「雑密」






 晶は敗北を認めない。

 己の中の何かが、一度たりとも負けてはならないと言うのだ。

 しかし絶対に認めないわけでもない。いかに八つの歳で大人を凌ぐ剣の腕に至ったからと言っても、それは全員に勝てるということではない。

 どうしようもないほどに打ちのめされれば負けたと自覚してしまうことはあった。

 それでもなお、すぐに元通りになる。

 呪縛のように何かが言うのだ。恐怖として忍び寄って来るのだ。

 決して負けてはならない、と。






 動かない。

 晶は左半身となり、右手だけで霊刀・模造安綱を胸の高さで水平に構え、一方で左手は刀印を結んでいる。

 対する茨木童子はまるで槍の如くに鋼鉄を把持、とは言えどその延長線は体格差のせいで晶の頭部よりも高い位置にある。

 動けない。

 茨木童子は待っている。どのような手で来ようともそれを打ち砕く自信があるのだろう。

 生成りだった昨夜までの方が余程油断があったのではなかろうか。今は根を生やしたかのような重厚な佇まいで、炯々と輝く双眸も静かに力を秘めていた。

 強い。疑う余地もなく、今までに対した相手の中では何よりも。

 此処は相手の庭、ということもある。このままでは封殺されて終わりだろう。

 攻略の手ならば持っている。晶には切り札があるのだ。

 とはいえ、それをおとなしく切らせてくれるかどうか。

 背に、額に、じとりと汗が浮く。

 たとえ止まっていようとも、身体は焼けつくように熱い。この熱に忍び寄る冷たさこそが最大の敵だ。冷たい手に足を掴まれたとき、自ずから敗れることとなる。

 高空で、風の吠える声。呼応して名も知らぬ、もしかすると実在せぬ小鳥が鳴いた。

 じり、砂利が擦れる。

 それはどちらの立てた音だったろうか。

 いずれにせよ、先に仕掛けたのは晶だった。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・裂・在・前」

 使うのは左の刀印だ。右の霊刀は静かに時を待つ。

 横五つと縦四つを交互に。瞬閃の刃を振るうことの出来る晶の早九字は、それ自体が何らかの業に支えられてでもいるかのように奇術じみて早い。

 導かれて淡い九つの金色が浮かび上がり、茨木童子を絡め取ろうとする。九つの金が四方八方から組み合わさり、格子の内に閉じ込めようというのだ。

「ハッハァ!」

 対する茨木童子も早かった。己の巨体の高さをすら軽々と越えて跳躍、外れを引かされてあえなく消え去る格子を眼下に、その一跳びで頭上から晶に襲いかかる。

 振り下ろされた鋼鉄の上げる唸りは数多の亡者の嘆きのように不吉だ。

 空中にあるから避けられないだろうなどという甘い誘いを振り切り、晶は横へ転がるようにしてその場を跳び退いた。茨木童子は彼我の生命力の差を冷徹に把握している。一撃で撃墜しなければ潰されるのはこちらである。

 轟音と震動。立ち上がり、向き直ったところで砕き散らされて飛来した石片が眉間を強く打ち据える。

 瞬きなどしない。既に茨木童子も鋼鉄を左手に、こちらへと切り返している。

 片手だ。

 その意味を悟り、晶は反射的に地に伏せた。賭けになることは分かっているのだが、悠長に選んでいられる余裕はない。

 頭上を斬撃のような瘴気の風が水平に通過する。茨木童子が大きく薙いだ右手から放たれたものだ。後方や左右に避けようとしていたら両断されていたことだろう。

 晶はそのまま横に転がると可能な限り迅速に身を起こし、砂利を蹴って離脱する。

 再度の震動。紙一重で脚をかすめることなく、鋼鉄が今まで伏せていた場所を槍の如くに穿っている。上でも下でも、瘴気の斬をかわした先を自在に突き殺す一手であったのだ。

「やるねえ」

 鋼鉄を構え直し、茨木童子がにやりと笑う。

「昨日や一昨日より間違いなく強えぜ。どうだ、少しは思い出して来たかよ?」

「何をだよ」

 晶もまた、最初の構えに戻る。呼吸は乱さない。茨木童子を睨めつけ、機を窺う。

 茨木童子が笑った。さも可笑しそうに、肩を揺らして。

「とぼけるなよ。実感はねえだろうが、まあ自覚もないのかもしれんが、なあ白鳥しらとり、こんだけしつこく呼んでやったんだ、推測くらいは出来るだろ?」

 それは隙だったはずだ。なのに打ち込めなかった。標的がひどく遠くに見えた。

「オレたちゃ大江山の悪鬼だ。憎むのは誰だ? 白鳥しらとりってなァ何を意味する? この業界にいて分からなきゃあ、ちょいと知識不足だぜ?」

 晶は左眉だけをぴくりと動かす。確かに、知識としては持っている、あるいは意味を推測することならば出来る。

 白鳥しらとりとは、死した後、白い鳥となって飛んで行った日本武尊ヤマトタケルノミコトを指すのだろう。そして大江山の鬼たちが憎むというならば、自分たちを騙し討ちにした源頼光と四天王である。

 加えて、先ほどわざわざ渡辺綱の方が単純な強さでは上だったと口にしていた。四天王筆頭の渡辺綱と比べる相手は、その主である源頼光だと考えるのが妥当だ。

「つまり、僕がヤマトタケルか源頼光の生まれ変わりなんだとでも言いたいのか? どっちだよ」

 鼻で笑う。

『あなたは特別な人間なの。だってあなたを身籠る直前に、白い鳥が母さんの中に入って来たのだもの』

 亡くなった母はよくそう言っていた。

 なるほど、合致すると言えるのかもしれない。そういうことがあってもおかしくはない。しかし事実であれ嘘であれ、それ自体はどうでもいいことだと思う。

 が、茨木童子もまた、嘲るように笑った。

「『か』じゃねえよ、『と』だ。ヤマトタケルと源頼光とその他諸々だ」

「だからどうした」

 晶には笑われる理由が分からない。誰の生まれ変わりだろうが、今此処にいる自分が変わるわけではないのだ。

「そんな下らない御託を並べてないでさっさと来いよ。帰ったらどうせ次の任務が待ってるんだ、忙しい」

「やれやれ、まだまだオレにゃ敵わねえ分際でそんだけ強気でいられるのは……ま、らしいっちゃらしいのかねえ。最強でなきゃあならんかった残り滓みたいなもんか」

 茨木童子が魁偉な鬼貌に憐憫の色を滲ませた。

「哀れだなァ、タチバナアキラ」

 鬼には初めて呼ばれた名、その響きにどこか違和感があった。何がおかしいのかは分からないが、全身の毛を逆さに撫でられたような気持ちの悪さがあった。

 そこで鬼貌がぬらりと歪む。

「お前はどうして戦うんだ、タチバナアキラ」

 奇妙な問いだった。

「お前のような奴らがいるからだろう」

 考えるまでもなくそのまま素直に答えると、返って来たのは苦笑。

「違う違う、敵がどうこうなんて話じゃねえよ。なら質問を変えてやろう。敵がまったくいなくなったら一体お前はどうするんだ?」

 晶は思う。とても下らない、馬鹿げた問いだった。想像だに出来ない。そんな状況はあり得ない。

「それがどうしたっていうんだ? お前に何の関係がある」

「不思議なのさ」

 茨木童子の口調はどこか笑みを含んでいる。芝居がかった節回しが気に障る。

「お前は何が欲しい? 戦いの果てに何を望むんだよ?」

「何を言ってる?」

 晶は気付かない。今仕掛けられようとしていることに経験がなかったのだ。

 呪術戦というものは、必ずしも相手を傷つけるようなものであるとは限らない。むしろ知らぬうちに相手を呑み込み、戦わずして勝つことこそ真骨頂なのだ。

 晶は戦闘能力が高過ぎた。一気呵成に片付けてしまえることが多いため、このような事態に陥ったことがなかった。

 無論、知識としては有している。だが置かれた状況と繋がらない。

「よくあるだろうが。金が欲しい、名誉が欲しい、誰かを守りたい。人間が戦うにはなァ、理由が要る」

 術としては決して強いものではない。ささやかに、密やかに、言葉の裏に隠れて忍び寄る。

 それは晶の意識をほんの少しずつ動かしてゆく。僅かを重ね、落とし込むのだ。馬込涼河が香を用いて行っていた行為とも似ている。

「オレたちは闘争そのものが目的だ。その前にも後にも何も要らねえ。だが人間は違う。似たような人間はいてもな、本当に突き詰めれば人じゃあなくなっていくのさ。人が人のまま戦うには、必ず理由がある。さて、お前の理由は何だ?」

「僕の理由……?」

 晶は呟く。

 生まれて初めて考えることだった。

 考えて、否、考えようとして、頭の中が白くなった。

 茨木童子の声が自己の中で不気味に反響する。

「お前は殺し合いが好きなのか?」

 違う。

「お前は誰かを守りたいのか?」

 違う。

「任務だからか?」

 違う。

『あなたは特別な人間なの』

 ただその言葉だけが答えとして空白の中で響いていた。

「なあ、答えてくれよ。お前は戦いたいのか、戦わなきゃならんのか。義務なら、どうしてお前でなきゃならんのだよ?」

「それは……」

『あなたは特別な人間なの』

 やはりその声しかない。他には何も、自らの内から湧き出してくるものがないのだ。

 無論、戦いとは関係のないものであればごく当たり前のように存在はしている。だがいずれもが結びつかない。

「……僕が、特別だからだ」

 傲慢なはずの台詞が寂しく響く。それはずっと晶を支え続けていたはずの言葉だったというのに、今はあっけなくも、教わっただけの魂の籠もらぬ言葉と堕ちていた。

 そのことにも戸惑う。不安で仕方がない。

「僕は特別だから戦わなきゃいけない。お前も僕が生まれ変わってると言ってただろ」

「言ったさァ」

 茨木童子はなおも笑う。

「言ったが、だからどうした? ヤマトタケルの、源頼光の生まれ変わりだったらどうして闘争の中に身を置く必要があるんだ? そんなもん、巻き込まれる理由程度にしかなりゃしねえよ」

「何をっ」

「どうしてその先がない? 戦いが楽しいだの、無辜の民を守りたいだの、称賛が快感だの、立場上強いられているだの、何か湧いて来るもんだろ?」

 晶は声を詰まらせる。この不安を掻き消したくて、焼けつくような胸の内、吐きそうな混乱の中から何かないのかと必死で言葉を探し出す。

「……僕でないと対応できない相手がいる!」

「荒水波にでも頼みゃいいだろ。質が落ちてなきゃ、今のお前の代わりをやれる奴なら十人はいるはずだ。いなくたってどうとでもなるんだよ、特にこの国はな」

 やっとのことで放った台詞も即座に切って捨てられた。

「本当に哀れだなァ、タチバナアキラ。教えてやるよ」

 再びの、憐憫の色。

 晶は動けない。気息が乱れる。これ以上聞いてはならないと自分の影が警告している。

 しかし恐ろしいからこそ、忌まわしいからこそ聞いてしまうのだ。

「お前はこの鋼鉄の棒と同じだ。振るわれるがままに何の疑問もなく敵を打つ、ただの武器だ。天津神が朝廷に仇なすものを討滅するために作り上げた、人間兵器だ。戦い方も生まれる前から知ってただけなんだよ。いやはやまさに、文字通りの天賦の才だ」

 茨木童子はゆったりと鋼鉄を操る。流れるような動きで傍らの岩を打ち。

 技によるものか力によるものか、その一撃は遅いにもかかわらず岩が砕けて石となった。

「最盛期のヤマトタケルはそりゃあ強かったらしい。神霊すら屠ってのけたほどだからな、精霊や妖じゃあまるで歯が立たない。奴らはそれに目をつけた。魂が擦り切れ果てるまで使い倒すことにしたのさ」

 鋼鉄が晶を指す。正確には、胸の中央を。

「人間が空想する冥府なんざありゃしねえ。死せるものの魂は本来なら世界に還るのが自然なんだ。だが、ヤマトタケルの魂は白鳥しらとりと変えて保存された。でもって、朝廷の敵が現れると予見されたときに、都合のよさそうな赤子の身体に放り込むのさ。元々の魂を押し潰してな」

 無意識に晶は胸を掴んでいた。鼓動が痛いほどに大きくなっている。

 茨木童子の口にしたことはあまりにも不吉だった。晶に信仰と呼べるほどのものなどないが、それでも反射的に拒絶してしまうほどに。

「嘘だ!」

「お前、別に信心深いわけじゃねえだろ。自分が特別だってこと以外に戦う理由がないくらいなんだからな」

 強い声を浴びせられてもどこ吹く風と、茨木童子は涼しい顔で指摘する。

「それがどうしてあれだけ強力な密呪を大量に使える? 才能だけでも多少は使えねえこともないだろうが、限度があるぜ? 真行寺悠馬とは付き合いあるだろ、奴ァ元はお前にも匹敵する天才的な密呪使いだったらしいぜ? それが破戒僧になった今はそれこそ、使えないこともねえってザマだ」

 真行寺悠馬とは、天地院に所属する破戒僧にして、有数の退魔師だ。知人程度ではあるが、確かに付き合いはある。そしてその法力の多くを失っているということも聞いている。

「お前の使える中でも得意とする密呪は、不動明王といい摩利支天といい、なぜか天照かその眷属の力を借りて来るやつだ。ヤマトタケル、小碓命は神代の皇子だからな、お前の魂は皇祖神アマテラスとの親和性が高いんだよ。だから得意で、ついでにその余得で他の密呪も山ほど使える」

 不動明王の本地は大日如来、神本仏迹では大日如来の本地は天照大神だ。加えて、摩利支天を従える日光菩薩の本地もまた、天照大神である。

 晶は非常に多くの真言を扱えはするが、得手とするのは確かにその二尊の密呪だった。

「……嘘だ」

「荒水波は国と民は守るが朝廷なんざ知ったこっちゃないそうだからなァ、朝廷を守る剣も欲しかったんだろうさ。それがお前だ。死ぬたびに魂を囚われて、朝敵討伐のために生を受けて、オレが把握してるのは四代目までだがもう十代越えてるんじゃないかね」

 茨木童子は晶の表情を楽しむかのようにじっくりと観察しているようだった。

「『生まれ変わりなんてどうでもいい、今の自分は今の自分だ』なんて思ってたんだろ? 違うぜ、タチバナアキラに価値なんざねえ、今の自分なんぞありゃしねえよ。お前は今でも道具だ。可哀想な剣のままなんだよ。その証拠に、お前の戦う理由は剣そのものじゃねえか」

「……黙れ……」

「『特別だから戦う』……そいつァ、剣だから敵を斬るつってんのと何が違うんだ? おっと、剣じゃねえな。最初はこの棒に喩えてたっけか」

 何もかもが溶け崩れてゆくような気がした。

 全身が冷たい。どうして自分がこれだけ動揺しているのかもよく分からなかった。

『あなたは特別な人間なの』

 母のその言葉以外に何もないのは、それだけで充分だったからだ。戦うだけの価値を見出せていたからだ。

 要は誇りである。特別であり、それに見合う力を有していることが余人の謗りなど受け付けない。

 しかし一つであったからこそ何よりも強固で強大だった柱が今、崩されようとしている。どうしようもなく敗北を認めざるを得なかったときですら揺らがなかったものが今、あまりに頼りない。

 巨大な柱が崩れたなら、積み上がるのは大量の瓦礫だ。

 己が道具であることをよしと思えるはずもない。自ら立っているのではなく、立たされ、あまつさえ使われているなどと認めてはならない。それなのに何かがじわじわと沁み込んで来る。

 晶はまだ気付いていない。茨木童子の密やかな呪言あってこそこれほどまでに心を追い込まれているのだ。一の不安を二に、二の焦燥を四に増幅し、絡め取られているのだ。

「……僕の得意はそれだけじゃない!」

 印を結ぶ。叫びはもはや悲鳴だった。




 オン マユラ キランディ ソワカ




 孔雀明王呪は、体系立てられた密教が日本に入って来る以前から知られていた、いわゆる雑密のひとつだ。

 諸毒厄災を打ち払い、空を行き、若返りまでも成し遂げるとされた万能の密呪である。

 その根源は蛇殺し。世界中で地祇の多くを占める蛇を葬り去るためにこそ、この国においても何よりも早く在ったのだ。

 しかしそれを知るものはもはや、神霊ばかりである。十二の歳で、まるで思い出すかのように会得した晶も知らない。

 知らずとも、その威は発揮される。晶に対するありとあらゆる攻撃を緩衝し、手にした刃には斬神の力を与え、そして。

 晶の突進は人の速さを超えていた。一度地面を蹴っただけで間合いを侵略、閃いた剣は今まで歯が立たなかった鋼鉄を易々と裂いて茨木童子の頬から鮮血を迸らせる。

 今や高さなど問題ではない。空を踏み、飛んでいるのだ。

 同じ印、同じ真言を遣いながら、晶の孔雀明王呪はすべてにおいて余人のものと桁が違う。万能であるがために威を損なわざるを得なかった呪ではなく、かつてただ一人だけ遣い得た真正の、神殺しの呪に迫るのである。

 無論、晶もただでは済まされない。本来ならば人など比べものにならぬ力を有する神霊に抗するほどの強化は、膨大な霊力を湯水のように消費してゆく。枯渇するまで遣えば命までも吸い尽くすだろう。だからこそ最後の手段としていたのだ。

 それでなくとも、この呪を晶は己を明らかに上回るものを相手どったときにしか使えない。昨夜は不可能だったが、今の茨木童子ならば不足はない。

「おおおおおおおあああああああああッ!!」

 地を踏めば、印も呪もなく韋駄天の真言を凌駕する。傍で見ていた若葉の目には、晶が幾人にも増えたかのように映った。

「これでも……これでもまだ言うのか!?」

 剣閃の嵐。姿は捉え切れず、声だけが奇妙に響きながら四方八方にこだまする。

 しかし茨木童子は凌いでいた。

 こちらは瘴気の嵐。侵すことまでは出来ずとも速度と冴えを僅かに削ぎ、端の切り落とされた鋼鉄をなお短くしながらも捌いてゆく。

「ハッハァ! なかなかいい顔になったじゃねえかよ」

 それでも徐々に押されつつある。当然だ。今の晶の力は常軌を逸している。

 だというのに茨木童子は笑うのだ。

「伊吹山でヤマトタケルは最大の力を失った」

 血がしぶき、衣を濡らす。

「それを不完全であっても埋めるために、二代目には天竺で編み出された呪法が与えられた」

 首筋に割が入る。あと少し深ければ死に至る傷だったはずだというのに、愉しげに吼える。

「二代目の名は役小角、呪法の名は孔雀明王呪。やはり魂が覚えているようだなァ、白鳥しらとり!」

「黙れぇっ!」

 晶は思わず叫んでいた。

 自分が操られていただけなどということがあってはならない。ならないのに。

 抑え切れぬ動揺は己の術への不信を招き、危うい境界で制御がなされていた孔雀明王呪の手綱を引き千切った。

「風よ!」

 すかさず茨木童子が呼んだのは虚ろの禍津風。

 ごう、という一吹きが守りを失って墜落した晶の残る霊力を根こそぎ奪い去ってゆく。

 音を立てながら河原を転がり、水中へと落ちる寸前で晶は踏み止まった。

 とは言えど、右手の霊刀こそ放さぬままだが地に突いて身を支える左手は限界を迎えて震えていた。

 そして表情は、まるで泣き笑いのような。

 対して茨木童子は血塗れの巨体を揺すり、耳まで裂けた笑みを浮かべた。

「いけねえなあ……斬るだけの剣が迷っちゃあ、剣としての価値すらなくなるぜ?」

 追い打ちに反駁することも出来ず、晶は荒い呼吸を繰り返す。

 最後の手である孔雀明王呪が潰えた今、これ以上の手段はない。霊力も尽きている。

 敗北を認めるか否かなどという段階ではない。何も考えられなかった。

 それは同時に、誇りを完全に打ち砕かれたということでもある。

 唯一であった『特別』は道具であったという証明に置き換わり、立ち上がる力さえ奪い去ってしまう。こんなときに寄りかかるべき他の大切なものは、ない。

 動かぬ晶に茨木童子が声をかける。

「そこまでか、白鳥しらとり。これで終わりか?」

「……終わりだ。殺すがいいさ、復讐なんだろ?」

 音を立て、力の抜けた掌から霊刀が落ちる。投げ遣りに晶は応えた。

 何を思ったものか茨木童子は深く嘆息し、すっかり短くなってしまった鋼鉄を剣のように構えた。

「ああそうかい。じゃあ終わりだ、物として壊れろ」

 一切の熱を失った声。

 振り下ろした一撃も冷やかだった。






 そこへ、横合いから過剰なまでの熱が叩きつけられた。




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