第3話
武雄の言うゴールデンウィークは早乙女が田植えをする時期と重なった。その最終日である五月五日には田植えは終わり、日ごとに稲が育っていくのを見ることになる。水鏡の田圃は、稲が育つごとに像を隠されていき、代わりに青みを蓄えていく。夏を迎える頃には、根元が見えなくなっていた。
「おじいちゃん、ちゃんと時間数えてよ」
庭先では璃子がフラフープに体を通していた。最近の流行に乗ってか、ブラウスにスカートという一昔前には見られなかった装いである。
ゴールデンウィークの終盤、息子の家族を、フラフープを用意して迎えた。新しいおもちゃを贈られた璃子は大喜びし、二泊三日の滞在中フラフープを回し続けていた。どうやら学校でも流行しているらしく、何秒間回し続けられるかというのが子供たちの間での関心事らしい。
競技と同じで、続ければ上手くなっていくようだ。璃子がフラフープを回す時間は確実に長くなっている。それを褒めると気を良くして更に回し続ける。あまり遊ばせすぎないでほしいと政男に言われたほどであった。
「璃子は明日も学校なんだ」
「そんなもの、みんな同じだろう」
「宿題があるかもしれない」
庭先でフラフープを回し続ける璃子を眺めながら親子で語らっていた。居間の壁掛け時計を見遣ると二時を回っている。夕方を目標に家路に就くとしても、新穂と佐和田はさして離れていない。四時を過ぎる頃まで遊んでいられるだろう。
「それでも璃子を連れてきたのは、俺を説得するダシにするつもりか」
「違うよ。でも、璃子がおじいちゃんと暮らしたがってるのは本当だよ」
自分に懐いてくれている孫と暮らせるのは悪くないが、その引き替えが、四十年間打ち込んできたものだと思うと首を縦に振るのはためらわれる。
「俺の答えは変わらない」
政男は小さく息をつくにとどめた。以前に比べ、どうにか説得しようという熱意は薄れて見えた。
さりとて父親の説得を諦めたようには思えない。一本気なやり方を改め、強かな方法へ移ったようであった。
「本間さんにも会ったけど、牛馬耕の教師を辞めるそうだね」
息子と武雄の間につながりがあったとは知らず、武雄が説得を頼んだのかと勘ぐった。
そう訊くと、政男は首を振った。
「好きにすれば良いって言ってたよ。自分も思うように考えた結果だからって」
良識者ぶって説得しようとしなかった武雄の態度は真実であったということだろう。その一方で、味方を失ったような寂しさを改めて覚えた。
「前に聞いた。耕耘機に犂は勝てないと言ってたな」
「俺は農業のことは何もわからないけど、機械に関わって生きてる身からすると、本間さんの見方は正しいと思うよ。牛とか馬が動かすものと、電気とかガソリンがエンジンを回して動かすものが速いのは、バスとか汽車を見ればわかるじゃないか」
「そうだとしても、犂を使う者がいる。一人でもいるなら俺は続ける」
佐渡では少なくなったが、遠く離れた九州などではいまだ耕耘機が普及していないところもある。そうでなければ毎日犂先を作り続ける理由はない。それほどの犂が未だに現役で使われているということだ。
親子の間に会話がなくなったのを見計らったように、嫁の秀子が麦茶を運んできた。無心にフラフープを回し続けていた璃子も呼び寄せられ、四人で縁側に並んでコップに口づける。麦茶は温めだったが、梅雨明け間もない日のことで、水気が体に入るのはありがたいことだった。
「ぬるいよ、お母さん」
璃子の遠慮の無い言葉に、秀子が顔色を変えた。それを健児は苦笑しながら制する。
「悪いな。うちは貧乏だから。電気冷蔵庫があればいいんだが」
健児の家にあるのは、毎朝氷屋が持ってくる氷を入れて冷やす冷蔵庫である。大卒新社会人の初任給の六分の一の値段がする電気冷蔵庫にはなかなか手が出せない。
「貧乏なのにフラフープは買えたの」
健児は笑みを深くした。実際の値段は比べるべくもないが、璃子の歳からしてみたら不思議なことかもしれない。
単純にフラフープの方が安かったからに過ぎないが、突き詰めれば孫への気持ちと、
「璃子のためなら買えるんだよ」
という言葉にたどり着く。璃子の胸にどこまで響いたか知る由もないが、
「ありがとう」
という、満面の笑顔だけで充分だった。
ずっとフラフープを回し続けた璃子は、ふと横になると寝入ってしまった。秀子に言って、寝室から掛け布団を持ってこさせる。彼女が席を外している間、健児も台所へ立ち、しんこ団子を持ってきた。
「懐かしいな。どうしたんだ」
しんこ団子は米を原料にし、食紅を混ぜたもので模様を描いたものである。棒状に練り上げることでどこを切っても同じ模様が出るようになっている。政男が子供の頃はよく信子が作っていたが、信子が亡くなってからは健児も食べる機会を失っていた。
「近くの農家で犂先を交換してやったらお礼にもらったものだ。土産に持っていって良いから、璃子にもあとで食べさせてやれ」
皿に入れなかった分を袋に詰めて秀子に渡す。開明的なのか洋服姿しか見たことのない嫁は、折り目正しくそれを受け取った。
「お茶を淹れてきますね」
そう言って秀子は、麦茶が入っていた四つのコップを持って席を立った。麦茶の時と同じで役割があべこべのようにも思えたが、息子の前で忙しく立ち回るのもみっともないと思って秀子を見送った。
「仕事はどうだ」
二人になるとどうしても他の話題が出てこない。嫁に聞こえるところで家族の話をするのも落ち着かず、無難な選択に落ち着く。
「まあまあだよ。収入の心配は要らないね」
復員後すぐに働き出すことができたのも、戦争という過酷な状況でも己の役割を全うした実績が信頼につながったからだろう。それをなくさないように働き、家族を養っていく息子が健児は誇らしかった。
「父さんの方はどうなんだ」
「仕事は何も変わらん」
「そうじゃない。体のことだよ。犂先を作るのはいいけど、それに殉じるようなことはしないでほしい」
「ああ、それぐらいわかる」
息子の脳裏にも璃子のことがよぎったのを、健児は感じ取った。仕事中心の日々が、いつしか命の危険と隣り合わせになっているのが老いの証であった。それを本望などと嘯くことは、寝息を立てている孫を思えばできることではない。
「わかっていても、できないことがある。なーにはわかるだろう」
以前のように話は平行線をたどる。政男が手に入れた家は健児を受け入れるだけのことしかできない。四十年来の仕事まで引き継ぐような余裕はないのだ。
政男は今度も説得する言葉を持ち合わせていないようだった。会話が途切れたところに秀子が戻ってきて、三つの湯飲みへ順番に茶を淹れていく。しんこ団子を食べながら、互いの暮らしや璃子のことを語らう内に五時を過ぎ、政男は眠り続けた璃子を起こした。
「今度は夏休みに来るからね」
両親に挟まれて立つ璃子は手を振り、背を向けた。老い先短いとは言え、再び璃子が来る時まではこの暮らしを続けなければならないと思った。
山本農具店を過ぎた辺りから脇の景色は起伏に富むようになり、田圃の青とは違う色が目立ってくる。その色に挟まれた上り坂を終わりまで歩くのがやっとで、道の脇で座って休んでから目的の家へ着いた。
開けっ放しの玄関先で来意を告げると、ややあって主が現れた。彼は納屋へ案内して犂先のついていない犂を持ち出した。健児はそこに釘を打ち、作り直したばかりの犂先を付け直す。高い音が周りへ飛んでいき、それに驚いたのか馬がいななく。八本の釘を打ち終え、主に犂を返した。
「これで良いはずちゃ。何かあったら言ってください」
温厚な人柄の主は礼を言い、麦茶でもどうかと勧めてきた。出かけたのは四時を過ぎてからだったが、残暑の厳しい日のことである。健児は素直に玄関先で休ませてもらうことにした。
「小林さんが近くにいてくれて助かります」
奥から麦茶を持って戻ってきた主は、渡辺昭といった。五歳年下で長らく農業に携わってきた男は、健児とは違った体の発達をしてきたようで、少し歩いただけでも足腰の力強さが見て取れた。
「犂を直してくれる人は減りましたか」
「減ったどころか、いません。息子なんかは耕耘機を導入しようと言い続けていますが」
苦笑する昭に、使えば良いと言うことはできなかった。突き放した言い方にしない自信がないのもあるが、自ら仕事を減らすようなことはできなかった。
耕耘機が犂より優れているところはいくつもある。速くて、確実で、労力も少なくて済む。それを目の当たりにしてもなお犂にしがみつく老人たちは、時代錯誤と若い者たちに笑われているだろうか。
「どうして革新なんてしていくんでしょうね。停滞ができれば楽なのに」
独白めいた言葉に健児は答えられなかった。明治から現在に至るまでの革新は、おそらく疑問を挟む余地もなく進んでいったのだろう。自分も正しいと疑わず革新の流れに乗ったし、選択は正しかったと思っている。
昭に礼を言って立ち去り、健児は帰路に就く。自宅に向かって道を逸れる時、反対方向から来る武雄に呼び止められた。
「どこに行ってたんだ」
武雄に訊かれ、犂の修理だと健児は答えた。
「渡辺のところか。この辺では他にないからな」
武雄は明るく言った。自分を相手にしてくれる者が他にいないということでもあるが、教師を辞めると決めたからなのか、頓着していないようだった。
「ついでだ、飯にするか」
日暮れの時間で、健児も空腹を感じていたところだ。共に銭湯で汗を流してから、健児は自分の家に武雄を招いた。
朝のうちに炊いた白飯を二人分よそうと、櫃は空になった。それに卵焼きと味噌汁、焼き魚、酒を添える。居間へ戻ると武雄はラジオをつけてくつろいでいた。
「遠慮がないな」
健児は苦笑しながら言った。子供の頃から物怖じしない男で、時に無神経と言われることもあったが、大胆に振る舞えることが羨ましくもあった。
「今更遠慮するような間柄でもねえだろ」
武雄は笑い、健児の方へ酒を注いだ。今更礼儀のことを言う気もなく、気軽に家へ招くことができるだけで貴重であった。
ラジオは巨人戦の中継を流していた。ちょうど四番長嶋が打席に入るところで、場内アナウンスをかき消すほどの歓声が上がっていた。
健児は手を合わせてから箸を取った。戦時中は食べられない日もあった白飯である。戦後十年が過ぎる頃には白飯を炊けない日はなくなり、ようやく日本人らしい食生活が戻ってきたと思ったものだ。
「箸を飯に刺したままで、何しとる」
訝しむような武雄の声で健児は物思いから覚めた。素直に思いを告げると、なーは真面目ちゃね、と笑われた。
「農民たちががんばってきたからな。それだけじゃなく、俺たちも同じちゃ」
ふと、健児は目の前が開けたような気がした。農民たちの頑張りは知っているが、それと並ぶほどのことをしていると思ったことはなかった。
「牛馬耕の教師も農具の職人も、つまるところ飢えが嫌だからがんばって働いたっちゃ。それは農民の汗と同じものちゃ」
犂先は犂が犂たり得るために存在した。その犂は何故生まれ、何故明治になって再発見され、それを担いで島外へ出て行く者を生むほどになったのか。島内に残った者にも、武雄のように青春を犂と共に生きる者が何故現れたか。
彼ら農民や教師が相棒のように扱った犂の、最も土に触れる部分を作り続けた自分の根幹には何があったのだろう。
「俺は、自分のことだけだったな。飢えないことよりも仕事がしっかり評価されるのが大事だった」
「だろも、その仕事が農民を助けただろう。同じものとして胸を張っていいもんちゃ」
犂先の職人として、その成果を評価されたことは数えきれず、慣れてしまったほどである。しかしいつの間にか、それを使う農民のことを忘れていたかもしれない。
「なーの教師としての仕事も、胸を張って良いことだったはずちゃ。それを捨てるのは、無念に思わんのか」
それを訊いた時、六番川上が打席に入ったことが伝えられた。長嶋の時に負けない歓声が、遠く後楽園球場から鳴り響く。
「それともこの佐渡の農業のためなのか」
「さっきも言ったろう。飢えが嫌だから働いたと。同じか、もしかしたらそれ以上のことを新しい力が成し遂げるなら、喜んで身を引くちゃ」
健児が黙っていると、武雄は空になっていた杯に酒を注ぎ、再びラジオに耳を傾ける。長嶋を生還させる川上のタイムリーヒットはあったが、巨人の得点はそれだけで、試合終了までに五点を取られて敗戦となった。
勝敗が決した瞬間、武雄はラジオのスイッチを切り替えた。新潟県内のニュースが流れ、さっきまでの浮ついた空気が重く引き締まる。
犂が必要とされなくなった後も、耕耘機という新しい力があって、それは今まで以上に農民を助けるだろう。自分が助けてきた農民たちが、更に高い成果を得ていく。それこそが、もしかしたら本望であったかもしれない。
「悔いのない選択なら良い」
自分や武雄、宗次郎など犂に関わってきた全ての人間に向けて健児は呟いた。
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