七 「たがを外して」
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○
テストの採点をやっておきたいから、と
潤朱門さんはずっとこちらに目もくれないまま、ミズグモを観察し続けるばかりなので、僕から話題を切り出す。
「きさぎの件は、もういいの?」
待ったが、返事がない。だんまりを決め込むのだろうかと思っていた矢先、わたしは
「警戒はしてるかもしれないけれど、嫌うまでには、いくらなんでも至ってないんじゃないかな」
そう答えたら、潤朱門さんはこれ見よがしに溜息をついた。何か知っているのかと訊ねたけれど、「
話が進展しない。どうしようかと考え、そうだ、ライブだ、と思い立つ。
「万が一嫌われていたとしても、潤朱門さんにはまだ、きさぎの抱えているらしき悩みを解決するという手段があるじゃないか。何かライブに行って、わかったことはあった?」
理由はわからないが、言ってはいけないことを言ってしまったみたいだった。
潤朱門さんは返事をする代わりに突如、ううう、と唸り始めた。体をぷるぷると細かく震えさせた後、意を決したように潤朱門さんは大きく息を吸いこんだ。そして、その吸いこんだ息を吐き出さんとしたと思ったら、つかの間硬直し、ためらう素振りを見せ、結局開いた口をばくんと閉じてしまう。
「……いや、やっぱり言わない!」
机に顔を伏せた。
再び沈黙が訪れる。先週の雨が開けた途端待ってましたとばかりに鳴き出したセミの声が今日も校舎の外で夏を謳歌していた。水槽ではあいかわらずミズグモが泡の中をよじよじとうごめいていた。
これではらちがあかない。僕は別の切り口から質問をしてみる。
「ライブで、
潤朱門さんは腕で顔を隠したまま、くぐもった声を発した。
「……噂通りだった」
「噂通り?」
「そう。だって歯の浮くようなことを平気で言うし。それにナンパしてたし。しかもよりにもよって針桐の後輩を」
「きさぎの後輩?」僕は、いつだか青柳に教えてもらった、相手の言葉をオウム返しにするというコミュニケーション技法で、なんとか潤朱門さんから話を引き出し、会話を継続させようと試みていた。
「前に言ったでしょ。針桐が駅ビルの喫茶店に女の子といたって。その子が、針桐の後輩だったんだって。後輩ってことは中学が一緒ってことだから、天村も知ってるんじゃないの?」
「名前を聞けば、わかるかもしれない」
「ヒワサワ。
一瞬遅れて、言葉の意味が頭に染みこんでくる。久しぶりにその名前を聞いた。
「潤朱門さん」
「何?」
「前に僕が、後輩に振られた話をしたでしょう」
「そうだったっけ」
「その後輩が、鶸沢さんだよ」
「そう……え!?」
潤朱門さんが、がばりと顔を起こした。気の抜けていた数秒前とは打って変わって、まじめな面持ちで机の周りをつかつかと歩く。何か考えているようだ。
「気がついたことがあったの?」
しばらく室内を歩きまわった後、ひょっとしたら、と言って潤朱門さんはおそるおそる僕の方を見た。「針桐の悩みが、わかったかもしれない」
「本当に?」
「まだ確信は持てないけど。ただ、もしわたしの推測通りだったら」
僕は次の言葉を待つ。
「針桐の悩みを解決するのは、あきらめる」
「え?」
言葉の意味にすぐついていくことができなかった。てっきり、その逆のことを言うのかと思っていたからだ。推測通りであれば、むしろその悩みの解決に貢献することができるのではないか。
「わたしには、針桐を手助けするどころか、その悩みに関与することさえできない。そうなったらもう、八方ふさがりだ」
●
水曜のテストが終わり、ようやく期末を乗り越えたと歓喜に満ち溢れるクラスメイトを尻目に、わたしはそそくさと教室を出て、隣の五組へ向かった。
青柳に、鶸沢のアドレスを教えてもらう。本当はライブの際に聞けばよかったのだろうけど、わたしはそのときうっかりしていた。アンコールが終わると同時にふらふらとライブハウスを抜け、そのまままっすぐ帰宅してしまったのだ。
「鶸沢さんに、何か用でもあるの?」当然のように彼女のアドレスを控えていた青柳が、わたしに携帯の画面を見せる。
「決まってるでしょ」自分の携帯にそのアドレスを打ち込みながら嘘をつく。「青柳くんの魔の手から、あの子を守るためです」
学校を出て、駅へと歩きながら、鶸沢へメールをした。
〈土曜のライブで青柳くんと一緒にいた、潤朱門です。覚えてる? いきなりで悪いんだけど、ちょっと直接訊ねたいことがあって。今日会えるかな?〉
携帯が振動したのは、駅へと到着し、駅ビルの冷房で体力を回復していたときだった。
〈もちろん、覚えてます! 今日は一八時に部活が終わるので、それからでしたら大丈夫なんですが、どこに向かえばいいですか?〉
どこの学校でも同じようにテストをやってたわけじゃないんだな、と気づく。時刻はまだ正午を越えたばかりだ。わたしは鶸沢に中学の名前を教えてほしいとメールした。部活が終わってからこちらに来るというのでは時間がもっと遅くなるから、一八時に合わせてこちらから彼女の学校に出向くというプランを立てる。
それまで暇になったので、いつものように、本屋に入った。何か欲しいものはあったっけと考え、そうだ、と『銀河鉄道の夜』を購入する。そのまま、隣の喫茶店へと入り、アイスコーヒーをもちろんブラックで注文して、窓際の席へ腰掛けた。
目次を開き、いろいろな童話が並ぶ中で表題の載るページを探す。『銀河鉄道の夜』の項を繰ると、最初の章題に「一 午後の授業」と書いてあった。テストが無ければ、まさに今はそのような時分である。
わたしが知りたい「
わたしは鶸沢のことを考えた。
鶸沢は天村に告白した。だけど彼の体の事情について知ると、怖くなり拒絶してしまったという。それから、まさしくこの喫茶店で針桐と話していたあの子の、詰め寄るような態度。おそらく、天村と針桐が幼なじみだということも知っているはずだ。
もしかしたら、鶸沢は天村を拒絶したことを後悔しているのではないだろうか。
天村の体がロボットじみたものであると告げられ、中学二年の彼女は戸惑う。どうしても拭い切れない嫌悪感がむくむくと湧き上がり、とうとう、彼を拒んでしまう。
けれどその嫌悪感は、生理的であると同時に、身勝手なものでもある。その身勝手さによってもたらされた、差別という忌むべき行動を、とってしまったことへの後悔と、罪悪感。恋愛感情と憧れを取り違えたと思い込む彼女のことだから、その自己嫌悪は反動的に、「もしかしたらわたしはまだ天村先輩を好きなのかもしれない」という新たな勘違いさえ呼び込みかねない。そして一旦そう思ってしまったら、彼女はその勘違いに気づくことはできない。
だから鶸沢は考える。どうしたら天村に許してもらえるか。どうしたら先輩と、もう一度付き合えることができるのか。当然、ひとりではその答えを見つけることができない。
そこで彼女は、天村のことをよく知る人物に助けを乞うた。その人物こそ、彼の幼なじみである、針桐きさぎだ。
「針桐は、鶸沢から天村についての恋愛相談を受けていた」
これが彼女の抱えていた悩みなのだ。鶸沢の相談に乗れば乗るほど、天村と自身の距離が遠ざかるというジレンマに、針桐は苦しんでいた。
きっと鶸沢は、例の歌を聴いて直感したのだろう。「わたしは一番相談してはいけない人に相談してしまった」と。だからあのとき、泣いているような怒っているような表情をしていたのだろう。針桐は親身に話を聞いてくれたに違いない。もし本当に鶸沢を助けてしまえば、自身の想いこそが成就しなくなるにもかかわらず。あのライブで初めて鶸沢は、針桐の気持ちに気づいたのだ。
わたしのこうした推理が、憶測に憶測を重ねた、ひとりよがりなものであることはもちろんわかっている。
しかし、もし当たっていたとしたら、わたしに針桐を助ける資格は無い。わたしは彼女に、鶸沢の相談と同様のことをしてしまったのだから。針桐の引きずる重りの上に、わたしはむしろ自分の体を乗っけて、後ろから苦しむ様子を眺めていたのだ。
どうして天村と付き合っている当の本人が、「鶸沢のことは気にせず、自分の気持ちを打ち明ければいい」と言えようか。無論付き合ってるというのは嘘だけど、嘘でしたと告げたところで状況は変わらない。そのような無為な嘘を天村につかせたわたしが、彼女と仲良くできる可能性など毛頭ないだろう。
針桐きさぎという人間はつくづくわたしと正反対だ。自分にとって損でしかないのは自明なのに、なぜ他人にそんな献身をするのだろう。理解できない。どう考えても「無駄」ではないか。それともわたしは彼女の利他性を高く見積もりすぎているのだろうか。
しかしわたしは針桐を思うと体の奥がざわついた。恐い。否定したい。その献身の先がわたしに向いていたならまだ得な部分もあったのに。今となってはそれも叶わない。
ともかく今晩わたしは、鶸沢に答え合わせを挑む。
わたしの願いはひとつ。
自分の推理が、どうか見当外れでありますように。
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