多分平穏な日々(一)

「傘」






 雨が降っている。

 ぬるま湯のような雫が大気を煙らせ、アスファルトを打っては流れてゆく。

 梅雨であるからには連日の光景だ。朝方には晴れていたとしても、傘を忘れたならば迂闊であるとしか言いようがあるまい。

「ふん、生意気」

 しかし大学の講義室を出た杏は、悪いのは天気の方であると言わんばかりに鼻を鳴らした。

 白のブラウスに臙脂のスカート、首周りを彩る真紅のタイはお気に入りの服装だ。流行など知ったことではない。

 化粧気のない涼やかな美貌に颯爽とした身のこなしで歩むその姿は、小細工を要さずして有無を言わせぬ魅力を男女問わず叩き込んでいた。

 近付く者はない。知らぬならばその凛とした容姿と立ち居振る舞いに気後れし、知っているならば三才児並みと評される傍若無人ぶりに巻き込まれることを恐れるのだ。

 己の扱いを杏は気に留めない。自ら有象無象であろうとする者を有象無象と扱うことに何の躊躇もない。孤独も孤高も望んではいないが、そうであってもまったく構わない。

 だから、かける声に遠慮はなかった。

「あんた、ご主人様は?」

 一階玄関。周囲に人の姿はない。錆の浮いた古い傘立てに破れ傘ひとつ、斜めに突き立てられているだけであった。

 返事はない。雨音と遠くの話し声が耳朶を打つ。

 杏は眼差しを嗜虐的に細めた。

「応えないなんて、いい度胸じゃない」

 待つこと三呼吸。

 溜め息が聞こえた。

「……あのなあ姐さん……どこの誰だか知らんが、周りに人がいねえくらいで喋らせんでくれよ。別に怪談の主にゃなりたくねえんだからよう」

 人ではない。破れ傘に目が一つ、ぎょろりと開いていた。

 時経た器物に意思の宿った、付喪神つくもがみである。あるいは九十九神つくもがみとも書くように、九十九の齢を重ねて成るとされるが、必ずしもそればかりとは限らない。

 唐傘であれば、唐傘お化けと呼んでもよかったろうが。

「聞かれてないことくらい確認してるわ。この杏さんを舐めないことね」

 薄い胸をふふんと張る杏。

 傘はまたも溜め息めいた響きで大きな一つ眼を瞬かせた。

「こりゃあ強引な御仁だ。それで姐さん、おいらに何の用なんだ?」

「だからさっき訊いたじゃない、あんたのご主人様はどうしたのかって」

 愛情を受けたにせよ放置されたにせよ、付喪神には元の持ち主がいる。成るために人間を必要とするわけではないが、成り易いのは強く想念を受けたときだ。そして道具を使うのは人である。

「十年も前に事故で死んださあ」

「ふぅん、よく十年も捨てられなかったわね、あんた」

 傘の口調は過去の事実を語るだけのもの。頷く杏にしても同情するでなく。

「というか、十年も何やってんの? もしかして動けないの?」

「動けんってほどじゃあねえんだけどよ」

 なんとも面倒くさいことになったと言わんばかりの投げ遣りさで、傘はぎょろりと一つ眼を動かす。

「別に行きたいとこがあるわけでもねえしよう、ここでのんびり世の中眺めつつ悠々自適よ」

「ならよさそうね」

 杏はその薄い桜色のくちびるを綻ばせた。

「あんた、あたしの傘になりなさい。今日忘れて来たから」

「……姐さん、正直は美徳だけどよう、間に合わせとか言われて喜んで付いて行く奴がどこの世にいるんだ」

 傘の言うことは至極もっともである。

 ものを頼むときは、お前だからこそいいのだと嘘でも言うものだ。世辞と分かっていても気分の良くなることは多い。

 しかし杏は一筋縄ではいかなかった。

「嘘言って信じちゃったら可哀想じゃない」

「おいらはそんな初心うぶじゃあねえよ」

「まあとにかく暇なんでしょ? 来なさいって」

 無造作に傘を抜きとると、雨の下に出ながらそのまま開いてしまった。

 驚いたのは傘である。いつ引っこ抜かれていつ差されてしまったのか、まったく覚えがなかった。それほど自然で堂に入った振る舞いだったのだ。

「あ、目は閉じとくのよ? あと、気合い入れて綺麗になって」

「いやはや、注文の多い姐さんだ」

 一息のうちに破れ傘が品の良い薄桃色の逸品に変化し、灰色に煙る世界に大輪の花を咲かせる。

 ただ、可愛らしくはない。むしろ取手のつくりなどは無骨で、八方に張り出した骨も長い。色を除けば男ものである。

 しかし杏は機嫌よさげに笑った。

「やるじゃない。これからも愛用してあげる」

「嬉しくもねえんだがねえ」

 大学を出て、煉瓦の敷き詰められた遊歩道を行く。

 傍らを流れる川は雨粒に無数の波紋を広げ、水底の泥を巻き上げながらやや嵩を増していた。

 市中を貫きながら幾筋にも別れ、あるいは合流するこの川は太陽の下で見たならば美しい。数多の橋や住宅、ビルとともに作り出される景色は味わい深いものだ。

 けれども、雨に沈む今はどこか不吉なものを孕んでいた。

「これ、暴れ河の支流なんだっけ?」

「暴れ河っつってもおいらが生まれるより遥かに前の話だろうけどな」

 ゆるゆるりと頭上で揺られながら、傘。連れて来られたのは不本意であっても特に逆らう気はなさそうだった。

「知りたいなら年食ってる奴にでも訊きゃあいいさ。その分じゃあ、妖の知り合いも多そうだしよう」

「んー……そこまでして知りたいわけじゃないわね」

 杏の歩調は雨の中でも緩まない。綺麗に伸びた背筋で、水面みなもを踏むようにして歩む。

 国道を越え、小さな橋を渡り、やがて城山公園へ。

 城跡を利用して造られたこの空間は、さほど広くはないがよく手入れの行き届いた憩いの場である。

 春には公園中を染め上げる桜も濃緑の葉から雫を滴らせ、砂利道には幾つもの水たまりが形作られていた。

 砂利をほとんど鳴らすことなく、とん、と。臙脂のスカートはふわりと。行く手を遮る水たまりを、杏は速度も変えぬまま軽やかに跳び越えてゆく。

 雨勢は決して弱くないというのに、裾もほとんど濡らしていない。

「もしかして割と雨は好きかい、姐さん」

「結局は程度の問題だけど。大雑把に言えば嫌いじゃないわ」

 薄めのくちびるに浮かぶ笑みはやわらかなもの。まなざしは少しだけ過去へと向けられて、帰って来る。

「……冷たい雨が降っていた。それはもう昔のことだもの」

 その言葉の意味は傘には分からない。

 杏もそれ以上説明することなく、一方で歩みは止まらない。

 そして、興味も止まらない。

「お」

 今度は道を外れ、石垣の方へふらふらと近づいて行った。

 少し手入れが足りないか、あるいはそれも風情として残されているのか、狭間から緑の葉と幼いつぼみとが顔を覗かせ、雨露を滴らせている。花開くのは今しばし先のことだろう。

 そしてその隣では小さな蛙が喉を膨らませていた。

「あんたが経立ふつたちに成るのにはどのくらいかかるかしらね?」

「姐さん、普通に考えりゃ、成る前に天寿を全うするだろ」

 経立とは、広義には年を経て怪異を為すようになった動物の総称だ。何らかの条件を満たさない限りは、傘の言う通りそうそう成るものでもない。

 しかし杏は薄く笑った。

「このあたりは成り易いんじゃないの? 夜行さんの本拠よね?」

「だからって千に一も成りゃあしねえだろうよ」

「詰まんないの」

 そしてまた、歩き出す。

 歩み出しながら、声は途切れない。

「そういやさ、あんた武器にはなれる?」

「物騒な話だ。ま、姐さんが切った張ったする人間なのは予想外でもないが」

 傘は動じない。ただ、少しばかり憂鬱な響きを含んではいた。

「悪いけどさあ、好きじゃあないねえ」

「ふん、生意気」

 元々その気は薄かったのだろう。杏はそう鼻を鳴らしただけで、無理強いはしなかった。

「ま、いいわ。そろそろ帰りましょうか」

 涼やかな横顔、その視線の向かう先は、あろうことか城跡に半分食い込んでいる小さな山への道だ。

 当然、頂上で行き止まりである。あるいは道すらない斜面を軽々と駆け降りることができるのなら、近道になるのかもしれないが。

「おいおい、どこへ帰る気なんだよう?」

「あたしの家なら淡路だけど」

「海渡った向こうじゃねえか!?」

「毎日毎日、遠い自宅から通学してるの。杏さんもなかなか素敵に学生してると思わない?」

「おいらが訊きたいのはなんでそれで山に登るんだってことだよ!」

「うるさいわねえ……」

 傘がわめくのも無理はないところなのだが、杏はうんざりとした顔でやれやれと頭を振った。

 そして、にんまりと笑ったのである。

「この杏さんを舐めないことね。普通ならめったに味わえないはずの面白い体験させたげる」




 薄桃色の大きな傘が木々の向こうへ消えてゆく。

 雨に打たれ撓う緑の葉、張り出した枝の隙間からちらちらと覗いていたのも束の間のこと。やがて本当に見えなくなる。

 人の姿はもうない。温い雨滴に面を上げ、蛙が喉を膨らませている。

 時とともに夜へと向かう雲はますます重く、何もかもを遮ろうとするかのように垂れこめていた。




 夏が来る。




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