二人で明りを灯す場所
高島津 諦
二人で明りを灯す場所
居場所というのは、とても大事なものだ。
多くの人は、必死に探して、もしくは作り上げて、何とか自分の居場所を手にするのだろう。そしてそれを、大事に大事に守っていくのだ。それならば、何の苦労もなく居場所を与えられておきながら、自分でそこに居づらくなった私は、とんでもない愚か者だ。
学校の勉強ができるから、ちょっと厚い本を読むから、というだけで、妹の
十五年付き合った自己嫌悪にもいい加減飽きているけど、止められそうもなかった。
「
ぽかぽかと、気持ちよく温まったのだろうなということが分かる声で名前を呼ばれ、私は意識を内側の海から引き上げた。
「あ、う、うん……」
恐らく浴室までは聞こえないであろう声量で返事をして、居間のソファーから立ちあがり、壁にくっついているお風呂の操作パネルに近づく。ピ、ピ、と小気味いい電子音を立てて操作。三度湯温を上げて追いだきする。我が家の中で、パソコンの次に最新機器。幾らかかったのか両親は教えてくれていなくて気にならないこともなかったけれど、とりあえず私にはありがたい設備だった。
「もー」
「ひっ!」
突然背後から湿り気と熱のあるものに密着され、声が漏れた。え、ええと、ああ、日だ。
「あっついお風呂は体に悪いんだよー」
いつの間にやってきたのか、パジャマ姿の日が、私の背中に貼りついていた。服越しにも体中が柔らかくて、所々接触している素肌が火照っていて、私の頬に当たる髪が湿っていて、お風呂上がりの香りがして、私は一つ、唾を飲み込んだ。
「日が、ぬるすぎるんだって」
それでも少し掠れてしまった声で、私は身じろぎひとつせず抗弁する。
「でも月ちゃんは熱すぎ! 四十一度にしなさい四十一度に!」
日の腕が伸びて、勝手に一度引き下げられた。そんな風に私の肩越しに腕を伸ばされると、ちょっと腕を曲げられただけでまるで包み込まれるように抱かれそうで、それが、私は、何だか、そう、怖かった。
「……くっつき、すぎ」
ぐい、と日の腕を押しやって、私は逃げた。逃げた? うん、逃げた。押しやる仕草があんまりに邪険だったんじゃないかと気付いたのは行為の後で、けれど日はいつも通り気にした素振りもなく、
「あー喉カラッカラ。今度からお風呂に何か持ってこうかな、ほら、露天風呂にお盆浮かべてトックリ乗っける感じでさ。風流?」
なんて言いながら、台所へ飲み物を取りにいってしまったから、テレビを見ている父さんも本を読んでいる母さんも何も気にしない。
私は少し立ちすくんで、そして、まだお風呂が私の適温になっていないと分かっていたけれど、浴室へ向かった。ぬるすぎるお風呂の方が、日の温かさに触れているよりまだよさそうだった。
昔から、日はどこに行ったって上手に呼吸ができるようだった。家でも、幼稚園でも、学校でも、苦手な勉強でヒーヒー言ってる時だってそれは変わらなかった。
逆に私は、喘息でも何でもないのに、深い水底の水圧が肺を締め上げているような、そんな気がいつもしていた。水圧の正体は多分、誰かの視線、というようなもので、要するに私は自意識過剰だったのだろう。
考えすぎだよ、誰も君のことなんかそんなに気にしちゃいないよ、まして嫌ってなんかいないよ。
幼い私に誰かがそう言ってくれれば何か変わったかもしれないし、あくまで私は私だったかもしれない。いずれにせよそう言われなかった私は考えすぎて、ずっと考えすぎて、そうすると不思議なことに、私の中だけで考えていたはずの内容が現実のものになった。実際に皆から嫌われるようになって、ますます息をするのが苦手になって、ぎこちなくぎしぎし生きる私は更にきもちわるいものとして扱われるようになっていった。体に長く傷が残ることがされていないのは、幸いだった。
ただ、日といる時だけは、違った。私という不格好な形をしたものが、しっくりと嵌る気がした。日は誰とでも仲良くやれる、凄くまともな形をした子のはずなのに、私みたいな形の人間とカチリと嵌るのがとても不思議だった。双子に特別性があるとすれば、まさしくそうなのだろう。
日の隣だけは、生まれた瞬間に神様から与えられた、私の居場所だった。
日は誰といても大体楽しそうにしている子だったけれど、私との時は、特に楽しそうにしていてくれた、と思う。私は人の気持ちを察することもとても苦手だけれど、日の気持ちだけは、少し分かる気がする。日が私の重く長い髪を梳かしたり、コンビニであんまんをはんぶんこして食べたりする時の笑顔は、他の笑顔とは違っていた、はずで。日は今だって、私といると楽しそうにして、特段の好意を思い切り向けてくれる。日は変わっていない。
変わったのは、私だ。
だから、悪いのも、私だ。
湯温が上がるまで湯船に入り続けたせいでのぼせた頭で居間に戻ると、日はいなかった。子供部屋に行ったのだろう。父さんと母さんは、ニュースなんだかバラエティなんだかよく分からないテレビ番組を見ながらおしゃべりしていた。
さっきの日の行動をなぞるように、私も台所に行って冷蔵庫を開ける。日はきっと牛乳を飲んだのだろう。私はコーラのペットボトルを取りだして、日とお揃いのコップに注ぐ。
私がこういう飲み物を好むのを、日はよく諌める。私は聞く耳を持たない。骨だろうと歯だろうと溶けるなら溶ければいい。コカが入っていればもっとよかった。大人になったらお酒も煙草も思うさまやりたい。ああでも煙草の匂いをさせるようになったら日は嫌がるだろうな、と反射的に思って、その思考が口の中に生じさせた苦みは、想像上のアルコールとタールに似ていた。
コーラを一杯飲み干し、もう一杯注いで、部屋に向かう。子供部屋は共用だった。日がいるということを思うと少し足が鈍ったが、やらなければならない宿題があった。
部屋に入ると、日はベッドに寝転んで漫画を読んでいた。男の子みたいな、少年漫画。
「月ちゃんおかえりー」
気配に顔を上げて、笑ってヒラヒラと手を振る日に、私は疑問をぶつける。
「……なんで、私のベッドで?」
私たちが使っているのは二段ベッドで、上が日、下が私。なのに今、日がうつ伏せに転がっているのは、下段の私のベッドだった。
「落ち着くから」
一言で返される。一問一答としては申し分ない答えなのかもしれないけれど、それは納得には遠い。とりあえずコーラの入ったコップを自分の机に置いてから、もう一度日を見る。
「落ち着くって……自分のベッドの方が、落ち着くもん、でしょ」
「違うよー」
当たり前のことを言ったつもりだったから、否定されるとは思ってなかった。
「いや、あたしのはあたしので落ち着くんだけど、月ちゃんのベッドは何ていうか、ほっとするんだよね。月ちゃんの匂いがして」
「な、何それ」
「さびしくない、みたいな気持ちだよお」
ニコニコと笑う日は確かに寂しくはなさそうで、でもそんな理由で私のベッドに寝ているのなら、寂しかったの? 何で?
「ね、今夜さ、ベッド交換して寝ようよ。そしたら月ちゃんも分かるよ」
その提案に、私は少し黙ってしまった。日のベッドで寝る。多分、日の匂いがする。他にもきっと、日の色んなものが、夢の欠片だとか、存在そのものだとかが、染み付いているのだろう。
「すぐに眠れるよー。あたし、月ちゃんのベッドでお昼寝するとあっという間に寝ちゃうもん」
それが本当だとしたら、寝付きの悪いことが悩みの私にとっては、魅力的だけれど。というか、今まで昼寝に使われていたのか。
「いいでしょ月ちゃん?」
悪意なんて欠片もない表情で聞かれて、私は。
「……ダメ」
首を横に振った。前髪がまつ毛をこすってチカチカする。視界に紗がかかる。
「えー」
日は頬っぺたを膨らませた。子供っぽい仕草だが、日にはよく似合っている。そんな仕草の似合う子は一部の女子からは嫌われやすいものだけれど、日は不思議とそんなことはなかった。
普段の日なら、これで話は終わったと思うのだけれど、今日は少ししつこかった。不満気な表情を一転、ナイスアイディア、なんて風に輝かせて、
「じゃあさ、月ちゃんのベッドで一緒に寝ようよっ」
「嫌。くっつかないで」
拒絶の言葉は、のぼせてスカスカになった頭を通り抜け、私が思った以上に真っ直ぐに口をついて、秒速340mで日にぶつかった。
本当に好きな相手に対し意地悪をするほど子供ではないつもりだけれど、スマートに好意を伝えられるほど大人でもないのが、私の沢山ある嫌な所の一つだった。
大人(果たして彼らがどんな生き物なのかいまだに私はよく分からない)に言わせれば、「まだ中学生なんだからそんなもの」となるのかもしれないけれど、三年生ともなれば、大人に近い振る舞いを身につけ始めたっていい、はずだ。でも私は、他の色々なことと同様に、上手くできやしなかった。
そもそも、笑顔で人にあいさつをすることからしてまともにできない私が、スマートな好意表現なんてできるわけないんだけれど。何かの奇跡でできたとしても、疎まれるだけなんだけれど。
日の、他人への、私への好意の向け方が、大人びたスマートなものではなく、わざと意地悪する幼稚さにすら達しない、ひどく子供じみた過剰な素直さからくるものだったとしても、それはやはり美徳なのだと思う。その美徳が、私は妬ましかった。
日は、ずるい。日は私が好きだといつも言って、それは私も嬉しくて、でも彼女の好きは、私たちがにっちゃんとつーちゃんだった頃から変わらない「好き」なのだ。
私は変わってしまった。わたしはよこしまです、と頭の中で呟いて、邪、の漢字を当てる。それはとてもよく似合った。学校で私のことを魔女と呼ぶ人たちがいるのを知っている。日はそれを聞くたび怒るけれど、でも、口さがない彼女たちの方が正しいのだろう。
私は、邪な魔女に変わってしまった。しかしそれは悪いことなのだろうか。だって、にっちゃんのことを日と呼ぶようになり、テストの点数を競うことを知り、口が痛いだけだった炭酸飲料を愛飲するようになり、それでも変わらないなんて、不可能でしょう? 好意の伝え方が分からなくなったって、居場所だったはずの日の隣にいると動揺して逃げ出したくなったって、仕方ないでしょう?
けれどやっぱり、悪いのは私なのだろう。私たちは、姉妹で、双子で、女同士なのだから。邪で、悪くて、なるほど、邪悪なんだ。
邪悪だから、日にこんな表情をさせてしまう。
私の言葉をぶつけられた日は、円らな目をますます丸くして私を見つめ、そしてふ、と目を伏せた。目線をそらされてすら真正面から見つめられるよりも気が楽になってしまう私は、傷つくより傷つける方がずっとマシだと感じる人間なのだろう。
「月ちゃん……あたしに触られるのとか、ほんとに、嫌なの?」
少しだけ眉間にしわを寄せ、眉を下げたその表情は、不安を示していた。日の表情は分かりやすい。それは、いつだって、誰にだってそう。でも、一番分かるのは私だと思っていた。信じていた。
「前は、嫌って言っても、本当は嫌がってないなって思ったけど。最近の月ちゃんは……どっちか、分かんない」
昔、日が言ったことを思い出す。「地球からは月の同じ側しか見えないって言うけど、あたしはお日様だから、他の人が分かんない月ちゃんの裏側も分かるんだよ!」なんて。根拠のない言葉だ。受け取り方によっては傲慢ですらあるかもしれない。でも私は、こう言われた時確かに嬉しかった。私と日が、お互いにお互いのことを一番分かりあえる関係のようで。
だがどうやら、いつの間にか私の嫌がっているふりは随分と上達していたようだ。日をすっかり騙せてしまっている。でも、ふりなのだから。私が、ただ、子供にも大人にもなり切れていないと言うだけなのだから。だから日、そんな顔しないで。
日には悪いけれど、彼女がこうして不安に耐えかねてくれたのは丁度よかったかもしれない。こんなことでもなければ、私は嫌がっているふりを続けていたろう。居場所を失ったままになっていたろう。でもこれで、そこから抜け出せる。やっぱり私はどんな時だって日に引っ張ってもらえる側みたいで、しかしそれもいいんだろう。
ほら、首を横に振って。凄く恥ずかしいけれど、きっと声はとても小さくなってつっかえてしまうだろうけれど、本当は嫌じゃないって言おう。ごめん、って言おう。そうすれば、また私は、日の隣で、少しだけ楽に立っていられるようになって、日の手を取って、時には一緒のベッドで寝て、そして。
――そして、その先は?
「……もう、ベタベタするの、やめて」
邪悪な魔女に、居場所なんてあっていいわけがなかった。
豆電球だけが光る部屋で、私は上段ベッドの裏側を見つめていた。
物音はしない。時計も、私が気になって眠れないとわがままを言って針音の鳴らないタイプに変えてもらっていた。
それでも、普段なら音がしているはずだった。日はとても寝相が悪い。毎晩毎晩、上のベッドからはギシギシだとか、酷い時はドタンバタンという音がして、底が抜けるのではないかと私は気が気ではないのだ。けれど今夜は、とても静かだった。
あの後、日は、ちょっと黙って、「そっ、かぁ」と言った。棒読みみたいな奇妙な言い方だった。どんな顔をしていたかは分からない。私は斜め下を見ていたから。ギシ、と音がしたので、私のベッドから降りたのだろう。歩き出した気配がしたので恐る恐る視線を上げると、日は自分の本棚に向かっていて、私からは背中しか見えなくてほっとした。そのまま日は本棚を物色し始め、「月ちゃんごめんね。これから気をつけるから」と、今度は普段通りの明るい声で続けた。何冊か漫画を抜き出し、振り向いた日の動きに今度は視線を逸らすことが間に合わず、顔を見てしまった。何てことのない笑顔だった。気楽そうにしか見えない、笑顔だった。
それから私は宿題をしたし、日は自分のベッドで漫画を読んでいた。日だって宿題があったと思うけれど、私は何も言わなかった。日も何も言わなかった。日が欠伸をして、私が「そろそろ、寝ようか」といつものように聞くまで、二人とも、何も言わなかった。
深く呼吸をすると、枕から、少しだけ日の匂いがする気がした。それはコカインやニコチンやアルコールに似ている、と一瞬考え、すぐに否定する。むしろ水や酸素や塩に近い。日は私に必要だった。たとえそれが摂りすぎればドラッグと同じ結果を引き落とすとしても、必要だった。でも、私はそれを拒絶した、のだ。
小説なんかで、人間関係が壊れる時に「ガラガラと崩れる音がした」なんて書かれるが、どうやらそんなのは嘘っぱちのようだった。暴力沙汰にでもならない限り、概ね静かに壊れる。今のこの部屋のように、静かに。
日のことを考える。日のことしか考えられない。擦り寄せてきた頬の柔らかさ。絡めた指の細さ。引っ張る手の力強さ。人懐こいふわふわの声。私に向けられる「好き」。それを全部振り払ったことを考える。仕方がないのだ、仕方がないのだ。綺麗な物を汚してはいけないのは、誰だって分かる。だから。
かみさま、どうしてわたしは、よこしまなのですか。
目を閉じなければならない。明日も学校がある。日常は続いていく。眠ろう。ちっとも眠くないけれど、眠ろう。
私が意識を失うまで、上のベッドが軋む音は聞こえなかったように思う。
「月ちゃん、つーきーちゃーん」
鼓膜の振動と体の振動に、私はうっすら目を開けた。ぼんやりした視界で、何だかよく分からない、でも見慣れている気がする物が動く。
「起きた? おはよう、月ちゃん」
私の右肩を遠慮なく揺すっていた何かが離れる。
「おはよう……」
習慣として、脳をほとんど使わずに返事をする。
「その言い方はまだ起きてないなー。月ちゃん、おーきーてー」
元気な声と共に、再びゆさゆさと体が揺さぶられた。力の入らない首がガクガク揺れて、少しずつ意識が浮上してくる。今、私はベッドに寝ていて、寝起きで、起こされていて、ぶれる視界の真ん中辺りにいるのは、揺さぶっているのは、日。
心臓が跳ねた。多分、目も開いた。揺さぶりが止められる。
「起きたね? おはよ」
「……おはよう」
見つめてくる視線を迎え討てず、ベッドの縁を見ながらもう一度挨拶だけを交わした。
「早くご飯食べないと怒られるよー」
日はすぐに離れて、軽い足音を立てて部屋を出て行った。
取り残された私は、少しぼうっとして、取り残された、と感じている自分に気付いた。昨日までは、部屋を出る所まで一緒だったのに。起こし方だって、片手で肩を揺さぶるなんて程度じゃなく、抱きついてきていた。その度に私は、日に全て触れられて、我慢をしていたのに。
日が寝起きの悪い私を起こす役、というのは変わらないけれど。私たちが双子ということは変わらないけれど。決定的に、変わってしまったのだろう。優しい彼女は、変えてくれたのだ。
よかったじゃないの、と私は呟く。この分なら、思っていたよりずっと上手に日は距離を取ってくれそうだ。
日は明るさや素直さから皆に好かれているとばかり思っていたが、実際はこういう距離の測り方も上手いから好かれていたのだろう。それを今まで知らなかったのは、いっそ不思議なことだった。私たちはもう十五歳で、全身で体当たりすることしか出来ない子が誰からも好かれるわけがないのは当たり前だ。日は多分天賦の才能で、取るべき距離を上手に取ってきた。今日まで私に対してそれは必要なかったけれど、もう違うのだ。ほら、昨日まではちょっと触れられただけで焼きついたようだったのに、今は触れられたかどうかも忘れてしまいそうなほど自然に触れて離れていったじゃない。
もぞもぞとベッドから這い出す。毎朝、この寒さが体を覆う瞬間が苦手だ。今朝は特に冷えた。
洗面所で無様に水を跳ね散らかしながら顔を洗い、居間に行くといつものように既に家族は朝食を摂り始めていた。両親におはようを言って、日の隣に座って、私も食べ始める。
いつだって朝は食欲がなくて、無理やり食べ物を口に入れ、何も考えないように咀嚼して飲み下す。他の家族は主食がご飯で、私だけパンにしてもらっているけれどそれでも辛い。血圧も体温も低いのは、私らしいと言えばらしいのだろう。日は血圧が平常値で体温が少し高めで、それもらしいことだった。
義務としての朝食を終え、身支度を整え、私たちは家を出る。日と一緒の登校。
「月ちゃんとこ、今日体育ある?」
柔らかな栗毛を揺らした日の話の振り方はとても自然で、私もそれなりに自然に返すことができた。
「ある、よ」
「いいなー」
本気で羨ましそうな、少し拗ねたような、その仕草はどうしようもなく可愛い。
「よくないよ……疲れる」
「月ちゃんは運動の楽しみを知った方がいいよお。手も足も細すぎ!」
それなら日は勉強の楽しみを知ったら、と言おうかと思って止めた。別に私だって、楽しくてやっているわけではない。それしか人並みに出来る物がないだけで、決して楽しいわけではなかった。
通学路を歩いていると、次第に同じ制服を着た子たちが増えていく。日に声をかける子は沢山いて、私に声をかける子は一人もいない。私は、存在を無視されるか、人気者を独占する邪魔な奴として疎ましげな視線を向けられるだけ。これまで通り。
私を無視する方のグループの一つに、日が近寄っていって何か話し始めたのは、これまで通りではなかったけれど。きっと今日からはこれが普通になるんだな、と私は洞窟の奥にある湖みたいな心で見ていた。
細すぎると言いながら日が手にも足にも触れてこなかったことに、その時になって辛うじて気付いた。
どうということもなく日常は続いていった。
学校では日とクラスが違うので、元々関わりは少ない。私は三年一組で冷え冷えとした視線に包まれていたし、日は三年四組で笑顔の中心にいたことだろう。変化と言えば一緒に食べていた昼食が別々になったくらいで、それを最初に切り出した時の日はやっぱりふわりとしていて、私はちっとも動揺しなかった。下校は今まで帰宅部の私が陸上部の日を待っていたけれど、特に予告もせず私はさっさと一人で帰るようにしたし、日も何も言わなかった。
家での会話は、ゼロではないにせよ、そして険悪な雰囲気は一切なかったけれど、減った。一度、母に「あなたたち喧嘩でもしたの?」と聞かれたが、日の鮮やかな否定でその疑惑は晴れたらしかった。客観的に見て、こういう風になってもおかしくない年頃、ということだったのだろう。そして、朝起こしてくれる時以外、日が私に触れることはほとんどなくなった。
私が一言望んだとおりに、日はベタベタするのをやめてくれたのだ。
意外にもと言うべきか、期待叶ってと言うべきか、私は一週間を待たずして心穏やかになっていた。日は私にとって掛け替えのない、必要な存在だと思っていたが、とりあえず毎日言葉を交わすだけで私はよかった。かつてのような親しさは、やはり私の心を乱していたのだ。日のことが嫌いになったわけでは勿論ない。ただ、節度を持つことが、持てることが、心地よかった。
日がどう感じていたかなんてことは分かるわけもなくて、でもこれまで日にとって私はワン・オブ・ゼムで、私にとって日がオンリーワンという不均衡な関係が私たちだった。ネックなはずの私が気が楽になっていたのだから、日の方が居心地が悪い道理はなかったろう。事実、私といることで浪費していた時間を他の子たちとの交流に使うようになって、日はますますキラキラして見えた。
まったく、お互い、双子だからなんて理由で、無駄なことをしていたものだ。私と日は、全然種類の違う人間なのだから。
空に浮かぶ月が一度満ちてまた欠けた。
地上に沈む私はそんな風に変化することもなく、淡々と日々をこなしていた。毎日は嬉しいことがほとんどなく嫌なことばっかりで、でもそれが私にとって生きるということだった。大丈夫、平常運転だから。なんて、そんなことをわざわざ言わなければならない相手もいない。
いつかのように、いつものように、日はベッドで漫画を読み、私は机に向かっていた。勿論日がいるのは自分のベッドだ。もう日と同じ部屋にいても、胸がざわめくことはない。厳密に自分を観察すれば、少しだけ息苦しい気もしていたけれど、それは世界のどこにいたって感じているものだった。そしてそれは錯覚にすぎない。私の呼吸器に疾患はない。日が上手に呼吸ができて私ができないなんてのは陳腐で甘えた比喩であって、実際の私は、私一人で、健常に呼吸ができるのだ。
その時の私はカッターを使っていた。定規に沿って、真っ直ぐ切るだけ。私でもできる簡単な作業。息を止めて、もう一本、線を。
ずるりと定規がずれたのを認識した瞬間には、もう鋼製の刃が私の左親指の上を通過していた。
「あっ!」
痛みよりも先に驚きで声を上げた。普段もごもごとしゃべっていると咄嗟の叫び声まで小さかったりするが、同室の彼女は聞き逃さなかった。
「大丈夫!?」
ひょっとすると私よりも焦ったみたいな声で、半ばベッドから飛び降りるような音を立てて駆け寄ってきた日の反応は、まるで予測していたみたいに随分と早かった。それに驚いて固まってしまっていた私の左手首を、すぐ横に立った日がグッと掴んで持ち上げた。
その時にはもう、第一関節の辺りから、とくとくと赤いものが流れ出していた。疼くような感覚はあっという間に痛みに育った。
「気をつけなきゃダメだよ!」
傍らからの声は叱るようでいて、何より心配の色が濃かった。
「ご、ごめん……」
でも叱られていても心配されていても、どちらにも謝ってしまう人間が私だった。呆然としたままの私に先んじて、日は机の上のボックスティッシュから何枚も引き抜き、傷口に押しあてた。重ねられたティッシュが全部赤く染まるほどの出血があるわけもなくて、そう考えれば日は動揺しすぎだったのだろう。でも私はそんな風にも思えないくらい頭のどこかが痺れていた。
「月ちゃん、ほら、傷押さえてっ。救急箱取ってくるから」
言われるがままに傷口を覆うティッシュの上に手を伸ばして。
そこには、日の手があった。
「もっとぎゅっと押さえて」
日の言葉が、近くて遠い。この世のどんな音より私の奥に響いて、なのに言葉の意味がよく分からない。
日の片手が私の左手首を握り、もう片手が私の指を抑え、私はその上から右手を重ね、それはまるでひどく歪に両手を握りあっているようだった、だから。
「日……!」
「つ、月ちゃん?」
私は、傷口ではなく、日の手を、ぎゅうと握りしめていた。
「月ちゃん、痛い……よ……?」
それはもう、本当に力いっぱいで、日の柔らかな手を潰してしまうんじゃないかというくらいで、けれど私は手の力を緩めることができなかった。どうして自分がこんなことをしているかも分からず、ただ手だけがそういう呪いでもかかっているかのように、握りしめていた。
昔何かで読んだ本当かどうかも分からない話だが、人間は乾燥状態にある程度以上おかれると、口の中に入った液体を意思とは無関係に嚥下してしまうという。たとえ毒入りだと分かっていても。
日の指の滑らかさが、僅かに肩口に触れる温もりが、甘い香りが、どうしようもなく染みて、沁みて、捕らえるように掴んでいるのは私のはずなのに、私の心はずぶずぶと、ずぶずぶと。
私はさぞや必死な顔をしていたのだろう。多分、他の人が見たら即座に気持ち悪いって吐き捨てるくらいに。でも、日はそんなこと言わずに、猛禽類じみた私の指に与えられているはずの痛みのことも言わずに、そっと、傷ついた方の私の手指に、両手を絡めてきた。完全に、手を繋ぎあう形。
何とも呼びようのない感情に弾かれて顔を上げた私を、日は、腰をかがめてほんの少しだけ上から見下ろし、
「大丈夫だよ、月ちゃん」
紙風船に息を吹き込むように、優しく笑った。
「に、ち……」
溶け合う。ずきり、ずきり、指先で点滅する痛みのリズムに同期して、私たちの心臓は脈打っている。それはずっと久しぶりの感覚で、私は、日の隣なら、と思ってしまう。
駄目だ、と理性が叫んだ。こうなっては、駄目なのだ。こうならないように、私は日を拒絶したんじゃないか。ほら、こんなに日の近くにいたら、また私は、いけないことを考えてしまって、それを否定しようと、心が乱されて、乱されて。
乱されているはずなのに、私の胸はぽっかりあたたかかった。乱されているのではなく、満たされているなんて感じてしまうくらいに。
日が、私の手を引っ張って器用に椅子を回し、二人を向かい合わせた。
そして、すとん、と。私の膝の上に、跨ってきた。この近さは、あの日以来、なかった近さ。
「もう許してくれたの?」
互いの胸の前で手を重ねながら、息のかかる距離で日が問いかける。私はその意味が分からない。
「何、が……?」
「月ちゃん、あたしに怒ってたんでしょ? だから触るなって……違うの?」
困った顔をされて、私は戸惑う。日は、そういう風に受け取っていたのか。
「怒ってたんじゃ、ないよ」
「そうなの? よかったー」
安堵したように表情を崩す日に、私は複雑な気持ちになる。怒ってた方が、マシなんじゃないのかな。だって怒ってるだけなら、一時の感情のせいなら、ちょうど日が言ったように、もう許してしまう、なんてことがある。でも、私の拒絶はそんなのじゃなくて、もっと、決定的なもののはずなんだ。
「じゃあなんでかは分かんないけど、また月ちゃんと仲良くしていいんだよね? やったー!」
日が、ギュッと体を押しつけてくる。日の顔が私の肩に乗る。手が、私の乏しい膨らみと日の豊かなそれに挟まれる。服に血がついちゃう、ということを心配したのは一種の逃避だったのだろう。私は日と元の関係に戻ることを認めたわけじゃなくて、なのに相変わらず、いやさっきよりもっと強く、日の手に縋っている私の体は、認めたも同然だった。
それでも、駄目なのだ、こんなことは。
間違っている。
魔女に近寄っては、いけない。
「違う、の」
「何が?」
「駄目だよ」
「どうして?」
少しだけ日が顔を引いて、私を正面から見つめる。長い睫毛の数だって数えられる。瞳孔の収縮するリズムだって分かる。
「あたし、寂しかったんだよ? 月ちゃんとこうやってくっつかないと悲しいのに、ちょっと前からなんだか冷たいし、この間はベタベタするなって言うし……すっごく、寂しかった。ダメだなんて、あたしのセリフだよ。あたしは、月ちゃんがいないと、ダメなんだから」
日の唇から、半ば囁くように言葉が流れてくる。それは寂しさの告白という悲痛なものだったかもしれないが、私には、甘く甘く聞こえた。私は、日の、特別。私はそれで、一杯になり、
「月ちゃんは、あたしがいない方がいいの? 何であたしが近付いちゃいけないの?」
艶めいた桜色の動きに、もう、溢れてしまった。
「キス、したくなったり、するから」
日はきょとんとして、私は後悔の深い穴に落ちた。
何てことを言ったんだ、私は。これくらいならいいとでも思ったか。抱える邪な考えの一部でしかないから許されるとでも思ったか。姑息で、見苦しい打算で、その上その姑息さは何の緩和効果も発揮していない。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。どうか日がその一時停止的な表情のまま理解しなければいい。そうじゃないと、日にまで気持ち悪いと思われたら。私は顔を逸らしたくなって、でもそんな動きすらも躊躇われて、目の前の人を見つめ続ける。
そして。
「いいよ? そんなこと? もー月ちゃんったら照れ屋なんだから」
日は、嬉しそうにくすりと笑った。嬉しそうだった? 他に言いようがない。どう見てもその様子は、嬉しそうだった。好きな遊びを提案された子供のように、楽しそうだった。
混乱する。だって、彼女は今、凄く気持ち悪いことを言われて、卑しいことを言われて、なのにどうして嬉しそうにするの? 日、あなたは、一体。
「じゃーしたいって言った月ちゃんからね!」
日は目を閉じた。私だって分かる、それはキスを待つ姿だ。本当にこの子は、拒まない気でいる。私に全て委ねている。
私、私、は。頭の中がグチャグチャだ。邪な私が、この機を逃すなんてできないとほくそ笑む。もう少しまともな私が、まだ引き返せると叫ぶ。冷めたふりの私が、引き返したところで何があるの、なんて呟く。
そう、何があるんだろう。日の隣だけが私の居場所だった。引き返したって、日から離れてしまったら戻るべき場所なんてないのだ。空の月と違って私は満ち欠けをしない。ずっと欠けたまま。それは安定ではあっても、幸せと呼びたくはなかった。呼ぶつもりだったけれど。こうして日に触れてしまったら、もう一度満ちてしまったら、欠けたくないと望んでしまう。それなら、このまま、唇を?
いや、やはりいけない。日は親愛のキスを予想していて、しかし私のしようとしている物は違う。もっと汚い、もっと先を望む、そんな接吻だ。日にそんなことをしてはならないのだ、絶対に。守るべき一線というのは、確かにある。それを守った先に何もないとしても。
逡巡は長いのか短いのか分からなかったが、きっと長かったのだろう。す、と日が目を開けた。はい、これで私が邪悪な願望を叶える機会はおしまい。また、日と私は別々の人間として生きる。
日は拗ねたように口を尖らせた。いつの間にか力の緩んでいた私の手から自分の手を抜き取り、
「もー、つーちゃんのビビりー」
私の頭の後ろに回し、日の顔が急に視界の中で大きくなって、互いの目を覗き込んだまま、私たちは。
「ん……」
記憶にあるどんなものよりもやわらかな熱を感じた。
「んふ」
大きな大きな日の目がきゅっと弧を描く。私はやわらかさを覚えこまされるように感じていた。す、と頭を一つ撫でられ、日が離れる。確かめるように舌で自分の唇を舐める下品な仕草を止められたのは、奇跡のおまけだった。
「次はつーちゃんからだからね」
そう言って少しだけ照れたように頬を染める日は、あまりに無邪気に見えた。生まれた時に全ての邪さを私が受け持ち、日は一切の穢れを捨てたのかもしれない。そんなことあるわけないと思っても、そうとしか感じられなかった。
「あ、つーちゃん逃げちゃいそうだから、今してよ、今」
そう言って再び目を閉じる日の口元は、やっぱり笑みの形。
私の中で、やわらかな熱が反響していた。してしまったのだ。キスを。初めてだったなあ、なんて間の抜けたことを思う。日からしたら仲良しの証の口付けかもしれない。でも私にとっては全然違った。私は日の味を知ってしまった。体中の血管に神経に筋肉に骨に、日が行き渡ってしまった。暴力的なまでの安らぎを知ってしまった。こんな幸せだったこと、今まで一度もなかった。この幸せが一度きりの物だなんて、耐えられそうになかった。
守らなければいけない一線を簡単に越えてしまって、私はどこまで行ってしまうのだろう。自分でも予想がつかないよ、日。それでもいいの? 日はどこまで分かっているのだろう。私の邪さを知って笑っているの? 知らないで笑っているの?
全然分からなくて、ただ、もう抜けられないことだけが分かっていた。
「日、好き、だよ」
「ん」
完璧なほど愛しい人に唇を重ね、存在までが重なっている感覚に陥る。
この居場所を、二度と手放せない。
私は、ずっと、日と、ずっと。
二人で明りを灯す場所 高島津 諦 @takatei
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