「強き者」






 玉振り。

 魂振り。

 それは魂を揺り動かし、その器である肉体に活力をもたらすことである。

 熱を呼び、力を呼び覚ますことである。

 古い、古い、邪視と同じく術として確立すらしていない頃から確かに存在していたものだ。






 熱。

 恐ろしい速度で突っ込んで来て、そのまま放たれた力任せの拳。

 それは人を超えた威力の衝撃でもって茨木童子を弾き飛ばす。

 しかし先ほどよりも弱い。

 当然だ。今は身体が反動から保護されていない。殴った右拳が前腕ごと壊れ、まずその分が弱まる。地を踏みしめる脚も支えきれずにへし折れ、その分だけまた弱まる。最後に残っていた霊力の残滓で体幹の形だけは守られたのがせめてもの僥倖と言っていいだろう。

 熱は、迸り溢れ出す血と肉、生命の熱さだ。

 そのままふらりと倒れて目の前に転がった若葉の姿に、晶は目を疑った。

 右腕はひどいものだ。肘から先は原形を留めていない。肉と血と骨が非現実的なほどに入り混じり、形容しがたい有様となっている。上腕も折れて骨が皮膚を突き破っていた。

 両脚もおかしな方向に曲がっている。それでは立っていられるわけがない。

「何を……」

 目の前の光景を理解するのに少しの時を晶は必要とした。

「何をやっているんだ、君は!?」

「そりゃ、助けに入ったんだ……ろっ!」

 蒼白な顔で、脂汗を浮かべて、それでも若葉は叫び返して来た。途中で言葉が切れて不吉に喉が鳴りもした。

 見れば口許からも血が滲み出している。外からは判らないだけで体内にも何らかの傷を負っているのかもしれない。

「……助けに入る必要なんてどこにある? 異能を使えばそうなることは分かってただろうに」

 訳が分からなかった。茨木童子は若葉に手を出さないと言った。実際にもそのつもりだったろう。だというのにどうしてこんな行動に出たのか分からない。言われた通りおとなしく見ていればそれでよかったはずなのだ。

 若葉の瞼が震えている。苦しいのだ、痛いのだ。

 今の若葉はきっと全身を引き裂かれるような心持ちだろう。痛みと出血によるショックでそのまま死に至ってもおかしくない。

 いっそ気を失ってしまえば楽だろうに、若葉は晶に笑いかけて見せた。

「ま、痛いくらいよくある、さ。生きてるんだからな」

 生きてるんだからな、とそう言ったときの表情はどこか静謐ですらあった。

「そんなことより、なん、であっさり……諦めっ……」

 くぐもった音。可憐なくちびるが今は真っ赤に染まり、つぅ、と鮮血が流れた。

「オン コロコロ センダリ……」

 反射的に薬師真言を唱えようとするも、自分の中で反応がないことに気付いて途絶する。もうそれだけの霊力も残っていないのだ。

 咳き込む若葉の背を呆然と眺めている。何をしていいのかが分からない。

 ひとしきり血液を吐き出すと、若葉は幾分すっきりとした口調で言った。

「これしきで諦めるなよ、そこらの子供だってもうちょっとしぶといぜ?」

 不敵な笑みだ。困難を困難と思わぬ、無邪気な瞳が見つめて来る。

 しかし晶は、そのまなざしに応える言葉を持たなかった。

 そうかもしれないとは思う。同時に、諦めるのが普通であるとも理性は判断する。だがそのどちらもが他人事のようだった。

 こんなにも自分は空虚だったというのか。

 晶が声を失っていると、苦笑いめいた太い声がかけられた。

「やれやれ、無茶しやがるぜ。オレとしちゃ、こんな展開になると目的果たす前に<緋瞳の戦巫女>が来そうで嫌なんだがなァ」

 茨木童子である。襲って来ることもなく、鋼鉄でぽんぽんと肩を叩いている。

 若葉はそちらに顔を向けるとまたにやりと笑った。

「姉様なら……来ねえよ。俺たちから首、突っ込んだことには……絶対に手を出さない、そういうことになってる。そう、約束してもらった」

 無事な左手で拳を作る。どこまでも真っ直ぐな双眸の輝きを些かも翳らせてはいない。

「俺たちの戦い、くらい……俺たちでなんとかするさ。それで死んだり、死んだ方がましな目に……遭ったりしても、よくあることだろ…………生きてるんだからなあっ!」

 喋るうちにまた溢れて来た血を吐き、握った拳を地に突いて上体を持ち上げる。それは、戦いを継続するという意思表示。

 晶も茨木童子も知らなかったのだ。地上最強を目指すと豪語する少女が、死にかけているくらいで止まるわけがない。

「おい馬鹿、やめろ!」

「お前がやるって言うから譲ったんだぞ? やらねえなら俺の番だ、ぶっ潰してやる!」

 若葉が吼え、そして茨木童子は大笑した。

 無謀を通り越して狂気の沙汰としか思えぬ物言いは、旧い鬼の琴線に触れた。

「はははははははははは! いいなァ、お前! <天眼>の言う通り、命の意味を知ってやがる」

 万全であってさえも、若葉が茨木童子に勝つなどというのは世迷言もいいところだ。

 しかしその世迷言を語る瞳に暗い色などない。ただ純粋な闘志が溢れている。

 命はいつか終わるものである。しかも容易く潰えるものである。その単純な理を若葉は体得している。

 その儚い命を文字通りに賭して最強を目指しているのだ。斃すべき敵を目の前に、諦めた味方を背にして、たとえ腕一本しか残っていなくとも戦わぬわけがない。

 死を恐れないのではなく、命の使い方を決めてある。

「おい、馬鹿なことは……」

「お前に止める資格はねえよ、白鳥しらとり!」

 若葉の肩を掴んだ晶を茨木童子が一喝する。

 鋼鉄を肩に担ぎ、牙を覗かせてゆっくりと息を吐くと、異様なまでに筋肉が張り詰めて体躯が一回り大きくなったかのようだった。

「いいぜ、来いよ。その闘志に敬意を表して全力で、一撃で終わらせてやる」

 その言葉を向ける相手は、無論のこと若葉だ。

 晶にも判る。茨木童子は本当に、見逃すつもりだったはずの若葉を一打ちで葬り去るつもりだろう。

 だからこそ理解出来ない。どうしてこんな馬鹿げた状況になっているのだろうか。

 そう思ってから、おかしいと考え直す。分からないはずはないのにと、理性が囁くのだ。意思あるものであれば分かるはずのことなのだ。

 自分に意思などないからだろうか。人形だから分からないのだろうか。

 ちり、と。

 なぜか、胸の奥で震えるものがあった。

 音もなく、茨木童子が動く。ただ鋼鉄を力の限り振り下ろすだけだが、今の若葉にかわせるはずもない。

 死ぬだろう、間違いなく。原形など留めず、木端微塵になって。

 その瞬間、晶も動いていた。

 空虚も惑いも置き去りにして、身体だけが別の存在であるかのように風を切る。

 その場を動けぬ若葉を抱き抱え、庇いながら河原を転がって破滅の一撃を回避した。

「無事か?」

 腕の中の若葉へ向けたその問いは、自らの行動による被害を確認するためのものだ。体内までぼろぼろであろう今の若葉はおそらく、少しの衝撃でも致命傷になりかねない。

 果たして、最初に見えたのは苦痛を堪える表情だった。

 だが、気付くと笑ってのけるのだ。

「助かったぜ」

 本当に不思議だ。どうしてそうも自然体のまま、不敵でいられるのだろうか。もう死ぬしかないようなこの状況で。

「おいおい、今更どうしたよ、タチバナアキラ。戦うのか? 理由は見つけられたか?」

 茨木童子は追撃して来ない。煽るようにそんなことを口にするだけだ。

 しかしやはり、晶は返す言葉を持たなかった。胸の内の惑いも空虚も、我に返ればそのまま残っている。

 疼く何かは、分からない。

 と、若葉が不意に溜め息をついた。

「お前さあ、絶対馬鹿なんだよ」

「何を……」

 君にだけは言われたくない。そう言おうとした口許に左の人差し指を突きつけられる。

「俺と一緒でさ、馬鹿が小難しいこと考えるから何言っていいか困るんだ。こんなもん答えは簡単なんだよ、代わりに言っといてやる」

 そして人差し指は、びしりと茨木童子に向いた。

「ごちゃごちゃぬかすな。気に食わねえ、ぶん殴ってやる! 戦う理由なんてそんだけありゃ充分だろ」

 あまりにも単純明快で乱暴で、笑ってしまうような口上だ。

 それでも、なぜだか胸の疼きが大きくなる。

 これは一体何だろう。

 若葉の言ったことは晶の思いに一致しない。確かに気には食わないが、だからといってそれで殺し合いをしようとは思わない。

 では、自分は何を望んでいるのだろう。

 腕の中の若葉を見下ろす。重みを感じた。

 さすがに華奢とは言えない。異能などなくとも力に満ちた、しなやかな肢体だ。

 日に焼けた繊細で可憐な面立ちは、抑え切れぬ苦痛を滲ませながらも笑みを絶やさない。

 少女である。それも、おそらくは年下の。

 疼きが痛みになる。

 引き裂かんばかりの羞恥が全身を苛んだ。どうしようもなく口許が歪む。

「……僕がやる」

 鼓動が全身に熱い血潮を送り込むのを自覚した。

 どうかしていた。なぜ意識しなかったのだろう、頭から抜け去っていたのだろう。

 生まれも立場もない。総身を満たすのは衒いのない、本能にも近い衝動だ。

 女が傷つくのを惚けて見ている男がどこにある。

 若葉を横たえてそれを背に立ちはだかり、両手をきつく握り締める。

 痺れにも似た疼痛が心地好くさえあった。

「来い」

 呼べば、霊刀・模造安綱が右手に還る。それを構え、晶は茨木童子を睨めつけた。

 霊力は尽きている。身体は重い。空虚も埋まり切っているわけではない。それでも可笑しいほどに単純な、戦うべき理由を手に入れていた。

「女のために最後まで足掻いてみる、か。ようやく人並みだなァ、白鳥しらとり

 茨木童子が鋼鉄を左手に構え、右は拳を握る。裂けた口は、先ほどまで晶に向けていたものではなく、若葉へ向けていたのと同様の素直な好意の笑みを浮かべていた。

「ああ、だがそれが……それこそが人の戦う表情かおだ。そうでなくちゃいけねえ」

「御託はいい」

 晶は短く応える。

 自分が今、どのような顔をしているのかなど知らない。そんなことよりも、戻って来た思考で敵を分析する。

 与えた傷は大きい。満身創痍と言ってもいい有り様だ。加えて得物はもう半分にまで切り落とされ、本来の業も発揮できまい。術法はまだ使えるだろうが、もうそれほど保たないはずだ。あの風は自らをも侵すからこそ強固なのだ。

 状況は決して不利ではない。どうして先ほど諦めたのか分からないほどである。

 とは言えど、こちらも最後の力を振り絞っている。有利でもない。

 賭けだ。しかし天に任せるのではなく自分で切り拓けるだけありがたい。

 兆しも見せず、駆ける。

 晶は強いのだ。たとえそれが、魂に継がれているだけのものだとしても。

 閃く剣に淀みはない。並の相手ならば気付く前に葬り去る、それだけの鋭さを取り戻している。

 しかし茨木童子の業も達人の域にある。鋼鉄が半分になっていようとも、見事捌いて見せた。

 互いに身体は流されない。知っていたかのように次を、そして更にその次を行う。

 打ち合わされるわけではない。かわし、かわされ、時折鋼の擦れる音がする。

 ある種の美しさはある。けれど爽やかなものなどあろうはずもない。血腥い、殺し合いだ。

「まだだ! まだ足りねえよ!」

 茨木童子が吼える。

「どこまで付いて来られる、白鳥しらとりィ!」

 ほんの少しだが、速度が増す。まだ限界に至っていないのだ。

 薙ぎ払われる鋼鉄に続いて巨大な拳。それを凌いでも、吐息に乗せた瘴気の砲撃。

 技、力、速さ。何もかもが混然一体となって競い合う。

 一瞬たりとも止まることは許されない。どうしてまだ自分が戦っていられるのか、晶自身にも不思議に思えた。

「本当にその嬢ちゃんを信じられるか? 信じて戦い続けられるかよ!?」

「黙れ!」

 ざわりと胸の内に蠢くものがある。信じられるわけがないと、不自然なほど露骨に疑念が湧きだして来る。

 だから晶は茨木童子にではなく、その蠢くものに言い放つのだ。

「黙れよ、黙ってろ!」

「因果応報ってぇやつだぜ、白鳥しらとりィ……騙し続けて来たお前だからなァッ!」

 振り下ろされた鋼鉄を、転がることで回避する。

 脳裏に幾つもの光景が過ぎる。知らぬはずなのに、遠い記憶として呼び起こされる。

 クマソタケルを奇襲し、イズモタケルを騙し討ちにし、酒呑童子たちを謀り。そんな光景が山ほど湧いて出る。

 だから恐ろしい。独りがいいのだ。誰をも恃むことなく、ただ独りで在り、敵を葬れば背後から味方だったはずの者に切りつけられることはない。

 精一杯の抵抗が、数に喰い破られてゆく。

 空虚を隠そうとしていた思いが、塗り替えられてゆく。

 どこまでが自分なのだろう。何が自分なのだろう。こうして剣を振るっているのは、果たして立花晶なのだろうか。それとも日本武尊なのか、あるいは源頼光か。

 わずかに手が震えた。自分は自分だなどという上滑りする理屈では、本物の恐れは止められない。惑いが動きから精彩を奪い去る。

 そのままであれば死は免れなかったろう。

 だが、致命的な隙が生まれる寸前で一つの声がかけられた。

「別に俺を信じなくたっていいさ」

 振り向いて確認するまでもない。若葉だ。

 呼吸は怪しいが言葉ははっきりと届いた。

「会ったの、昨日だしな。でもな、晶。俺はお前を信じてるぜ?」

 まだそんなに易々と、信じるだなどと言う。

 そんなことを聞かされると疼くのだ。そして苛立つのだ。

「お前は強い。俺よりずっと強い。間違いなく強い。俺は強い奴が好きだ、ヤな奴以外なら」

 訳が分からない。今のこの状況とその台詞に一体何の関係があるというのだろう。

 自分を惑わせていることにそぐわない。まったくもって助言になっていない。

 だというのにどうにも、本当にどうしようもなく疼くのだ。

 胸の奥、奥の奥、手には掴めぬ何かが奮えるのだ。

「勝てよ、晶。見せてくれ。俺はお前を信じてる」

 どこまでも真っ直ぐに若葉はそう言う。きっとあの愚かしいほど曇りのない瞳をしているのだろう。

 晶は奥歯を噛み締めた。

 構わない。

 震えるその身は力の兆し。

 惑いを押し切り、踏み込む。今までよりも力強く。霊刀の柄は離さない。

 構わない。たとえ騙されていたとしても。

「構うものか!」




 晶自身は知らない。

 その魂は疲れ果てているのだ。

 いかに強大であろうともその魂は人のもの、世界の終わる時まで不滅というわけにはいかない。時の流れだけでも摩耗する。

 そして、そればかりではない。人として生まれ来ること十六度。戦いの渦中に置かれなかったことなど一度もなく、安らかに死ねたことも二度しかない。必要があったとはいえ、騙し、裏切り、ずっとそうして来た。

 疲弊し切った魂は、やがて己自身を保護しようと殻を被り、閉鎖した。

 普段の生活ならば、それでも磨り減るものの安らげはする。

 しかし殺し合いにおいては異なる。必要とされるときに必要な技能を肉体に行使させることで機械的に戦うのだ。

 理由を外側に作ってはならない。自己の内で完結させておけば何も得ない代わりに何も失わない。そうやって摩耗を抑え、出来るだけ長く存続しようとしたのだ。だから空虚でしかいられなかった。

 それが今、奮えていた。揺り動かされ、持てる真の力を揮い始めていた。

 今生を最後と定め、熱を呼び、迷いを払い、輝きを放ち始めたのである。




 先ほどよりもほんの少しだけ速い。

 先ほどよりもほんの少しだけ強い。

 先ほどよりもほんの少しだけ鋭い。

 それは互いに重ね合わせられ、晶の力量を冷徹に量り続けて来た茨木童子の認識を些かならず凌駕した。

 守りが間に合わない。

 薙ぎが鬼の腹を確かに裂いた。

 濃密な臭い。鮮血が舞う。

「おおおおおおおおおおおっ!」

 晶は止まらない。跳躍とともに返す刃は胸板を袈裟に抉る。

 しかし殺し切れない。同時に放たれた茨木童子の巨大な拳がまともに胴を打ち貫いていたのだ。

 他の鬼のような、ただの力任せなどではない。人として過ごした時に修めた拳理を用いた、衝撃を十全に浸透させる玄妙の業である。

 即死どころではない。骨も内蔵もぐずぐずに崩れて血袋と成さしめる、それほどの力と技だ。

 だというのに、晶は生きていた。弾き飛ばされはしたが、肋骨が数本砕けはしたが、それだけだ。

 倒れることもなく刀を構え直し、咆哮する。

「まだだ、まだ終わらない!」

「ふ、くく……」

 その叫びを受け、茨木童子も笑った。腹の底から、身を折るほどに。

「ははははははははははははははははははははは!!」

 己が目論見の果たされたことを悟り、歓喜せずにいられない。

 強さということでは孔雀明王呪を使っていたときの方が余程上だろう。だが、これはそんな無粋なものではない。

 人々の畏怖を、恐怖を、希望を、憧憬を、加護にも似た力として受け止める能力。

 その名は<強き者タケル>。かつて神霊をも正面から下すことを可能とした、真の意味で人の持てる最強の力だ。

 とは言え、昔ほどに至ることは望めない。力の源は質と率だ。数ではない。晶を知る者の中でどれほどの者がどれだけ純粋にその強さを信じているかで決まる。漠然と想う輩など、億を数えたところで若葉一人の足元にも及ばない。社会の広がった現代では、晶を知るすべての人間が恐れ憧れることは決してないだろう。

「やったなァ、おい! 本当に目覚めやがった!」

 本当は誰にでもはたらく力だ。ただ少ししか受け止め切れないだけなのだ。己を知る人間すべての純粋な想いを力へと昇華し切ってのけたのは、少なくとも日本には小碓命しか存在しない。

 二代目ですら使えなかったその力が今、晶を包み、支え、守っているのだ。

「それだよ、立花晶……それがお前だ!」

 茨木童子は初めて、本当に晶の名を呼んだ。

 ヤマトタケルはとうの昔に敗れている。今となっては神話の一部としてしか語られず、魂の籠もらぬ名は晶にさしたる力を与えない。

「お前が作り上げていくんだ、お前自身の名を」

 放たれる瘴気の刃。

 先ほどは伏せてかわしたものを今、晶は切り払う。不快なだけの風として吹き散らす。

 その隙に茨木童子は風に乗って崖の上に飛び上がっていた。

「いまさら逃げるのか!?」

「逃げるとも。オレの用事はほとんど終わったからな。まあ、あとちょいと楽しみたくもあったんだが……」

 咎める声にも飄々と返し、顎をしゃくって晶の背後の若葉を示す。

「いくら頑丈でもさすがに死にかねんぜ、その嬢ちゃん」

「っ!?」

 さすがに茨木童子に背を向けるような真似はせず、視界に収めたままで晶は若葉の許まで退いた。

 息はあるが、意識は途切れているようだ。確かにもはや一刻の猶予も許されない状況だろう。

「オレとしても死なせるのは本意じゃねえよ。面白ぇ嬢ちゃんだからなァ」

 見上げる空が割れ、茨木童子が吸い込まれてゆく。

「でもって最後の用だ。今となっちゃついでみたいなもんだがな。壇ノ浦に行きな」

「壇ノ浦……?」

 鸚鵡返しに晶は呟く。

 地名は分かる。何が起きた場所かも知っている。

 そんな晶をからかうように鬼は続けた。

「あそこに沈んでる剣は何だ? <天眼>の言うことにゃ、粗悪極まりない紛い物の、更に模造品らしいが……ただの人間なんざ触れただけで消し飛ばす代物があるだろ。だが今のお前になら扱える」

 風が大きく啼いた。

 いつしか薄靄と薄闇が入り混じり、境界である此処自体が曖昧になってゆく。

 既に茨木童子の姿は見えなかった。

 ただ、声だけが最後に聞こえて来た。

「万全の準備を整えて、今度こそ正面から来い。大江山で待ってるぜ、立花晶ァ……」




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