「お花畑」






 南向きの窓から斜めに差し込む朝日が眩い。

『おはよ』

『はよー』

 クラスに満ちる朝の挨拶はいずれもよく似て、しかしそれぞれ異なる調子と声で。

 そんな中にあって、明らかに異色な挨拶がひとつ。

「撫子ちゃん撫子ちゃん、今日のお花畑には何が咲いてんの?」

「うぅん……パンジーかな」

 教室に入るなりの問いかけだというのに、屈託なく撫子は答えた。

「パンジーはね、種類がたくさんあるんだよ。白とか赤とか紫とか、とても綺麗なんだけど……種や根茎には毒が含まれてるから気をつけてね」

 自分の机に鞄を置くと、右手の人差し指を立て、えっへんとでも言わんばかりの仕種。どうにも微笑ましい。

 元々は嘲笑のはずだった。頭がお花畑、という皮肉のはずだったのだが、まるでそんなことは知らぬとばかりに朗らかな答えを最初から返して来た。

 肩透かしを食わせられながら、それでも悪意を頑張って維持しようとしたのだ。しかし何を言ってもまるで手応えはなく、撫子は世の全てが善意に満ち溢れていると信じているかの如き屈託のなさで、悪意など結局一月も保たずに雲散霧消したのだ。

 これが三十も四十も歳を食いながら練り上げられたものであったならば充分以上に対抗し得たのかもしれない。だが、その半分にも満たないのではとても勝てたものではなかったのである。

 今となってはもう、今日もいつも通りであることを嬉しく思うばかりで。

「そうなんや。そうそう、今日って放課後空いてる?」

 パンジーのことは気にしない。ただの挨拶である。

「今日は何もないけど、どうしたの?」

「んー、みんなで遊びに行こかって計画しとってな」

「あ、いいね。そんなにたくさん時間はないかもしれないけど」

 満面の笑みで撫子は頷く。今までも、用事のあるとき以外に断ったことはない。

 『みんな』というのが毎回異なる面子であっても気にしない。知らぬ相手がいてもその場で自己紹介を聞いて知り合いになるのだ。

 撫子は知らぬことだが、こういったときの『みんな』の正体は、ファンクラブの会員である。

 ファンクラブとは文字通り、何らかの対象のファンが形成する集団だ。多くは組織化され、会誌の発行やイベントにおける会員への優遇などが行われる。

 しかし必ずしもそればかりがファンクラブではない。

 誰かのファンだという人間が三人も集まってファンクラブを名乗ったなら、たとえ何の特典もなかろうとも、それはファンクラブに違いないのだ。

 だから、一介の学生にファンクラブが存在するという現象はあり得ないことでもないのである。

「それで、どこに行くの?」

「んー……ま、無難なとこでカラオケとか? もう昼までやから結構時間あるし」

「そだねー。あたしも六時くらいまでが限度だし、ちょうどいいかな」

「はよ夏休み来ぇへんかなー、遊び倒したるのに」

 椅子に背を預け、手をうちわに見立ててあおぐ。

 七月、それも期末考査の結果も出終わった時期である。朝からもう既に暑くて仕方ない。

「もうあと三日だよ」

 少し困ったような、それでも笑顔で撫子は言う。

 そのやわらかそうな肌もうっすらと汗ばんでいた。まったく日に焼けていないわけでこそないものの、それでもクラスの中では飛びぬけて白い。

 不思議な子だと思う。

 小学生の頃からいたはずだが、こちらの言葉にまったく染まらない。家がどこにあるのかもよく分からない。なんとも無邪気で陽気で天然だが、学校の成績はいい。運動能力も高い。特に長距離走などほとんど疲れた様子も見せない。お姉さんが六人いて、少なくとも一つ上の三年にいる人は度肝を抜かれるほどの美少女ぶりを誇る。

 列挙したならば、数十人分もの不思議を一人で持っていると言っても過言ではあるまい。

「ん? どうしたの?」

 撫子が小首をかしげる。

 色々ありそうなのにもかかわらずのこの笑顔こそ、一番の不思議かもしれない。

「や、なんでもない」

 誤魔化し、窓の外に目をやる。

 ここは三階だ。眼下に映る中庭は手入れが足りていないのか雑草が蔓延り、不必要に緑が多い。

 そんな中、黄金の顔を上げる向日葵が鮮やかだった。中央の小道に沿って並び、花を北東へと向けている。

「なんちゅうか、ヒマワリは『夏』感凄いよなあ」

 特に意味もない、同意を得るだけの言葉。

 しかし返事はすぐには来なかった。

 撫子は戸惑ったかのように向日葵をじっと見つめていたのだ。

「どしたん?」

「……花の向きがおかしい」

「ん? ああ……お日さん今南東やしなあ」

 常に向日葵は太陽の方へ向いているものだ、という認識で頷いたのだが、撫子は小さくかぶりを振った。

「向日葵が首を振るのはまだそんなに生長してないときだけなんだ。あの子たちはもう育ちきってるのに」

「ふーん」

 あまり興味はなかった。三日後には始まるはずの夏休みをどう過ごすかの方が余程重要だ。

 だから撫子が何をそんなに気にしているのか分からなかったし、どうせすぐに忘れるだろうと思った。既に記憶の隅へと押しやり、これ以上向日葵と関わることもなかったのだ。

 そして撫子も理由を突き詰めることは、今はしなかった。

 予鈴が鳴る。担任教師が廊下を歩いてくる影が、そちら側のガラス窓に映っていた。








 陽は南天を過ぎり西へと向かい、空を茜に染め落としながら山向こう、海の果てへ消えてゆく。

 友人との遊びを楽しみ、帰途に就く撫子はやがて思案げに足を止めていた。緑の水田を吹き抜ける風は生温くあるが、汗ばんだ頬には涼しい。

 しかし心地好さのうちにもわだかまるものがあった。やはり向日葵が気になるのだ。

 遅くなれない、と友人に言った言葉は嘘ではないものの、このまま帰るのは落ち着かない。だから家には式神で連絡を送り、田へと向き合う。

 姉妹は、元々は田の神、稲の神を祀る血統だ。だから巫女としての資質が最も低い千草でさえ田には親しむ。そして、六人の中で紅葉に次いで資質が高いのが撫子である。だから招くこともできる。

 淡路の田を統べるのは足穂比古命タルホヒコノミコト。しかし今回は違う。

 見つめる先は、呼びかける先は、古びた案山子である。

 長姉が大蛇のために集めていた力の一つ、精霊や妖、人の成れの果ての中で唯一の、真正の神霊。彼の神にとって案山子こそは何にも勝る神籬ひもろぎだ。

 畦より言祝ぐ声に応え、ほどなくして其処に顕れる。

久延毘古クエビコ様!」

 まるで大好きな祖父に会ったときのような甘えた声で、撫子が満面の笑みを浮かべた。

『撫子姫かい。何か用かね』

 案山子の姿は変わらない。空気が変わったりもしない。けれど、ゆっくりとした穏やかな声が響く。

 草臥れた、朽ちかけた姿で田に在って世界を見続ける知恵の神は、撫子の問いをも既に知っている。

『いや、答えるわけにはゆかぬけれどもの』

「どうして?」

 きょとんと無垢に小首をかしげる撫子へ、返って来るのはやはりゆったりとした笑い声だ。

『知らぬでよい。知らぬを一度ひとたび失えば、再び得ること難きゆえ』

「よく分からないよ」

『おまえは姫たちの中で一等幼い。知識は多くとも、芯を未だ持たぬ。おまえの善意を無慈悲に焼き尽くすものはあるのだよ』

「そのくらい知ってるもん」

 ぷくっと頬を膨らませる様も愛らしく、撫子はねだるように上目遣いに見上げるが、案山子は穏やかに笑うだけだ。

『今は忘れておくことだ。やがて自然じねんにおまえの知るところともなる』

「でも……」

『それよりも、おまえの知らぬ花の話をしてやろう』

「むー、誤魔化されないもん……」

 そうは言ったものの、花となれば撫子の興味はやがてそちらへと向いてしまう。

 案山子が語ったのは失われてしまった花の物語だった。高い高い山に咲く真紅のその花は、今となっては記録にすら残っていない。

 生まれ、長じ、咲き、一帯を覆いながらもついには潰えてしまった儚い命である。その花は特別な存在ではない。栄枯盛衰に呑み込まれた一つだ。

 語り口は優しくも淡々と、起こりから終わりへと至る。

 久延毘古に何らかの意図があったのかどうかは判らない。撫子の言った通り誤魔化しただけなのか、あるいは伝えたいことがあったのか。

 いずれにせよ、話が終わるとともに案山子から神の気配は薄れた。

「むー……」

 夜空を見上げ、撫子はもう一度向日葵について考える。

 向日葵のみならず、植物には多かれ少なかれ太陽の方を向く性質を持つものが多い。マリーゴールドやダリアなどは有名だろうか。

 その性質は特別なものではなく、絶対的なものでもない。向日葵は大抵の場合において東か西を向いて固定化されるというだけで、他所を向いている花もある。

 それが一糸の乱れもなく北東に顔を向けていることこそが奇妙なのだ。

 しかし向日葵にならば起こりうるのかもしれない。物質的にではなく霊的に引き寄せられている。

「そう、向日葵と……あとは金盞花きんせんかもそう」

 いっそあの花々の精が問いかけに答えられるほどの自我を持っていたならば、直接尋ねるだけで済んだのだろう。しかし漠然とした意図のようなものを読み取れる程度で、判ったのは何かを畏れているということだけだった。

 もっとも、そこから仮説を立てること自体は容易かった。

 北東に、太陽があるのだ。

 知りたいのは、それが具体的に何を意味するのか。何かよくないことに繋がっていたりはしないのか。穏やかで平和な暮らしを愛する撫子としては不安だった。

 まだ知らなくていいと久延毘古が言うのであれば本当にまだ問題ではないのだろうが、やはりすっきりとはしない。

 見上げれば満天の星が瞬いている。並びは大蛇の世界のものとは異なる。大蛇の世界は星もまた大蛇のものなのだ。

 守られているのだと撫子は思った。少なくとも自分は守られているのだと。

 忸怩たる思いが浮かぶわけではない。しかし、望む平和の中で暮らしているからこそいつかまた奪われることになりはしないかと不安ではあった。

 しかし結局、撫子は納得してしまう。

 自分の花畑から出る勇気は未だ持たなかった。





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此の国の神語 八枝 @nefkessonn

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