蛍光灯が切れかけている

中山登

全1話

 蛍光灯が切れかけていることに気付いたのは、むせび泣くヨウコが明滅したからだ。夜光虫がまとわりつき、その舞い散る鱗粉で彼女はむせび泣いていた。

 ヨウコと暮らし始めて三年が経つ。初めて出会ったのは赤いポストのある公園だった。初めは風に飛ばされるビニール袋かと思った。僕が、それをヨウコだとわかったのは、飛ばされているビニール袋を割り箸で捕まえたとき、セミのような鳴き声が一瞬聞こえ、急激に発汗し、滑り落ちたメガネを拾ったが故だった。ヨウコははじめ、ヨウコだとわかりにくかったが、次第にヨウコだと思えるようになった。適度に長い髪に、適度に大きな目と、適度に膨らんだ胸を持っていた。それで女性だと思った。

 ヨウコと暮らし始めたきっかけは、一緒に映画を見にいった帰りのことだった。遊歩道の脇に、まだらな三眼のが捨てられていた。秋口だったし、ヨウコは憐れみを持って、それを抱きこちらを見た。僕は逡巡し、肯んずる。蛍光灯も、それに合わせて買った。あといくつか、日用品を。

 ヨウコと暮らし始めて、おかしいと思い始めたのは、一か月ほど経った頃だった。ゴム製のベッドで眠る三眼のと、ヨウコの位置が入れ替わっていたからだ。僕は慌ててヨウコをゆすった。その際、ヨウコの裾から何かが零れ落ちた。それが涙だと気付くまでにさほど時間はかからなかった。

 ヨウコと暮らし始めて五か月が経つ頃、僕は仕事が忙しくなり、家に帰れない日が続くようになった。もちろん頻繁に電話はしていたが、ヨウコの機嫌が悪くなっていくのは明白だった。たまに帰ると、ゴム製の寝巻を新しくしてくれるが、料理などは一切出てこなかった。この頃には、他人の家庭と比べることも多くなっていたと思う。だから、あんなことを言ってしまったのだ。

 ヨウコと暮らし始めて半年。寝室からは腐ったゴムの臭いがするようになっていた。僕にとってそれは耐え難いものだった。そしてとうとうヨウコに対して声を荒げてしまった。そのときのヨウコの顔を、僕は今でも忘れることが出来ない。三眼のは怯えて物陰に隠れてしまった。

 その日から、部屋にあったゴム製のものは全て捨てられ、ヨウコは料理も作ってくれるようになったが、部屋に染みついた腐ったゴムの臭いは、今日になってもとれないままだ。

 ヨウコと暮らし始めて十一か月が経ち、ヨウコは口を開くと「子ども……子ども」と言うようになった。無論、僕だってほしくないわけではなかったが、丁度仕事が波に乗っている時期で、海外に赴くことも多く、子育てに時間を割くことが難しかった。しかしそれでもヨウコは出産を望み、結果、妊娠することとなった。

 ……これを書いていて、僕は彼女が妊娠していたことを思い出したが、出産をしたという記憶はない。一体どういうことだろうか。

 ヨウコと暮らし始めて一年と半年が経つと、ヨウコの容姿は著しく変わった。脱ぎ捨てた殻から、今までが蛹であったことがうかがえる。僕はそれから、ヨウコに水をやることが多くなった。ヨウコはあまりしゃべらなくなり、よく畳を腐らせた。お金に不自由はしていなかったから気にしていなかったが、あまりこういったことを他人に漏らさなくてよかったと、今では思う。

 ヨウコと暮らし始めて一年と九か月。三眼のは老衰で逝った。最期は居間の座布団の上で喀血して苦しそうだった。そのときもヨウコは泣いたが、今回のような明滅には至らなかった。彼女はささやかなゴム管を咥えて、必死に何かをこらえていた。

 ヨウコと暮らして二年以上経つと、朝食は決まってゴム製の何かしらになっていた。息子のコウジと一家団欒、明るい一日が始まる。いってきますのキスは欠かさず、夕食後にはよくコウジとテレビゲームをした。よくある家庭の、よくあるシーンに、僕は慣れ切っていた。

 ある日、出勤前に見ていたテレビニュースに反応して、ヨウコがひどく怯えることがあった。僕とコウジは彼女が何に怯えているのかわからず、結局その日はそのまま家を出た。

 次の日、朝起きるとヨウコの姿はなかった。僕は会社を休み、夜更けまでヨウコを探したけれど、結局見つけることはできなかった。

 数日後、横断歩道の向こうにいる女子高生をヨウコだとわかったのは、その子が手に持っていたペットボトルをアスファルトの中に埋めたのを見たからだった。僕はいつのまにかコウジになっていたが、ヨウコを見つけた喜びで、それどころではなかった。僕はヨウコに抱きつき、ヨウコは僕の頭をかるくなでた。彼女の頬が赤くなっているのを、僕は見逃さなかった。

 河川敷では、ゴム製の虫がよく取れた。僕とヨウコはそれを主食にしていた。ヨウコは三年前よりかわいく見える。およそ欠点というものが見当たらず、僕にはもったいないくらいの女性だ。そう思っていた矢先に、それが起こった。ヨウコの身体は、ぼんやりと明滅しはじめ、夜光虫が一匹、二匹寄ってきた。最初のうちはお互いに気にすることはなく、休日だったので、居間でテレビを見ていた。そのうち、ヨウコのむせび泣く声が聞こえたので、視線をそちらにやると、おびただしい数の夜光虫が、ヨウコに群がり、彼女の姿を霞ませるほどの鱗粉をばらまいていた。僕はどうにか追い払おうと考えたが、数年前に、家にあったゴム製のものは全て処分してしまっていた。何かひとつでも残っていないか、家じゅうを探し回った。その際、寝室の蛍光灯が切れかけていることに気付いたのだ。

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蛍光灯が切れかけている 中山登 @alaghori

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