「愛宕山」






 薄墨が晴れる。

 淡い光が頭上から降り注いでいた。先ほどまでの赤ではなく、やわらかな白い明かりだ。

 見回せば辺りは河原、大小の丸い石が自然に敷き詰められて広がり、両脇は切り立った崖となっている。

 川は細い。色など判らぬほどに澄みきって底を映し、そのあまりに透き通った様がかえって不吉に思われた。

 小さく鳴くのは何という鳥だろうか。幾羽かが器用に崖に留まってこちらを見下ろしている。

 先は見えない。薄靄に融けている。

 後も見えない。薄闇に落ちている。

 晶と若葉が放り出されたのはそんな場所だった。

「橋より落つれば愛宕山、此処は何処いずこの愛宕山。幽明境を異にする、此処は境の愛宕山」

 三十歩の距離に茨木童子はいた。脇腹こそ血に染まっているが、苦悶の色はない。

 呪を朗々と締め、改めて鋼鉄の棒を構えた。

「河岸を変えさせてもらったぜ。さすがにあの嬢ちゃんだけは洒落にならんわ」

「いい、どうせ最初から僕独りでやるつもりだったんだ」

 じり、と晶は靴底を僅かに滑らせる。右の脇構え、やはりまずは足を殺さん、と。

 対して茨木童子は右を上に、左は地を摺るほどに。それだけで既に、晶の狙う剣筋を封じている。

 だからと言って、構えを変えたところでほとんど意味はない。こちらが変えればあちらもそれに対応して構え直すだけなのだ。封じられてなお、それを越えてゆかなければならない。

 斬撃ではなく刺突という手もあるが、それは下策だ。速く、長く、受け難いという利点は、茨木童子の体格と間合いの広さによってほとんど無意味となる。しかも一突きで殺せなければ捕まってしまう。そうなればあとは、軽々と四肢を引き千切られて終わりだろう。

「やれるかねえ……剣でオレに勝つなら、渡辺綱以上でなくちゃいけねえぜ? あの頃ですら既に、単純な強さなら綱の野郎の方が上だったと見てるんだが……果たして今のお前に越えられるかよ?」

「また訳の分からないことを!」

 煽る声を晶は拒絶する。双眸に苛立ちが潜んでいようとも、肉体は必要な緊張と弛緩とを成している。

 対して空気は熱を持つほどに張り詰め、まさにそれが破裂しようとしたときだった。

「あのよぉ……なんか俺、無視されてねえ?」

 繊細な面立ちに困ったような表情を浮かべ、若葉が一歩進み出た。

「特に晶だ。協力するって言ったろ?」

 しかし先に反応したのは茨木童子の方だった。

「出来れば見といて欲しいんだがなァ、嬢ちゃん。なに、用事さえ済みゃそのまま無事に返してやるさ。オレに限っちゃ騙し討ちをしねえわけでもないんだが、この約束は守るぜ?」

「あいつの言う通りだ。今まで立ち居振る舞いを見せてもらってたが、随分と無駄が多い。正直、君はそれほど強いわけじゃないだろう」

 晶までも、視線は敵から外さぬままにそんなことを言う。

 若葉は怒りはしなかった。晶の背と茨木童子の顔を順繰りに見やってから、右拳を軽く左掌に叩きつけてにやりと笑ってみせた。

「そういうことなら、吠え面かかせてやるぜ?」

 言葉と同時の行動は無造作だった。倒れ込むような動きから、前方への跳躍とでも言うべき疾行法でまたたく間に茨木童子との間合いを詰める。

 速い。戦闘において速度を大きな武器とする晶より、僅かながらも確実に。

 晶が此処へと連れ去られようとしたときに食らいついたのは、決して不可解なことではなかったのだ。

 大人しくしていろと言った茨木童子だが、刃向うとあらば容赦するつもりはない。若葉の動きを視界の内に捉え、斜め右から弾丸のように迫り来るのに対し、右足を引いて少しだけ構えを変える。

 そしてその変化を逃す晶ではなかった。若葉と対称的な軌道で駆け、緩んだ守りの隙を突く。

 無論、先に辿り着くのは若葉であるはずだ。しかし咄嗟のことでありながら、晶はその援護さえやってのけた。




 オン マリシ エイ ソワカ




 摩利支天は光と陽炎の天部である。先行く光は己自身を敵に捉えさせぬまま闇を打ち払うことから軍神として扱われもする。

 その力は自分をしか対象とできないわけではない。

 若葉の姿が四つに増えた。元の場所からは消え、その周囲に現れたのだ。

 若葉は戸惑わない。よく分からないが自分が奇妙なことになっている、などということには紅葉のおかげで慣れているのだ。

 元の場所から消えたとは言っても本当にいなくなったわけではなく、見えなくなっただけである。そのまま真っ直ぐに駆けるのは愚の骨頂だ。

 だから若葉は本能じみた勘で軌道を変えた。蹴立てる砂利ごと消えたまま、茨木童子のより側方へと回り込む。一方で陽炎たちも散開した。

「ちィッ!?」

 茨木童子は短く唸る。

 本体の位置を見抜くこと自体はそう難しいことでもない。この『愛宕山』が自分の領域であるからには、すぐに割り出せる。

 しかしその暇もなく、霊刀の斬撃が来る。若葉が遠回りになった分、ほんの僅かにだけ早く晶が辿り着いたのである。

 そのほんの少しが絶妙だった。陽炎は晶が操っているにしても、若葉自身はそうではない。偶然の産物ではあるが、もしもこれが鍛え上げられた連携だったならば、荒水波にも匹敵する錬度と言えたろう。

 晶の刃を受け流す動きから続け、鋼鉄の対側で最も近い『若葉』の胸を突き破り、そこから大きく一振りすることで更に二人の『若葉』の胴をまとめて薙ぎ払った。攻防自在たる棒術の真骨頂だ。

 本物は姿を消したはずだが、見えているものも無視は出来ない。摩利支天の陽炎がいつ互いに入れ替わっていてもおかしくないことを茨木童子は承知している。

 屠った三つには、いずれも手応えがない。揺らぎ、靄のようになって消えた。そして伏せることで大薙ぎをやり過ごした『若葉』の拳が、確かな実体をもって右大腿に触れた。

 やはりいつの間にか陽炎の一つと摺り替わっていたのだ。晶の剣をいなしてさえいなければ、この最後の『若葉』も逃しはしなかったのだが。

 油断はしていなかった。若葉が徒手空拳であるのには何らかの理由が存在するのだと、茨木童子は見抜いていた。だから触れられたくはなかったのだが、こうなっては己の肉体の頑強さに委ねるしかない。

 大気が震えた。

 痛みを覚悟して、その上で次の瞬間に訪れたのは想像を絶する衝撃だった。鍛えに鍛えた男の胴をも凌駕する太さの、異常なまでに筋骨の発達した脚がその刹那だけ半分に潰れたかのようだった。

 踏み堪えるどころの話ではない。体積にすれば若葉の軽く十倍以上はあるであろう肉体が軽々と吹き飛ばされ、河原を転がって崖に激突し、ようやく停止する。

 されど茨木童子も凡百の鬼などとは違った。

「おぉぉぉぉああああッ!」

 咆哮。即座に跳ね起きる。強撃された脚でしかと立ち、揺らぎもしない。

 鋼鉄を構え、大笑した。

「すげえな、おい! 馬鹿力にもほどがあるぞ」

 茨木童子を吹き飛ばして見せたのは、技巧ではなく単純な力だ。繰り出された拳は理を知ったものではある。上体だけで放てば反動で己自身も吹き飛ぶことになる打撃を地によって支え、放ったのだ。それでも達人にはほど遠い。

 逆に、もしも玄妙の業までも手に入れたならば、少なくとも殴り合いで勝てる人間など存在しないだろう。若葉が地上最強を目指すと口にするのも大言壮語とは言い切れない。

「どうだ、痛いだろ?」

「ああ、痛いねえ」

 へへん、とばかりに胸を張る若葉はどこか微笑ましい。少年めいて、けれど息を呑むほどに繊細で可憐な少女なのだ。

 茨木童子にとってはその得難い素直さが好ましく、同時に哀れでもあった。

「金剛力の術……いや、単に異能か。金時と同じだな、野郎も似たようなことしてやがった」

 その推測通り、若葉は異能を有している。千草の風のように術混じりのものではなく、純然たる特殊能力だ。

 一度深く集中することによって自在に切り替えることが可能で、普段でも大人を腕力だけで捻り倒せるほどである剛力が、いざ異能を発揮すれば大抵の鬼をも凌駕するほどになるのである。

「これで俺も戦えるって分かったろ?」

 若葉の言葉は茨木童子というよりも半ば以上を晶に向けたものだった。きらきらとしたまなざしはどこまでも真っ直ぐだ。

 だが、晶は素っ気なかった。

「当たらなきゃ意味がないだろ。さっきだって僕が援護しなかったら頭を割られて終わりだった」

「その辺は多分なんとかしてくれるって信じてた」

 なんともあっけらかんと若葉は笑う。

 信じていた、その言葉が癇に障ったが晶は眉を顰めるだけに留めた。

「ともかく、同じ手は多分もう通じないんだ。危険過ぎる」

「いや、でも……」

「いんや、嬢ちゃんはやっぱり見学行きだ」

 茨木童子の声。

 それはどういう意味かと問う前に、瘴気よりもなお濃い黒の風がこの異界を駆け抜けた。

「虚ろの禍津風。こいつは本人に使うこたァついになかったが、坂田金時用に仕込んでおいた罠だ。運が悪かったな、オレは嬢ちゃんみたいな力の封じ方をとっくの昔に考案してあるんだよ」

「これは……」

 ごう、と鳴る黒の一吹きによってごっそりと霊力が削られたことを晶は感じとった。およそ総量の三割ほどを持って行かれたろうか。眩暈のように揺れる景色を抑え込んで茨木童子をしかと見据える。

 若葉の顔色も悪い。そして茨木童子までも顰め面だった。

「胸の底で感じるだろ。この場にいる奴の霊気を削り取る風さ。オレすらも例外じゃねえが、破り難い上に一流の術者でもぶっ倒れるくらい、きつい。もちろん、千年前の基準でな」

 術者の力量自体は今も千年前も変わらない。しかし、こと霊力量だけを抜き出せば現代の術者が劣る。千年前の一流でも耐えられぬほどであるということは、おそらく現代ならばこの国でも十指に入るほどでなければ凌げまい。

「う……」

 茨木童子の言葉を証明するように、耐え切れなくなったのか若葉が膝を突く。秀でた額には脂汗が浮き、シャツの背もぐっしょりと濡れていた。

「オレにとっちゃそれほど問題にならんし、白鳥しらとりにも致命的じゃねえだろ。さっきの麦藁嬢ちゃんだったら蚊に噛まれたようなもんだろうな。それどころか破りかねんが。だが……嬢ちゃんは違う。今の術者なんぞと比べりゃ格段に大きいとはいえ、それだけだ」

「だから何だってんだ! 俺の力は霊力なんか関係ないぜ?」

 もう一度立ち上がる。語調は明らかな強がりだが、膝は笑っていない。

 だが茨木童子はそこへ止めを刺した。

「嬢ちゃんの力は強過ぎる。自分の力で自分自身も壊すのさ、本来ならな。だから保護の術が必須なんだが……もう使うだけの余力もねえだろうがよ?」

「っ!?」

「得物を使わんのも、壊すからだァな。壊さねえほどの業は身につけてねえし、オレの棒みたいなのを使うにゃ身体が小さ過ぎる」

 正鵠を射ている。

 紅葉が創り、若葉に唯一使える術こそがそれだ。似たようなものはあれど、何から何までもを若葉用に調整して、若葉にだけは行使し易く、かつ強固に組み上げられた特別な術法である。

 この術の影響下にないときには絶対に異能を使ってはならないと紅葉にも懇願されている。

 武器を使わないのも、若葉自身の気性もあるが茨木童子の口にした指摘こそ最大の理由だ。

「それでも戦えないわけじゃ……!」

「やめろ」

 いっそ冷やかに、晶が遮った。

「効かない拳なんて振るったところで意味はない。むしろ心底足手まといだ。おとなしくここで見てろ」

「けど……!」

「しつこいようだけど、さっき君は僕がフォローしなきゃ危うく死ぬところだったんだ。あんないい加減な戦い方をされたら困る。君は一体なんのためにこの戦いについて来たんだ? 僕の足を引っ張るためなのか?」

 応えはなかった。

 若葉はまだ未練を残しているようだったが、ぴしゃりと切って捨てられたのが堪えたのか、見るからに悄然とした顔で傍の大岩に寄りかかった。

 その表情に胸が痛まぬわけではない。

 ただ、これで本来の姿に戻ったのだと晶は思う。

『あなたは特別な人間なの』

 脳裏を母の言葉がよぎる。

 特別だから、独りで成さなければならないのだ。

 不思議と安らいだ。

 なぜか、その表情を目にした茨木童子がぬたりと笑った。

「おう、使いっ走りの小僧が随分と偉そうに吹いたもんじゃねえかよ」

「それは言われるがまま、それだけしか出来ない奴にでも言うんだな」

 晶は眉を顰める。ぞわりと来るほどに不愉快だった。

「来いよ、茨木童子。今度こそ引導を渡してやる」




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