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     ○


 残念ながら俺はまだここに用があるのだ、と興奮と悔しさを同時に表出する茨島ばらしま先輩を残して、僕は部室棟から再度校舎に戻り、生物室を目指した。二階に差し掛かるとさっそく、廊下側から歩いてくる、白衣を着た空五倍子うつぶし先生に出くわす。

「あれ、天村あまむらさん」こちらに気づいた先生が、穏やかな笑顔を見せる。

 こんにちは、と僕は会釈をした。

「今日の生物のテストは、どうでしたか?」

「思っていたよりも、解けたような気がします」

「それは、天村さんがちゃんと寝ないでわたしの授業を聞いているからですね」

 なんとも返事しがたい褒め方をするので、話題の変更も兼ねて、本題に入ることにする。

「あの、先生」

「何でしょう?」

 別に回りくどい手段をとる必要も無い。単刀直入に訊ねた。

潤朱門うるみかどさんって、今、生物準備室にいますか?」

 空五倍子先生は、ほう、と顎をなでると、両手を後ろで組み、

「それでは今から、いるかどうか、確認しに行きましょう」

と、楽しそうに返事をした。

 先生のペースに合わせてゆっくりと階段を登りながら、僕は以前、八重やえさんが先生の名前を出していたことを思い出した。

「先生は、湯之寺ゆのでら八重って生徒を覚えてますか?」

「そういえば、天村さんの親戚でしたね」先生はとっくに、僕と八重さんの関係を把握していたようだ。「印象深いですね」

「どんな生徒だったんですか?」

 興味本位でそう聞くと、先生は右手を水平にし、前後に動かしてみせる。

「黒板消しクリーナーが、教室にあるでしょう?」

「あの音の大きいやつですね」

「冬休み直前のある日、生徒がね、そのクリーナーに張り紙がされているのを見つけるわけです。『サンタからのプレゼント』って、確か書いてありました。丁寧に、脅迫状のようにして、新聞やら雑誌やらから文字を切り貼りしてある」

 すでにその時点で、いかにも八重さんがやりそうなことだと思った。

「大体の生徒はこりゃ何かあるとクリーナーから遠ざかるわけですが、一部の男子は、ふざけ半分でそこへ群がったんです。そしてその内のひとりが、恐る恐るスイッチを入れる」

「どうなったんですか?」

「おそらく、中のモーターを逆回転にして、威力も強めたんでしょうね。クリーナーから勢い良く粉が噴出して、教室中が真っ白になりました。しかも、それだけじゃありません」

「まだあるんですか」僕は八重さんの暴挙に呆れる。

「クリーナーのあの大きな音が止んだ後、中から、クリスマスソングが流れたんです」

「クリスマス?」

「教室中に舞う粉を、雪に見立てたということなんでしょう。みんなが粉をかぶりながら呆然とする中、クリスマスソングがオルゴールの音色で奏でられている光景は、なんともいえない、シュールなものでした。当然八重さんは、後で反省文となったわけですけど、『一足早いホワイトクリスマスをお届けし、皆様の心を感傷的にしてしまってごめんなさい』って、変なことを書いていましたね」

 昔のことだからか先生は感慨深げに話しているが、僕は親戚として、大変申し訳無い気分になり、思わずすみません、と謝ってしまった。

 生物室の前にたどり着く。先生を僕の方を振り返り、正面のドアではなく、その脇の生物準備室を指し示した。無言で「どうぞ」というジェスチャーをする。

 磨りガラスのはまった扉を開ける。

 部屋の中央の机に突っ伏すようにして、潤朱門さんが机の上の水槽を眠そうに見つめていた。

「おじいちゃん、さっき、水面にのぼってきたよ」

 そううっとりとした口調でつぶやいて、こちらを振り向き、僕と目が合うと、彼女の頬と耳が一瞬で紅潮した。先週以来の、いつもどおりではない、「粗い」表情だ。見たかったものが見れたと、嬉しさがこみあげる。

 潤朱門さんは椅子から立ち上がり、小声で叫んだ。

「なんで天村が入ってくるの!」

 空五倍子先生は、だから学校では、「先生」と呼ぶようにって言ったでしょう、と優しく孫をたしなめた。


     ○


 こちらに引っ越してくるに際し、潤朱門さんは母方の祖父母の家に住むことになったのだという。彼女の言動から察せられる通り、その祖父というのが、他ならぬ空五倍子先生だった。 

「だから、こうして生物準備室に来ているんですね」どうやら、茨島先輩の予想は外れたようだ。禁断の情交は無いと知って安心してくれるに違いない。

「メインの理由は、別にあります」と、空五倍子先生は答える。潤朱門さんはと言えば、完全にふてくされていて、口を尖らせ、先生を上目遣いに睨んでいる。

 先生は、机の水槽を指さした。

「茜はね、これを見に来ているんです」

「自分は『先生』って呼べっていうくせに」と、潤朱門さん。先生はそうでした、と照れ笑いを浮かべた。

 水槽の中には、魚を飼うにしては大量の水草があしらわれていた。よく見ると、水草の一部に、ピンポン球くらいの小さな泡がくっついていて、さらにその中に、もっと小さな黒い生き物がうごめいている。泡の中に閉じ込められてもがいているように、僕には見えた。

「ミズグモです」と、先生は言った。

「ミズグモ?」

「茜……もとい、潤朱門さんは、小さい頃から、とても虫の観察が好きな子でした。その中でも、とくにこういう、変わった生態の生き物には目がない。もちろん、厳密にはクモは昆虫ではないんですが」

 そんなこと天村に言わなくていいでしょ、と潤朱門さんは先生の白衣を引っ張った。けれども先生は、いいじゃないですか、減るもんじゃないですしと聞く耳を持たないので、ますますふてくされる。

「天村さん、わたしはね、昆虫好きの人は将来、芸術的な大成をすると思うんです。かのマンガ界の巨匠も、昆虫のスケッチを多くとっていましたし、ミズグモに関して言えば、日本で一番有名なあのアニメ監督は、ミズグモを主人公にした短編作品を残しているんですよ」

 やめてよ、と恥ずかしがる潤朱門さんに対し、祖父の口調はますます滑らかになっていく。案外、孫の自慢をするのが、好きなのかもしれない。

「それに、モーリス・メーテルリンク」

「メーテルリンク?」

「『青い鳥』の作者ですよ。あまり知られていないことですが、彼は、虫に関する随筆をいくつか書いていて、ミズグモについても、一冊を費やして、その生態について著しています」

 僕は、潤朱門さんが教室で眠っていた日のことを思い出した。あのとき机に乗っていたのが、たしか『青い鳥』だったはずだ。

「ミズグモは絶滅危惧種なんですが、たまたま大学時代の知り合いに、保全活動をしてる人がいましてね。四月に、生育している一部をわけてくれたんです。わたしは家にいるより、学校にいる時間の方が長いですから、それだったらこの部屋で飼おうと。だから潤朱門さんは、入学以降、ミズグモの様子をこうして観察しに生物準備室にやってくるというわけです」

 まあ本当は、天村さんには「ご褒美」としてお見せしたかったんですが、と先生は頭をかいた。

 もう一度、目を近づけて水槽の中をよく眺めてみる。確かに、泡の中の生き物には、八本の足が生えているように見えた。まごうことなき、蜘蛛だ。

「先生、どうしてミズグモは、泡の中にいるんですか?」

「それはもちろん、蜘蛛という生き物には、エラのような、水中で呼吸する機能が備わってないからです。なので、ミズグモは水面からちょっとずつ空気を調達してきて、糸を利用しつつ、上手に水の中に泡を構築して、その泡の中で生活するんです」

「なんで、そんな面倒くさいことを」

「ミズグモの食べられる生き物が、水中にしかいないからですね」と、空五倍子先生は授業のときと同じトーンで説明してくれる。「しかし、それでも不思議ですよね。どうやってこの蜘蛛は、進化の途上でこのような能力を手に入れたんでしょう」

 先生の話を聞きながら、僕はまたしても、いぐるみのあの言葉を思い出していた。

――赤色が、ゆらゆらしてた。、火が、燃えてるみたいだった。

 そのとき彼女は、現に水の中を泳いでいたのだ。

 そこまで考えが及んだとき、あの、グラウンドを全力で周回する潤朱門さんのイメージが再び目の前に広がった。

 息を切らしながら、それでも全力で走り続ける、潤朱門さん。足が若干もつれていて、肘から下が垂れている。それにもかかわらず、自分から力を落とそうとする様子がまったく見受けられない。目だけはまっすぐ前を見据えているが、その目に映っているのはすでに何度も見ているはずの、変化と無縁な光景だ。

 突然、潤朱門さんの足が何かにとられた。転ぶかと思いきや、宙に浮いたまま、下から押し上げられるようにゆっくりと地面から離れていく。これまでの疾走を完全に無為にするかのようなその見えない力の流れに、彼女は必死で抗っている。声を上げているみたいだが、何を叫んでいるのかわからない。そもそも、声が本当に発せられているのかも判然としない。

 彼女をとりまく力の流れに呼応するがごとく、光景の全体がじわりと歪む。像が、回転し、反転し、混ざり合う。歪みはどんどんと大きくなって、やがてもやがかった青白い薄闇をともない始めた。光が捕らえられ、流れが可視化される。流れは重たい音を立てている。

 空気が水に、変わっていた。そこはもはやグラウンドではなく、視界の果てまで水に満たされた、巨大な、しかしどこか閉じた印象を持つ空間だった。その広大な水中に封じ込められて、もはや息をすることさえかなわない潤朱門さんが、なすすべもなく、ただ恨みのこもったような目で、上空を見つめている。

 なぜあのとき潤朱門さんが全力で泳いでしまったのか、わかったような気がした。

 呼吸さえ不可能であるにもかかわらず、生活のために、居ざるを得ない場所。

 息苦しくてかなわない空間。

 僕はたしかに、潤朱門さんがそのようなところに生きていることを知っていた。

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