「深月」

 えにしとは繋がりである。

 目に見えぬ、触れることも出来ぬそれは確かに結ばれ、不可思議なほど引きつけ合うものである。

 そして、その繋がりを利用した術法も存在する。

 似たもの、同じ要素を持つものの間には縁が結ばれる。厭魅えんみに代表されるような、身体の一部や持ち物を埋め込むことで人形と標的とを繋ぐ呪いがあるなら、逆に形代に厄を移して逃れる術もある。

 無論、そればかりではない。たとえば所有物から縁を辿って所有者を探し出すことも出来るのだ。

 晶が生成りを追う手段として用いていたのはまさにその手法だった。身に着けていた服の切れ端に術をかけ、猟犬の鼻に勝る精度で探し当てていたのだ。

「でも、失くしちゃった、と」

「失くしたというよりは、追われないようにあいつが持ち去ったんじゃないかと思うが」

 晶はため息をついた。

 どうやって生成りを追うつもりなのかと千草に問われ、答えとともに確認してみれば、入れておいたはずのポケットは空、他のどこにも見当たらなくなっていた。

 持ち去られたという予測は負け惜しみではない。むしろとどめを差さずに立ち去られたということになってしまうそちらの方がよほど屈辱的である。

「一体、何のつもりなんだか」

 淡路島からは逃げない。追われたくはない。なぜか自分を憎んでいるようで、そのくせ殺しはしない。生成りの行動は、まったくもって訳が分からない。

「それで、何か代替手段はあるか?」

 晶は三人を振り返った。まだ忸怩たる思いは残るが、力を借りると決めた以上は意見を求めることに惑いはない。

 海沿いの道路に車の通りは少なかった。昼下がりの波の煌めきは今日も眩く、潮風も薫る。

 その風にポニーテイルを揺らし、千草は小さく笑った。

「ふふん、そこはおねーさんに任せなさいな」

 その姿は、無論のこともう巫女装束ではない。ベージュのオフショルダーニットをワンピースのように着こなして、ウェストには太いベルトが緩く巻き付けられている。

 首筋から肩は華奢な鎖骨の陰影も艶めかしく剥き出しにして、下にはおそらくショートパンツでも穿いているのだろうが、傍目には際どいまでのミニスカートから健康的な太ももが伸びているようにしか映らない。

 随分と目の毒になる出で立ちである。

「昨日の夜に戦ってた場所は判る? そこへ行けば紅葉がなんとかできると思う」

「それ、千草姉ぇは何もしねえパターンだろ。任せろって何をだよ?」

 こちらはシャツにジーンズという飾り気の欠片も感じられない服装で、若葉がやれやれとばかりに頭を振る。

 陽に焼けても失われることのない繊細な面立ちに大きな表情。その落差が奇妙なまでに人を惑わせる。

「ってか、それで大丈夫なのか、紅葉?」

「……多分、大丈夫……」

 訥々とした囁くような声で、紅葉。ほっそりとした体躯を、今日は白いワンピースに包んでいる。太陽を避けるように大きな麦わら帽子をかぶっているのは、特に白いその肌のせいだろうか。

 晶はこの三人を量りかねていた。戦闘になる、それも命懸けのものであるかもしれないというのに、たとえば千草の服装はまったくそれに向いているように見えない。まるでこれから遊びに行くかのような装いだ。

 紅葉に関しても、後ろから術法で援護するのであろうからまだましと考えていいのかもしれないが、それでも山中を踏破するのには向かないはずだ。

「本当にそんな格好で行くのか? 舐めてないだろうな」

「まさか。必要あって、とまでは言わないけど充分に戦えるものを選んでるわ。むしろ晶クンの格好は人に見られたら目立つなんてもんじゃ済まないわよ?」

 あくまでも悪戯っぽい響きと表情で千草が返して来る。

 晶にしても自分の格好が人目につくのは判っていた。全体的には黒っぽい、耐刃繊維の仕込まれた戦闘服だ。それだけならただの黒尽くめで済むかもしれないが、袖や脇腹が破れているため気付かれれば不審に思われるのは避けられない。昨日穏形術を用いていた意味のひとつがそこにある。

「そもそも奴は見るからに人外に成り果てているからな、人前に出られない。こっちも基本的に街へ出る必要がないんだよ」

「なるほどねー。あ、でも、生成りなのに成り果ててるっていうのもちょっと不思議な表現よね」

 にこりと、千草。

 そんな揚げ足取りのようなことを言われても困るんだが、と思いつつもわざわざ咎める気もせず、晶は歩き出した。

 まだ、三人を信じ切っているわけではない。助けられたらしきことでもあり、一応は信用できるのかもしれないと捉えてはいるが、心を預けてはいない。

『あなたは特別な人間なの』

 絶対的に信じるものはその言葉と、その言葉が保証する自分だけだ。

 それは、己のみに価値を見出しているという意味ではない。任された以上は何もかもを自分自身で確かめたいのだ。そして本来戦うべきなのは自分だけであるとも思っている。

 あの屋敷で胸を掻き乱していた恐怖も今は元通り、不安にまで落ち着き、身体そのものに不調はない。

 大丈夫だ。

「……ともあれ、案内する。今は少しでも早く見つけ出したい」












 夕暮れまではあと少し。

 女は北の空を見遣る。

 二十歳ほどだろうか。小柄な美しい女だ。本当に何の装飾もない白の単を纏い、浅黒い肌に小さなくちびるが不思議な笑みを刻んでいる。薫る花、今咲き誇るように艶やかに。

「やれ、訪ねびとありか。茶の用意でもせねばなるまいな」

 片目でそう呟く。

 とは言っても、閉じられた右目には何の傷もない。一方で左は精気に満ちている。

 そして女は小さな庵に姿を消した。

 穏やかな風が吹く。もう春も終わろうとしているというのに、此処では初夏へと向かう風にはまだ変わらない。

 塀はない。垣根もない。しかし生い茂る草々が庭と外とを分けている。

 その切れ目が動いたのは、しばらくしてからのことだった。

 のそりと巨躯が現れる。

 こめかみからは短い角が生え、口許からは牙が覗き、元は洋服であったのであろうとだけ推し量れる衣は上半身をほとんど覆っていなかった。

 およそ誰に訊いても鬼と答えるであろうその姿は、携えた鋼鉄の棒を杖のように地へ突くと、果たして自分の求めたのは此処であったのかと惑うように辺りを見回した。

「そこな御仁、合うておるとも。合うておるともさ。ぬしは儂に会いに来たに違いない」

 くっくと笑う声。

 庵から女が顔を出す。右目はやはり閉ざされたまま、左目はからかうように。

 手にした盆には急須が一つと湯呑みが二つ。それをちょいちょいと示す。

「茶の用意もしておいた。氷雨殿か八重桜以外の来客は珍しいがの、八重桜は茶にうるさいゆえ悪くはないぞ。飲むじゃろ?」

「知ってたか。ああ、いや、それでこそか。それでこそ苦労してまでやって来た甲斐もあろうってぇもんだ」

 生成りは天を仰ぎからからと。しばし声を存分に吐き出してから向き直った。

「貰おうじゃねえの。思えば休む暇もなかった」

「とりあえず縁側にでも座るがよいさ。そっとじゃぞ? 儂の見たところ、ぬしが乱暴に振る舞うとこの庵は崩れてしまいかねんからの」

 女は先に腰を下ろす。頬にかかる黒髪を払えば、素直な流れは背を下って床に触れんばかりだ。

 生成りも、言われた通りに気を使いながら腰を落ち着けた。

 湯気を立てる湯呑みの一つを無造作に掴み、そのまま一気に飲み干す。人であれば舌を火傷するに違いないが、半ば以上を鬼と化した身にこの程度の熱さなど問題にはならない。熱に溶け込む風味をそのまま贅沢に味わった。

 粗野に映る所作を、しかし女は小さく笑って済ませる。

「余程喉が渇いておったか。まあ、そのなりで人前には出られぬわな」

「いかにもいかにも。雌伏のときは辛いもんよ。自分が鬼であると思い出しちまった以上はな」

 湯呑みを静かに置き、生成りは女を見下ろした。細く長く、息を吐く。

「さて、どうせオレの正体も分かってると見たが」

「分かっておるよ。神霊や真正の巫女でもあるまいに、世界へ還らず再び生まれ来るのは実に骨であったろう」

 右目を閉じたまま、女は悠然と自らの茶を口に含む。

 人にとって存在そのものが恐怖の対象となるはずの鬼を横にしながら、表情にも心中にも恐れはない。

「あまり旨くいってはおるまい。その右腕も、無理にくっつけておるだけじゃろ」

「はーははははははっ、分かるかよ、そこまで」

 生成りが些か奇妙な笑い方をする。どこか照れたような笑声だ。

 左手で右腕を引けば、それは肉と骨の切り口も生々しく、あっさりと離れた。だというのに一切の血が流れないことが不気味でもある。

「鬼だってことに目覚めた瞬間、ぽろりと落ちやがったんだぜ、これ? 元々はこれを治すためにわざわざ生まれ変わったってのにな。髭切恐るべしだ」

「遣い手の腕のほどもあるがのう」

 女の声はあくまでも飄々としている。生成りに共感を示すでもなく、拒絶するでもなく、ただのほほんと相槌を打つ。

 ふう、と丸い息を吐いて空を見上げれば、さすがに少しばかり赤みを帯びつつあるようではあった。流れる雲もほのかに色づいている。

「……それで、訊きたいのは『伝説との呼び名に違わぬ武具の在処』でよいな?」

「話が早くて助かるね。さすがは<天眼>の深月だ」

 おどけた口調で、生成り。

 そもそも淡路に来たのは、この女、深草深月に会うためだ。会って、まさに彼女の口にしたことを尋ねるためだ。

 その二つ名の元ともなった異能、<天眼>は万物を見通す。六神通の一つとして語られる天眼通どころではない。世界を読み解き、距離も時も越え、望むものを見通すのだ。

「言うておくが、儂の限度はたかが知れておるぞ? 本来の持ち主のような、森羅すべてに通ずる瑠璃の色の瞳のようにとはゆかぬ。あれでさえ高位の神霊や神器にはまともには触れられぬのじゃからしてな」

 深月はゆるゆるとかぶりを振る。その右目はまだ閉じられたままだが、その奥では抑え切れぬほどの力が荒れ狂い、溢れ出さんとしているのが生成りには感じとれた。

 それはきっと本当に、受け継ぐ前と比べたならば威を弱めているのだろう。しかし生成りの知る限りにおいて、彼女を上回る森羅見の力を持つ者は誰も存在しない。

「充分だ。別に神器が欲しいってわけじゃねえからな。そんなもん、今のあの野郎に使えるたァ思えんし。とりあえず刀が一番いいんだが」

「もの好きよな」

 当然のように深月には分かっている。生成りは、得たその武器を己の力にしようというわけではない。それどころか敵へ渡そうとしているのだ。

 その理由も知って、それでも口に出して問うてしまう。

「力満ちぬ今のうちに葬ってしまえばよいものを、何故じゃ?」

「誇りの問題だ」

 生成りは答えを迷わない。言葉を選ぶ必要のないほど、それは魂に刻まれた思いなのだろう。

「奴らはオレたちを倒した。騙し討ちではあってもな。少なくともあのとき以上の奴を倒さねえと意味がねえんだよ」

「満たされぬか」

「満たされんね。オレは意趣返しも嫌いじゃねえが、すべてを正面から叩き潰すってぇのがうちの首領の趣味でね」

「副首領殿は、まっこと忠義者よな」

 微笑のような苦笑のような、そんな笑みを深月は浮かべた。

 彼らは渾身の力を込めて真っ直ぐに繰り出される拳である。目の前にいるものすべてを破壊せんとする、闘争と暴虐の担い手だ。

 そして、その拳はいつか潰されることになる。『視』るまでもなく、彼らの滅びは予測できる。

 狂騒は一夜の夢。昇る朝日に掻き消され、あとは寂寥が残るのみとなるだろう。

 深月はその在り様が嫌いではない。懐かしくも思える。

 無論、それに巻き込まれた人々のことも忘れてはいないが。

「今代のあれは初代と二代目の生の影響が強く見受けられる。現状ではもう既に頭打ちじゃが、目覚めさえすれば……目覚めて力と経験を可能な限り取り戻すことが出来れば、ことによってはぬしらの目当て、四代目を凌ぎうる」

「ほう、そこまで強くなるかよ」

「嬉しいじゃろ?」

「嬉しいねえ」

 耳まで裂けたように見えるほどに口角を上げ、生成りが大きく笑う。

 喋るうちに、いつしかその身が一回り大きくなっていた。強敵との闘争に対する期待が、かつての姿を急速に取り戻させているのだ。

 筋骨はもはや人を越えて隆々とした威容を示し、纏う鬼気も、常人ならばそれだけで腰を抜かして泡を吹くほど。もはや生成りなどとは呼べない。

 重量に耐えかねてか、縁側が大きく軋みを上げた。

「む」

「おっと済まねえ」

 眉根を寄せる深月に、乱暴には振る舞うなと言われていたことを思い出し、なんとも殊勝に謝ったものだが、答えは予想と異なっていた。

 相も変わらず右目は閉じ、左だけで深月が見上げて来る。

「お主がここにおること、どうやらばれたようじゃ」

「おかしいな。追いかける手段は潰したし、そもそもしばらく起き上がれねえくらいボコボコにして捨てて来たはずなんだが……早速目覚めでもしたのかよ? そもそもオレだってここを見つけるのは苦労したんだぜ?」

 首を傾げる鬼貌は魁偉であるが、悪意のないせいか存外に朴訥にも映る。

 深月はくちびるの右端を吊り上げた。

「これは紅葉姫の仕業じゃな。ぬし、迂闊な場所に放り捨てたな。病院の前にでもすればよいものを」

「戸隠のがどうしたってんだ?」

「戸隠の鬼女ではない。氷雨殿……<緋瞳の戦巫女>の妹御の一人じゃ」

 立ち上がり、鬼を振り返る。小柄なせいもあって、それでも鬼を見上げることとなる。

 飄々とした佇まいは変わらない。艶やかな頬にわずかな笑みを残し、告げた。

「とりあえず今すぐにでも立ち去った方がよいぞ。求める武具の在処は教えてやるゆえな」

 乞われたときに手を貸す程度ではあるものの、深草深月は<緋瞳の戦巫女>一派として数えられる。口にした言葉はまだ中立であるが、鬼にとってはやはり味方というより敵の方が近いということになってしまう。

 鬼もそれは知っていた。だが、より気になることが一つ。

「そいつら『できる』のか」

 にぃっと、口が裂ける。

「手を出すな、たァ言わねえよな?」

「言わぬさ。そもそもあの子ら自身の考えで動いておるからの、氷雨殿に気兼ねすることもない。元よりぬしら大江山の面々はそのようなものとは無縁の気もするがの」

 茜色を背に、深月の右目が薄く覗く。

 そこにあるのは、高い高い空の果てを思わせる群青だ。淡く輝き、鬼の求めるものを見出さんとする。

 そして独り言のように呟いた。

「無情にして無常なるこの世界、知らぬ子らではない。縁あらば自身で問うてみるもよかろうさ」





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