「一条戻橋」






 鬼の巨躯が一気に近付く。

 景色を置き去りにして晶は駆ける。手にするは名もなき刃、ただし童子切安綱の霊力を受けた。

 背後の三人の力を当てにしてはいない。この期に及んでとも言えるが、彼女たちをなるたけ危険に晒さぬようにするには自分が白兵戦を行うしかないと考えての行動だ。

 だが、晶の思惑は良い意味で外された。

 ごう、と耳元で風が鳴いた。背後から追い抜いてゆく。白いものが舞った。

 呪符だと気付く暇もあらばこそ、生き物のように、むしろ鳥などには不可能なほどの奇怪な軌道を描き、十二枚のそれは鬼へと殺到した。

 迎え撃つは一閃。

 目にも留まらぬ技の冴えにより、一振りで鋼鉄が七枚までを叩き落とす。

 七枚も、ではない。本来であれば返す閃きで残る五枚をも吹き飛ばすはずだったのだ。

 風に乗り、呪符は返しの一撃の軌道から瞬時に外れていた。一枚は低く、一枚は頭上から、残る三枚は鬼の左腕を遡るように。

「は」

 愉快そうに鬼が肩を揺する。それだけで己の周りに暴風を渦巻かせた。それは今まで呪符を操っていた風を砕き、荒ぶる強い流れでもってくわえ込む。

 しかし既に晶が眼前まで辿り着いていた。

 横薙ぎの斬。刃は鬼に届きはしないが、霊気の残光が小さな嵐を割った。

 解放された呪符を尻目にもう一歩踏み込む。手首を返し、半ば右肩に担ぐような形から斜めに切り下ろした。

 狙いは左脚だ。勝利への布石としてまず足から殺すのは有効な手である。何より、巨躯の鬼を小柄な晶が斬るならば、ちょうど斬り頃の位置にある。

 速さも鋭さも迅雷、加えて強い霊気まで纏った剣閃は丸太を遥かに越える太さの鬼の脚すら断ち切るだろう。

 だが、成せない。聳え立つように、甲高い音を立てて頑強な鋼鉄が遮っていた。

 棒とは優秀な武器である。部位に囚われることなく、どこを使ってもよい。攻めは自在、守りも自在、剣としても槍としても盾としても使える。単純なつくりであるため構造上弱いところもない。

 欠点を挙げるとすれば殺傷力に劣ることだろうか。しかしそれも、戦闘術として棒を磨き上げたならば人程度の大きさの生き物など容易く打ち殺せる。

 ましてやこの鬼が扱うのは太さが男の腕ほどもある鋼鉄の逸品、そして振るうのはそれを軽々と操る膂力と体躯。直撃すれば羆でも肉片と化すだろう。

 生成りの頃ならばまだしも、今となってはもう絶対に打ち合ってはならない。たとえ霊刀は耐えられても、人の肉体が壊れてしまう。

 晶は大きく跳び退った。ただ盾のように遮られただけだというのに手が痺れている。

 隙である。鬼にとって、この瞬間は好機であったはずだ。

 が、その場に縫い留められざるを得なかった。

 晶が仕掛けた隙を突いて、巨体に二十枚以上の呪符が纏わりついている。先の十二枚自体を囮とし、晶の後ろに張り付くようにして追従させていたものである。

「顕現!」

 短く鋭く、千草が起動の命を発する。

 その瞬間、風によって操られていたすべての符が、執拗に巻きつく蛇の如き振舞いのまま、突如短刀へと変化した。

 武装法だ。符を用いて一度に多数の短刀と成し、手の内から離れても持続するのは千草独自の工夫である。

 もっとも、欠点も生じてしまった。顕現の瞬間にその場に固定されてしまい、宙空にあれば止まった後で落下してしまう。

 だからこの方法で行う場合は、停止時に顕現させておいてから投げるのが通常の使い方だ。

 しかし、この欠点をこそ利用するやり方も心得ていた。それを今、行使する。

 機を合わせる。鬼の肌に触れる距離で刹那だけ空間に固定され、食らい込むような顕現の流れそのものが切先を鬼の肉へと押し込むのだ。

 そればかりではない。固定がどれほど強固になされているのかは千草自身も把握し切れていないものの、もしも鬼が晶を追って踏み出していたなら、押し通ることができたにせよ己自身の力によって深く抉られるのは間違いない。

 そう、追ってくれさえしたなら大きな傷を負わせることが出来たはずなのだが。

 派手に血煙が舞うが傷は浅い。ひとつひとつは精々が皮膚を裂いた程度のものだ。

 鬼は動かなかった。この術の中身までは見抜けぬまま、それでも文字通りの鬼神めいた勘で行ってはならぬと察したのである。

 しかし千草はくすりと笑った。

「凄いわ、おじさま?」

 これでいいのだ。自ら口にしたことがあるように、敵を斃すことを目的とはしていない。晶への追撃を防ぐとともに、もうひとつの時間稼ぎも出来たなら充分だ。

 千草よりも更に後ろ、守る若葉の背後で紅葉が紡ぎ続けている術法がある。

「力をお貸しください。命果てた無念を、わたしに」

 呼び掛ける相手は昨夜の戦いで生を終わらせた木々や草花たちだ。

 精霊、神霊に真に親しむ紅葉は整えられた祝詞を必要としない。あるいは、あらゆる自由な言葉が祝詞となる。

 紅葉は憤らない。無為に散る命はいくらでもある。生命は流転する。何ものもが多くの死の上に生きているのだ、己自身も例外ではないのだ、果たして何を言えようか。

 だが、悼むくらいはいい。

 白くしなやかな両腕を軽く、優しく広げる。

 純白のワンピースは今や屍衣めいて、死して後、未だ世界へと還り切らぬ魂たちの受け皿となる。

「そしてお休みなさい、永遠とこしえに」

 決して強くはないのに凛として響く声。

 一帯にほのかな燐光が浮かび上がった。西日に焼き尽くされそうに見えながらもゆるゆると舞う数多の小さな光は、ひとつとして同じものはない魂の最後の輝き。導かれるように紅葉に触れては世界へと消えてゆく。

 どこまでも静かに、呪は完成へ至る。

 迷える魂を鎮め、受け取った無念でもって敵を侵す一手。即興の術法だ。

「あなたに痛みを」

 清冽な双眸、視線に乗せて呪は放たれた。

 回避など出来るわけがない。刹那の時すら必要とせず、短刀の群れを振り払い改めて晶を追おうとしていた鬼を捉え、浸透する。

 右肩、胸、左腕、左脚。四箇所が破れる。青の着流しが朱に染まった。

 深さは先の千草の短刀がもたらした傷の比ではない。

「……これはこれは!」

 鬼が大笑する。血塗れていることそのものも楽しそうだが、真に感心したところは別にある。

 怨の念でこれを成したことが重要なのだ。鬼は暴虐の輩であり、幾千幾万の恨みを浴び続けた存在である。だからこういった類の術法には極めて強い耐性を持っている。事実上、通じることなどないはずだった。

 だというのに、これだ。

「貫いて来たかよ! 単純に人間業じゃねえぞ、おい」

 歓喜の声を上げながら、今度こそ晶に迫る。

 振るわれる鋼鉄は達人の域。打ち下ろし、跳ね上がり、晶を上下左右に翻弄する。

 しかし晶も乗せられはしない。弧を描き、あるいは突き出される先端をことごとく見切っては、嵐のような攻勢の中に一筋の穴を見出そうとする。

 技と読み、速さは互角だろう。だが一撃のもたらす威力には大きな差があり、おそらく持続力も鬼が勝る。長引けば不利だ。

 それを後ろから把握しながら、紅葉は次の術に移っていた。

 鬼の棒術は恐ろしいほどの冴えを見せている。白兵戦での攻略は難しいだろう。

 だが、そこに穴を作り出せる術を紅葉は心得ていた。晶の剣腕はおそらくあやめに勝るとも劣らない。穴さえあれば貫いてくれると判断したのだ。

 繊細な美貌は幽玄。小さなくちびるが呪を唱える。

「書に記され、人の伝える。此処は一条戻橋、遭うたる鬼の腕を獲る」

 呪法『一条戻橋』。

 平安時代、鬼の片腕を切り落とした渡辺綱の伝承を基盤とした術だ。

 鬼にしか効かない上、伝承でも後で腕を取り戻されたために、一人の術者が一体の鬼に対して一度しか使えないという限定的な術だが、それだけに鬼にとっては抵抗の難しい術となる。そして紅葉の力量をもって使うならば、たったひとつの例外さえ除けば鬼の王の腕であろうとも容易く落とす。

 片腕となっても得物は振るえるだろう。そのくらいの怪力であると見た。しかし棒術は両手で行うものである。片手では巧を欠く。

 呪は過たず鬼を捉えた。

 必勝の道筋、最も堅実で確実な手。決して油断ではなく、侮っていないからこそ選んだ術法。

 その手が、術者に牙を向いた。

 紅葉の右腕に赤い筋が走る。前腕がぱくりと割れ、鮮血が溢れ出したのだ。

 術を破られたがための逆さ風。腕を奪うならば腕を奪われる。

 他の術ならばあらかじめ対処もしてある。まともには受けなかった。が、無効化されるはずのなかったこの術だけはそのままだったのだ。

 完全に予想外でありながら、本来であれば片腕を完全に殺されるところを咄嗟に力尽くで傷にまで抑え込んだことこそ、紅葉の術才の真価である。

「っ……!」

 苦鳴を喉の奥に留め、紅葉は即座に治癒に入る。返しの風による傷は癒え難いが、少なくとも血だけは止めておかなければならない。

「紅葉!?」

「……大丈夫」

 気付いて顔色を変える若葉を言葉だけで押し止め、紅葉は答えを得る。

 思わぬ事態に陥っても思考は曇らない。事実を事実として受け止め、そこから敵の正体を即座に推測してみせた。

「あなたはもしかして……」

 声は細いが精気は失われていない。双眸も怜悧な光を宿している。

 『一条戻橋』には唯一、術そのものが根本的に通用しない鬼が存在する。

 この術は一度しか用いることが出来ない。紅葉が目前の鬼に対して使ったのは初めてだが、そもそも術の根幹を成す因果には本来の標的があった。

 その標的、この術の利用する因果によって既に腕を奪われたことのある鬼にだけは、力の多寡によらず効かないのだ。

 推測が正しければとてつもない相手だ。同時に、この事態は決して力ある鬼が暴れているというだけでは済まされないことを意味する。

「ああ、そうか」

 晶を大きく弾き飛ばし、鬼が苦笑じみた顔を見せた。どのような術を仕掛けられようとしたのかを察したのだろう。

「悪かねえよ。そんな術まであるたァいっそ光栄なほどだ。判断自体は間違ってなかったんだろうが、巡り合わせが悪かったってぇとこかね」

 鋼鉄の棒を掴んだままの右腕が肘のあたりで外れる。

 これこの通りとばかりににやりと笑ってまた接ぎ合わせ、唸りを上げて鋼鉄を縦横に操ってみせる。

 割って入れるような演武ではなかった。豪放なその動きをただただ見守れば、やがて仕舞いとなったのか鋼鉄で地を突いた。

 足元が揺れる。どれほどの衝撃だったというのだろうか、椀状に抉れてさえいた。

 未だ引かぬ黒雲の下、鬼が耳まで裂けた口から牙を覗かせる。

 そしてけれん味たっぷりに名を告げた。

「そういえば名乗り忘れていたなァ。オレは人呼んで茨木童子。大悪賊、大江山の副首領ってぇやつさ」












 茨木童子とは、大江山に棲んでいた酒呑童子一党の次席である。

 現代においても高名とまでは言い難いが、強大な鬼として知られる。記録によれば三百人力、数多の神通力を行使する、歴史上十指には入るであろう鬼だ。

 出生には諸説ある。有名どころでは越後と摂津だが、事実を知るのは自身と、あとは酒呑童子くらいのものだろう。

 特筆すべき事項として、記録はどうあれ実際には茨木童子は斃されていない。源頼光と四天王による討伐を生き延び、その後で四天王の一人である渡辺綱を一条戻橋で襲撃、腕を切り落とされたもののその七日後には取り戻して姿を消しているのだ。

 茨木童子は強かである。鬼に横道はないと言い放った酒呑童子の言葉に、必ずしも沿う鬼ではない。

 だからこそ副首領に相応しい。直情的で野放図な鬼たちの手綱を引き締め、あるいは酒呑童子に足りないものを補える。

 そしてだからこそ、源頼光たちの策略を見抜き切れなかった己を許せないのだ。




 さても弱った、と茨木童子は内心で唸る。

 見栄は切って見せたものの、目的がある以上は闘争に酔いしれるわけにもいかない。

 深月の語った情報は、厳密には求めたものと異なっていた。しかも一応は知っていることですらあったのだ。

 しかし、にやりと笑った彼女の言葉には素直に頷くしかなかった。

『なに、ようある話よ。求める答えを既に持っておるなどということはな』

 充分に価値はあったと思う。厄介な仕事をひとつ成功させなければならないが、うまくゆけば仲間に今度こそ最高の闘争を味あわせてやることが出来る。

 問題は、厄介な仕事が本当に厄介極まりないことになってしまったことだ。

 白鳥はいい。最も重要ではあるが、一対一であれば目的を果たすにも余裕はある。

 歳に似合わぬ色香の娘もいい。白鳥の片手間に何とか出来る。

 日焼けした少女は守りの姿勢で最初から動いておらずよくは判らないものの、少なくとも今のところ問題になると思えない。

 だが最後尾の術者は駄目だ。神代の遣い手だから、などという理由では足りない。称賛した通り、力量そのものが疑う余地もなく人を超えている。与えることの出来た竹箆返しは本当に巡り合わせによるものであり、ここから先は致命的な術ばかりを矢継ぎ早に放って来ることだろう。勝ちに行くならば早急に潰さなければなるまい。

 しかし冷徹に計算すれば、白鳥を捌き、妨害をいなし、守る少女を抜くまでに自分が生きていられるとは到底思えない。後回しにすれば言わずもがな。どう戦っても一人か二人を道連れにするのが精一杯というところだろう。

 情動に身を任せるならばそれでも構わなかったのだが。

 声もなく笑う。ままならぬことが何故か楽しかった。

 力と人となりを味見してみようと思ったことはどうやら軽挙であったようだ。やり方を切り替えなければならない。

 攫うしかあるまい。かつて、渡辺綱に試みたように。

 頭上の黒雲ならばまだ消えてはいない。見せてやることとしよう、本物の鬼の力というものを。

「此処は一条戻橋」

 奇しくも言葉は同じとなった。

 急速に光が薄れる。黒雲が下りて来る。薄墨に世界が塗り替えられてゆく。

 最も早く行動したのは晶だった。千草はオフショルダーニットの裏側から符を取り出すのに、熟練なれど四分の一秒を必要とする。紅葉は対抗すべく大がかりな術の準備をしてしまう。最前列から斬りかかるだけの晶が圧倒的に早いのだ。

 霊気を纏う刃が脇腹に食い込んだ。闘争を旨とするこの身に、痛みなどいかほどのことか。がばりと抱え込む。無理に連れ込むには接触している必要があるのだ。

 行われようとしていることに勘づいたのか、紅葉が何かを言おうとするがもう遅い。

 神霊ばかりではなく、力ある妖は自らの異界を持っている。どの程度の広さであるかは力量によるが、茨木童子はひとつの山を覆って余りある。

 異界はその主のための、半ば世界そのものに支えられた領域だ。ただの術などとは強度の桁が違う。いかに紅葉の力量が人間離れしていたとしても、名だたる鬼である茨木童子の異界を外側から独力で破ることは不可能に近い。

「こいつは連れてゆく。しばし、おさらばだ」

「くそっ!?」

 晶が暴れるが、思うようにはさせない。

 景色が切り替わる。世界が切り替わる。千草と紅葉の姿が見えなくなる。

 だが、招かれざる客が一人混じってしまっていた。

 どれほどの瞬発力を持っているというのだろうか、そして訳も分からず本能的に食らいついていたのだろう。

 ずっと紅葉を守る位置にいた若葉が、今は晶の肩を捕まえていた。ともに異界へ引きずり込まれているのだ。

「やらせるかよ!」

 そう叫ぶのは、状況をよく理解出来ていないからだろう。

 何にせよ、今から送り返すなどという間抜けな真似をするわけにはゆくまい。

「はーはははははっ、ついでだから嬢ちゃんも招待してやるよ」

 茨木童子は些か奇妙な笑い方で二人を誘った。




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