断片 卒業 ~新の場合~

 聡明なる読者諸賢には、すでにお分かりのことと思うが、あえて一言申し上げておく。

 これから始まるごく短い物語は、僕 ―― 斉藤さいとう あらた ―― の個人的な思想と体験に基づく夢物語であり、本編とはそんなに関係のない話でもある。時間と心に余裕があれば、是非最後までお付き合い願いたいところだが、世にいる全ての人間が僕という存在を感知しないように、僕自身に興味のない方には、退屈なだけの無意義な時間となることをお約束しよう。

 つまり、何がいいたいのかと言うと、飛ばしていただいても本編を読み進めるにあたっては全く問題がないということだ。

 僕は、この世に生れ落ちた瞬間から類稀なる美貌の持ち主で、天使と見紛うほどの神々しさに皆、我を忘れるほどだったと言う。街を歩けば誰もが振り返り、数々の失敗や悪戯も微笑めば全てが帳消しになる免罪符だった。小・中とバレンタインデーには机上にチョコレートの塔が屹立し、年齢に関係なく回りにいる女性は常に僕の味方。毎年、いや毎月誰かに愛を打ち明けられ、断るのに神経をすり減らす日々。

 両親は共に平凡とした容姿であり僕の誕生は奇跡だと親類縁者は誉めそやしていたが、三年後に瓜二つの妹、ゆかりが生まれたことで、母の胎内で行われるDNA組換工程にこそ神が宿っていることが証明された。

 そんな誰もが羨む薔薇色街道を、生まれながらにして歩んできた僕だったけれど、自分を人生の主人公だと思ったことは一度もない。大勢の人の中で確かに容姿は抜群に目立っていたかもしれないが、存在は紙より薄く、他人からの認知度はヘリウムよりも軽かった。

 そう、僕には真っ先に自分の名を呼んでくれるような友達が一人もいなかったのだ。

 だからと言って、学生生活が苦労と涙の連続であったかというと、実はそうでもない。女性は幼い時分、その身に正義を宿している。僕はそんな正義の味方たちに守られ、独りなるようなことはついぞ無かった。


 あれは、中学の卒業式であったと思う。

 靴箱へと向かう人気のない渡り廊下を、殊更にゆっくりと歩いていた。

 窓から差し込む陽光が廊下に影を作り、僕の足音だけが響く廊下はやけによそよそしい。

 たった一日、それもほんの二時間ばかりの式を終えただけで、昨日までは日常の一部であった校舎も、校庭の花壇も他人のような顔をしてくる。心のない物ばかりではない、教師でさえ晴々とした笑顔の裏に重圧から解放された喜びを隠していた。その喜びは言動の端々に滲み、卒業式とは学生の為ではなく、一年間迷える受験生を守り導いてきた彼らを、その任から解き放つ為の儀式ではないかと錯覚してしまう。

 目に映る全ての物が、部外者を見る目付きで僕の行動を監視していた ―― お前はもうここの学生ではない、用のない者は即刻立ち去るべし。不必要に回りの物へ触れるべからず。

 言われずとも解っている。僕は校舎にも教室にもなんの思い入れもない。無味乾燥な中学生活は終わったのだ。喜んで出て行こう。

 しかし、勇ましい足取りとは反対に、靴箱へと近づくにしたがって大きくなるざわめきに僕の心は重くならざるおえなかった。

 式を終えた今、正門付近では卒業生が最後の別れを惜しんでいる。式から二時間も経つのに人が減っている気配がない。そのざわめきの渦中に居たくなくてわざとゆっくり歩いてきたのに、中学最後の目論みは完全に失敗したと言ってもいいだろう。

 僕は内心、苦々しく思いながら靴を履き替えて外へ出た。

 明るい日差しの下では、胸にリボンを付けた生徒が、思い思いのポーズで写真を取りまくっていた。式の間中、悲しみで目を真っ赤にしていた子も、弾けるような笑顔をレンズの向こうへと投げ掛けている。

 そんな姿を見ていると、あの涙は一体なんだったのだろうと思ってしまう。

 別れが悲しかったから? それとも、卒業するという事実に感動したから? 僕には理解できない。そもそも、卒業自体は祝うべきことで、悲しむべきことじゃないはずだ。

 同じ高校に進学する者も大勢いる中で、別れを惜しむというのも変な話だ。頻繁に会えなくなるだけで、二度と会えなくなるような永久の別れではない。それに直に会話を交わさなくとも、容易に連絡のとれる時代だ。本人同士にその意思さえあれば、繋がりが絶たれることなど殆ど無い。

「あ~、新くんだ。もう帰ったのかと思ってた」

「ねえ、最後に一緒に写真を撮らない?」

 背後から、同じクラスだった女の子たちが話しかけてくる。

 僕は、いつもと同じ角度で唇を持ち上げると、にっこりと彼女たちに微笑みを返した。

「いいよ~。みんな、まだ残っていたんだね。僕は、てっきり一人だけ取り残されたのかと思ってたよ」

 女の子たちと肩を寄せあって、レンズに然り気無くピースサインを送る。

「そういえば、新くん随分遅いけど、何かあったの?」

「ん? 高校について先生と話をしていたんだ。それでちょっと遅くなったんだよ」

「へぇ~。新くんの行く学校って、確か随分遠いところにあるんだよね? しかも、うちの中学からは一人だけしか受からなかったんでしょ?」

「そうだよ。高校からは、寮に入ることになるんだ」

「え~。そんなの寂しい。夏休みには、こっちに戻ってくるんだよね?」

「長期の休みには、寮が閉鎖されちゃうから。戻ってくるつもりだよ」

「だったら、その時には連絡をちょうだい。また、一緒に遊ぼうよ!」

 女の子は優しい。それが上辺だけの優しさと分かっていても、微笑まずにはいられない。

「もちろん。必ず連絡するよ」

 連絡先を交換しながら、そう返す。けれど、僕も彼女たちも心の底では、そんな日が永遠に来ないことを知っていた。

 女の子たちが、じゃあねと手を振って去っていくと、今度は別の方向から声を掛けられた。

「斎藤、一緒に写真を撮ろうぜ」

 振り返ると同じクラスだったのに、殆ど話したこともない男子生徒が立っていた。

 お互いによく知りもしない間柄で、写真だけ残してなんになるんだろう。たぶん、彼がその写真を見返すことなんてないはずだ。

 だって、僕たちの間には友情も思い出もない。僕が彼の名前を朧気にしか思い出せないように、彼だって僕の名字くらいしか知らないはずだ。

「いいよ~」

 心の中とは裏腹に、僕は笑顔を作り続ける。

 きっとこれも別れには必要な儀式なんだ。僕はそう、無理矢理自分自身を納得させるしかなかった。



「はあっ。疲れた」

 家に戻った僕は、盛大なため息をついて、仰向けにベッドへと倒れ込んだ。

 スプリングに弾かれて大きく跳ね上がった体を、柔らかな掛け布団が優しく包み込む。

 あまり広くもない僕の部屋。

 大きくとられた窓からは春先の暖かな日差しが入り込み、その光を受けて埃が部屋中を雪のように舞っている。

 見慣れた天井には日に焼けて黄ばんだクロスが、おどろおどろしい形のシミを作っていた。幼い頃は幽霊に見えて恐ろしかったそれも、今では僕を安心させてくれる愛しい形だ。

 寝返りを打つと、空間の目立つ本棚が目に飛び込んでくる。家を出るため、荷物の整理を徐々に始めていた。僕がこのベッドで眠るのも、あと二週間くらいだ。

 その時、不意に部屋のドアがノックされゆかりが顔を除かせた。兄というフィルターを取り外して見ても、愛らしく可憐な美少女だ。肩までの艶めく黒髪をさらりと揺らして、縁は輝く瞳で僕を見つめる。

「お兄ちゃん、今日、卒業式だったんでしょう? 中に入ってもいい?」

 美貌とは裏腹に『おどおど』という表現がしっくりくるほど、弱々しい声を放つ。縁は見ているこっちが不安になるくらい内気な性格だ。一緒に小学校へ通い始めた頃は、心配でいてもたってもいられず、休憩時間にはこっそり教室まで様子を見に行ったものだ。

 そんな縁も来週には小学校を卒業する。家では相変わらず『お兄ちゃん、お兄ちゃん』と僕の後ろを付いて回っているが、最近では友達を家に招待することも増えてきた。家を出るにあたって心配事が一つ減ったのは喜ばしいことだ。

 寝転んだまま手招きをすると、縁は嬉しそうに中へ入ってきた。

 勢いよくベッドの端に腰掛けるので、視界が左右に大きく揺れる。

「お兄ちゃん、卒業生代表で答辞を読んだんでしょう? どうだった?」

「どうだったって・・・・・・書いてあることを読むだけだったし、別に何もないよ」

「何もって、緊張しなかったの?」

「そうだな~。沢山練習したし、あんまり緊張はしなかったかな」

 縁は「すごいな~」と独り言のように言って、壁際へと移動した。そこには、荷物をまとめたダンボールが積み上げてあり、さっきまで着ていた中学の制服と、真新しい高校の制服が並べて掛けてある。ダンボールの脇には、卒業証書や花束が紙袋に押し込んだまま放置してあった。

「あ! お兄ちゃん、こんなところに置いていたら、お花が枯れちゃうよ!」

 縁は目ざとくそれを見つけると、紙袋の上に慌ててしゃがみ込む。暫くごそごそやっていたかと思うと、花束と文集を取り出して立ち上がった。

「お兄ちゃん、これ読んでもいい?」

 瞳を輝かせて振り返る縁に、僕は苦笑しながら頷いた。花束をダンボールの上に置き去りにして、いそいそとベッドに腰掛ける様をみていると、自然と頬が緩んでくる。まるで小動物だ。新しい玩具を与えられた小型犬でもいい。

 とにかく、うちの妹は何をしていてもどこにいても、どうしようもなく可愛い。

 静かな部屋にぱらりぱらりと紙を捲る音だけが響く。華奢な肩越しに見える縁の表情は穏やかに微笑み、視線だけが忙しなく紙面上を行き来していた。時折、髪を耳に掛ける姿を見ていると、縁もそう遠くない未来に恋をしたりするんだろうなと思ってしまう。

 次に会うのはきっと夏休みだ。中学生になり、僕のいない生活に慣れてしまった縁は、もうこの部屋に遊びに来てはくれないかもしれない。もし僕の部屋へ来てくれたとしても、会話の内容が男の子の話だったらどうしよう。僕は、どんな顔をして妹の話に耳を傾ければいいのだろう。

 書いている人の顔も解らないのに、縁は食い入るように文集を読み耽っている。こんな幸福な時間が、あと二週間で失われてしまうかもしれないことを、今更ながらに少し後悔していた。

 誰も僕を知らない高校へ進学する―――。

 そう決めたのは、他の人が高校受験を意識し始めるよりも早かったかもしれない。いや、もしかしたら、意識していなかっただけで小学生の時からそう思っていたのかも。

 小・中と公立の学校に通い、ごくありきたりで平凡な毎日を過ごしてきた。何も不足は無いのと同じくらい、何も充足していない。

 潮の流れに漂うクラゲみたいに時間や周囲の人にただ流され、起伏のない道をだらだらと歩いている毎日。

 そういう日常に飽きたから、刺激を求めていたと言えれば格好いいのだろうけど、僕自身がこの気持ちを言葉にできずにいる。

 穏やかな日々が嫌いなわけじゃない。けど、隙間風が入り込む真冬の部屋と同じで、ちっとも心が温まらない。

「あれ? お兄ちゃん、ここに何も書いてないよ?」

 縁が、僕のページを開いて指をさしている。考え事をしながら寝入りそうになっていた僕は、のっそりと上体を起こしてそれを覗き込んだ。

 縁が指していたのは、『友達に一言』という欄だった。

 ぼんやりしていた脳が一瞬で目を覚まし、答えを探してフル回転する。

「ああ・・・・・・そこは誰に向けて書くかを悩んでいたら、提出期限になっちゃったんだ。それで何も書いてないんだよ」

「ふうん。お兄ちゃん、友達が沢山いるんだね。いいなぁ」

 曖昧で灰色の答えを、縁は良い方向へ受け取ってくれたらしい。僕は素直で純粋な妹の頭を、撫でてやることしか出来なかった。

 真実はそんなに美談じゃない。

 僕には、最後の一言を告げたい相手どころか、別れを惜しむような人間すらいなかっただけなんだ。

 平坦な日常には、苛めや喧嘩といった文字もなければ、親友という文字もない。クラス内で特別浮いていたわけではない・・・・・・とは思うけど、悲喜交々ひきこもごもを分かち合うような友達は最後まで出来なかった。

 だからと言って学校生活に支障が出たことは一度もない。クラスには和を尊ぶタイプの女の子が必ず一人は居て、グループ活動の時には、そういう子が声をかけてくれる。教室に一人でいるときも、積極的に声をかけてくれるのはいつも女子だった。

 そのせいで、男子連中には『斉藤って、いつも女と一緒にいるよな』なんて言われることもあったけれど、僕が望んでそういう状況を作り出しているわけじゃない。多少の反感はあったけれど、笑顔で『そうかな』とかわす方が、言い返すより余程楽だ。

 ベッドに再び身を投げ出すと、揺れに負けたかのように縁が隣へと転がる。僕に背を向けたまま、相変わらず文集に釘付けになっていた。

 目の前には無防備な縁の後頭部があり、部屋は午後の日差しで明るく温かい。髪に指を通すと、縁がくふんとくすぐったそうに笑った。

 僕を知っている人が一人もいない高校へ行って、僕は何がしたいんだろう。

 まどろみ始めた思考の片隅で、そんな疑問が頭をもたげる。

 高校へ行っても、きっと僕は変わらない。回りに押し流されるように生きて、必死になって友人を作ったりはしないだろう。場所を変えたって、これまでと同じような人生を繰り返すだけだ。

 夢と現実の狭間で、『お兄ちゃん?』と僕を呼ぶ縁の声が聞こえた気がした。

 僕だけを選んで呼ぶ声は、甘く優しい。

 ここに ―― 君の傍にいてもいいんだ ―― そう・・・・・・思える・・・・・・。

 それは・・・・・・何て心地いい・・・・・・僕の名前じゃ・・・・・・ないみたい・・・・・・。


「・・・・・・らた・・・・・・おい、新! 授業は終わってるぞ。そろそろ起きろ」

「ふぇ?」

 目覚めると、視界いっぱいに工藤の顔が広がっていた。

 色素の薄い髪と瞳。反面、肌は健康そのものといった具合に程好く焼けている。童顔でクラス一の低身長を誇る彼女だが、小柄な体躯に似合わず、身体中から発散される生命エネルギーというかオーラは、太陽が地上に落ちてきたと思えるくらい強い。

 その強烈さは、工藤の姿を認めた訳ではないのに、教室に近づいただけで中に彼女がいるとわかってしまう位だ。

「首席様はいいよな~。授業中に居眠りしてたって、先生に注意されるどころか、真横を通っても完全スルーだもんな」

 ぼんやりとした頭に、大袈裟に嘆く工藤の声が響く。

 そういえば、別の授業で居眠りしていた工藤が、先生に教科書で頭を叩かれて、ビリヤードの玉のごとく机に額をバウンドさせていたのは記憶に新しい。

「僕は、先生に怒られたって、皆の笑いを誘うようなリアクションはとれないから」

「おい。人をリアクション王みたいに言うな」

「新くんが居眠りなんて、珍しいね。どうしたの? 体調でも悪いの?」

 反論してくる工藤を押し退けて、美少女が僕を除き込んでくる。その心配そうな表情は美貌も手伝って、天使かナイチンゲールのようだ。

 内気で優しい春ちゃんを見ていると、どうしても郷里の妹を重ねてしまう。初めて出会った時から、親近感を覚えたのはそのせいだろう。

 僕は、まだ少しぼうっとしながら横に首を振った。

「昨晩、何故だかあんまり眠れなくて・・・・・・別に病気とかじゃないよ。時々あるんだ」

「なんだ、新。眠れなかったなら、俺を起こせばよかっただろう。話し相手にくらいはなれるぞ」

 見上げると、隣に祐樹が立っていた。

 背が高く無口で、人を射殺せるほどきつい目付きをしている。そのせいで回りから敬遠されがちだが、四六時中一緒にいるので、彼が本当は親切で几帳面な奴だってことを僕は知っている。

 祐樹の申し出に、僕は苦笑しながら「ありがとう」とだけ返す。

 以前、眠れなくて話し相手になってもらったことがあったけれど、その時、祐樹は今読んでいる本の内容を詳細に語って聞かせてくれた。僕は寮のベッドに腰かけてホットミルクを飲みながら、祐樹がミステリ好きだということを失念していた自分自身を恨んだ。

 おどろおどろしいまでの猟奇殺人事件。スナッフ映画もかくやという物語に震え上がり、布団に潜り混んだが眠るどころの話ではない。祐樹の心遣いは飛び上がるほど嬉しいけど、あんな恐ろしい思いは二度とゴメンだ。

「もう行かないと、次の授業に遅刻しちゃうわ」

 腕時計を確認する春ちゃんの言葉に、次の授業が移動教室であることを思い出す。みんなすでに移動してしまって、教室には僕たち以外誰も残っていない。

 僕は机から授業道具一式を取り出すと、慌てて立ち上がった。

「ほら、新。行くぞ」

 工藤が教室の戸口で立ち止まり、こちらを振り返っている。大きな双眸が僕をしっかりと捉えていて、それだけで腹の底が暖かくなる思いがした。

「うん。今行くよ」

 僕はあの頃と違って自然と笑い、彼女の小さな背を追った。

 前方に祐樹と春ちゃんを見ながら、工藤と肩を並べて屋根だけの渡り廊下へと出る。

 海も山も近い久我高専には一日中穏やかな風が吹き、夏場でも割合凌ぎやすい。

 盛夏を過ぎ、瀬戸内独特の高い湿度を誇る風にも秋の気配が混じってきた。けれども廊下の隅や階段の陰には高温多湿の空気が居座っており、過ごしやすい季節がやって来るのはまだまだ先のことに思える。

「ねえ、工藤。どうして僕を起こしてくれたの?」

 僕の問いに、工藤は「はぁ?」と怪訝そうに顔を歪めた。

「相変わらず変なことを言う奴だな。起こさない方がおかしいだろ。それとも、起こしてもらいたくなかったのかよ?」

「起こしてくれたことに、感謝はしてるよ。そうじゃなくて、別に放っておいても何の問題もないじゃない。工藤も誰も損はしないでしょ」

「お前が起きたとき、教室に一人ぼっちだったら嫌だろ。そんなの、あたしだって嫌だ。新や祐樹やハルに、どうして起こしてくれなかったんだって絶対に文句を言うし、友達甲斐のない奴等だなって心底恨むと思うぞ」

「だから起こしてくれたの?」

「まさか。そもそも起こすのに理由が必要か? 新が寝ていたから起こした。それでお互い遅刻もせず万々歳。お前は、起こしてくれてラッキーとでも思ってればいいんだよ。面倒くせぇから、余計なこと考えるな」

 工藤の答えに思わずニヤリとしてしまう。

 高校に入学してから、僕の世界は一変してしまった。中学生の僕が未来の僕を見ることが出来たならば、きっと驚きすぎて卒倒し、そのまま寝込んでしまうに違いない。

 今の僕には、別れを惜しいと思える人がいる。僕の名前を呼び、気にかけてくれる友人がいる。

 もう、文集に誰の名前を書くべきか悩むことはない。

 そして、全く考えもしなかったことだが、人として大切な感情さえもここで見つけてしまった。

「さっきから何をニヤニヤしてるんだ? いい夢でも見てたのかよ」

「そう。ちょっと昔の夢を見てたんだ」

「昔の夢?」

「中学の卒業式の夢。僕さぁ、文集を読んだ妹に――」

「待て! 待て待て、新! 中学の卒業式って言ったら、そんなに昔の話じゃないだろう。日本語を間違えてないか?」

「ええ? そうかな? だって、『ちょっと』って『少し』って意味でしょ?」

「そ・・・・・・そう・・・・・・なのか? いや、でも変だろ。『ちょっと昔の夢』って言われたら、大抵の人は『短時間だけど昔の夢を見た』って理解すると思うぞ」

「それは工藤が変だよ。『ちょっと昔の夢』は、そのまま『少し昔の夢』じゃない。『短時間だけど昔の夢を見た』なら、『ちょっとの間、昔の夢を見た』だよ」

「理屈は合ってる気がする・・・・・・が、どこか変だって! うぅぅ。あたしの頭じゃ説明は無理だ。おーい、祐樹! 聞いてくれよ。新がさぁ――」

 工藤が呼び掛けると、前を行く二人がゆっくりと振り返る。

 女の子との会話に不自由したことのない僕でも、さすがに可憐なる乙女と言い合いをしたことはない。工藤を女子として認識するかは賛否両論あるとしても、このようにくだらない内容で忌憚のない意見を交わすことができるというのは、幸せなことなんじゃないだろうか。

あらたー! 祐樹が『ちょっと』の意味を説明してくれるってよ! 早く来いよ」

 はち切れんばかりの笑顔に、僕は眩しくて目を細める。祐樹と春ちゃんの穏やかな笑顔に迎えられ、四人で再び歩き始めた。

 僕たちは、まだ出会ったばかりだ。これから先、長いようで短い四年間を共に過ごす。きっと楽しい日々ばかりではないだろう。嫌になる日も喧嘩をすることもあるに違いない。

 僕は甚だ不謹慎ではあるが、そんな未来が来ることをむしろワクワクとした気持ちで受け止めていた。

 何があっても、この四人なら大丈夫。

 誰が保証してくれるわけでもない。独りよがりで自己満足な思い込み。

 けど、その思い込みが正しかったと証明される日が、間違いなく来るだろう。

 滔々とうとうと紡がれる『ちょっと』の説明を聞きながら、僕はここへ来た自分の決断を称賛していた。



 読者諸賢。最後までお付き合いいただき、恐悦至極に存ずる。

 僕は、生まれて初めて仲間というものを手に入れ、薔薇色であった人生街道を黄金色に染め変えた。

 全く本編に触れることのない物語ではあったが、これにより僕の心の変遷を少しはご理解いただけたかと思う。流れと勢いに乗じて予定外であった告白をする、などというイカロスのごとき所業に及んだのも、僕が新しい人生に酔いしれて浮かれていたからに他ならない。

 世界中の誰に聞いても縁の方が可憐で愛らしいと評するに決まってはいるが、結果として不格好ながらも、僕の心の隙間を無理矢理セメントで塗り固めてふさいでくれたのは彼女だった。認めたくない事実ではあるが、妹よりも彼女のことを可愛いと思ってしまう時間の方が長くなりつつある。

 余談ながら、妹の縁にはまだ男の影は見えず、夏休みに帰省した僕は自分のことを棚に上げて心底安堵した。やはり妹を任せるに値する男は、全てにおいて僕を越えていてもらう必要がある。当然、容姿もその中に含まれる。平凡な男では縁の隣へ立つには荷が重すぎるだろう。

 僕はこれから黄金街道をひた走るわけだが、今まで培ってきた脇役根性はそう簡単に修正できるものでもない。本編からもわかるように、いくら容姿端麗、頭脳明晰といえども脇役は脇役でしかないのだ。

 今は、そのことを誇りに思う。脇役であったからこそ、手に入った仲間であり友人であるのだから。

 そして ―― 僕の恋の行方については、ここでは時系列的問題があり述べることができない。もし、気になるというのであれば、本編を随時追っていただくしかないのだ。

 読者諸賢には、何卒ご容赦いただきたい。

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リアル3K~工学部へようこそ~ 都路垣 若菜 @egaku-kokonobi

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