第2話

 人のかけ声と牛の鳴き声が噛み合うと、牛が曳く犂が進む。健児は土を掘り返す犂先を見ていた。自分自身が作った犂先は、何度土に突き刺さっても曲がることはない。自分のせいで作業の質に問題が出ることはなさそうで、一安心であった。

「耕し方にムラがあるぞ、気をつけろ」

 実習用の休耕田で犂を操る若い農夫に向け、厳しい声が飛んだ。あぜ道に立って若者を鋭く見下ろす本間武雄は、叱咤の後助言を添え、農夫も若々しい声で返事をする。師弟の清々しい関係を見る思いであったが、三年前までは五人同時に指導していたこともある。往時と比べると、時の移ろいと寂しさを感じずにはいられなかった。

 武雄に声をかけようとした時、何気なく彼が振り向いた。それで目が合い、自然と笑みを向けた。

「熱心だな」

 指導の印象を素直に言うと、

「いつものことだろう。そうでもしなければ性根は曲がる。老いも若きもそれだけは変わらん」

 照れるでもなく、武雄は静かに言い、休耕田の方へ視線を戻した。若者と牛は会話の間に進んではいたが、熟練者の速度とはほど遠い。

「もっと速く進ませろ。それじゃ犂を使う意味がないぞ」

 健児の思いは、武雄の叱咤となって若者へ飛んだ。

「厳しいな」

「これくらい、何でもないだろ」

 武雄に叱咤された若者は、威勢の良い返事をした後、黙々と作業を続けた。叱られ慣れているのか、動揺した素振りも見せない。

 武雄は声をかけるばかりでなく、時に牛と若者の傍に寄って、身を以て指導を行った。祭りにでも出るような法被姿の武雄は、牛を怖れる様子もなく軽快な動きを見せ、膝から下は土まみれになった。その熱のこもった指導の甲斐あって、若者の操る犂の耕し方は一定になった。

 若者の使う犂は山本農具店の品物である。健児の作った犂先を含めて十の部品で構成される犂は、佐渡に伝来したものと比べるとかなり扱いやすくなっているという。それでも耕耘機の能率にはかなわないとされ、牛馬耕の教師である武雄に教えを請いに来る者もかなり減ってしまった。

 健児は熱心な指導を繰り返す武雄と、それに応える若者の姿を眺めた。遠くに聞こえる耕耘機の音に時代錯誤だと嘲られている気がした。

 日差しの色が変わり始めた頃を見計らい、武雄は指導を終了させた。若者は折り目正しく礼を述べ、傍観していたに過ぎない健児にも同じ敬意を表した。

 道具を片付け、馬を厩につないで、ようやく武雄の仕事は終わる。健児はそれをずっと待っていた。

「最後までいたが、仕事をだおこいて(怠けて)いいのか」

 何とはなしに黄昏時の道へ出ると、武雄が訊いた。

「木が届かねえことには、どうしようもねえのさ。だおこいてるわけじゃねえ」

 なじみの業者に発注をかけてからあまり日が経っていない。今は材料である杉や樫が入ってくるのを待つしかなかった。

「気楽だな」

「一人だったら何とかなるもんちゃ」

 信子がいた頃と仕事の量はほとんど変わっていない。それだけでも充分暮らせていたし、足りなくなれば信子が洋裁の技術を活かした内職で補っていた。ミシンの月賦を払い終えても続けてくれたおかげで、内職で稼ぎ出した金がわずかながら遺産として残っている。手をつけないまま息子たちに引き継ぎたいという思いもあった。

「一人なら気楽でいられるからな」

 武雄は自嘲気味に笑った。

「どうする。このまま帰るのか」

 健児が訊くと、まさか、と言いながら歳の割に太い腕が頭を捕らえる。

「まず風呂ちゃ。それから飲むぞ。前は俺のところだったんだから、今度はなーのところっちゃ」

 武雄は足取りと同じ力強さで話を進めた。一本気で脇目も振らず突き進むことが多かった男は若い頃から時に敵を作ったが、健児には剛直な美点に見えた。だからこそ幼なじみから始まり、六〇代も後半となった現在に至るまで付き合いが続いているのだ。

 一度家へ戻って準備を整え、行きつけの銭湯へ向かった。十五円の入浴料に加え、十円の洗髪料を渡して脱衣所に入る。時間の割に客の入りが悪いように見えたがそれなりに賑やかで、脱衣所にいても浴場からは子供の声が甲高く響くのが聞こえる。それを叱りつける声もあって、子供の声はしおれてしまった。

 武雄と同時に服を脱ぎ終えて浴場に入る。洗髪料と引き替えに受け取った木札を、高足のついた桶に入れておくと、ほどなくして白い猿股と晒を身につけた三助がやってくる。十年以上前から働き続けている孝造という男だった。

 威勢良く挨拶した後、健児の方から背中を流してくれる。初めて見た十代半ばの頃は、どこぞの愚連隊上がりのように険しい目つきをしていたが、一ヶ月もする頃には生真面目な眼差しが清々しい健全な青少年へと変わっていった。まだ三十歳にもなっていない彼は人なつこく、立っているだけで汗が噴き出る過酷な職場でも笑顔と威勢の良さを忘れない。健康そのものを地で行く男が健児は好きだった。

「景気はどうちゃね」

 武雄が別の三助に背中を流してもらっているのを横目で見ながら、健児は孝造に訊いた。

「いや、ぼちぼちですよ。客足も伸びも遠のきもしないですし」

 よく響く客たちの声に負けない声質で孝造は答えた。

「こっちは悪いな。一年ごとに仕事が減ってきているっちゃね」

「本間さんもそんなこと言ってましたね」

 自分についた三助との会話に気を取られている武雄を見遣り、健児は意外な感じを覚えた。仕事上の不満や苦労は絶対口にしない強情な男だったはずだが、老いのせいで弱気になっているのだろうか。

「最近何でも機械がやっちまいますからね。牛と犂の扱いを教えてるの、本間さん以外に俺は見てませんよ」

 背中の垢が糸瓜の垢すりで削り取られるのを感じながら、他人の口から思い知らされる変化が切なかった。自分自身の目で見る変化だけならともかく、他人の目も同じものを捉えているなら否定のしようがない。

「銭湯はどうだ。銭湯でも機械に任せられるところがあるんじゃないか」

 気の良い若者をちょっと困らせてやろうといたずら心を出してみたが、

「俺に機械のことはわかりませんけど、そうしたらちょっと楽になりそうでいいんじゃねえですか」

 自分ほど機械化に抵抗は感じていないようで、孝造は屈託のない笑みを声に含めた。

 背中を洗い終えると手ぬぐいが肩にかけられ、湯を勢いよく浴びせかけられる。最後に音を立てて肩を叩かれると終了である。武雄もほぼ同時に終わり、健児と二人で連れ立って湯船へ向かった。足腰の不安もあって慎重に足を湯へ差し入れた健児に対し、武雄は無造作に浸かった。湯船が大きく揺れて外へ流れ出した。

 湯を掬って顔に浴びせかけ、唸りながら息をつく。一日中外で体を動かし続けた武雄には、何よりも爽快な瞬間であったらしい。

「相変わらず元気な奴だ。昔から変わらないな」

 羨み半分で言うと、

「なーが老いぼれたんだろう。日がな一日狭い部屋に閉じこもってるからちゃね」

 遠慮の無い口調で、足腰の衰えを揶揄された。子供の頃なら飛びかかってやりこめたいところだ。

「外へ出ないわけじゃない。納品は自分の足で届けに行ってる」

「それでも俺に比べたら足りないだろ。いざとなったら子供が養ってくれそうだから、まだ良いだろうが」

 大きく股を広げてくつろぐ武雄の声には、似つかわしくない湿りが聞き取れた。三十を超えてから村上出身の嫁をもらった武雄だが、三人の娘は結婚で佐渡を出て行ってしまい、妻にも先立たれてしまった。三人とは疎遠ではないようだが、隔たりの大きさにいざという時の不安を抱き続けているようだった。

「できれば頼りにはしたくないが」

 健児は言い、湯船から立ち上る熱い空気を吸い込んで吐き出した。

「何ぜいたく言っとる」

 武雄の声は冗談めいていたが、

「政男くん、よく来てるんだろ。それは親孝行してやりたいってことだろ。その通りにしてやるのも親心ってやつじゃねえのか」

 継がれた言葉には切実さと羨みがあった。バスで行き来できる距離と、発動機船と汽車を乗り継がなければならない距離は、比べようのない隔たりだ。

「わかっている。それに比べたら恵まれてると言いたいんだろ」

 体の不安はぬぐえないし、最近は日を追うごとに悪くなっていく感じさえある。息子の家族と暮らせば少しは負担も減るだろうが、引き替えにするのは犂先を作り続けた仕事場である。それは四十年続けた仕事を終わらせることを意味する。

「体が動く限り続けたいのか」

「まあな」

 自分の心情に理解を示すような言葉が嬉しく、健児の声は弾んだ。

「四十年、犂より前も含めたらもっとだ。俺の人生そのものだからな」

 素面では恥ずかしい言葉だったが、言わずにはいられなかった。若い頃からの仕事で、佐渡の農民たちを助けてきたという自負がある。最期まで貫きたい仕事であった。

 武雄の熱い共感を待ったが、彼は淡泊な調子で、

「そうか」

 と、言うだけだった。

「何だよ」

 共感が乏しいことに不満を感じながら言うと、武雄はすっくと立ち上がった。萎れの隠せない体ながら、揺れる湯船の中で立つ足腰は確かなようだった。

「今度はなーのところだ。飲むぞ」

 そう言って歩き出した武雄を、健児は慌てて追った。彼のように安定して立つことはできず転びそうになったが、武雄が浴場を出る前に追いつくことができた。

 銭湯を後にする頃にはほとんど日が暮れていて、道沿いに点在する街灯の光だけでは道の先が見通せないほどであった。幸い月が明るいので足下に不安はないが、若い頃ならと思ってしまう。まだ犂の扱いを学ぶ者が多かった頃は街灯などなかったが、月明かりがあれば何の不安も感じなかった。道の先に見えないところがあるのは不安で、それにいつまで経っても慣れないとは、かつては思いも寄らないことだった。

 帰り道の途中で酒屋に寄ってから家路に就く。闇に包まれた家の中で電灯のスイッチが見つけられず、明るくするまで時間がかかってしまった。

 客人である武雄を居間に待たせ、酒とつまみの準備をしてから健児も向かう。八三五円で買った二級酒に小鰺の素干しを添えてやると、マヨネーズはないのか、と武雄はすっかり小料理屋の客になっていた。健児は瓶入りのマヨネーズを、匙で掬って皿に取り出してやった。

「これだよ。マヨネーズがあるのとないのとで違うからな」

 言いながら軽く焼いた素干しにマヨネーズをつけて口に放り込む。少し硬いが噛み切れないことはない。それと二級酒があれば、夕食の代わりにしても良かった。武雄は上機嫌で、二つ目、三つ目の素干しに手を伸ばす。

 硬さをものともせず、小鰺を噛み砕く武雄は満ち足りた顔をしていた。銭湯で見せた、似つかわしくない淡泊な態度は影を潜めている。健児はそのことを訊こうとして、

「あの銭湯、これからもあると思うか」

 気のせいだろうと思うことにした。

「急に何を訊くっちゃ」

「この先何がどうなるか、わからんからな」

 農業をはじめ、多くのものが機械に取って代わられている。自分の周りの男たちの仕事ぶりを見ても、それは認めざるを得ない。

 笑い飛ばすと思っていた武雄は、意外にも熟考した後、

「なくなるかもしれね」

 と、堅い表情で唸るように言った。

「もし続くにしても変わるだろ。たとえば三助の仕事が減るとか」

 三助の仕事は客の背中を流すだけではない。番台に立つことや、湯沸かしも含まれる。この三つの主な仕事が、三助という呼び名の由来であるという説さえある。武雄は、このうち湯沸かしは機械化できるかもしれないと言った。

「電気暖房もあるし、日比谷の幸楽には電気鍋とかいうものだってあったらしい。その話も明治末の頃だったから、今はもっと進歩してんだろ」

 電気鍋がどんなものか健児は知らないが、武雄が言うように四十年前の技術なら銭湯の湯を沸かすぐらい訳もないほど発達しているかもしれない。電化が銭湯にとってどれほどの利点があるかの問題だ。四十年間技術革新が行われていたら、三助が一つ仕事を失うことになる。

「だが、犂はなくなる。こりゃ確かちゃ」

 武雄は言い切った。不意を突かれるような形になり、健児は一瞬返事ができず、噛んだ素干しを大きな塊のまま飲み込んでしまい、喉が詰まりそうになった。多量の水で流し込んだが、喉に小骨が刺さった感じが残る。

「何だと」

 辛うじて絞り出した声は、思いの外険のあるものになってしまった。なだめすかすように武雄は笑みを浮かべたが、犂はなくなるちゃ、と繰り返した。

「これはもう、だちかんこてー(仕方の無いことさ)。俺の教え子も減ってるのを今日見たろうが。犂がなくなれば俺の仕事も終わりちゃ」

 それは廃業を宣言するのに等しかったが、武雄は悔しがるでもなく穏やかに言った。

「まだ誰にも言ってねえが、俺は教師を辞める。今年で終わりちゃ」

 健児は、不意に武雄が見えなくなったような気がした。あるいは頭が武雄という七十年近い付き合いのある男のことを忘れたのかもしれない。少し落ち着けば自分が突拍子もない思いにとらわれたのがわかってくるものの、武雄と牛馬耕の教師は密接につながっている。二つを切り離して考えても、それは知っている武雄と思えなかった。

「本気か」

 武雄の目を見ていれば愚問なのがわかる。それでも友の言が信じ切れず、訊くしかなかった。

「ああ、本気ちゃ。山本んとこの社長なんぞは、最後の一人になるまで続けんだろも(続けるんだろうが)」

 切り離して考えられないほどのものを捨てる決断をした割に、武雄の声は明るかった。自分の力ではもはやどうにもならないという諦めが、清々しさへ昇華したようで、見ている健児まで快くなるほどであった。

 しかし、息子の誘いを幾度となく断ってきた犂先の職人として、素直に武雄の決断を喜ぶことはできなかった。

「そら、やはり耕耘機か」

 答えを聞くのを遅らせるようにゆっくり訊いた健児に、武雄は短い返事をした。

「なーも一度は見たはずだ。あの速さ、あの安定性。確かに使い方を覚えるのは時間がかかる。だろも、若い奴なら訳ねえ。俺の教え子がごっそり減ったのがその証拠ちゃ」

 宗次郎と違い、武雄は老農たちを見てはいなかった。技術革新の中に身を置いて、新たな技術を積極的に吸収していく若い世代に希望を見出しているのだろう。それはかつて、茅原鉄蔵と長沼幸七が佐渡に新技術をもたらしたのと同じ心持ちかもしれない。茅原と長沼が始めたことに多くの若者たちが参加し、佐渡全土へ技術を広め、島外にまで犂を持っていく者も現れた。当時の情熱が、機械化という形で再現されていくのだ。

「犂はもう、機械には勝てん。俺の経験じゃ補えないところまで来たっちゃ」

 武雄は両手を広げた。自棄になったわけではなく、最良の選択をしたと思っているのだろう。

 佐渡の農業が機械化されていくのは健児も知っていて、その普及の速さも感じている。農業のみならず、様々なことが手仕事から機械の仕事へ移り変わっていく。世の中全体の変化に、一人が抗えるはずもない。武雄の選択は賢く、犂の敗北を認めた態度も潔い。判官贔屓の心持ちで、健児は杯を傾ける武雄を見た。

「だろも、俺はなーみてえには割り切れん」

 そう言うと、素干しをつまんだ武雄は顔を上げて健児を見据えた。

 しばらく見つめ合った後、武雄の方から目を逸らした。

「そうか。まあ、好きにしたらいい。どうせ老い先短い人生ちゃ」

 そう言い、武雄はタンスの上にあったラジオに手を伸ばしてスイッチを入れた。野球中継の電波が入り、いきなり歓声から始まった。

 実況は長嶋のタイムリーヒットが出て、巨人が先制点を取ったことを伝えた。その長嶋は二塁に到達し、迎えるバッターは四番の川上だった。

「さすが長嶋ちゃ。大学出たてでよくやるちゃ」

 酒のせいもあるのか、武雄は手を叩いて上機嫌だった。ラジオで佐渡まで飛んでくる試合はほとんどが巨人戦で、よほどの野球好きでなければ巨人以外の球団を好きになる理由はない。実際、近所では大人から子供まで皆が巨人を応援していた。

 追加点のチャンスであったが、川上は三振に倒れてチェンジとなった。ため息が漏れたが、それほど落胆した様子ではない。健児にも何となく予想できた結果であった。

 チェンジの間に流れたコマーシャルはフラフープの宣伝だった。子供が好みそうな明るく軽妙な旋律に乗ってナレーターが声をかぶせていく。これを璃子が聞いていたらと思うと、政男にねだるのが目に浮かんだ。

「せっかくだから買ってやったらどうだ」

 コマーシャルが終わる頃に武雄が言った。

「そのつもりちゃ。この前も宣伝しててな」

 日々の生活で少し倹約すれば何とかなるような値段である。孫がそれを受け取って喜ぶ顔や遊ぶ姿を想像するだけで顔がほころぶ。

「何と言ったかな、なーの孫」

 健児は璃子の名を、少しげんなりした顔で伝えた。

「不満なのか」

「まあな。璃子なんて名前、日本人の名前じゃねえ」

 武雄はおかしそうに喉の奥を鳴らして笑った。

「俺たちの頃からすると、そうかもしれねえな」

 歳を取ってからも若い者との交流が途切れなかった武雄には抵抗がないらしい。命名は政男たちに任せたが、璃子という名前は思いつきもしなかった。

「世代の違いちゃ。気にするな」

 武雄は笑って済ませたが、こうして過去を知る世代が滅んでいくと思うともどかしい。璃子は戦後の生まれで、ものがない苦しさを経験しても原因となった頃のことを体験していない。その経験の差が、将来大きな断絶につながる気がした。

「来るのはゴールデンウィークか」

 耳慣れない言葉に訊き返すと、

「知らんのか。四月の末から五月初めまで休みが何日かあるだろ。それをゴールデンウィークとか言うらしい」

「何ちゃそら。誰が言い出したのちゃ」

「映画の宣伝で言ってたちゃ。大映だったかな」

「俺に英語はわからん」

「知っておいて損はないちゃ。そうでないと世の中に取り残される」

「なーは熱心だな」

 変化する世の中に対応していく気構えを見せる武雄を素直に褒めたが、あまりまぶしくは見えない。変化は犂をはじめとする過去から受け継がれてきた道具を捨て去り、新たなものを希求しながら表れている。武雄はこれまでの仕事が通用せず、必要ともされないのを悟り、黙って去ろうとしている。

 健児をその道連れにしようとする考えはないようで、これからの生き方を勧めるようなことは一切言わない。気楽さを装って酒を呷る。健児もまた、できるかぎりのことを最後まで続けるつもりだった。

 四番川上の調子は悪かったが、長嶋が打点を稼いだおかげで、終盤には差がついていた。

「巨人、今日も勝つな」

 お互い目の前の現実から離れ、再開された野球中継に関心を戻していた。

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