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「結局、数日後に餓死寸前の彼が大家さんに発見され、事無きを得たんだが、やはり心が壊れてしまっていてね。道行く女性が全て手紙の女性に見えるのか、発狂してしまった彼は実家へと連れて帰られ、病院に入ったという話だよ——」
先生は話し終えた満足感からか、口の端を緩めながら煙草へと手を伸ばした。
「さて……、今回の話で僕が君に伝えたかったことは何だか分かるかい?」
話の後に質問をするのは相変わらずだ。それでも私はそんな先生の質問が大好きだった。
「Tが少しずつAさんのことを考えられなくなっていったことですよね? そのせいで最終的には大きなしっぺ返しをくらってしまった……。相手の立場に立って考えることが如何に大切か……ということでしょうか」
私は緊張しながらそう答えた。先生の話は奥が深く、いつも私の答えでは足りないのだ。そうしてその答えを聞いた先生は、火を点けたばかりの煙草を揉み消しながら、小さく微笑んだ。
「そうだね、その考えはすごく重要だ。ただね、僕がこの話で君に伝えたかったことは少し違うんだよ——」
そう言いながら、更に顔を緩める。きっと私が余程意外そうな顔をしていたのだろう。先生はそのまま窓外の桜を眺めながら、言葉を続けた。
「最初に言っただろう? 相手のことを考える気持ちが欠如していたらどうなるか……って……」
こちらに視線を戻しながら、優しく眉を吊り上げる。
「ええ、ですから先生、Tがその気持ちを失っていたのではないのですか?」
「違うんだよ。この場合、その気持ちを失っていたのはAさんの方なんだ」
はっきりと断言した先生に対して、私は一瞬だけ思考が止まってしまった。そうして先生の話を思い出す。
「この話は僕の大学時代の友人から聞いた話だと言っただろう? その友人がAさんなんだ」
先生はテエブルに両手の肘をついて、その上に顎を乗せた。そうして何処か遠くを見遣るような仕草で、
「被害者であるべきAさんが、どうしてそこまで詳しく彼の話を僕に出来たと思う? 頭の良い君ならすぐに分かるはずだ」
私は先生の話を慌てて思い出しながら、ありとあらゆる可能性を考えた。そのまましばらく沈黙が続く中、先生はまた煙草へと手を伸ばし、私に考える時間を与えてくれる。
「——先生……、もしかしてAさんは最初からTのことを……?」
自分の中に浮かんだ結論があまりに恐ろしくて、語尾を濁しながら尋ねた。すると先生は大きく煙を吐き出した後、嬉しそうに頷いて、
「そうなんだ。当時の僕とAさんは大学で心理学を学んでいたからね。そして丁度その年が最終学年で、僕も彼女も卒業論文に追われていてね、必死で何をテエマにするか考えていたんだ」
「それじゃ……まさか……」
「そうだね、彼女がいつからTのことを視ていたのか、それは僕にも分からないけれど、その年の夏に彼女が引越しをしたのは事実なんだ。良い題材を見つけたと言ってね。そうしてどこまでが現実で、どこまでが彼女の作り話なのかも分からないけれど、彼女が書いた論文は、若者の自己批判に対する精神崩壊を見事に書き表せていたよ」
一気に話し終えると、ゆっくりと珈琲に手を伸ばしながら、私に微笑みかける。私はふと思った疑問を口にしていた。
「先生、まさかTが見た男性というのは……先生のことなんでしょうか?」
一口だけ珈琲を啜った先生は、私の質問には答えず、いつも通りの笑顔を作り、こう続けた。
「いや、この話の中では僕のことは関係ないからね。じゃあ、逆に質問なんだが……君は本当に他人のことを考えることが出来るかい?」
先生の笑顔が子供の様な悪戯な笑顔へと変わる。
「——うふふ、もちろんですわ、先生。私は相手のことをいつでも気にかけていますもの」
何となく次の先生の言葉が想像出来てしまった為、思わず笑いが零れてしまう。
「そうか……では僕の気持ちも悟って欲しいものだ。どれほど君に焦がれていることか」
「ええ、きちんと分かっていますわ。先生がそうやって意地悪なことを仰るのはいつものことなんですもの」
「やや、酷いなぁ。君には適わないね。ははは」
客が居なくなった『パアプルデイズ』で私たちの笑い声が響いた。外は既に暗くなり始めていて、桜が夜桜へと変わろうとしている。先生は珈琲の最後の一口を啜り終った後、もう一度だけ煙草を吸い込んで、灰皿へと押し付けた。
「しかし……やはり君もAさんと同じだね。結局、僕がこの話で言いたかったのは、人間も蟷螂も同じだということなんだよ——」
「え? 人間は蟷螂とは違うから相手を食さないのでは無かったのですか?」
先生は『ふぅ』っと煙を払いながら、伝票を握りゆっくりと立ち上がる。そうして不思議そうな顔をしている私の方を見ながら、笑顔を作りこう続けた。
「いや、人間も蟷螂も女性は怖いものなのさ」
丸ノ内先生の逸話2 蟷螂 来夢みんと @limemint
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