第4話

 八月の終わりに急に秋めく日があって、出番は当分先だと思っていた掛け布団を押し入れから引っ張り出す羽目になった。その日の後、暑さは持ち直したものの、例年に比べて気温の下がり方は激しく、蝉の声が消える九月半ばには朝晩の冷え込みが堪えるようになった。

 仕事場でも羽織り物を着てノミを扱う健児は、時々例年にない類いの寂しさに襲われるようになった。孤独感から来るものはこれまで何度もあったが、犂先作りに打ち込むと心に決めることで乗り越えてきた。最近襲い来るのはそんな心の持ちようを凌駕する高波で、ともすれば工具を握るのが怖くなるほどであった。

 武雄と話をした後、彼に倣って仕事を引退してもいいかもしれないと思ったこともある。その揺れ動く心情を抱えながら仕事場に入ると、それまで積み上げてきたものを失う怖さがはっきり感じ取れ、更に自分自身の老いまで意識してしまう。犂先の職人を辞めることは人生そのものを終えることになるような気がした。

 その不安や怖れさえ、それまでのように仕事に打ち込むことで何とか忘れられる。やはり体が動く限り仕事は続けよう。そう決める頃には十月半ばとなり、目の覚めるような色だった田圃も柔らかな見た目へ変わっている。それを楽しむことができたのはわずかな間で、農民たちが稲穂を刈り取っていく。後には、彼らがカブタと呼ぶ稲の切り株と、半年に渡って稲を育み続けた土が残された。

 お盆の頃に立てられた稲架に、刈り取られたばかりの稲が架けられる。五日ほど秋の風にさらして乾燥させることで、腐敗を防ぎ、重さを減じて運びやすくする。個人で車を持つ者はほとんどおらず、セナコウジで背負わなければならないだけに、少しでも負担を減らす準備は重要だった。

 それを横目にして、健児は自分の仕事も忙しくなるのを感じていた。春に向けて犂の修理を頼む農家が現れる時期である。まだまだ必要とされている以上、やはり辞めるわけにはいかない。

 犂を直す関係で顔見知りとなった昭が珍しく訪ねてきたのは、稲架も片付けられた十月末のことであった。

 彼がセナコウジで運んできたのは、米が詰まった麻袋であった。

「いったいこれは、どうしたんですか」

 昭が訪ねてくるのも意外だったが、六十を超えた男の荷物にしてはいささか重すぎるように思えた。

 昭は健児に許しを得てから上がり框に腰を下ろした。その動きもかなり重たげで、見かねた健児は米袋を持ち上げてやった。一キロはありそうな袋によろけながら、床に何とか置く。

「あとで運ぶのを手伝いましょう」

 十月末というのに、顔に汗をにじませた昭は笑みを見せた。

「どうしてわざわざ」

 心当たりがないままに訊くと、お礼ですよ、と昭は答えた。

「いつも犂を直してもらっているので、精米したばかりのものをあげようと」

「良いのですか。貴重なのに」

「息子と話し合ってこの量にしたんです。損が出る程じゃありません。善意ですから受け取ってください」

 言われるままに米を受け取り、昭が帰った後に米櫃へ移す。二日で尽きそうな量を前にして、健児はふと自分だけで食べるのはもったいない思いにとらわれた。何人かの顔を思った時、最も鮮明に浮かんだのは息子の家族であった。

 すぐ近くの公衆電話で連絡を取ると、急すぎるとぼやきながらも日曜日に来ると約束してくれた。

「母さんが死んでから初めてじゃないか。自分から俺たちを招くなんて」

 政男は最後にそう言い、電話を切った。健児に自覚はなかったが、いつしか仕事に没頭することで心を閉ざしていたのかもしれない。そう思うと、たまにしか会えない璃子にも寂しい思いをさせていたのではないかと申し訳なくなった。

 日曜日の昼頃、政男は家族で訪ねてきた。家族で食事をするだけだが、それもまた何年もしていなかった気がする。朝の内に炊いた白飯はほのかな甘みを漂わせて各自の膳に並べられる。味噌汁と焼き魚を添えたが、白飯の新鮮な香りは失われない。

「おいしそう」

 璃子の呟くような声に作為は感じなかった。

「今年採れたばかりの米で炊いたんだよ」

「そんなものを、どうして父さんが」

「知り合いに分けてもらった。犂を直してもらっているお礼としてな」

 政男の問いに答えてから、食事の号令をかける。かつては毎日していたことだが、時の移ろいと共にその役目も必要がなくなってしまった。献立自体に大きな変化はないが、束の間昔に戻ったような心地で美味しく食べられた。

「その人、儲かってるのかな」

 政男が言った。

「儲かっているかどうかは知らん。ただ善意で分けてくれたから、余裕はあるんだろう」

「生産力が上がってるってことか」

 健児は何も答えなかった。昭自身は犂を使っているが、息子は耕耘機を導入していると聞く。機械の力は能率が良い上に、より深く土を耕すことができる。深く土を耕せば、その分根は深く伸びるし、雑草も表へ出にくくなる。それらの要素が生産力の増大へとつながる。人力から畜力へ移り変わる原動力もまた、深耕と生産力増大への希求であった。

 健児は美味しそうに白飯をかき込む璃子を見た。新米の向こうにどんな人の働きがあったのか、想像できるほどではないだろう。確かなことは、生産力の増大が子供の飢えをなくすのにつながるということだ。璃子が大人になる頃、機械化は盛りを迎えているだろう。生産力が上がれば少なくとも食べ物で困ることはなくなるはずだ。

 それを成し遂げるのは、より高い馬力を持つ道具ではないか。

 犂先を作るのは自分自身のためであった。しかし評価の高い仕事を続けるうちに、自分の気づかないところで生産力の向上に腐心する農民たちを助け、感謝を受けるほどになっていた。その農民たちはいっそう大きな実りを手にしようと、先へ進む。自分の仕事は自分自身のためだけではないとしたら、これから先の選択が少し見えた気がした。

 健児は璃子を呼んだ。ちょうど茶碗を空にしたところであった。

「まだある。食べるか」

 璃子は笑顔で頷いた。二杯分を平らげた後、持ってきたフラフープで遊ぶこともなく眠りだした。

 政男たちが帰る時、健児は残っている米を米櫃から麻袋に移した。何か変化を感じ取ったように政男は戸惑ったが、半ば押しつけるようにすると何も言わずに受け取った。

 一人になり、健児は四十年間を過ごした仕事場に入る。夜に入ることのない仕事場の静謐な一面に初めて気がついた。

 いくつかの香りが入り交じる部屋に座る内、自然と蘇る記憶がある。農具の職人として過ごした日々と、その仕事に打ち込むことで得てきた評判、犂の働きを見た時の驚きと、それに携わることができた時に体を駆け巡った熱い気持ちである。

 その気持ちはやがて、移り変わる時の中で意味のないものとなりつつある。機械の歯にはノミもカンナも無用だろう。自分の技術では、もはやこれからの農業に携わることはできないということだ。

 それを寂しく思いながら、璃子が見せた笑顔が頭に浮かぶ。あれは飢えの心配がなくなるほどの生産力が作り出した表情だった。

 農民は常に生産力を上げること、能率化と省力化を目指して働き、新たな力を採り入れてきたはずだ。新たな時代を生きる農民たちが選んだ相棒は、犂ではない。

 健児はやがて仕事場を出た。翌日、本来なら朝から健児が座るはずの仕事場に彼の姿はなかった。


 挨拶回りを終えたのは年の瀬だった。始めに長年の友人である武雄に打ち明け、彼の助言を受け入れながら犂を通して知り合った人々に仕事を辞めることを伝えて回った。青木や佐和田など新穂周辺の者が多かったが、外海府にも健児の腕を頼りにする者がいて、その家を訪ねるのが少し億劫であった。

 挨拶へ添える言葉に迷ったが、多くは驚きながらもねぎらいの言葉をかけてくれた。彼らもまた、犂の時代が終わりかけていることを悟っていて、担い手の一人が余力のあるうちに引退することを安堵しているようであった。

「これで犂に殉じるようなことがあったら、寝覚めも悪くなります」

 そう言ったのは、健児の背中を押す新米を分けてくれた昭であった。

 最後にずっと頼りにしつづけてくれた宗次郎の元へ挨拶に行った。既に噂で聞いていたのか、健児の口から聞いてもさほど驚くことはなかった彼は、ご苦労さん、と硬い表情で言った。

「本音じゃ、辞めてほしくはねえが」

「なーは辞めないのか」

 一緒に引退すれば切りが良いと思って言ったが、宗次郎は明快に辞めねえと言った。

「まだ犂を使う者はいる。そいつらのためにも辞めねえよ」

 それはかつて、政男にも言ったことであった。

「無責任だったかもしれないが」

「そんなことはねえ。機械化に逆らわない方が、孫のためになると思ったんだろう。充分な良い選択だよ。なーはこれからの子供たちのために、俺は老いた農民たちのために。そういう選択をしているだけちゃ。気にするな」

 宗次郎は大きな手で強く肩を叩いた。痛いほどの強さに、健児は惜別の思いを感じ取った。

「海釣り、行こう」

 春に交わしたきり果たせていない約束を別れ際に言うと、宗次郎は短い返事で応えた。

 そしてすぐに引っ込んでしまう。耳に残る返事が、微かに泣き濡れていた。

 その日の夜には武雄も訪ねてきた。訪ねてくる時には何も持ってこない男が、今日は一級酒を手土産に上がり込んだ。健児は黙ってそれを受け取り、互いに酌み交わした。

「終わったのか」

 互いに杯を空にすると、武雄が訊いた。

「宗次郎のところに行って伝えてきた」

「これからどうする」

「身の回りの整理をして、息子のところへ身を寄せるつもりちゃ」

「佐和田か。近いとはいえ、新穂を離れるのか」

「久しぶりっちゃ。若い頃新潟へ渡ったが」

 当時は何も知らない場所への渡航であったが、今度は見知った者たちの元へ向かうのだ。孫の面倒を時々見ながら、静かに暮らす。木の匂いが染みついた仕事場を手放さなければならないのは残念だが、代わりに孫と暮らせるなら悪くないと思えた。

「これで俺も引退だよ」

 改めて口にすると寂しさもある。これまで培った技術や経験を必要とする者と、自ら縁を切る選択をした。やがては結び直すことさえ叶わなくなるだろう。

「だが、これで良い。時代も技術も前へ進むっちゃ」

「邪魔になったらいけないな」

「そういうことちゃ。俺たちの選択は正しい。そう思うことちゃ」

 武雄は笑い、健児の杯に酒を注いだ。続いて健児も注ぎ返す。香りは薄かったが、鼻の奥に残る木の匂いと確実に混ざり合った。仕事から遠ざかるうちに木の匂いは忘れるだろう。仕事の痕跡が消えていく寂しさを、次世代への希望の裏返しと思い直し、健児は次の春を思った。

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