第7話
これは彼女と知り合える絶好のチャンス。
迷える子羊の俺に、神様が与えてくださったのかもしれないと、駒場伸一は勝手に思いこんで奮い立った。
彼女との距離はおよそ十メートル。
網棚の上の花束から、一輪の金魚草を抜き取ると、背広の内ポケットにしのばせた。
ひとつ、ふたつと駅を通過するたびに、目に見えて乗客が増えていた。
伸一は、吊り皮につかまったり、背もたれに片手を置いて立っている人たちの間を、よろめきながら歩いて行く。
左手に、会社の重要書類が入ったアタッシュケースを持っている。
電車が大きく揺れたとき、彼は何かを踏んだように感じた。
グニュとした嫌な感覚だった。
「なんだ、こいつ、俺の靴、踏みやがって」
ふいに怒りの声があがった。
「すみません、どうも。身体を支えきれなかったものですから」
彼は立ちどまり、隣にすわっていた年輩の男に頭を下げた。
「気をつけろよ、ほんとに。用もないのにうろつくんじゃねえ」
伸一の内ポケットに差しこまれている花に気づき、
「へえ、おまえ、粋なことをするじゃねえか。これにでも逢いに行くのか。この箱にいるのか、その女。ええっ?」
その男は立ち上がり、どれどれと大声で言った。
伸一はかっとしたが、ここが我慢のしどころと、奥歯をぐっとかみしめた。
これは彼女に会うための試練だ、と心得ればいいことだと思った。
ようやく、彼女が見えてきた。
彼女のまわりには、数人の男が寄り集まっている。
まるで、花に群がる蝶のようだ。
伸一は、がぜん競争心がわいてきて、小走りになった。
「これはこれは、奇遇ですね。この電車に乗っていたんですか」
なれなれしく彼女に声をかけたから、男たちの輪が急にくずれた。
それでも、ふたりの男は、腰かけている彼女のそばから去ろうとしない。
「おはようございます」
と言って、伸一は、強引にふたりの男の間にわりこんで行ったが、彼女はぽかんと口を開け、伸一を見つめるばかりである。
「いやですね、ぼくですよ。ほら、社員食堂でいつもごいっしょするじゃありませんか」
そう言っても、彼女は返事をしない。
まるで放心状態である。
男たちの熱い視線が、くもの糸のごとき、作用を果たしたらしい。
伸一は、彼女の様子を見ると、ぐるぐる巻きにされ、くもの毒牙にかかった小虫を思い浮かべてしまった。
だめもとで、やってみるかと彼は奮い立った。
彼女の足もとにあるコ―ラ缶を拾い上げると、
「ほら、これ見てごらん」
と言って、ほほ笑んだ。
「誰が飲んだんだろね。ころころころだよ」
彼女はぷっと吹き出したが、まだ、伸一を認識できないでいる。
ゆるんだ顔の筋肉が、すぐにかたくなってしまった。
「おい、おめえ、お嬢さん、ごぞんじないとよ。いい加減に引っこんだらどうだ」
両手で吊り皮をつかんでいた若い男が眉を吊り上げて言った。
子どものようにからだをふらんぶらんさせる。
そのたびに、彼が腰につるしているチェーンがジャラジャラ鳴った。
胸毛を見せびらかすように、上着の首のあたりをひろく開けている。
青っぽい、薄汚れたジーパンは、所々やぶれ、すね毛がのぞいていた。
最後まで残っていたふたりの内のひとりだ。
若いころの伸一だったら、ここですごすごと退散しただろう。
だが、歳も歳である。
「あなたは気づかなかったかもしれないが、私はK衣料の駒場です」
物おじしない態度で告げると、彼女は、
「それはそれは、気づきませんで申し訳ありませんでした」
と応じた。
「ちぇ、まったく。お前たち、やっぱり知り合いかよ。今日のところは引き下がってやるが、今度会ったら、承知しねえぞ」
銀流し風の若者は、靴を斜めに放りだすようにして、通路を歩きだすと、遠まきにして一部始終を見ていた乗客連中がわっと退いた。
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