第8話

 その日の夜、伸一の帰宅がいつもより遅かった。

 午後十一時を過ぎている。

 ただいま、と低い声で言いながら、廊下を通る伸一を、史恵は、茶の間のガラス障子越しに眺めた。

 長く一緒に住んでいると、相手がなにも言わなくても、考えていることがわかる。声といい、態度といい、今日もいいことが起きなかったらしい。

 いいことといえば、当然、昇進話である。

 万年係長だったのが、課長にしてもらえれば有難いことで、そうなればリストラの心配もなくなるというものだった。

 ガラス障子を開け、彼が入って来ることを期待した史恵だったが、いくら待っても来ないのに、腹が立った。

 彼女は茶の間を出ると、彼の居場所が見当つくらしく、二階にあがって行った。

 書斎の前に立ち、トントンと軽くたたいた。だが、返事がない。

 「あなた、いるんでしょ?何があったか知らないけど、家で待っている人の気持ちも考えてよ。返事くらいしてくれたらいいでしょ」

 これだけ言っても、彼は応えない。

 会社で、よほど具合のわるい話があったのかもしれない。

 「なによ、リストラが内定したの。そんなことになっても、私ひとつも怖くないわ。前々から希望していた職が決まったもの。私働くもの。お金なんか、たくさんなくったって平気よ。どうにかしてやって行くから」

 彼女の声は、伸一の耳にかろうじて届いていた。

 彼は、帰るやいなや、部屋中に散らかっていた本をかたずけ、畳の上にごろっと横たわるとうつらうつらしはじめていた。

 彼女の声を、夢の中で、聞いているように思えた。

 史恵のほんとの気持ちがわかって、伸一の

心の中で積もり積もっていた彼女に対するこだわりが、少し解けたような気がした。

 ああだこうだと、まる一日、彼は、ワン切りの主のことを考えていて、疲れていた。

 受付の若い女性は、伸一がいつものように花束を渡そうとしたが、今日に限って、受け取るのを拒んだ。

 一日中、いやな気分だった。

 史恵はドアを開けるのをあきらめたらしい。

 トントンという軽い足音が、階段をくだって行くのがかすかに聞こえた。

 翌日、彼は早く目が覚めた。

 階段をゆっくり降りて行く時、玄関先の電話が鳴った。

 呼び鈴がじりっと一度だけだった。

 まだ、六時にもならない。

 今度かかってきたら、ぜったい、受話器をとってやるぞと思い、上がり口に腰かけ、鳴るのを待った。

 次の呼び出し音が鳴るとすぐに、彼は右手をのばし、受話器をとった。

 ようやくつながったらしい。

 何かはっきりしないが、奇妙な音が聞こえてくる。

 誰かが、はあはあ言っているようである。

 「誰ですか。何回もじりじりと。おかげで我が家は争いがたえません。お願いですからどうぞやめてください」

 伸一がじっと耳を傾けていると、誰かがぼそぼそしゃべりはじめた。

 「おじちゃん、しんいちっていうの?」

 子どもの声だった。

 男の子らしい。

 「そうだよ。どうしてぼくは、おじちゃんちに電話してくるの。何回も呼びだしたの、きみなんでしょ」

 「うん。ぼくね。お財布ひろったの」

 「ええっ、どこで」

 「駅前のね、コンビニのそば」

 伸一には心当たりがあった。

 ずっと前、そう、もう半年近くにもなるだろうか。

 紙幣ばかり、三枚入れた札入れをなくしたことがあったのを思い出した。

 警察に届けてもむだだと、女房にも誰にも内緒にしていたのだった。

 「それで、ぼく、お財布、おじちゃんに返してくれるの」

 「うん、そうだよ。やっと決めたんだ。名刺が入ってたから、電話番号、すぐわかったもん」

 「良かった。でもどうして今まで、おうちの人にも言わなかったの」

 「とっても怖かったから」

 「これで、もう、怖くなくなるからね。おじちゃん、いつもらいに行けばいい」

 「今から来てくれたら、うれしいんだけど」

 伸一は、玄関先でつっかけをはくと、駅前のコンビニに向かった。

 待っていたのは、六歳くらいの男の子。

 「ぼうや、偉かったね」

 と言って、伸一は彼の頭をなでた。

 「ぼくんちは、いっぱいあるもの。夜になると、じいちゃんがテーブルの上で、いっしょうけんめいかぞえてる」

 へえ、そうなんだと言ったきり、伸一はなにも言えなかった。

 男の子が横断歩道をわたり、通りの向こうにある岩田生花店の隣の邸宅に入って行った。

 伸一はにやりと笑い、これじゃ、初めからああだこうだと考えることなかったんだ、人生なんて何が起きるかわからんもんだなと思った。

 (了)


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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ワンギリの恋 菜美史郎 @kmxyzco

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