右肘を指す。
「腕?」
「一週間くらい前、先輩、怪我したんです。わたしを送り届けてくれている途中、例の男の子に会ってしまって。針桐先輩が迷惑していると言ったら、小競り合いになって。突き飛ばされた拍子に、肘を打ったんです。包帯巻いているとこ、見ませんでしたか?」
そう聞かれるが、見覚えはなかった。
ここのところずっと針桐は、長袖を着ていたからだ。学校ではジャージを羽織っていたし、ライブのときはカーディガンだった。水泳は雨とテストのせいで先週の水曜以降一回もなかった。わたしは彼女の腕があらわになるところを、この一週間まったく見ていなかった。あれは怪我を隠していたのか。
だからあのとき、駅ビルのカフェで、鶸沢は針桐に詰め寄っていたのだ。病院での治療とライブの練習を終えた後、自分のせいで先輩が怪我をしてしまったことに対し、鶸沢は謝罪や感謝の気持ち以上に、助けすぎていることへの怒りを表明したのだろう。随分身勝手な怒りではあるが、理屈はわからないでもない。人のために自分を犠牲にしすぎるなと、彼女は言いたいのだ。
それ以降、ふたりは作戦を切り替えたという。時間と場所を撹乱するため、まず、鶸沢の部活が終わったころに、ライブの練習を途中で抜けた針桐が彼女を迎えにいく。彼女たちは家路に着かず、駅へ向かうバスに乗る。駅へ着くと、針桐はまた一時間半ほどライブの練習に戻り、その間鶸沢は駅ビルで待つ。練習が終わったら、鶸沢と一緒に帰りのバスに乗り、彼女を家まで――ますます面倒くさいことになっている。
「その折にわたしは、天村先輩のことまで相談してしまったんです。ストーカーの話ばっかりじゃあ息が詰まると思って、針桐先輩からしたら軽い、別の話題に切り替えたつもりだったんですけど、結局それも後から気づけば、先輩の精神的な負担が、増しただけでした」
なるほど。わたしの推測は当たっていたけれど、針桐にとって差し当たりの悩みは、別のところにあったのだ。
「針桐先輩は、わたしの携帯に残っていたあの人のアドレスを使って、わたしを装い、今日の部活が終わった頃を見計らって公園へ呼び出すって言ってました。だからもうそろそろ、ふたりはそこにいるはずです」
なるほどなるほど。これはこれは。
呆れた話だ。
わたしは針桐のその利他性を、高く見積もりすぎていたわけではなかった。むしろその逆、過小評価していたのだ。
いくらなんでも、これではお人好しを通り越してただの阿呆だ。人に同情しないわたしでも、鶸沢の怒りには同調してしまいそうになる。別に他人が利他的であるぶんには、普通だったら全然構わないはずのに、針桐には馬鹿と怒鳴りたくなる。
「先輩はわたしに、来なくていいと言いました。わたしの問題なのだからわたしが解決しなければいけないはずなのに、心配するなと笑いました。だからわたしは今ここにいるんです。でも、やっぱり違うでしょう? わたしが行かなきゃ、ダメなんです!」
それなので、このように息巻く鶸沢にもまた、わたしはそうだそうだと声をあげたくなるのかと言えば。
まったくもって、そんなことない。
正直、わたしは帰りたかった。
鶸沢の説明したとおりであれば、ストーカー君の行為はまさにストーカーの事例に当てはまるものだ。
けれども、これで警察が動いてくれるということはないだろう。話を聞く限り、ストーカー君にはまだ刑事責任能力が備わっていない可能性がある。鶸沢の一個下ということは、まだ中学二年生だ。肘を打撲させられた程度では取り合ってくれるとは思えない。とりかえしのつかないことが起きてしまったら、それはまさにとりかえしがきかないというごく当たり前の事実を、警察という組織は認識していないのだ。
だからといって、わたしが助けなければいけないのか? 天村への好意をめぐる一件とは異なり、わたしはこの事件ならば関与することができるかもしれない。針桐を助ける資格があるのかもしれない。そしてもし助けることができたら、彼女はわたしを信用してくれるかもしれない。
ただ、どう考えてもこの件は、利得に対する負担が大きすぎる。
割にあわない。
帰りたい。
しかしわたしはもう、後に引けないところまできていた。巻き込まれて抜け出せなくなっていた。昨日、鶸沢に会って話を聞こうと思い立ってしまったことを、深く、深く、後悔する。
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