「蓮華」






 眩いほどの緑が眼下に広がっている。

 涼やかな風の足跡は若草の細波として残り、やがて晶の立つ蓮華の丘も駆け抜けて行った。

 ふわりと広がる草原の香。燦々と降り注ぐ日差しが肌を焼く。目を細めて空を仰げば、果てのない青さに落ちてゆきそうだ。

 言われたことを信じるならば、此処は八岐大蛇の世界。現世に劣るものなど何もないその広さと豊かさ、細やかさに戦慄する。

 一方で胸の内には再び恐怖が湧き出してならない。

 それは、自分がこの世界の主にとって敵となる側の存在だからなのだろうか、それとも。

「いいえ、この世界は何ものであろうと拒みはいたしませんわ」

 静かな、けれど艶やかな声。

 すらりとした長身に白と赤の巫女装束を纏い、白皙の美貌が品良く微笑んでいる。

「あなた様の恐れは、死に対してのものにございましょう」

 見詰めて来る瞳は深い緋色。

 この瞳を、晶の魂は知っている。

 形の上では逃げ延びたといえ、事実上日本武尊を殺したのは、これだ。傲慢なまでに最強を自負する魂が、彼女だけは恐れてならない。

「……<緋瞳の戦巫女>」

 あの頃、既にそう呼ばれていた。

「何と、お呼びいたしましょう。あなた様はどなたにございましょうか」

 問いかけもやわらかに、氷雨は小首を傾げる。

 その意味は晶にも分かる。

 そして己の由来を知った上で迷いなく返すことが出来た。

「……僕は立花晶だ」

「然様にございますか」

 長い、ぬばたまの髪がさらりと揺れる。もう一度優しく微笑むと、氷雨はたおやかに深々と柳腰を折った。

「では立花晶様。無茶をする妹をお助けいただき、篤く御礼申し上げますわ」

「え、いや……」

 戸惑い、言葉に詰まる。

 照れたのだ。言われたことに対してばかりではなく、ただ自然に振る舞うだけの姿態に匂い立つ艶、未だ残る恐れを忘れさせるほどの巧まざる甘い毒に中てられた。

「僕は別に……」

 慌てて取り繕おうとするも、続く言葉が出ない。

 顔が赤いのは長く日に当たっていたからだと思いたかった。

 仕方がないので頭を振って無理矢理振り払う。

 滑稽にも映る仕種であったはずだが、頭を上げた氷雨は静かに目を閉じ、くちびるに品の良い弧を描いたまま告げた。

「どうやら、もうしばらくもすれば若葉が参るよう。どうか相手をしてやってくださいませ。わたくしはこれにて失礼いたしましょう」

 ごう、と今一度、風が吹き抜ける。

 一瞬だった。

 視線は外さなかったのに、笑みを含んだような声も耳に残っているのに、今までが幻であったかのようにその姿は消え去っていた。

「あ……」

 尋ねるべきことは、思い返せば幾つもあった。しかしもう遅い。

 晶は溜め息をつき、頭に手をやった。

 丘は蓮華の園。ほのかな香りが鼻腔をくすぐる。

「……困ったな」

 ああ言われてしまっては、この場を離れられない。元よりこれ以上歩き回る予定のあったわけではないといえ、意識してしまうと落ち着かない。

 所在なげにしゃがみ込み、蓮華の花を一輪摘む。

「いや、ほんとに……」

 誰もいないというのに呟いてしまった自分に気付き、小さく声を上げて笑っていた。






「ったく、ようやく見つけたぜ」

 その快活な声がするまで、五分もかからなかっただろう。

 動き易いとは到底思えない巫女装束をなびかせ、横合いから恐ろしい速度で駆けて来た若葉が目の前で急停止した。

 両膝を曲げて勢いをしなやかに吸収、振り向く仕種にも無理はない。

 調子は万全のようだった。あの酷い有り様だった右腕さえも綺麗なものだ。

 一昨日の夜、きっと自分もこんな風に治してくれていたのだろう。

「……元気そうだな」

 晶はいっそ呆れたように声をかけた。

 負傷がもたらすものは機能不全ばかりではない。痛みや出血がもたらす気力と体力の低下も極めて重要な要素だ。術法で傷を癒したとしても体力まで戻るわけではないはずなのだが。

「体力なら自信あるんだ」

 実にいい笑顔でふんぞり返る。

「あ、でもちょっと疲れた。無茶しすぎだって姉様に怒られた」

「……大怪我より説教の方が堪えるのか、君は」

「姉様の説教、すっげえ怖いんだぞ? 笑顔のまんますっげえ丁寧だからなー」

 何とも分かり難い台詞だが、言いたいことは察せないでもない。

「まあ、自業自得だな。あれはフォローしようもない」

「なんだよ、身を捨てたら背が高いとかそんな感じの言葉あるだろ?」

「……身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、と言いたいんだろうか」

 苦笑が漏れるのを抑えることは出来なかった。この様子では、さぞかし姉妹は苦労しているに違いない。

 若葉は少しばかり膨れ、それから真顔になった。駆けて来たからであろう、やや乱れた髪を整えるでもなく見詰めて来る様は不器用なまでに真っ直ぐで、なぜか胸を締め付ける。

「お前、これからどうすんだ?」

「とりあえず、急いで帰る。大事だからな、報告をしないと」

 手にしたままの蓮華をいじりながら、晶は頭の痛くなりそうな予定を反芻する。

 茨木童子が現れた、というだけでは済まされない。酒呑童子一党が丸ごと復帰した、少なくとも近いうちに活動を始めると見ていいだろう。

 仮にも三大悪妖怪と呼ばれたうちのひとつだ。酒呑童子の力量は、小なりとはいえ神霊にも匹敵する。さらにその他の鬼たちもいるというなら、天地院の大半の力を傾けなければなるまい。

 それから、言われた通り壇ノ浦にも行ってみようと思っていた。

 源平合戦決着の海。安徳帝とともに沈んだ三種の神器のうち、草薙剣ならばとうの昔に捕捉はされていた。海の底とはいえ、辿り着けないわけでもない。ただ、誰も触れられなかったのだ。

 目にするだけならば問題はない。しかし手を伸ばせば、あるいは網や綱をかけようとすれば弾かれ、決して触れることを許さない。

 茨木童子の口にしたことが正しいとすれば今の自分になら扱えるようになっているはずである。だが、そもそも晶は今の自分というものがよく分かっていない。無論のこと心持ちは少し変化したものの、自覚としてはそれだけなのである。

 正直な思いとしては、扱えようが拒まれようがどちらでも構わない。手に入れば確かな戦力になるだろう。それと同時に罠である可能性は残されているし厄介事の種にもなる。拒まれたならば、下手をすれば死ぬかもしれないが。

 理解はしている。本当に頭が痛いのは手に入れてからだ。

 権力闘争に明け暮れる天地院の上層が、草薙剣などという神器を見過ごすわけがない。本当に自分だけが扱えるのなら、策謀の渦に巻き込まれることは避けられないだろう。

 晶は他者を信じないだけで、腹の探り合いだのが得意なわけではない。どう捌いたものやらだ。

 小さく息をつく。

 信じない。

 それが、意識するまでもない自然な思いだったはずなのだが。

「そっか。ま、しゃあねえな。よく分かんねえけど頑張れよ」

 そう言って笑うこの少女だけは信じたい、むしろ騙されるなら自分の頭があまりにも悪過ぎただけだろうと、そう思う。

「決戦のときには呼んでくれよ、助太刀に行くからな!」

「……足手まといにならないくらいになってたらな」

「言ってろ、お前くらいすぐに越えてやる」

 本当に、どうしてこうも怖じることを知らないのだろう。今の自分、明日の自分を信じてゆけるのだろう。

 思わず尋ねていた。

「怖くはないのか? 静かに暮らしていたいと思ったりはしないのか?」

「どんなもんだって、怒った姉様ほど怖くはねえよ」

 若葉の答えは相変わらず単純で快活だった。

 しかし、決して浅いものでもなかった。

「千草姉ぇが話したろ? ほんとなら俺たち六人はとっくの昔に死んでたはずだったんだ。だから今、凄く楽しいんだよ。生きてること自体、楽しくて仕方ないんだ。怖いのは怖いし、痛いのは痛いし、ヤなもんはヤだけど、そりゃそうだろ。生きてるんだからな」

 晶は思い出す。痛いくらい、死んだ方がましと思えることくらいあってもよくあることだと、そんなことを口にしていた。

 生が愛おしいのだろう。痛みさえも実感として胸を躍らせるのだ。

「せっかくだから俺は最強を目指す。だって楽しいじゃねえか」

「分からないことはないけどね……」

 本当は晶にとって、最強とは義務として負うことを期待されたものであって楽しめるものでも何でもなかった。だが若葉に引き摺られたのか、今なら共感めいたものはある。

 笑いはすまい。どうせ自分もまだその位置にいるわけではないのだろうから。

 大きく息をつく。

 なるべく早く去っておくべきだと思った。名残惜しいと感じてしまうことが既に、駄目なのだ。

「……そうだな、またいつか会おう。いつになるかは分からないけど」

 右手を差し出す。

 握手のつもりだった。明治以降、天地院もさすがに西洋の影響を受けている。

 しかし若葉はきょとんとした顔を見せた。

「花がどうかしたのか?」

 先ほど摘んだ蓮華が、晶の右手にはまだ絡まっていた。結果、それを差し出したような形になってしまう。

 不覚だった。自分が何を持っていたかを失念するなどあるまじきことだ。間が抜けているにも程がある。

「あ、いや……」

「俺にくれるのか?」

「……ん、まあ……そう、かなあ」

 今更引っ込めるわけにもゆかず、誤魔化すように言葉を濁しながら花を押し付ける。

 押し付けてから、不意に気付いた。

 緑満ち、万物の息吹豊かなこの世界。己の為したことは無為に命を刈り取っただけなのではないかと意識させられる。

 若葉が何も言わないこともその印象を強めていた。

「……ごめん」

「何が?」

「いや、摘んだりしたらまずかったかと思って……」

 なんともばつが悪そうに言えば、若葉はまたしても不思議そうな顔。

 それでもやがて察したらしい。

「いや、いいさ。命はそういうもんだよ」

 憂うでもなく呟くようにそう口にしたときの表情は、隔たりを覚えずにいられぬほど静謐で、その硬質な美貌とも相まってこの世のものならぬ存在に思えた。

 しかしそれも一呼吸の間のこと。すぐに若葉は能天気にすら映る笑顔になった。

「んなこと気にしてたら、飯食えねえどころか外も歩けねえだろ」

「……じゃあ」

 単純に花そのものが好きではなかったのだろうか。見た目以外は何かと男っぽい若葉だから充分にありうることだ。

 そもそも気にする必要もないはずのことである。渡すつもりで摘んだわけではなく、渡そうと思っていたわけでもない。

 だが、やはり気にはなった。

 若葉は小さくかぶりを振る。

「いや、貰うの久しぶりでびっくりした。小さい頃は紅葉とか撫子がくれてたんだけどな」

 囁くようにそう言うと、まるで口づけるように蓮華の花をくちびるに触れさせた。

 どこを見るでもなく伏せたまなざし。くるりと花が、触れたままで回る。

 何度目だろうか。この丘は風の通り道でもあるのか、また強い一吹きが抜けてゆく。

 さすがに若葉にとっても髪が乱れ過ぎたらしい。空いた手で大雑把に整え、そしてこちらを正面から見つめて来た。

 とくりと、心臓が跳ねる。

「ありがとう、晶」

 いつもの少年めいた雰囲気など欠片も見当たらない。

 その少し照れたような笑顔、花を扱う仕種、口調や声音さえも甘くやわらかで、可憐な少女のもの以外の何ものでもなかった。
















 そこは大蛇の世界の何処とも知れない。

 ほのかな森の香と淡い光に満たされた、緑の領域だ。

『構わぬのか』

 その思念は底なしの奈落から響くかのように低く、重く、圧倒的に、すべてを知って大蛇は問う。見ているだけの大蛇が、己の巫女にだけは確かめる。

 自らの身よりも大きな、大蛇の眼の傍らに寄り添い、氷雨は肯った。

「恋慕であれ友情であれ、たとえ敵であったとしても想ってならぬ道理はございますまい」

 妹を思う言葉は慈しみに満ちて、あるいは来るやも知れぬ悲しみを抱き止めて、それでも微笑む。

 抜けるように白い肌、すべらかな頬にほんのりと朱を散らし、はにかむように密やかに囁いた。

「……愛しい方とともに在るだけで、こんなにも幸せでございますもの」




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る