いずれ忘れるんだよ
岡本次郎
いずれ忘れるんだよ
僕は、ずっと中途半端だった。
三十七歳になった今でも、あるシーンが夢に出てくることがある。その夢を見る度に僕は後悔する。(何であの時、もっと頑張れなかったのか?)僕はあの時初めて、自分が中途半端な人間だと知った。
あれは、僕が高校二年生の十二月に行われた駅伝の地区別予選だった。当時アンカーを務めた僕は、懸命に走っても走っても、追いつかないランナーの背中を追っていた。六人の部員が繋げてきた襷を肩から掛け、一歩一歩、自分の足を最大限に伸ばして、前に進む。1センチでも前に、全神経を集中させ、僕は見えない奴を追った。だが、どれだけ追いかけても、見えない奴の背中。顔もわからず、どこの学校の人間かも知らない。ただ一つ前の順位を走ってるそいつを追うしかない。応援に回った部員からは、「福田!一人だ、一人だけ追え!」と必死の声が聞こえてくる。僕に襷が回って、既に3キロ時点を通過していた。最終の七区は3.75キロの短い区間だ。スタートして、十分は経っていただろうが、時間の感覚は無い。もうすぐゴールになるのに、奴の姿はまだ見えてこない。息も上がり、もう自分の限界は超えていた。ひたすら腕を振り、フォームが崩れそうになる自分を奮い立たせる。(あと一人、あと一人だけだ)僕は長い直線に差し掛かった時、やっとグリーンのユニフォームを着たランナーを見ることが出来た。やっとの思いで見えた背中。ハッキリと奴を視界に捉えた。もう一度自分を奮い立たせて、ギアを上げる。(ゴールよ、まだ来ないでくれ)と祈りながら、僕は全力で走った。だが数秒後、奴はゴールした。僕の遥か前方にいる奴が同じユニフォームの連中に囲まれるのが見えた。その瞬間、僕の陸上競技人生が終わった。
福田幸真〈ゆきまさ〉は、私立明響学園高校に入学すると同時に、陸上競技部に入部した。当時仲の良かった友人に誘われて、特に何かしたいこともなかったが、なんとなく始めた。中学生の時はサッカー部に属していたが、顧問の先生に嫌われていた僕は三年間レギュラーにはなれなかった。実力も無かったとは思う。ただ中学生の僕にとっては、明らかな依怙贔屓〈えこひいき〉は耐えがたかった。高校に入学したら、団体競技では無く、個人競技のスポーツを始めようと決めたのも、そうした経験から来ていた。
入部すると顧問の先生からは、「お前の体形は向いてるぞ」と言われた。僕は身長182センチで体重が65キロだった。痩せ型で足が長いのは、長距離走に向いていたようだった。十五歳の僕は、それだけでも凄く嬉しかった。こういう顧問の先生の元で頑張りたいと思えた。先生自身も現役時代に長距離を専門としていたようで、僕の練習には積極的に声を掛けてくれた。僕は入部して徐々にモチベーションを上げて、陸上競技というものに向き合っていったのだ。
陸上競技についてずぶの素人だった僕でも、一年生の七月になると初めての公式戦に出ることとなった。それまで毎日練習をしていたが、中学生から陸上競技をしている人間には全く勝てなかった。走るという単純な行為が、これほど奥の深いものだと知らされるには時間はかからなかった。これまで僕が如何に何も考えずに走っていたのか、よくわかった。それでも何とか三か月の練習の成果もあり、それなりのタイムで走れるようにはなっていた。初めての公式戦であるインターハイ予選において、先輩から僕に与えられた種目は1500メートル走だった。
Jリーグでも使われていた陸上競技場は、とても広かった。スタートラインに立った時、僕の足はガタガタ震えていた。スタンドには応援する各校の部員たちが、声援を送っている。僕は初めての状況に、何とも言えない緊張感で一杯だった。レース前には点呼が行われ、周りを見ると明らかに体格の違う強豪校の生徒がたくさんいた。(こいつらと一緒に走るのか?)僕はその時、レースが始まる前から負けている気がした。
スタートの号砲が鳴ると、一斉にランナーがかなりのスピードで走っていく。僕はその速さについていけず、後方からのレースとなった。それでも自分のペースを守って走ると、徐々に前方を走っていたランナーを抜いて行った。僕が速い訳では無い、最初から飛ばしていた奴らがばてているだけだった。それでも気分は良かった。僕は、生まれて初めて走るのが楽しいと感じた。次々と他校のランナーを抜いて、最終的には三十人中十五位になった。四分五十一秒六というタイムは自己ベストだった。
試合が終わると、部員全員での簡単な反省会があった。色んな競技に出場した各々が目標の記録に達したか、次のステージに進む事が出来たか、など多くの事柄が発表された。僕は顧問の先生から、ミーティングの後に呼び出された。
「福田、今日のレースは良かったと思うぞ。ただな、あれで満足するなよ。お前ならもっと速いタイムが出るはずだから」
僕は、少し自分が満足している事を恥ずかしく思った。初めての試合だから、自分は素人だから、と勝手に言い訳している自分を少し腹立だしくも思った。中途半端な結果に満足してはいけない、きっと顧問の先生はそう伝えたかったのだろう。優しい先生は、僕を励ますように言ってくれた。そんな先生の気持ちに応えようと、僕は高校生活の最後まで陸上競技を続ける事を決意した。
秋になって、クラブ活動にも慣れてきた時、新入部員が見学に来ていた。僕はそいつの顔を見た事はあったが、あまり知らなかった。彼の名前は、岡谷貴志と言った。岡谷はスポーツ刈りをした、清潔感溢れる好青年だった。彼は中学生の時にバスケットボール部に入っていたと聞いた。普通なら春の入学シーズンにクラブに入るものだが、彼は高校生活に慣れたから、という理由で的外れな時期に入部してきた。岡谷が何の競技を始めるのか、多少興味はあったが、結局彼は長距離走を選んだ。
翌日から僕は岡谷と一緒に練習する運びとなった。するといきなり、岡谷と3000メートル走で対決する事となった。僕は、(絶対に負ける訳ない、圧倒的な差で勝ってやる)と意気込んだが、結局ほぼ同タイムでの決着となった。小差で勝つには勝ったが、半年間練習を行ってきたアドバンテージなど全く関係無かった。それだけ岡谷は、速かった。僕は純粋に岡谷の実力を認め、彼をライバルにした。
岡谷と僕は、毎日ほぼ同じ練習メニューをこなした。僕は最初の公式戦を終えてから、専門種目を3000メートル障害に変えた。何故、そうしたのかという理由は単純に競技人口が少なかったからだ。この種目なら、上位に行けるかもしれないという不純なものだった。岡谷は、正統派の5000メートル走を専門とした。僕たちは違う種目を選んだのも手伝い、常にお互いの健闘を称えた。少しでもタイムが伸びると、純粋に相手を褒め合った。僕は岡谷を親友だと思っていたし、彼も僕の事を親友だと言ってくれた。
冬になって、駅伝のシーズンになった。明響学園は県内でも有数の進学校だった為、クラブ活動はあまり積極的な学校では無かった。陸上競技部も当然、強豪校と呼ばれる部類では無かった。全国高校駅伝は県内で予選が行われる。県内を四つの地区に分け、地区別予選の上位校が県大会に進むという仕組みだった。明響学園は県大会に進む事ですら、十年以上遠ざかっていた。進学校ならではの、冬の時期には三年生が受験の為に引退していて、二年生と一年生だけのチームは他校には確実に劣った。
僕と岡谷は一年生だったが、駅伝メンバーに選ばれた。駅伝は七区に分かれており、一区が一番距離が長く、エース区間と呼ばれた。そして、三、四区が二番目に長い距離の区間になり、二、五、六、七区はやや短い距離設定になっていた。一区はエースの川上先輩が走り、僕は五区で岡谷は六区に指名された。下馬評では、明響学園はギリギリ県大会に行くには力不足というレベルだった。一区の川上先輩は五位という順位でスタートしたが、終わってみれば十五位という結果だった。県大会に進める十位には遠く及ばなかった。
僕は、前区間のランナーが十二位で回ってきたが、そのままの順位で次の岡谷に繋いだだけの結果だった。そして岡谷は一つ順位を落として、十三位でアンカーに回したのだった。先行逃げ切りをイメージした布陣は、全く通用しなかった。レースが終わった後のミーティングでは、川上先輩が相当悔しそうな表情をしていた。その時僕は忘れていた。川上先輩にとっては最後の駅伝だった事を。
川上先輩は明響の絶対的なエースだった。インターハイでも近畿大会に出場するなど、個人の実績は申し分無かった。この駅伝でも強豪校が軒並み三年生のエースを一区に起用する中、二年生ながら五位になるのは先輩だからこその結果だった。川上先輩は物静かなタイプで、後輩に怒ったり、激励したりしなかった。どちらかと言えば、俺について来いよ、というメッセージを背中で伝えるような人だった。僕はそんな先輩が好きだった。中学のサッカー部の時も、そんな人はいなかった。だけど僕は先輩にとって最後の駅伝であるのを考えていなかった。自分が初めて出場するだけで舞い上がっていた。そんな自分がちょっと嫌になっていた。
会場を後にした僕たちは、皆で電車に乗った。隣には岡谷がいた。岡谷は、僕の顔を見て何か言いたそうだった。僕は堪らず、岡谷に投げかけた。
「何だよ、岡谷。何か言いたい事があるなら、言ってくれよ」
「いや、川上先輩に悪い事したなあって思ってさ」
岡谷は、僕と全く同じ反省をしていた。一つ順位を落とした岡谷は、ひょっとしたら僕よりも自分を責めていたのかもしれない。彼もまた僕と同じように舞い上がっていたのか、どうかはわからない。ただ彼もきっと川上先輩が好きだったんだろうな、と思った。僕は沈黙の中、切り出した。
「なあ、岡谷。来年は必ず県大会に進もうな。川上先輩に良い報告が出来るように頑張ろうぜ!残された俺達にはそれしか出来ないよな」
「そうだな。それしかないよな」
僕は高校二年生になった。一年生の後輩九人が、陸上競技部に入部してきた。僕たちは先輩になった。一年間の練習の成果もあり、僕も岡谷も後輩には負けないレベルになっていた。僕と岡谷の他には、同級生で長距離走を専門にしていた人間は、三人いた。五人はそれぞれ種目は違えど、毎回同じメニューをこなした。
二年生になると、勉強の方にも注力しなければならないようになった。進学校だったせいか、どこの大学を志望するかなど本格的に受験を意識させられた。僕は文系を志望し、岡谷は理系を志望した。だから僕と岡谷は同じクラスにはならなかった。僕はあまり成績が良くなかったが、岡谷は優秀で国公立大を目指していた。そんな僕たちだったが、授業を終え、クラブ活動になると勉強を忘れて、精一杯練習に励んだ。
七月になると、三年生の最後のインターハイ予選を迎えた。僕たちも当然試合に出るのだが、三年生は意気込みが違った。川上先輩は僕と同じ3000メートル障害で見事近畿大会出場を決めた。僕はというと自己ベストを記録したものの、上位には食い込めなかった。岡谷は5000メートル走に出場したが、僕と同じで上位には入らなかった。
インターハイが終わって、三年生は引退した。先輩たちは僕たちに「頑張れよ」とメッセージをくれた。自己ベストで締めくくった人、結果が出なかった人、いろいろいたが、皆は満足そうな表情をしていた。これから受験勉強一本の生活に入るのに頭を切り替えようとしているように見えた。僕は自分たちが最年長になる自覚を持ったのと同時に、来年こうなったら良いなあと願った。
秋になると、本格的に駅伝を意識するようになった。去年の雪辱を、と僕は意気込んでいた。自分を鼓舞させ、同級生や後輩に対して毎日のように叱咤激励をし、自らも自己ベストを塗り替え続け、チームの準エース格になっていた。練習は二年生である僕たちが中心になり、メニューを決めたりしていたが、時々川上先輩が顔を出してくれた。先輩は「勉強ばかりだと、体がなまるからさ」と言って、練習に参加してくれた。でも、毎回僕は先輩に勝てなかった。以前より先輩から引き離されるタイミングは遅くはなったが、やっぱり勝てなかった。これだけ練習を重ねても、先輩が万全の状態じゃなくても、僕にとって偉大な先輩である事は変わらなかった。
駅伝まで一か月になろうとしていた頃、岡谷の調子が急激に悪くなった。それまでの彼の走りは何処に行ったのか、わからないくらい彼はスランプに陥った。原因は僕にも彼にもわからなかった。僕は岡谷が心配だった。彼のあまりにも酷いフォームを見ると、苛立ちさえ感じた。ある日、僕は意を決して岡谷に提案した。
「岡谷、朝練でもしないか?駅伝まであと一か月だしさ」
「福田……練習に付き合ってくれるのか?」
「もちろんだよ。むしろ俺が付き合ってくれたら助かるからさ」
翌日から僕と岡谷は毎朝一時間早く登校し、朝練を始めた。近くの県立公園まで軽くジョギングし、公園内で5000メートル走を行う。僕が前方を走り、岡谷について来いと促す。走り始めると徐々に岡谷が遅れていく。僕は、「もっと腕を振れ!」と激励しながら、走る。岡谷はついてこれない。走り切ると、毎回大差がついていた。
夕方の練習でも僕は、毎日岡谷に付き添った。太ももが上がらないのを矯正すべく、ミニハードルを使った練習を毎日繰り返した。それでも実際に走ると、岡谷のフォームは崩れ、全然走れてなかった。長距離走を専門とした部員は二年生が五人、一年生は一人いたが、調子の上がらない岡谷は一番遅くなっていた。
季節はすっかり冬になっていた。毎日寒くなり、朝練の時間はジャージでは完全に薄着だった。僕は季節の変化が何かしら、岡谷の転機にならないかと願っていた。だが岡谷の調子はなかなか戻らなかった。そして、駅伝までの日が二週間を切ると、顧問の先生がメンバーを決めたいとミーティングを開いた。すると、先生は思いがけない一言を放った。
「今回の予選だが、川上が走りたいと言ってるんだ。あいつを一区に起用しようと思っている。その上でメンバーを決めたい。川上が走る以上、県大会出場は絶対に狙うぞ」
驚愕のメッセージに、周囲がどよめいた。川上先輩が走ってくれるのか、と皆が口を揃えた。そしてメンバー選考に映った。一区は川上先輩、二区を一年生に決まり、あとの区間を決めようとした時、僕は部員に提案した。
「出来れば、アンカーをしたい。そして六区を岡谷にして欲しいんだ」
僕の状態を考えれば、三、四区のいずれかが定石だったであろう。一区の次に長い両区間は、エースの次に速い人間が納まるのが慣例だからだ。だが岡谷の状況を考慮すると、(万が一、彼が遅れたとしても最終区間で逆転すれば良い)という戦略に至ったのだった。僕は、絶対に県大会に勝ち進みたかった。尊敬する川上先輩の為にも、どんな手を使っても勝ちたかった。しかも、岡谷と一緒に勝ちたかった。最終的に僕は七区、岡谷は六区にエントリーした。
地区別予選の日は快晴だった。少し寒いのも、むしろ良かった。予選が行われる会場は県内でも有数の県立公園だった。一年ぶりに戻ってきた会場に入ると、僕は武者震いがした。(あれから一年か、長かったような、短かったような)そして、岡谷に声を掛けた。
「岡谷、前のランナーと三十秒以内なら絶対に抜いてやるから。安心して走ってこいよ!」
「ありがとう、福田」
レースが始まると、川上先輩は練習を積んできたのか、凄い走りを披露してくれた。先頭を走る強豪校のランナーより少し遅れて、三位で二区に襷を繋いだ。先輩は満足そうに「やったぜ!」と言って帰ってきた。明らかに去年とはムードも展開も違った。皆が「これなら行ける!」と盛り上がった。
戦前の予想では、川上先輩が四位以内では帰ってくるだろうとなっていた。そして二区、三区で順位を少し落とし、四区でキープ、五区が終わる頃には八位以内で納まるだろうと考えていた。岡谷に八位で回せば、十位前後で僕には回ってくる。たとえ十一位で回ってきても、前との差が三十秒以内なら大丈夫と思っていた。それだけ僕は調子が良かった。十位前後のチームのアンカーには負ける気がしなかった。
二区のランナーは二つ順位を落とし、三区でも遅れ、四区のランナーに回った時は七位になっていた。四区のランナーは同級生のエースだった。ここで順位を上げたかったが、彼は逆に一つ落として八位で帰ってきた。僕はその時、アップをしながら、(何やってるんだよ!せっかく先輩が作ってくれた貯金を使いやがって)と苛立っていた。五区でも順位を落とし、九位で岡谷に回った。僕は待機場所で岡谷が早く帰ってくるのを祈った。(頼む、岡谷。意地を見せてくれ!)
岡谷はなかなか帰ってこなかった。九番目の学校が通過し、十番目がやってきてもまだ岡谷は見えなかった。目の前を十位の学校がスタートする、グリーンのユニフォームだった。(こいつを抜かないと)僕は自分を鼓舞させた。すると、やっと十一番目に岡谷が見えた。岡谷はフラフラになっていた。僕は大声で叫んだ。
「岡谷!ラスト!」
岡谷から襷を貰った時は前のランナーが通過して、一分五十秒経過していた。戦前に想定していた三十秒以内という枠を遥かに超えていた。スタートしても前のランナーは見えなかった。明らかに自分のペースを無視して、ピッチを上げた。追いつけば、何とかなると思ったからだ。追いつきさえすれば、ラスト勝負で絶対に勝てる、僕に残された作戦はそれしか無かった。僕はひたすら前を追った。中間点を過ぎても、前のランナーは見えなかった。それでも必死に見えない相手を追った。全身を使い、これまでのどの試合よりも全力で走っている感覚だった。光も何もない闇の中を、ひたすら前を向いて走るのは苦しかった。相手が見えれば、違ったかもしれない。見えない相手と戦うほど、しんどい戦いは無い。何度も心が折れそうになった。でも、川上先輩が、岡谷が、皆が待っているゴールを目指し、腕を振った。最後の直線に入った時、初めてグリーンのユニフォームのランナーが目に入った。「あいつか」僕は、更に差を詰めようとラストスパートした。すると前のランナーがゴールするのが見えた。僕は二十秒遅れてゴールした。
十一位だった。一つだけ順位が足りなかった。中途半端な結果だった。ゴールした瞬間、僕はうなだれた。一度路面に寝転がると、立てなかった。もう何をする力も残っていなかった。悔しかった。レース前に岡谷に「絶対に抜いて来るから」と言った自分は他人のようだった。僕は川上先輩の顔を見れなかった。先輩の気持ちを考えると、何とも言えないくらい落胆した。
試合の後、ミーティングになった。顧問の先生は僕らを恫喝した。
「なんだ、今日のレースは?皆が全力を出し切ったのか?俺からすると、ちゃんと自分のレースをしたのは川上と福田だけじゃないか。いいか、県大会には進めなかったが、まだまだ試合はある。こんな事が二度とないようにしてくれ!」
こんなに怒った先生を見るのは初めてだった。いつも優しい先生が、誰に叱っていたのかは、わからなかった。でも、凄く怒っていた。(先生、すいません)僕は声には出さず、謝った。帰り支度を始めると、川上先輩が近寄ってきた。
「福田、ナイスランだったな。ありがとうな」
僕の涙腺は一気に崩壊した。それまでパンパンに張っていた風船が、一瞬で裂けたようだった。
「先輩、本当にすいませんでした。県大会行きたかったです……」
「インターハイまで頑張れよ」
それが、川上先輩と交わした最後の会話だった。
あくる日、僕たちはいつも通り授業終了後、部室に入っていた。前日のレース後は余りにも辛くて、悔しくて他の部員とはほとんど話さなかった。ベンチに腰掛け、着替えようかどうか考えていると、岡谷が現れた。彼は、いつになく暗かった。前日自分のせいで負けた、そんな雰囲気を醸し出していた。確かに岡谷はブレーキにはなった。だが、岡谷以外のランナーも明らかに自分の力を出していなかった。
「岡谷のせいじゃないよ。皆の責任だよ」
僕は彼の肩に手をやり、声を掛けた。すると、岡谷は小さな声で呟いた。
「すまん……」
「さあ、練習しようぜ!」
「うん」
僕たちはいつものように練習を始めた。
(昨日には戻れないんだ。戻りたいよ、俺だってさ。でも過ぎた時間は帰ってこないんだよ。だったら、前を向くしかないじゃないか。頑張ろう、岡谷!)
僕は自分が七区を選んだ事、岡谷を自分の前にエントリーした事、色々後悔した。だが、前日に先生から言われた通り、最後のインターハイまではまだまだ試合が残されている。むしろ、駅伝の地区別予選こそ数ある試合の一つに過ぎない。自分の頭の中を切り替えようと僕は努めた。
僕たちは三年生になっていた。駅伝が終わった後も、僕と岡谷は毎日練習を繰り返した。僕はずぶの素人から始まり、練習を積み重ね、試合でも時には入賞したり
するレベルにはなっていた。川上先輩のように近畿大会に出るレベルには到底及ばなかったが、入部した当初と比べると陸上競技の選手らしくはなった。岡谷はと言うと、調子を崩して以降ずっとスランプのままだった。そして僕たちは七月のインターハイ予選を迎えて、結局地区別予選で二人とも敗退をした。結局、駅伝以降は完全燃焼する事なく、中途半端に競技生活を引退した。
高校を卒業すると、僕たちは大学に進学したが、見事にバラバラになった。僕は大阪の私立大学に進学し、岡谷は地方の国立大学に進学した。他の部員達も東京の私立大学や近畿の国公立大学に進学し、皆がそれぞれ新しい生活に向かっていった。大学生になった僕は、時々、岡谷と連絡を取り合った。高校を卒業しても彼は親友だったし、連絡を絶とうとは思わなかった。
僕が二十歳になった年のある日、一年ぶりに岡谷と会った。僕は自動車の運転免許をとり、彼とドライブをしていた。すると、急に母親から体調が悪くなったとのメールが着た。僕は岡谷と夕食を摂ろうと思っていたので、「すぐに戻ってくる」と彼に告げ、一旦自宅付近に車を停めた。自宅に入ると、母親は暗い表情で僕に語り始めた。
「幸真、かあさんね、癌なんだってさ。だから手術しないといけないんだって」
「え?嘘だろ。そんなあ……」
僕は、突然の母親の告白にどうして良いかわからなくなった。僕の母はその時四十四歳だった。そんな若いのに死んでしまうのか、と思うと、崖の上から突き落とされた気分だった。絶望と恐怖を感じた僕は、泣いてしまった。僕は母が死ぬなんて想像出来なかった。二十歳になっていたものの、まだまだ自分が子供だと感じた。話を全て聞くと、初期の胃癌だと診察されたようだった。だから手術をすると治るものだと教えてくれた。母は病院に勤務していた為、運よく発見されたらしい。そう言われると、そんな気がした。
母との話があまりに衝撃的だった為、気付くと一時間半ほど経過していた。岡谷を車に残していた事を思い出し、戻ると彼はいなかった。何処かに行ったのかなと探していると、車の中に一枚の紙が置いてあるのに気づいた。それは、岡谷からの手紙だった。
《今日はおかあさんの側にいてあげてください。また会おうな》
僕は手紙を見て、少し手を震わせながら感動した。岡谷の家は僕の自宅からは車なら四十分くらいで行けるのに、電車になると二時間以上はかかる。しかも夜遅かったので、最終電車に乗れたかどうかもわからない。それにも関わらず、岡谷はこんな手紙を残してくれた。僕は自宅に戻り、母にその旨を告げた。母は、その時、僕にこう言った。
「あんた、本当に良い友達がいるんだね。あんたを明響に行かせて本当に良かったよ。その子とは絶対にずっと友達でいてね。その子が辛いとき、幸真が助けてあげるんだよ」
「ああ、わかってるよ」
それから一年経って、僕たちは会った。お互い大学三回生になり、就職活動で忙しくなる前に一度会っておこう、となったのだった。一年ぶりの再会だったが、岡谷は変わってなかった。お互いサークルやアルバイトの話をして、近況を語り合った。僕は、一年前の事を思い出し、彼に問うた。
「なあ、岡谷。そういえば、去年のあの時どうやって帰ったんだ?」
「ああ、どうやって帰ったかな。忘れたよ」
「そうか、ありがとうな」
岡谷は優しかった。彼はいつも恩を着せるような事は一切、口にしなかった。そんな彼には、何でも話せる自分がいた。他の陸上競技部の人間とは連絡は取っていたが、一定のインターバルで会っていたのは岡谷だけだった。僕は、岡谷とはずっと親友でいるんだろうなあと思った。そして、もし彼に何か困った事があったら、いつでも助けようと胸に抱いていた。
僕は大学を卒業すると、地元のOA機器をメインに扱う商社に入社した。岡谷は国内でも最大手の鉄鋼業の企業に入社した。彼は最初の数年間日本で過ごしたが、三年目以降は海外勤務となった。インドネシア、中国、台湾、マレーシアなど転々とした。だが僕が社会人になって七年目に結婚する時は、海外から結婚式に駆けつけてくれた。そして結婚して二年後に僕にも子供ができた。その二年後にも子供が生まれた。二人とも男の子で、すくすくと育ってくれた。
僕は、三十七歳になった。子供は六歳と四歳になっていた。会社でも立場は中堅になり、営業担当となって十年目を迎えていた。仕事は忙しくなり、毎日帰宅すると十一時を過ぎていた。担当する顧客は社内でも一番多く、幹部候補生となっていた。担当企業への訪問を重ねる日々を送りながら、一生懸命になって仕事をこなした。仕事一本で頑張ってきた数年によって、家庭にはあまり顧みず、妻とは離婚の危機を迎えていた。妻に対しては今更、恋愛感情など無かったが、子供がいる以上簡単に離婚という訳にはいかなかった。僕は悩んでいた。仕事を取るか、家庭を取るのか、正解など無いだろうが。
ある日、食品製造を行う企業に訪問すると、同社の社長と面談する運びとなった。社長は一代でその企業を起こし、年商二十億円規模に成長させた敏腕経営者だった。以前から尊敬していた社長に対し、悩んでいた僕は仕事や家庭について色々と質問をしていた。すると、社長は過去を振り返るように切り出した。
「福田君、人生は全て二者択一なんだよ。いつも道が二つに分かれていて、どちらに進むかで決まる。仮に右に進んでも、その先でまた三叉路に突き当たる。正しいかどうかは、どちらに進んでも解らないよ。僕だって何回も間違って進んだもんだよ。ただね、人間死んだとしても十年も経てば、皆きっと忘れるよ。そんなもんだ。どんな事だって、いずれ忘れるんだよ、人ってさ。だから、いつの日でも自分が進みたい道を歩めば良いんだよ」
僕は社長の言葉に聞き入っていた。僕よりも数段人生経験が豊富な社長の言葉は自然と耳に入ってきた。社長には離婚経験もあり、今の会社を起こす前に一度事業に失敗をしているせいか、話には凄く説得力があった。だが、僕は心の中で一つだけ反論していた。
(社長、いずれ忘れる訳にはいかない事だって人にはあるよ。僕は、二十年経った今でも忘れられない事があるんだ。それは、自分がそれまで中途半端な人生を送ってきた事を教えてくれた。だから、僕は何事も常に一生懸命やらなくてはいけないって思えるようになったんだ。どんな些細な事でもね。そうやって生きてきて二十年経つけど、それが正解かどうかはわからない。でも、何に対しても後悔はしないようになった。これからもきっと忘れない、あの時の事を。岡谷、俺は頑張ってるよ。お前はどうだ?また会って話そうぜ)
いずれ忘れるんだよ 岡本次郎 @yossy1211
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