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○
わりと楽しみにしていた
〈今日のミーティングは無しで〉
このようなメールが、月曜、火曜と二日連続でやってきたのだ。テスト期間だから、という潤朱門さんなりの配慮なのかもしれないとも思ったけれど、はっきりとした理由がわからず、逆に、試験へしっかり集中できない。
学校では生物室以外でなるべく話しかけるなと命じられているから、僕はテスト中や休み時間に、潤朱門さんの様子をチェックしてみるしかない。
潤朱門さんは、いつもどおりだった。いつも以上に、いつもどおりだった。
テストにはいたって真面目に取り組んでいるが、休み時間になると、教室から姿を消す。そしてまた次のテストが始まる時間には、いつの間にやら席についており、そして一日分の科目が終わったらあっという間にいなくなる。それは自身の存在感を限りなく希薄に保つという、潤朱門さんのいつもの戦略であることは重々承知していたけれども、それでも今週の希薄さは異常で、本当に、幽霊になったのかと思ってしまうくらいだった。
きさぎの件については、どうなったのだろうか。訊ねてみたいけれども、とりつくしまがない。
もやもやとした感覚を抱きながら、火曜の分のテストを終え、教室を見渡すとやはり潤朱門さんは既にいなくなっており、僕も帰ろうか、それとも部室で勉強しようかと迷っていた矢先、教室に
「
僕らは正門から数分歩いたところにある、滝高生常連の小さなラーメン屋に行くことにした。
暑いなあ、と空を仰ぎながら、青柳がタオルで額の汗をぬぐう。Yシャツはとっくに教室で脱ぎ捨てられTシャツ一枚だったが、彼のようなタイプの男子にありがちな、ズボンの裾をくるぶしの上辺りまでまくりあげるなどということはしていない。傍目から見たところで、義足と本物の足の区別なんてつきっこないのだけれど。それでも、気にするなと安直に言うのもぶしつけな話だ。
「青柳がご飯に誘ってくるなんて珍しいね」彼はいつも昼ごはんを、女子と食べている。
「本当は昨日がよかったんだけどな。先約があったんだ」
「女の子?」
「当たり前だろ?」
それを聞いて安心した。青柳のいつもどおりは、普通のいつもどおりだ。
店の中はやはり同じ制服でごった返している。カウンターに座り、僕は天津飯、青柳はチャーハンセットを頼んだ。頭上の首振り扇風機が、店内に充満する油の匂いを分散させながら、僕らの髪を周期的に揺らす。
セルフサービスの水をふたり分運んできてくれた青柳は、自分の分を一気に半分ほど飲んで、こう切り出した。
「潤朱門さんが、ライブに来てたよ」
知ってるよ、と危うく答えそうになるが、すんでのところで飲み込む。
「そっか。そもそもライブはどうだったの? きさぎは大丈夫そうだった?」
「素雄の想像をはるかに越えるすばらしいライブだったって言っていいと思うよ。
「ただ?」
先を促すと、青柳は親指を眉尻に当て、いや、なんでもない、と厨房に目をやり、次いで腕を高い位置で組んだ。
「いや、これも違う。なんでもないというか、なんと言っていいのかわからない。まあ、ライブがよかったことには変わりはない。それより、潤朱門さんだよ」
「青柳って、そんなに潤朱門さんのこと、気にしてたっけ?」
「違うだろ。素雄が気にしてたから、俺も気にかけてあげてるんだって」
「それって、同じことじゃあ」
「全く違う」青柳は両手を交差させるようにして振り、「素雄が潤朱門さんに対し特別な情を抱いているのだとすれば、俺はいさぎよく身を引く。要は、応援してあげようって魂胆だよ」と、僕の背中を励ますように叩く。
身も蓋もない言い方をすれば、女性に対して手当たり次第なところがある青柳に、そのような精神が備わっているとは、意外だった。
「それじゃあ、ライブでの潤朱門さんの様子に、何か変わったところでもあったの?」
やっと本題に入れた、とこちら側へ身を乗り出す。
「最初は、いつも学校で見る潤朱門さん、そのまんまだった。美人で、話すと愛想のいい、普通の潤朱門さんだった」
普通、という言葉に、ここ十日ぐらいの潤朱門さんを見てきた僕は引っかかる。教室と生物室、どちらの彼女が「普通」なのだろう。
「だけど……あれは、最初の曲が終わった後からだな。潤朱門さんのテンションが急に落ちた。ように見えた」青柳は斜め上を見上げながらそういった。目線の先にあるのはメニュー表だったが、おそらくその時の様子を思い浮かべているのだ。
「そんな、見た目でわかるほどだったの?」そう簡単に、彼女が演技を解いてしまうとは思えない。
「話しかけると、ちゃんとした応対をするんだよ。ただ、ときおり様子を見てみると、明らかに心ここにあらずだ。目の前では県内屈指の高校生バンドが演奏してるっていうのに、それが耳に入っていないような面持ちで、ぼおっとしているか、そうでなかったら、何か考え事をしているか、そういう感じだった」
潤朱門さんが何の目的でライブへ赴いたのか、青柳は知らない。考え事をしてるように見えた、というのであれば、それはそれで僕にとっては、合点のいく行動であった。
「それから?」僕は続きを待った。
「それからも何も」と青柳は眉を上げた。「それだけだ」
拍子抜けする。「それだけってことはないんじゃない? 青柳は今の話から僕に何か言おうとしたんでしょう」
「そういうことか。そりゃあ」青柳は当たり前のことを聞くなといった風情で、水の入ったグラスを揺らした。「普段は隙の無いように見える潤朱門さんにも、そういう一面があるってことだよ」
潤朱門さんの心のことを知らない青柳が、彼女のことを「隙の無い」と形容できるのはさすがだと感心したけれど、情報自体は、なんというか、新鮮味の無い気がした。
「ううん、心の裏表みたいなものは、誰にだってあると思うけど」
何の気なしに僕がそう言うと、青柳はそうじゃないと首を振った。
「大体の人は、今の素雄みたいな思い込みをよくしている」
「思い込み?」
「そうだ。俺は今、『そういう一面』と言った。素雄はそれを聞いて、『裏表』と言った。この違いは大きい」
青柳は手首を返して、裏と表を表現した。
「人っていうのは、一枚の紙みたいに、裏と表の二面でできているわけじゃない。四面体かもしれないし、八面体かもしれないし、二十面体かもしれない。そのことを理解しない人間が、他人の心を推し量り間違うんだ。俺は素雄に、それまで知らなかった潤朱門さんの一面を提供した。だけどそれは入り口だ。素雄が潤朱門さんのことをちゃんと理解したいと、もし、思っているのであれば、もっと他の一面もあるに違いないと踏んで、積極的に、かつ正しい方法で、探りに行かないといけない。いつもと違う場面をたったひとつ目撃したくらいで、相手をわかった気になっちゃあダメだ」
料理が運ばれてきた。店内は混んでいる上、大体この時間は回転率を上げるために、店員に早く食べろと無言のプレッシャーをかけられる。一旦会話を中断して、僕たちはもくもくと食事に取り組んだ。
湯気の立つ天津飯を口に運びながら考える。
たしかに僕は、潤朱門さんから、多くの話を打ち明けられた。サイコパスで、だけどひどく後悔をし、そのために何も起こらないことが自分にとっての一番の利益だと考える、「赤の女王」の潤朱門さん。
いろいろ知った。けれども、それでもまだ足りないのかもしれない。潤朱門さんがまだ無意識に隠していること、あるいは話す必要が無いと思っていること、また、そもそも話すか話さないかという選択肢にも入っていないような、彼女にとって些細なこと。そういう要素をきちんと抽出できれば、それがひょっとしたら、今の潤朱門さんが抱える問題の解決にだって、案外役に立つかもしれない。
会計を済ませて、店を出た後、僕は青柳に言った。
「やっぱり、エキスパートの言うことは違うね」
青柳は、俺は恋愛に一途だからな、といつものセリフを言って笑った。
○
もう少しちゃんと潤朱門さんの様子を調べてみようと思い立つも、よく考えてみれば、僕は彼女の入っている部活さえ知らない。それを青柳に言うと呆れたような顔をされつつも、そのことに気づいただけでも偉い、と褒めてくれた。
「潤朱門さんは、演劇部だよ」
まだ明日もテストがあるから、部活こそやっていないだろうとは考えたけれど、また別の女子と約束を控える青柳と別れた僕は、さっそく、演劇部の部室に行ってみることにする。潤朱門さんに会えたらラッキーだが、それが目的ではない。
滝高の生徒は全員どこかの部活への在籍必須とはいえ、あまり部活動にかまけたくない人たちのための部という救済措置のようなものもある。潤朱門さんは先週の放課後は僕といることが多かったから、てっきりそのたぐいと思い込んでいた。けれども演劇部はそれなりに熱心に活動していると聞いている。彼女のような人間が、わざわざそういう場所へ、それもよりにもよって目立つことを避けられないような部活に入る理由がわからない。もし部室に誰かがいて、そこのところの事情を知っていたら訊ねてみようと僕は思ったのだ。
目的地にたどり着き、看板の文字を確かめ、それではとドアノブに手をかけようとした途端、ドアの側から勝手に開いて思わず身を引く。向こうだけがうわっと驚いた。
「なんだ、天村か」
その口ぶりからして、
「先輩、なんでここに」
「なんでってそりゃあ、台本を届けにきたんだ。でも、誰もいない」と、室内を指さす。のぞいてみると、確かに人の姿はないようだ。そういえば茨島先輩は演劇部のためにシナリオを書いていると自慢していたことがあった。本当だったのだ。
「向こうが時間指定してきたくせに。あいつめ」
部員が一人もいないなら仕方がない、タイミングが悪かったのだろう。腹を立てている先輩をよそに、引き返そうとすると、おいちょっと待て、と引き留めてきた。
「どうしましたか」
「どうしましたかって、お前こそ用があってここに来たんじゃないのか」
用があったことは間違いないのだけれど、先輩に対してではない。それでも、この様子だとわりと演劇部との関わりは浅くないようだし、もしかしたらと思い、訊ねてみることにする。
「先生に頼まれて、潤朱門さんを探してるんです。演劇部だと聞いて」前半は嘘である。潤朱門さんがこの間文芸部にいる僕を訪ねてきたときに使った言い訳を流用させてもらった。その際に茨島先輩も彼女の名前を覚えたはずで、忘れていなければ、これで通じるはずだ。
先輩は、眼鏡を直して、
「ああ、あの子か」と合点したように言った。「天村、よくあの子が演劇部だって、わかったな」
「それはどういう」
「潤朱門さん、だっけか。その女子が演劇部員だって知っているのは、生徒では部長と、部長から偶然話を聞いた俺だけのはずだ」
ふたつの疑問が浮かんだ。先輩の言うことが正しいならば、なぜ青柳はこのことを知っていたのか。これは推測だけれど、きっとその部長が、容姿の良い女性なのだろう。これはあとで本人に確認してみるとして、さしあたり、二個目の疑問に関して聞いてみる。
「あの、先輩。部長だけが把握してる部員っていうのが、存在するのは可能なのでしょうか」
「どうやら、スカウトしたらしい」
「スカウト?」
そうだ、と茨島先輩は、別にスカウトした当の部長でもないのに得意げな顔で言った。「あいつ曰く、四月に廊下でその子を見かけて、もしかして演劇の才能があるのではと直観したのだそうだ。入部しようと思っているところはあるかと訊ねたら、まだ決まってないと言うので、それだったらと、演劇部に勧誘した。本人は目立つのが嫌だと言って乗り気じゃなかったらしいけれど、籍を置くだけで大丈夫だとか、他に入りたい部活も無いんだったら、全く参加しなくてもいい部にいることは得だろうだとか説得し、最終的に、演劇部への引き込みに成功したと言う」
そして先輩は、でもまあ、俺の演技を見抜けないようではまだまだだな、と得意げな表情のその得意さをますます強調し、あまり人に見せるべきでない顔になった。
それにしても、その勧誘に、意味があるのだろうか。「部に出なくてもいいとか言ってますけど、どうせそういうわけにはいかないんですよね」
「そりゃそうだろうよ。ちょっとずつ交渉を重ねて、そのうち舞台上に昇らせるんじゃないのか」
僕ですらこれには裏がある、詐欺っぽいとわかったのに、潤朱門さんがそれに気づかないはずがない。彼女の側も、部長さんの口にした条件を言質に、あくまで抵抗を決め込むつもりなのかもしれない。でも、それはうまくいくのだろうか。潤朱門さんは人を動かす、率直に言えば「操作する」のが得意だし、本人もそれを自負しているからこそ詐欺だと知っててあえて勧誘を受け入れたのだろうけど、彼女の演技の技量を見抜いた部長さんの側もただ者では無い感じがする。
とはいえ、そういうことなら、もうここには用が無い。「潤朱門さんは、部室に来るようなことは、無いってことですよね?」
「そうか、天村はその子を探してるんだったな」と茨島先輩は手をたたいた。「四階にいるんじゃないのか。たまに見かけるぞ。昨日も、帰り際に生物室へ入っていくところを見た」
本当ですか、と内心驚くと同時に、自分の中に生物室へ探しにいくという選択肢がなかったことを自分で馬鹿だと思いもした。
たしかに僕らは先週、ふたりで生物室を使用した。ミーティングがないからと言って、そこをあたらない理由もない。それでも不思議に思う。茨島先輩は「たまに見かける」と言う。ということは、潤朱門さんは、ミーティングを始めたときよりもずっと前から、あの部屋を使い続けていたのだろうか。
「生物の係かなんかじゃないのか?」
違います、と僕が答えると、先輩は眉をひそめた。
「もしかして、
そんなまさか、と答える前に、先輩は「有りえない!」と自分の言った言葉に震え上がり、「相手はご老体だぞ!」とこれまた自分で突っ込んでいる。
「ひとりで盛り上がりすぎですよ」
よし、天村、と先輩は僕の言葉の客観性を無視し、両肩をつかんだ。
「お前は今から、探偵役だ。潤朱門さんと
そんなわけないと思いつつも、僕は僕で、先生が授業で言っていた例の「とっておき」の話を思い出していた。
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