顔のない彼と彼の恋人

見夜沢時子

その一通

 容姿と学歴はいい男だったから、おかしいのは自分なのかなと、思い続けていたのはつい最近までのことだった。

 帰宅の電車に揺られながら、ミユキはスマートフォンのディスプレイを点けた。

 ――メール着信六十七件。

「今日も皆様お盛んですね」

 独り言は笑い損ねた。温度のない顔でメーラーを開く。

 受信フォルダに詰め込まれた新着メールの群れはどれも見たことないアドレスで、七割が卑猥なタイトルを見出しにしていた。あとの二割も結局本文は同じで、残る一割は全面英字なだけまだ紳士的だ。まあ、要は、スパムだけれど。

 全選択。削除。最短の動作で処分して、葬る。

 幾度めかになればもはや慣れもし、ため息も出ない。

 これ以上男嫌いにさせてどうしようというのか、ミユキには理解が及ばない。俺だけがお前を欲望に満ちた目で見たりしないなんて言うつもりだろうか。ああ、見える。気持ち悪いメールの群れに泣いて不安がり、元カレに助けを求めるか弱い女の姿が――トモノリの脳内に。

 そうしたら言ってくれるのだろう。こんなことでいちいちうろたえるなんてよく生きていけるよな。

 とっくに割れてるのに。出会い系サイトに下品な文章とともに元彼女のメールアドレスを張り付けたことくらい。目を覆いたくなるような文章の群れをかいくぐり繋ぎ合わせれば、サイトの特定にもそう時間はかからなかった。

 ミユキ個人ではもっぱら通信ツールのアプリを使っているためほぼ触らず、しかし社用で使うこともあるためおいそれと変更が出来ないアドレスだった。諸々を経て十余年の平穏と不変を誇っていたのだ。わずかに残っていた未練はそれできれいさっぱり消し飛んでくれた。

 荒涼とした気持ちを散らそうと、窓の外を流れていく夜の明かりに目を逸らす。

 が、ふと画面に目を戻した。

 もうひとつのフォルダに一件の新着マークがついている。嫌がらせが始まってから作ったこのフォルダは、アドレス帳に登録しているアドレスからのメールだけが振り分けられるように設定してあった。つまり、知人友人に限られている。

 胸が小さく弾んだ。誰だろう。馬鹿男のメールアドレスはとっくに削除してあるから違う。友人だろうか。遊びに行きたい。愚痴なんて吐かないから、どこかに誘ってほしい――

 メール一覧を開いた瞬間、首を傾げた。


 Subject:こんばんは! 書き込み見ました

 はじめまして、リョウって言います! ユキちゃんは欲求不満なんだね(笑)

 俺が癒してあげたいよ。

 最初から会うのも怖いだろうし、メールからお友達になりませんか!


 新機軸だった。

 ユキはバカ男が書き込みの際に用いたミユキの仮名だ。それはいい。

 挨拶してくるのも自分の名前を名乗るのも、こっちの名前を記載してくれるのも目新しい。こういったメールは基本的に数打ちゃ当たる理論なのか、興味本位で目を通した何通かは全てコピー&ペーストで済むような文章ばかりだった。

 更には、とにかく会いたい、会ってしけこみたい、を全面に押し出してくるのが定型文のはずなのに、それどころかメル友になろうという。

 そしてなにより、

「……差出人、葦原あしはらだ」

 卒業以来会っていない高校時代の同級生。登録したきり忘れていたアドレスの持ち主。

 その名が、件のメールに付いている。

 ミユキは思わず明後日の方向へと視線を投じた。

 ――あいつこんなことして遊んで、面白いんだろうか。

 指が滑り、返信を押してしまったところで、電車は緩やかに降車駅に止まった。スマートフォンを鞄に仕舞うとホームへと降りる。


 Subject:ユキだよ

 初めましてリョウさん。メールありがとう!

 そうなんだ、欲求不満なの。癒してくれる?

 ところで僕男なんだけど、それでも構わないかなぁ?


 暗い部屋に電気を点け、コンビニで買ってきた総菜をメインに据えた夕食を済ませて一息つき、湯船に浸かりながら考えた文面は何周もして奇をてらいすぎていたかもしれなかった。

 何の変哲もない淫乱女を演出してからかうことも考えたし、奇矯な趣味をあえて真面目に問いかける嫌がらせも考えた。

 だが、ふと思ったのだ。

 葦原は、ミユキのメールアドレスを自分のアドレス帳から消しているのだろうか。

 消していて、相手がミユキとは知らず送信しているのなら、これは葦原がとても恥ずかしい。

 でももし、十年と少し前、高校生のあの時に登録したまま残してあるのなら。

 先方がメールを送信するに際し、打ち込んだアドレスがアドレス帳から参照されてミユキの名前が表示されたはずだ。その上で見知らぬ『ユキ』に向けて送信したのならば、葦原はミユキが自分のアドレスを残しているなんて思ってもみなかったのだろう。

 ことは慎重にあたった方が良いに違いない。たとえば、出会い系サイトなんて利用している元同級生を面白がってやろうという魂胆に引っかかったりしないように。

 或いは、もしかしたら――過日のやり取りを能動的に果たさせる指向に転じたか。

 いずれにせよ。これ自体に関していうなら、なんて特殊な趣味なんだろう。

 葦原リョウコはそういう、遠巻きに他人を観察しているようなところのある少女だった。

 淫乱女のふりをして本気と取られたらとんでもない。かといって生真面目に告発するのはつまらない。

 それで結局落ち着いたのは、『出会い系サイトに女をかたって男を引っかける青年ユキ』だった。

 送信者がミユキだと分かっていたなら、冗談を笑って返信してくれるだろう。否であれば――葦原なら興味を示してくれるような気がしたのだ。

 高校時代の彼女が愉快げに笑む顔を想像し、ミユキはほのかに楽しい気持ちでベッドに入った。


 Subject:(笑)

 男かよ(笑) 別にいいけど(笑)

 なんでこんなことしてんの?


 ――それはそのままそっくり返したい。

 変わらず葦原リョウコと表示された差出人名を二度三度眺め、ミユキの指は衝動的に返信のアイコンを押した。

 すし詰めになる通勤電車内で出来るのはそれが限度。続きは鞄の中にそっと仕舞い込む。ちなみに大量の迷惑メールももちろん届けられていたが、そちらはつつがなく未開封で抹消し終えている。

 いつも通りの余裕ある出社。タイムカードを押してデスクにつくなり、同期の田島たじまナオが寄ってきて開口一番に言った。

「聞く耳持てよー」

「……なんで」

さかきさんから『あいつ今すごい不機嫌なんだろうな。ナオちゃんからさ、ちょっと聞く耳持てって言ってやってくれないかな』ってメールが来たから」

 ミユキは思わず顔をしかめる。ナオとは何度か遊びに行き、意気投合する中でただの同期から友人と呼んでいい間柄になった。

 今では後悔しかないが、当時の互いの恋人をも混ぜて飲みに行ったこともある。その時、なぜ恋人の友人と初対面でメールアドレスを交換するのかと理解に苦しんだが、どこか達観していて冷笑的なところのあるナオは『束縛したいなんて表立って言えないんでしょ』と慈愛の笑みをもってミユキに囁いたのだった。

 今なら分かる。束縛じゃなくて、監視と言いたかったのだろうと。

 ちなみに聞く耳はほとんどないが、トモノリが欲しいのは間違いなく聞く耳なんかではなく歩み寄ってくる足だった。そちらは在庫切れだ。

「迷惑かけてごめん。くたばれって返しといて。やんわりと」

「よりは戻さないでオッケー?」

「逆に訊くけど、今までの経緯を聴いてナオならどう思う?」

「お疲れさま」

「じゃあ田島さん、今日も一日」

「つつがなく頑張りましょう、高村たかむらさん」

 お互いきれいさっぱり切り替えたところで、編集長が始業の挨拶を始めようとしていた。

 小さな出版社のサブカルチャー誌編集者。それがミユキの肩書きだ。

 本来なら、あと一年の間には肩書きがもうひとつ増えているはずだった。妄想ではない。既にミユキの両親との挨拶は済ませていたのだ。

 今となっては増えなくて良かったと思う。涙も出ない。

 そもそも泣いている暇はないのだった。午前中は外注のライターから送られてきた原稿の赤入れと、一握りの資料集めで終わった。

 仕出し弁当とスマートフォンをデスクの上で開く。

 ――さて、それにしても葦原リョウコだ。

 夜中に着信していたメールを改めて眺める。

 短い文章の内容から察するに、彼女のアドレス帳にミユキの名前は残っていないのだろう。でなければこんな質問にはなるまい。

 それでもって酔狂かつ予想通りに、『青年ユキ』とのやり取りを面白がって続けようとしている。

 次々と浮かぶ事細かな分析とは乖離して、ミユキの胸は不思議と高鳴っていた。

 送信先は間違いなく女で、それも容姿年齢出身校まで知っている。けれど相手はこちらを知らない。そういう仮定のもと、お互い偽りの男を演じている。

 多分魔が差したのだ。

 この冗談を、続く限り続けてみたい。

 そんな気まぐれに引きずられて返信を打った。恋人を失い血迷っている自信はある。駄目男でも人恋しさを埋める知的生命体ではあったのだ。


 Subject:Re:(笑)

 実は僕が書き込んだわけじゃないんだ。元カレが勝手にやってくれて、本当に迷惑してる。

 でも黙ってるのも癪に障るから、ありえない縁を面白がってみようと思って。


 メールに書いたことについて、性別以外は全てミユキ自身のことだ。葦原リョウコを用心していた。笑われそうな架空の設定を作って変身願望を満たすよりも、事実だけ書いておいた方が無難だと思った。

 それでも一瞬だけ、別人になれたような感覚を覚える。

 青年ユキは、つまらない男との結婚を待ったりなんかしたことがない。異性だから理解出来ないところがあるなんて小利口な諦めを抱いたりもしなかっただろう。

 満足してメールを送信し、ふと残り時間に気付いて、慌てて昼食を片づけ始めた。


 Subject:変わった奴

 面白いものは好きだよ。

 よろしく、ユキ。


 *


 引き戸を開けた瞬間、狼狽の声が上がる。

 呆然とするミユキの横を男子生徒が驚きの俊敏さでもって駆け抜けていった。

 理科室には女子生徒が残っていた。作業台に座ったままで平然とセーラーのリボンを整えている。

「黙っていてくださいね」

 慇懃無礼と鷹揚を混ぜて擬人化したような女子だった。

 葦原リョウコ。同じクラスだから名前だけは知っている。いつもどことなくなんとなく人の影のように場に馴染むが故に目立たず、言動も模範と平均の間に留まっていた。外していた眼鏡を掛ける仕草が妙に倦怠げで艶めかしく感じられたのは、状況の煽りを食らったのかもしれない。

「……誰にも言えないし」

「誤解があるかもしれませんが、何もしてないです」

「そう……」

 抱えていたプリントの存在を思い出し、教卓に置いた。

「とても信じてないって顔ですね。いいですけど。ねえ、高村」

「な、なに?」

 初めて名前を呼ばれたこと以上に、彼女がほとんど話したことのない自分の名前を覚えていたことに少し驚いた。

「私ね、彼のことあまり知らないんですよ。でも呼び出されたから行ってみたら、大変なことになりそうだった始末です」

 ミユキの適当な相槌を制するように葦原が手を挙げてみせる。細い指先は、よく見れば小刻みに震えていた。

「助けてくれてありがとうございます」

「……大丈夫?」

「リボンが、上手く結べません」

 歩み寄り手を伸ばすと、葦原は静かに居住まいを正した。肩から流れ落ちた長い黒髪。紅い唇は噛みしめるように引き結ばれている。

「どうして、ああいうことをしたんだと思いますか」

「葦原のこと、好きだから、じゃないのかな。……まあ最低だけどね」

「そういうもんですか」

 いくらか回復したような軽さがあった。

「葦原は、ないの? そういうの」

「面白いものは好きです」

「そうじゃなくて」

「男の子は好きになれません」

 リボンを結び終える。ありがとう、と小さな礼が降った。

「何か見つけたら教えてください。高村」

「……いいけど」

 伏せがちだった目が持ち上がる。黒い瞳が少し笑った気がした。

 メールアドレスを交換したのはその時のこと。


 けれど、結局一通も送れないまま卒業を迎えてしまった。

 平凡な女子高生の日常において、特に親しいわけでもない変わり者のクラスメイトを満足させそうなものなんて、なかなか遭遇しなかったのだから仕方ない。

 本人には伝えようのなかったその弁解は、ミユキの中にずっと残っていた。


 *


 Subject:おはよう

 今朝もいい天気だね。

 こないだユキが言ってた本読んだけど、あれ、オチが分かりづらいな。


 Subject:お疲れ様

 でも曇ってきた。

 もう一回通して読めば分かるよ。映画もレンタル出来るし


 Subject:Re:お疲れ様

 分かった。今度観てみる。

 ところでこないだ俺が勧めたの、読んだ?


 Subject:あれは

 読み返してたら夜更かししちゃったよ


「高村さん」

 唐突に名前を呼ばれ、ミユキは誇張なしにデスクチェアから飛び上がった。スマートフォンを胸に押しつけて振り返る。

 声を掛けたナオの表情は怪訝から一転、面白がるような奇妙がるような絶妙な笑みへと移ろう。

「な、なに?」

「もう新しい彼氏出来たの? やるねえ」

 思わず首を傾げたが、気付いた拍子に思わず真顔になり、何度か横に振った。

「違うの?」

「それよりどうしたの。何かあった?」

 笑いの余韻を微かに残し、ナオの表情が仕事のものに切り替わる。

「進行に支障が出てて今月も残業ですってよ。よろしくね」

「……かしこまりました」

 短いため息をつく。深刻ではない。出版社なんてそんなものだ。

 遅ればせながら昼食を始めたその横で、新しくランプが点いた。もう一度だけ返信すると、デスクにスマートフォンを伏せておくことにした。


 結局業務が終わったのは終電ぎりぎりだった。

 ほどよく空いた車内でドアの端に寄りかかり揺られながら、ミユキはスマートフォンの画面を眺めたまま押し黙っていた。見知った電話番号が表示されたままミユキの操作を待ちかねている。

 家に帰り鞄をベッドに投げる段に至っても風呂と夕飯にかまけて保留にしていたら、とうとう電話が掛かってきてしまった。

 箸の両端を揃えて置く。

「……もしもし」

『ミユキ』

「ごめん。忙しくて」

『式の日取りは決まったの?』

「別れちゃった」

 出来うる限りさっぱりと言えたつもりだったが、電話の向こうの空気は、通話口から滴り落ちそうなほどに重苦しかった。

『なにがあってそんな、……いいミユキ。あんたもう三十になるのよ。ある程度は譲ってあげないと、トモノリさんだって』

「譲りまくってたよ」

 口にした直後に呼吸が詰まる。焦りと共に密やかに息を深く継いだ。

「いろんなもの譲りすぎて私なくなるかと思った。ううん、なくなるって思ったから、譲るのやめたの」

 罵られるまでもなく自分は馬鹿だった。

 榊トモノリとは仕事の関係で知り合った。当時彼はフリーライターをしていて、本当に、最初は本当に紳士的な優しい人だった。恋は盲目とかそういう代物ではなく、平凡なミユキの両親が一発で気に入るような好青年だった。

 たぶんあれは虚像ではない。今もどこかでそういう振る舞いをしているのだろう。

 けれど付き合いが古くなるにつれ薄膜が一枚一枚溶けていき、なんとなく雑な振る舞いになっていった。返答や行動の端々に現れる傲慢さ。巧妙な言い分で請われるわずかな金銭の貸借。連絡不足。謝罪不足。親しき仲に礼儀なし。

 これはきっと彼は私の前だけで気を抜いてくれているのだろう――と好意的に捉えたのが最大の失敗。その時点ではミユキはまだ魔法に掛かって前後不覚のままだったのだ。

 さて挙式を、という話まで進んだ頃に至って、とうとう最後の一枚が剥がれた。とても分厚い一枚が。

『……なにかあったの?』

「ううん、大丈夫よ、お母さん」

『泣いてるなんて大丈夫じゃないじゃない』

「ごめん、もう、切るね」

『ミユキ。うちに帰ってごはん食べに来なさい』

 返事が出来ないまま通話を切った。

 ――本当に悪かったよ。でも、結婚前に最後の浮気くらいいいだろ。

 なんて言われたとか。

 そんなこと母親に話せる訳がない。

 たくさん泣いて、それでようやく、掛けられていた魔法が解けた。ゆうに六年間の呪いだった。気付いたら三十路の手前に放り出されていた。

 何の意味もない恋愛をして、結婚をふいにした。

 それだけがただ呪わしかった。

 “あんたもう三十になるのよ”。それは訴えでもあっただろう。私の結婚を父と母は私以上に望んでいた。一人娘の結婚の向こうにあるまだ見ぬものを求めているのは明白だった。それが白紙になると理解した瞬間に見せた抵抗は、致し方ないものなのだとミユキは自分に言い聞かせた。

 嫌がらせをしたいのはこっちのほうだ。彼と自分は同い年なのに、どうして、二十九歳という年齢において抱えるものがこんなに違っているのだろう。

 しばらく呆然と座り込んでいると、スマートフォンの着信ランプが光った。


 Subject:お疲れさま

 ユキ、空見ろ、空。

 すごいでかい月。何だっけ、スーパームーンだっけ?


 画像データが添付されていた。メール文通りの大きな月だけが写された写真だった。

 心が浮き立つ。どこか別の次元に置かれたような心地がした。どろどろに溶けたメイクごと涙を拭って立ち上がり、窓際に立ってカーテンを開ける。

 マンションの五階から見る夜の風景には様々な人工の明かりが入り交じっている。けれど月は一際高い空の上で強い光を放ち、探す必要さえなかった。

 手元の画像を見直す。同じ月。違う場所でリョウが撮ったもの。


 Subject:気付かなかった

 教えてくれてありがとう。綺麗だね。

 誰かと一緒に月を見ることなんていつくらい振りだろ。


 送信ボタンを押す。忘れていた呼吸をすると喉がわなないた。寂しさから来るものではない。

 震える手でスマートフォンを操作する。

 アドレス帳に登録したままの『葦原リョウコ』の名から、『コ』の字をそっと消す。

 ミユキは窓際に座り込んだまま、しばらくその場から動けないでいた。



「再来月号の小特集だけど。サルでも分かる現代美術。これにしようと思って」

 編集会議で編集長がそう言い出した瞬間、嫌な予感がした。

「詳しいライターに手回してるから高村行ってね」

「直に? メールじゃなくて?」

「一緒に美術館行って貰うんだよ。素人の目線が必要なの」

「……なるほど」

 仕事とは諾々と受けるもの。

 待ち合わせたオープンテラスの喫茶店で、フリーライター・ミケは煙草をふかしていた。ミユキを見るなりそそくさと吸いさしを灰皿にねじ込み、

「待ってたよ。ごめん、ミユキ」

「注文いいですか」

 近くのテーブルで注文をとっていた店員に声を掛けたが、少々お待ちくださいとお預けをされてしまった。

 仕方なく、精神統一のために呼吸をし、改めて彼を観察する。

 整った顔立ち。こざっぱりとした黒髪に、襟の折り目まで行き届いた清潔な服装。曇りひとつない眼鏡。装飾の類は腕時計くらいで、人当たり含めフリーランスという人種の何たるかをさすがによく知っていた。好印象と信用がなければ外注は遠ざかる。

 少し痩せたような気がした。

 いい気味だと思う。その程度で自分の涙が報われたとまでは感じないが、彼が堪えるなんて鬼の霍乱だ。

 クリップで留めた書類をテーブルの上に滑らせて、ミユキは言う。

「よろしくお願い致します。早速ですが、今回の特集は――」

「ミユキ。俺が悪かった」

 深々と頭を下げられる。

 乗るか無視するか迷った。

 結局このまま放っていても何も進まないだろうと判断し、ミユキは溜息をついて手元の書類を眺める。

「終わらせたのが誰か、分かってるでしょう。ミケさん」

「分かってる」

 思わぬ殊勝な返答に手を止めた。目を向けると、下げた頭が上がる様子はない。

「俺、君に甘えてた。おまえがずっと優しくいてくれるからいつまでもどこまでも、調子乗ってました」

「そう。『聞く耳持った』のね」

「……ごめん。それも、本当にごめん」

 察するところ、ただの迷惑な虚勢。恋人の友人にまで送りつけて開示した恥ずかしい傲慢。

「……言い訳にもならないかもしれないけど、君と別れる半年前辺りから、今の仕事行き詰まってて」

 書類の端を指先で折りながら、なんとなく頭を眺める。

 かつてその髪を愛おしむように撫でたことがふと脳裏によぎる。手触りの良さを覚えていた。撫でられたことはもっと沢山あった。付き合いたての頃の、念入りで丁寧な触れ方が好きだったような気もする。

「だから、君に金借りたり、……その上コンプレックス、ぶつけたりして」

「恥ずかしいから、頭上げてくださいます? 榊さん」

「……ミユキ」

「高村と呼んでください」

「……はい」

 重々しく頭を上げた榊トモノリの顔には、すごすごと引き下がるような気配が見えた。安易なモラルハラスメントへ繋がるかと思っていたため拍子抜けする。

 つつがなく整えられた打ち合わせの終わりに、彼は面持ちを改めて口を開いた。

「……今言うべきじゃないかもしれないけど。式の準備、いつでもし直そうと思ってるから」

 鼻で笑い損ねて、変な呼気がこぼれた。

「あなたが結婚したがってるなんて、意外」

「色々言いたいことあるだろうけど先に伝えときたかったんだ。よかったら今度、お茶しよう」

 テーブルに置いたままにしていたスマートフォンが点灯する。表示された名を見て思わず綻んだ口元を隠すよう、ミユキは広げた書類をまとめて席を立った。

「もう、彼氏出来たの?」

 違う理由で口端が笑ってしまう。

 果たしてこれは非難か侮蔑か悲しみか。少し記憶を探ったすえ、いずれにせよ変わらないことだと首を横に振ってみせる。

「出会い系で知り合った人だからあなたよりあと、……あなたが手配してくれたでしょ? 縁結びしてくれて本当にありがとう。――そろそろお仕事に参りましょうか」

 最高の笑顔を振る舞ってみせた。榊の返事はないようだった。


 昼過ぎに帰社してデスクに戻ると、ナオが珈琲片手に声を掛けてきた。

「デート楽しかった?」

「仕事してきたんだけど」

「知ってるよ」

 明らかに面白がっている。けれど期待には添えないだろう。

 喫茶店を出て以降は淡々と物事が進み、記事を作るのに必要な質疑応答さえもビジネスライクに軽い冗句を交えて一定の距離が保たれていた。ミユキがそうだったからトモノリも空気を読んだように思う。有り体に言えば気持ち悪いくらいの進化だった。

「本当に反省したんじゃないの」

「そうね……」

「やり直しちゃう?」

「……腐った人参」

「うん?」

「を、ぶら下げられた気がする。本当は食べられたもんじゃない」

 愛情はとうに消費されて燃え尽きてしまっていたのだった。

 それでやり直そうなんて考える材料があるとしたら、何年も一緒にいたが故の情と、結婚だ。ハッピーウェディング。のち、親孝行たる可愛いお子様。

 現代の感覚で考えれば、焦るような年齢ではまだない。

 けれど、傷を癒し、随分と変わってしまった条件を呑んで精査するには、時間に余裕があるとはあまり言えないような気がしている。目の前にぶら下げられた人参が腐っていてもないよりはまだいいのかもしれない。

 肩を叩かれて我に返る。

 飲みに行こうよ、と軽い調子で言うナオに、気付けば頷き返していた。


 Subject:リョウは

 結婚考えたりしないの? 多分、それくらいの年齢でしょ?


 Subject:俺は

 ずっと一緒にいたいと思えない相手と結婚しても、続かないでしょ。


 Subject:そういえば

 出会い系サイトの女の子にメール送り続けてたじゃん?

 それこそ、ずっと一緒にいたい相手探し?


 Subject:Re:そういえば

 ああ(笑)

 楽しいからだよ。稀に本当に返事が来ると、ちょっとだけ会話が続く。

 SNSだってあるのに今更一対一のメールなんて、面倒だから大抵すぐに飽きられて音沙汰なくなるけど、俺はそのちょっとだけでいいんだ。


 Subject:それって

 ものすごく人恋しいみたいに聞こえるけど、すごい刹那的だよね


 Subject:本質的にはさ

 この隙間が埋められさえすれば、多分、誰だっていいんだよ。

 もちろん話が合うに越したことはないけどね。


 ミユキはふと返信の手を止めた。

 お風呂は沸いている。そろそろ入って夕食を済ませ就寝しなければ、明日に差し支えてしまう。

 リョウは変な男だった。即物的な関係を求める代わりに特に色気もない雑談だけを好み、また呼び水として自らも提供した。

 けれどそれは当然のことだ。彼が架空の男だからに他ならない。

 彼には肉体がなく、憂うべき将来はなく、未来もなかった。

 そしてそれはユキも同じことだった。だからこそこんな素朴なやりとりに慰められ、眩まされてしまうのだろう。少なくとも今の孤独を埋めてくれる。誰でもいいという言葉に気分を害さないわけでもなかったが、立ち返ってみればそれはミユキも同じだ。話が合うと言われたことに対する幸福感の方が大きい。

 つまるところ、孤独は不治の病だった。

 こんなものを患ってさえいなければ、腐った人参をやむなく口に入れるなんて考えすらしない。

 いつまでも雲のような綿菓子を食べて生きていきたい。

 もしかしたら、彼の創造主もそんなことを思ってこの奇特なやりとりを続けているのかもしれない。


 Subject:今は

 何人とやりとりしてるの?


 Subject:Re:今は

 君だけだよ、ユキ。



 ライター含む関係者諸氏の努力により編集作業が予定の波に乗り、そうこうしている間に印刷所の締め切りも迫ってきて、雑誌社は恒例の残業期間に入った。

 終電だけはかろうじて逃れたその夜。郵便ポストに投げ込まれたチラシやダイレクトメールの中に一枚の葉書が挟まっていた。危うく捨てかけて表を見ると、高校の同窓会の通知だった。

 思わず無言で眺めていたその時、マナーモードにしていたスマートフォンが鞄の中で震える。ミユキは思わず身を竦ませた。

 送信者として表示されているのは未登録のアドレスだった。


 Subject:ミユキ

 この間はちゃんと謝れなかったから。

 許してもらえると思わないけど、ごめん。俺、やっぱりどうかしてた。

 苛立ってた。どっちかというと自分自身に。

 行き詰まってたんだ。俺も安定した道を歩いてれば君に使われることなんてなかったんだろうなって思ってしまった。だからって君に当たっていいわけじゃなかった。

 やり直そう。もう二度と君を傷つけるようなことはしない。


 そういえば、アドレス帳からトモノリの情報を抹消していたことを思い出す。

 ――情状酌量してやるには重ねた罪は重い。

 そう思うのは理性と正常な客観性によるもので、それと平行して微細な揺さぶりが腹の底にかかる。

 彼は信用に値する男だっただろうか。

 もし、信用していいなら、そうしたら。

 ぐるぐると巡る思考をよそに家の鍵を開ける。靴を脱ぐ折に至って、手にしていた葉書の存在を思い出した。

 同窓会。

 妙に落ち着かない気分の行方を探す。すぐに行き当たる。

 葦原リョウコは来るのだろうか。

 リョウの言葉が彼女の本意かは分からない。けれどそんなような気がしている。同じ不治の病を抱えながら生きているのに、その孤独は乾いていた。

 日付を確認する。繁忙をくぐりぬけたあとのことで、それに関しては問題ないようだった。

 その夜もいつもと変わらずリョウからメールがあり、今やっているドラマと映画、それから世間では話題にならない本の話をして、日付が変わる頃にやりとりは切れた。


 個室居酒屋の座敷には最終的に二十人足らずが集まっていた。

 気の早い乾杯が終わってから訪れたミユキは、かつての女友達の隣に座った。高校時代より多少は落ち着いた喧噪の中、地方へ出向していた彼女と近況を交換しあう中途でふと、

「ミユキ。さっきから誰待ってんの?」

 ううん、別に。そう口にしかけたところで個室の戸が開く。

 葦原だった。簡単な挨拶をすませると、戸口から一番遠い奥に落ち着いた。

 目が合う。

 弧を描いた唇は、あの時のように秘密めいていた。


 わらわらと店を出たあとは当然のように二次会に移行するらしい。

 元クラスメイト達の半数には大なり小なり話しかけることが出来たが、葦原に対してはなにひとつ話しかけることはなかった。時々目が合ったような気がしても、どちらかの視線が外れることでたやすく途切れていた。

「葦原」

 賑やかな夜に吸い込まれていきそうなその背に声を掛ける。

 振り返った彼女は相変わらず影のように地味で、けれど垢抜けて一層綺麗になった、とミユキは素直に思った。黒の中に紅を一色落としたような笑みの異彩は大人になっても変わらなかった。

「抜けましょうか」

 至極当然のように言ったかと思うと、彼女はミユキの腕を引き、躊躇いもなく歩き出した。同窓会の光景から遠ざかっていく。繁華街は二人をたやすく隠蔽してくれた。

「井上と山野辺も抜けていきましたよ」

「……知らなかった」

「結婚してるんですけどね。井上」

 まさしく他人事の温度で、眼鏡の奥と唇が微かに笑った。息を逃がすような笑い方だった。

「葦原は、相変わらず、男の子は好きになれない?」

「そうですね」

 窺い見るようなミユキの様子を察した、さらりとした返答だった。

「恋は知ってますよ。私のことはさておき、元カレの嫌がらせとやらは終わったようですね」

 ミユキは一瞬だけ言葉に詰まった。それから、

「うん。結婚しようって言われた」

「あら面白い人。で、高村は?」

「程度はしれてるけど、気心もしれてるし」

「ずっと一緒にいたい相手?」

「どうかな」

「同窓会で元クラスメイトと再燃するかもしれない相手?」

「……そうかもしれない」

「幸せになれそうですか?」

 直截な物言いに思わず笑ってしまった。

「結婚なんて相手が死んだら一緒じゃない、って思う? 子供だって四十超えてからでも産めるって思う? また新しい人に出会えて、それが上手くいくと、葦原は思う?」

「新しい人なら出会ったじゃないですか」

 さらりと言われ、数秒誰のことか分からずに答えあぐねる。

 振り向いた葦原リョウコの顔はどこか愉快げだった。

「生憎結婚できない相手ですが。不毛だと思いますか」

「……不毛以前の問題だと思うよ」

 なにしろ架空の人物。

 そうですか、と葦原は至極真面目に残念がった。

「でもね、高村。自分が寂しいだとか不安だなんて気持ちのためだけに、誰かの人生を巻き込んじゃいけないと私は思うんですよ。結婚相手や母親の自己愛に付き合うなんて、それだって不毛じゃないですか」

 繁華街の夜は更けるほどに濃密になっていく。

 それなのに、葦原の声は無音の中で聴いたような明瞭さを保っていた。咎め立ての気配など微塵もない慈愛すら滲ませて。

「葦原」

「なんでしょうね」

「じゃあ、私は、黙っておくしかない?」

「奇遇ですね。私も黙ってるんですよ」

 ――彼女の客観は韜晦なのだとミユキはようやく理解した。

 “誰だっていい”。それはもしかしたら事実で、自虐なのではないだろうか。

 誰でもいいからこそ、誰にも向けない。

 同じ不治の病ではあるけれど、彼女の孤独はきっともっと深くて、故にこそ孤高なのだとミユキは思った。高潔で、しかし、恐らく誰も賞賛はしない。

「葦原」

「なあに、高村」

「リョウ」

「なあに。ユキ」

「黙ってる同士で仲良くしない?」

「いいよ」

 その横顔に、見知らぬ彼の顔を見る。

「君が寂しくなくなるまでね」

 架空の存在。そもそもが不毛な彼とのやり取りをミユキは確かに楽しみにしていた。誰を巻き込むこともなく、全く自分のためだけに。

 それを不毛と言ってしまえば、榊に恋をしたかつての自分だって、全くの無意味だ。

 何気なく指先を伸ばす。どちらともなく互いの指が絡んだ。

 彼のほとんどは葦原で出来ている。実体はない。今日が終われば、またミユキの頭とスマートフォンの中に住まうのだろう。

「そんなの、君に利点はあるの」

「あるよ。この未来だって過去だって、――君のためにあるんだから」

 大袈裟だと笑う機会を失してしまう。耳に届いた声が甘く掠れていたように感じたせいだ。

 葦原リョウコの指は榊とは比較にならないほど繊細で、そして、眩むほど優しかった。



 Subject:ユキ

 映画、見に行こうか。今度の日曜日。


 Subject:嬉しいけど

 ごめんね、その日は駄目みたい

 君に会ってみたいな。リョウ


 Subject:残念だな

 また今度だね。

 俺もだよ、ユキ。君に会いたくて仕方ない。

 心だけはずっと、君のそばにいる。



 了

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顔のない彼と彼の恋人 見夜沢時子 @tokko

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