髪を切る日

春義久志

髪を切る日

 僕は雑踏の中で君に逢うのを待ち焦がれている。

 きっと、どんな人混みの中でも平気。僕は君を見つけられるし、君も僕を見つけてくれるから。

 あたりを見渡すと、交差点の向こうに君の姿が見えた。ほぼ同時に君も僕に気付いたようで、僕に向かって手を振る。横断歩道を駆け渡ろうとする僕を赤信号が阻んだ。幹線道路を走るたくさんの自動車が僕と君との視線を遮り続ける。青に変わるまでの一分一秒がもどかしい。

 永遠にも思えた90秒は、スピーカーから流れる郭公の囀りで終わりを告げた。車の往来が止まった大通りの向こうに僕は君を見つけたのに、君はきょろきょろとよそ見をしている。僕がどこかに行ったと思ったのだろうか。そんなわけない。少しでも早く君のもとに迎えるように、最短距離でずっと準備していたのだから。

 どうも様子がおかしい。僕の立つ場所はさっきと変わらない筈なのに、君はまるで違う方向へと僕を探している。不審に思った僕は、手を振りながら君に向かって大声を上げようとする。

 なんだろう。喉の調子がおかしい。掠れてしまった声は、騒々しい街頭の真っ只中に立つ君には届かない。焦れったさと不安から、僕は君のもとに走りだす。身体が思うように動いてくれない。重いという感じではない。むしろ重心が普段と違う位置にあるかのよう。そう思って視線を下に向けると、むくむくと膨らんだ胸部が、僕の着るシャツを押し上げていた。まだ上手く声の出せない僕の喉からは、悲鳴すら満足に出て来ない。

 無秩序に大きくなり続けるかに思えたそれを、シャツの下で何かが締め付ける。その感触を呼び水にして、一斉に衣類が分解と再構築を始める。シャツの前側が2つに裂けたかと思うと、どこからともなくボタンが現れ、男物のワイシャツとは左右上下逆向きに嵌められていく。ジーンズの細い2つの裾は太い1つの筒へと姿を変えた。 その開放感と頼りなさに困惑する僕を、両足の間に侵入した空気が襲う。思わず声が出た。か細く、力の無い声は、以前の僕のものとは決定的に何かが違う。

こわい。たすけて。だれか。気がつけば肩にかかるほどまで伸びていた髪に取り乱しながら、僕は周囲に危機を伝える。誰も僕の声に耳を貸さない。大都会の喧騒によって、僕の弱々しい声音はかき消される。

 不意に下腹部が疼き始める。股の間にあるべきはずの存在感は豆粒大にまで縮小していた。ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた腹の中へと何かが入り込んでくる感触に僕は恐慌状態に陥った。彼女の名を呼びながら群衆の中に彼女を探す。

 見つけた。僕を探している筈なのに、彼女は僕に背を向けてどんどん遠ざかって行く。表情はこちらからでは見えない。この距離ならまだ追いつけると走り出そうとした僕を、下腹部の鈍痛が襲う。体感したことの無い痛みに、思わず膝が砕ける。いかないで。ヒールが高く歩きづらいだけの靴で、更なる一歩を踏み出そうとする僕の戦意は、いつの間にか内腿を伝って来た、温かくぬめりけのある液体に阻害される。その液体がなんであるのか、どこから流れてきたのかに思い当たった僕は


 絶叫しながら跳ね起きた。半狂乱で全身を弄るうちに、先程の体験が現実でなかったと知る。

 どうやら夢を見ていたらしい。鮮烈でおぞましい、いつもの夢だ。身体は音を立てるようにその姿を変えていく。誰も助けを求める声に応えない。それを知ってか知らずか、彼女も背を向けて遠く去ってしまう。最後は決まって、他ならぬ自分自身の上げた甲高い叫び声で目が覚める。

 夏用の薄手の寝間着は寝汗でぐっしょりと濡れ、知らない内に垂れ流した涙と唾液によって顔面はかぴかぴに乾いていた。今日は日曜のはずだし、バイトの夜勤明けでもある。寝直したところでなんら問題はなかったが、あまりにも不快指数が高い。よろめきながら脱衣所へと向かい、身に着けたものを何もかも脱ぎ捨てる私。

 湯気で曇った浴室の鏡には、呆けた表情を浮かべる女性の裸体がぼんやりと映る。それが他でもない私自身の今の姿であることには、いい加減慣れた。鈴のなるような声が自分の喉から発せられても、不規則な生活で肉付きが良くなった太腿に触れても、世の女性の平均よりも豊満であろう乳房を揉みしだいても、今では特に何も感じない。

 肩に届く程の長髪を乾かす。こればかりは未だに面倒でならない。久々の何もない日曜をどう過ごすか、私は思いを巡らせる。すっかり日は昇り、時刻は午前十時すぎ。朝食にも昼食にも中途半端な時間、そもそも食欲は湧いて来ない。

 とりあえず街まで降ろうと私はリビングを発つ。駅前まで出る頃には、時間も空腹も丁度よくなっているだろう。そう思いながらクローゼットを開き、支度を始める。 今日はなんだか前髪が邪魔臭く感じる。一挙手一投足の度に視界に入り込み、鬱陶しいことこの上ない。今朝の悪夢の影響だろうか。最後に髪を切った日付を思い出せなかった私は、外出の目的を変更する。


 峠道と形容されてもなんらおかしくない斜度の坂道を下りきった。あとはひたすら平坦に道が続く。額に浮かんだ汗をハンカチで拭うと、私は携帯を取り出し、駅周辺の美容室を検索した。十数件が候補に上がる。

 初夏の陽気と日差しで携帯の画面が見づらい。暗いモニターが反射した太陽に顔をしかめた私は顔を上げる。視界の隅を何かがよぎったような気がして、周囲を見渡す。通りに面した住宅が、「美容室あります」と書かれた看板を掲げている。先ほどヒットした十数件のうちの一つのようだ。筆記体でかかれた店名は読みづらかったが、「Daydream」と書いてあるように見える。


 窓の外からは店内の様子が伺えた。広くは無いが、さほど混み合っているようには見えない。店に入り、予約をしていないがカットをしてほしいと美容師に伝え、快諾された。順番でお呼びしますと若そうな店員に案内をされ、待合席へと座る。民家を改装したと思しき店内に、かなりカジュアルなその出で立ち、店長らしき美容師との気の軽い会話を見るに、店長の子供かあるいは兄妹かもしれない。本棚に置かれたスラムダンクを手に取り、席が空くまでの時間をぼんやりと過ごす。

 以前利用した美容室を使うつもりはなかった。元男であると知られるかもしれないのは嫌だったし、傍らにいた彼女がいないまま再び来訪することが、酷く惨めに思えたから。

 彼女と出会ったのは大学2回生の頃だった。整えたばかりの髪を友人に笑われ、むくれていた姿を、私はしばし回想する。

 髪型を弄られてムキになるような性格だったし、自分も決して我の弱い人間ではなかったから、付き合い始めてからも小さな喧嘩は絶えなかった。タバコを吸う吸わないだとか、歌手の好き嫌いだとか、キスをするとかしないとか。知人らには喧嘩ップルと冷やかされたりもした。

 二人で笑っていられれば、世界は君たちの味方につくさ、友人にそう冗談半分羨望半分の励ましを受けたことがあった。その言葉が真実だったとすれば、どんなピンチも乗り越えられたはずの、私と彼女が恋人同士でいられなくなったのは、私の性別が女になったからではなく、二人で笑い合えなくなったからなのだろう。


 彼女が私の前から去って以来、一度も髪型を変えたことはなかった。私の身なりを気に留める唯一の人間がいなくなったことが一つ。彼女の記憶の中にいるはずの私の姿を変えるのに抵抗があった事が一つ、そんなところだろうか。別れた時と変わらずにいれば、またいつかどこかで、彼女が私を見つけ出してくれる。叶うべくもない儚い希望を胸に抱えて。

 ぼんやりしている内に順番が回ってきたらしい。促されるままに席に着き、鏡を前にして初めて、私は髪をどうカットしてもらうのか考えていなかったことに思い至った。参考にしようと、手近にあった雑誌に手を伸ばしかけた私は、壁に貼られた一枚の写真を目にし、息が止まった。

 彼女が、彼女の写真があった。短く切られすぎた自分の前髪に、笑っているような泣き出しそうな、でもそんな感情を写真には残すまいとする、そんな顔で。

今にしてようやく、この美容室を気まぐれに選んだわけではなかったことに私は気付いた。おそらく、太陽の眩しさに顔を上げた私の視界に、窓の外から見えたこの写真が入り込んだのだ。もう悪夢の中でしか逢うことの出来ない彼女をもう一度見つけるために、今度こそ現実で、今の自分を見つけてもらうために。そう願うあまり、私は縋ってしまったのだろう、一瞬でも彼女の姿を幻視したこの美容室に。

 お知り合いでしたかと美容師が私に声を掛ける。何年も前のカットモデルの写真を未だに残しているのは、モデルが満足するようなカットを出来なかった自分への戒めのためと美容師は語った。彼女が必死に隠したであろう動揺はしっかりと撮影者に伝わっていたらしい。出会ったばかりの頃の彼女の姿がフラッシュバックする。懐かしさと可笑しさとで胸が締め付けられた私は今、きっと写真の中の彼女のように、泣き笑いの表情を浮かべているに違いない。

 髪型はどうされますか。美容師の問いに対し私は、彼女のお下がりであるスカートから携帯を取り出すと、フォルダに残る一枚の写真を美容師に見せた。むくれる彼女の横顔をこっそりと隠し撮っていたことは彼女に伝えることはなかった。きっとこの先も無いのだろう。ならばこそ。

 こんな風に、短く切ってください。

 彼女が嫌いだったその髪型に。彼女自身に嫌われ、私が愛したその姿に似せて。

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