「鬼来たる」
現在と過去、いずれにおける術者が優越するのか。
この命題への答えは一言では表し切れない。
技術としては、多くの要素において現在が優勢となる。技は常に研鑽され続けるものだ。より少ない力を用いてより大きな効力を得られるよう、あるいはより多くのことをより容易く成し遂げられるよう、進化し続ける。
無論、失われて再現できない技術もあるが、進む時の中で磨き上げられた多様な術法はそれを補って余りある。
しかし逆に、個人の力は弱まった。根本的な霊力や言霊の強さなどは、なまじ技術が発達したがために強大である必要がなくなり、世代を経ながら衰えたのだ。
総じてはどちらが優越するとも言えない。
ただし、間違いなく言えることが一つある。
技術は当然ながら後天的に獲得できるものであり、存在を知っていれば模倣し、果ては改良することも可能だということである。
淡い光が浮かび上がる。
それは太陽よりも遥かに弱い輝きでありながら、打ち消されることなく一帯に広がっていた。
中にあるのは島の姿だ。南北を5mほどにまで縮められた、淡路島である。
精巧、などという言葉では済まされまい。芥子粒のような自動車が移動してゆくのが見える。強い風が山を撫でたのか、緑の細波が赤みを帯びて伝わってゆく様までも幻像に映し出されているのだ。
晶は声もなかった。
つい数分前のこと。広範囲に木々の薙ぎ倒された昨夜の戦いの跡をしばし痛ましげに見つめた紅葉がおもむろに膝を突き、呟くように言ったのだ。
『力をお貸しください』
最初に現れたのは、ただの点だった。しかし同じような点が見る見るうちに増えてゆき、やがて淡路島を形作ったのである。
口にしたのが常軌を逸して強力な言霊であったことは分かる。その言葉を起点として術法が紡ぎ上げられているのであろうとは分かる。
だが、これほどのものを構成できるはずがない。淡路島は南北50km、東西20kmを越える。これだけの精度で幻像を創り上げるならば、何千何万という式神を放ち、得られた情報を統合するしかないのだ。
紅葉は今も膝を突いたままで目を伏せている。その横顔はどこまでも静謐で、純白のワンピースとも相まって決して触れてはならぬものを目の当たりにしているように思えた。
と、千草が幻像の一点を指差した。
「出るわよ」
この地点よりも10kmほど南に、赤い光点が一つ。緩やかに明滅しながら留まっている。
「そこにいるってことか」
「そうなんだけど……」
晶の言葉に頷きながらも、千草は困ったように眉尻を下げ、ほんの少しだけ笑った。
「確か、深月さんのとこってこのあたりだったような……」
「……まさにそこです」
紅葉も双眸を上げて小さく嘆息する。
「これなら普通の探査術でもよかったです……」
この術は、そこら中に遊ぶ小さき精霊に願いかけ、そこから集められた情報を統合して立体小図を作り上げるものだ。島全体を調べながらどれほど小さなものも逃さず、当たり前にそこに在るものの目で見ているために神霊や、せめて大精霊にでもなければ気付かれることがない。
最も必要とされるのは、精霊たちと当たり前に通じ合えること、そして受け入れてもらえること。術才や研鑽だけでは、それが天地を転覆させるほどのものであっても決して為し得ない術法である。紅葉にしてすら、慣れ親しんだこの島以外では情報が抜け落ちてまだらになってしまうのだ。
今回これを用いたのは標的に気付かれないようにするためだ。追跡の手を一度絶った以上、向こうは目から逃れたと考えているはずである。そこで気付かれぬまま追うことができれば、大きな利点となるのだ。
しかし深月の<天眼>には隠し通せない。無論、黙っていてくれれば問題はないのだが、それはあまりに都合のよい考えだろう。
「あの人、天津神関連以外では限りなく中立に近いもんね。けどそうか、考えてみたら妖が淡路に用があるっていったら、一番考えられるのは深月さんのとこか」
「どういうことだ?」
話が見えず、晶は問いかける。
おそらくは逆探知されづらい術を使ったのであろうことと、それでも見つかってしまったこと、そして深月なる人物が妖にとって有用な何かを持っているということまでは推測出来ている。訊きたいのは、ではあの生成りが何を得てこれからどうするかだ。
「奴はどうなる?」
「欲しかった情報を手に入れた。それは間違いないでしょうけど、中身までは判らないわね。あの人の『眼』にかかればほとんどのことを調べられるし」
「なるほど、それでどうせ気付かれるのなら普通の探査術でもよかったということか」
晶は落胆もしなかった。元々さほど当てにしていたわけでもないのだ、場所が分かっただけでも充分過ぎるほどだと思う。今からでも追いつくのはすぐだ。
三人のことは気にせずに、印を結ぼうとしたときだった。
「……移動を始めました。秒速…………およそ150m、こちらへ向かって来ます。一分もかかりません」
紅葉が囁くような声で告げる。速度を述べるまでちょうど5秒空いたのはその間の移動距離を測っていたのだろう。
「こっちにって……ここに来るのか」
晶は唸る。探知されていたことに気付いているならば偶然ではない。こちらへ来るならば、目的地はここなのだ。
そして、標的は自分だろう。憎しみを見せながらも今まで殺そうとはしなかった理由が解消されたということなのだろうか。
知らず、口許に笑みが浮かぶ。雪辱を果たせる、そう思うと胸の奥が疼いた。
「分かり易くていいな! 探すなんて正直うげぇとか思ってた」
だが、横に並んだ若葉が清々しいほど快活にそんなことを言うものだから妙に気が抜けてしまう。
「……あのな、そんなことじゃ」
退魔師として失格だと言おうとして、そもそも未だ自分にとっては正体の知れない少女だったことを思い出した。どうにも調子が狂う。今、まるで旧知の間柄だったかのように錯覚していた。
南を向いた視界の中央に黒雲が湧いている。なんとも古めかしいが、鬼に限らず多くの力ある妖が飛行の際にまとうものだ。先ほど聞いた速度といい、もう既に完全に鬼と化してしまったのだろう。
「……帰るなら最後のチャンスだぞ。死んでも僕は知らないからな」
振り向かぬままで三人に言う。
さしもの晶も、あれから更に強くなっているのであろう相手に勝てるとは言えなかった。ましてや守るなどとは。
しかし負けない。
『あなたは特別な人間なの』
その声が、言葉が湧き上がりかけた恐怖を掻き消してゆく。昨夜重傷を負わされたことなど、己を誤魔化すまでもなく忘れ去った。
黒雲。
それは南から、東へも広がりながら北上して来る。
西へは行かない。その様は沈みかけの太陽すら恐れるようだった。
黒雲。
濃い灰色が山の直上にまで至った。
来る。
身構える暇もあらばこそ。
音もなく、黒雲の中から巨躯が降り立つ。
軽く3mはあるだろう。背丈に比してすら過剰とも思える筋骨隆々とした肉体を青の着流しめいた衣で覆い、牙を向き出して笑う。双角は天を衝き、裂けた口から瘴気が溢れ出す。。
「おう、本当にぴんぴんしてやがるな、あれだけボコボコにしてやったってぇのに」
「そっちは随分と調子がよさそうだな」
竹刀袋に隠しておいた童子切安綱の模造刀はとうに抜き放ち、晶は口許に皮肉げな笑みを刻む。
改めて観察するまでもない。やはり完全に鬼と成っているのだと、姿も纏う妖気も何もかもが告げている。
ゆっくりと息を吐き、吸い。
「よく分からないが、欲しかったものは見つけたのか?」
「おうさ、いいことを聞かせてもらった。望んだもの以上だ」
からからとけれん味たっぷりに鬼が笑う。隙だらけにも見えるが、それはあえて見せてあるものだ。迂闊に踏み込めば死が待っている。
晶は全身を撓め、その死をも切り裂くべく機を窺うのだ。
「なら、それを抱えたままで死ね」
「強気だなあ、おい」
鬼はなおも笑い、そして残る三人にも目をやった。
「女子供が三人増えたくらいで、といつもなら言うとこなんだが……ただの嬢ちゃんじゃないそうだな」
「あら、深月さんってばそんなことまで喋っちゃったの?」
歳に似合わぬほどに艶然と、千草が微笑む。晶とは対照的に、まだ戦いに備えた様子はない。剥き出しの肩をすくめて小首を傾げる。
圧倒的なまでの鬼気など知らぬかのように、華やかに問うた。
「状況がややこしくなる前に聞かせて? 今後、何をしたいの、鬼のおじさま?」
「うはははは、人間としてはまだ三十年も生きちゃいなかったんだがな、その呼び方も悪くはねえ」
鬼は相変わらず隙だらけ、に見える。魁偉な鬼貌をくしゃくしゃにして、陽気に衒いなく、凄惨な未来を告げた。
「壊す。殺す。喰らう。力こそ我らが本懐。すべてを暴虐にて蹂躙し、享楽に耽る。文句はあるか?」
それは古い、千年前の鬼の在り様だ。鬼が鬼として最も荒ぶっていた時代の。
人にも理解できないことはないだろう。しかし付いてゆくことはまず叶わない。人を外れて初めて追いつける。
木々がざわめいた。力ある鬼の意思を、小さな精霊たちが恐れたのだ。
「もちろんあるわ、おじさま」
甘く緩んだ目許に悪戯な色。千草は不吉な言葉に呑まれない。三人を代表するように朗らかに言ってのける。
「あたしたち、今の生活を楽しんでるの。そういう物騒なのはちょっと、ね。住みにくい国になるのは嫌だもの」
「そうかいそうかい、そいつは相容れねえなあ」
巨大な口を実に愉快そうに吊り上げ、鬼は身を揺する。ぎらつくような双眸にあるのは歓喜だ。
「罪のない人々を云々、たァ言わねえか」
「そういう気持ちもあるわよ。でも、おじさまにとっては無価値な言葉。でしょう?」
千草は相手に合わせて言葉を使う。
効かぬ言葉、通らぬ想い、その甘い痛みも知らぬわけではないが、そんなものを使うのは本当に大切な相手にだけだ。
今、目の前にいるのは正体の未だ知れぬ鬼。それも極めて強い力を有する。身構えずとも、既に戦いは始まっている。
「一度だけ、形式的に聞かせてね。人と融和して生きていくつもりはない? あるいは、大蛇様の世界は何ものも拒まないわ。たとえ敵であってすら」
「ねえな」
きっぱりと、端的に。鬼はいっそ静かに答えた。
気を悪くした様子はない。しかしそれ以上の説明もしない。生き方は語るものではなく示すものだ。既に語り過ぎたくらいなのである。
千草は振り返らぬまま、ほんの少しだけ苦笑した。
「諦めてね、紅葉」
返事はなかったが、頷いたであろうことは判った。
世界が赤い。春も終わろうというのに空気が凍えてゆく。
木々がざわめく。風が強い。ただの流れではなく、鬼と千草とがその力を解放しつつあるのだ。
「君の言う通りね、美少年クン。協力するわ」
「まあ、面倒がないのはいいことだ」
半ば背を向けるように身を捻り、くすりとも笑うこともなく晶は頷く。双眸は鬼を惑うことなく見据え、戦いへと心身を練り上げてゆく。
あるのは高揚だけだ。他の何もかもは薄れて消え、やがて目の前の鬼だけが意識に残る。
なぜだろうか、とてもしっくり来る。改めて対峙した今、再び湧き出した恐れはある、不安もある。それなのにこうしていることが自然に感じられる。
今まで相手をしたことのある雑魚などではない、ともすると国を揺るがしかねない敵。
ノウボウ タリツ タボリツ ハラボリツ シャキンメイ シャキンメイ タラサンダン オエンビ ソワカ
口を衝いて出たのは秘法中の秘法、太元帥明王の真言、国家鎮護の大祈願。
太元帥明王は一説にはすべての明王の総帥とされ、不動明王にも匹敵する霊験を顕す。その力は護国のためにこそ発揮される。
さしもの晶もこれだけで効を成すことは出来ない。難度ではなく、規模に問題がある。文字通り国そのものを守るための力、独りでは限度があるのだ。
それでも言霊として、山々に遠く響いた。
「ほう」
鬼がにぃと笑う。
「いかにも我らは国の災い、滅ぼすべき邪悪よ。そうでなくちゃいけねえ。来い、
巨大な手の中に現れるのは鋼鉄、鬼の巨躯をも越える長さの極太の棒だ。鬼の怪力をもって振るわれたなら、人など跡形も残らないだろう。
纏う暴虐の気配に草花は怯え、赤に染まった世界はこれから流れる血を見せつけるかのよう。
無言。
そして山肌に深く刻印される足跡。
とうに始まっていた戦い、双方が待ち望んだ動きの端緒は晶の踏み出した一歩となった。
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