来し方行く末
haru-kana
第1話
日が昇ると緩やかに気温が上がっていく時期にあって、冷え込みの残る朝であった。目覚めた時から頭に微かな痛みがあって、外のどんよりとした空気を吸い込むと目眩がこみあげてくる。一瞬病を疑ったが、花曇の季節にはよくあることだと思えば気楽になれた。
井戸水で顔を洗ってから、小林健児は焚き口に種火を入れて炊飯を始めた。火加減を見ながら炊きあげる間、薪が爆ぜる音がやたら大きく聞こえた。
長年妻の領分だった台所に立つようになって五年が経つ。仕事は身についたものの、他人のいない生活には未だ慣れない。初めの頃は一人が気楽と嘯く余裕もあったものだが、誰のためでもない営みは張り合いがなく、時に投げてしまいたくなる不安定さであった。一人の仕事と一人の暮らしが似て非なるものであると、六十を過ぎてから気づいた自分がおかしかった。
朝の食事を盛った椀と皿を膳に載せ、炊きたての白飯を櫃に入れて居間へ入り、戦前に買ったラジオをつける。毎朝聞いているアナウンサーの声を聞く内、家の外から甲高くとりとめの無い声が聞こえてくる。それが落ち着くと人のかけ声に追われるように牛が鳴き始める。健児は腰を上げ、台所に膳を置くと、淡々と流されるアナウンサーの声を封じて仕事場へ向かった。
納屋を作り替えた仕事場には木の匂いが染みついていた。深くかぎ取れば杉の匂いが最も強く感じ取れ、その奥に檜と樫が香る。それらが渾然一体となって六畳ほどの部屋に満ちている。生木に触れることも稀だった息子が、よく咳をしていたのを思い出す。仕事場は木材のため常に乾燥していたから、弱い質の喉には辛かったのだろう。
健児は何十年と座り続けた自らの場所に腰を下ろす。既に遠ざかっていた人と牛の声は、目の前でよく乾燥させた杉を取った瞬間から完全に消える。寸法を測って一分の狂いなく切り揃えたそれに、カンナをかけて表面を整えた後、小刀で思う形に整える。それは厚みのある靴の中敷きのように見えた。
ここから先は繊細な手仕事である。小刀で削りを入れていく内に、杉は徐々に反りを得ていく。作業を終えるまで、健児は何度も目の前で削られていく杉を行き来させた。斜めに入り込んだそれの先端が、どのように土へ突き刺さるか。健児は自分の手のひらで試す。先端は丸いので痛みはない。むしろ目で見ただけではわからない、土に突き刺さる直前の動きを手のひらで感じ取れる。その感じにわずかでも狂いがあれば削りをやり直す。感覚に納得できるまで、健児は半日を費やした。
一人の仕事が一区切りつくと、束の間一人の営みへ戻る。健児は朝に焚いた白飯を一杯分よそってかきこんだ。喉が細くなっているのか、胃に落ちていく米粒が詰まりがちに感じた。仕事は四十年来良くも悪くもなっていない。安定した成果を取引相手に示し続けられているが、日々の営みは少しずつ悪くなっているらしい。かかりつけの医者にも、一人で食事をする時には窒息に注意してゆっくり食べるよう注意されたのを思い出した。
昼食を白飯と味噌汁で済ませた健児は、ここ数日の成果である十個を持って家を出る。朝の冷え込みは去り、春の陽気であった。同じ新潟県でも、佐渡海峡を隔てた新発田などはようやく雪が溶けた頃だろう。冬の間続いた戦いの終わりでもある。佐渡でも雪は降るが、家が埋まるほどの降り方はしない。
それは島の周りを巡る暖流のおかげだと、幼い頃教わった記憶がある。まだ明治の頃であったが、それを教えた金子という教師は徳川幕府が健在の時代の生まれだった。長岡で生まれた彼は、子供の頃に勃発した戊辰戦争で焼け出され、紆余曲折あって佐渡に教師の職を得たと語っていた。生涯薩長の悪口を言い続けた人であったが、西郷隆盛をはじめとする維新の英傑たちを腐す批判精神は、長じるにつれて理解できるようになり、交流は長く続いた。
「なー(お前)は佐渡に骨を埋めるべきちゃ」
金子は会うたびに冗談めいた口調で言い、自分が生まれた長岡のことを懐かしむように話した。佐渡に生活の基盤を築いた後も長岡を訪れていた人のことである。故郷のことを語りたくて、それを聞いてくれる人が自分しかいないのだと健児は思っていた。口の悪いところはあったが、多くのことを教えてくれた恩師でもあり、いずれその恩を返すつもりもあった。
金子は満州事変の年、七十四歳で亡くなった。健児は臨終に立ち会うことができ、最後の言葉を聞くことができた。
「仕事を、続けろちゃ」
その時の眼差しはあまりに強く、健児は縛られたように絶句した。何も言えない間に金子の命は尽き、返事をする機会は永遠に失われた。
ただ、最後の言葉は三十年近く経った今でも胸に残る。それが老いた体で仕事を続ける力の一部ではあるだろう。四十年続けてきた仕事に対して素直な賞賛をくれたのは、部外者では金子が唯一であった。
満州事変の後、日中戦争、太平洋戦争と日本は次々と対外戦争の渦へ巻き込まれていった。佐渡からも若者たちが招集され、復員が叶わなかった者も多くいた。
健児自身は戦禍とは無縁でいられた。真珠湾攻撃の時点で五十歳になっていたし、招集の年齢を引き下げるほど兵力が不足していた戦争末期には、五十四歳であった。昔からの仕事道具であるカンナやチョウナを手放さずに済み、働き場も木の匂いが染みこんだ部屋から移さずにいられたのは僥倖であった。
抑留者の帰還が叶い、講和も済んだ現在、時々ラジオでは野球中継を聞くこともできる。遠く離れた土地での試合ながら、充分に臨場感があって、時に仕事を早く切り上げてでも楽しみたいほどであった。
今日の仕事は成果を届けたら終えられる。夜にならないと野球中継は始まらないが、歳を重ねた分待つ楽しみを覚えて、野球中継までの過ごし方は既にいくつか思い浮かぶほどであった。
健児の暮らす新穂から青木までは通い慣れた道である。子供の頃は通学路であったし、長じてからも仕事の都合で何度も行き来した。坂もなく、田んぼを脇に見ながら歩く三十分ほどの道のりである。代わり映えしない景色にいつしか何も感じなくなっていたが、妻に先立たれた頃からやけに遠く思うようになった。
しかし変化がないわけではない。青木に至る頃には、牛や人の声に代わって機械の唸りが聞こえるようになった。自分よりいくらか若い農夫が、把手を持って機械を無言で操っている。その機械の調子がどんなものか、健児にはわからないが、農夫の顔色に変化はない。問題なく扱えているようだった。
健児は初めて犂という道具を見た時を思い出した。自然にあるものを組み合わせて作り、家畜の力によって土を耕す、西日本から伝わった農具である。それまで荷役にしか使ってこなかった牛馬を野良仕事に使うというのは、当時にすれば常識外れであり、牛馬の扱いに挫折した者も多かったが、やがて大きな支持を得て佐渡全体に犂は広まった。それと同じ流れが目の前に迫っていることを、健児は数年前から感じていた。
健児は目的地まで休まずに歩き続けた。玄関先で家主を呼んでほどなく現れた山本宗次郎は、鋭い眼光を向けて親愛の笑みを見せた。
二歳年上で、職人の身から会社を興した男は、成り上がり者にありがちな屈託はなく、職人仲間であった頃と同じ態度で接してくれる。健児も気の置けない仲のようにぶっきらぼうな返事をした。
「今日も期日通りか、助かるな」
成果を受け取りながら宗次郎は言い、奥へ招いた。穏やかな陽気とはいえ、歩くと水が欲しくなる程度の気温であった。健児は素直に応じた。
「良いのか、仕事中だろ」
そう訊くと、大事な客の接待だ、と宗次郎は両手を広げて言った。
「なーは貴重な犂先の職人だからな。なーが働かないとなったら、売り上げも減る。機嫌はとっておく。これも仕事のうちちゃ」
言いながら宗次郎は緑茶を淹れた。蒸らす時間を取り、注ぎ口から細い筋を描いて湯飲みへつなぐ。急須の扱いにも慣れた様子で、彼も台所に立って長いのがわかった。
「会社はどうだ。あれから職人は入ったのか」
自分の茶を淹れた宗次郎と向かい合い、健児は口を開いた。首を横に振った宗次郎だが、浮かべた笑みに自嘲はなく、仕草にも諦めを感じさせない。いまだ会社の成長を諦めていないようであった。
「入るどころか、一人辞めたちゃ」
強い眼光とは裏腹に、口から出る言葉は厳しい状況を語った。
「なーが来れば良いのに」
「いや、今更働き方を変える気にはなれないな」
「そうか。だが、なーが来れば助かると思うのは本当だぞ。この前辞めていった奴なんぞ、犂はもう終わりだからとかぬかしやがってな」
四日前にあった、一人の職人の退職の様子を、宗次郎は笑い飛ばした。これで宗次郎の会社が抱える職人は三人になった。
宗次郎の会社は牛馬に引かせて耕耘を行う犂を製作している。西日本では千年以上昔の平安時代から使われ、明治に入ってから林遠里やマックス・フェスカといった人々によって再発見された農具である。佐渡を含む東日本では、土地の質の問題から普及が遅れ、西から派遣されてきた馬耕教師と呼ばれる人々によって伝えられ、結果人力では考えられない能率化と省力化を達成した。
佐渡では明治二十三年(一八九〇年)、茅原鉄蔵という小学校の教員助手によって伝えられたという。茅原は東京へ出た折、農商務省の技師であった横井時敬と知り合い、彼の紹介で長沼幸七という福岡県出身の馬耕教師を佐渡に招いた。長沼は同年佐渡に渡り、牛馬耕の技術を伝えた。それから約六十年で、佐渡から新潟県のお墨付きを得る馬耕教師が現れたり、初期には外から買い付けるしかなかった犂を、島内で作れるようになったりもした。
宗次郎の会社はその流れを汲む末裔で、健児もその末端に犂先の職人として組み入れられている。製品の納品先は五十年間で何度も変わったが、宗次郎の会社が最も長い。戦後すぐに付き合いが始まり、気づけば十年を超した。当時はまだ馬耕が全盛であったが、ここ二年で潮目が変わったのを感じている。
「犂はまだまだ必要ちゃ。脱穀機みたいな動かない機械ならいいが、動く機械を俺たちみたいな老いぼれが使えるものか」
犂に取って代わろうとしているのは耕耘機である。戦後間もない頃から使われ始めた新技術は、徐々に支持を増やし、海を超えて佐渡にも到達した。伝道者となったのは農機具メーカーの営業担当者や新潟県から派遣された技術員で、彼らは従来の籾摺り機や精米機などの新型機も持ち込んでくる。
それら新たな道具の威力を健児も目の当たりにした。犂が初めて新穂で使われた時、健児は二十七歳だった。既に人が使う農具を専門に作る職人として健児は認められており、農作業には人手が足りない時に駆り出される程度であったが、自分自身の腕で鋤を振るう時の重労働は、今も全身が負荷を覚えている。北見順蔵という青木出身だという男が持ち込んだ犂が、人力よりも数倍早く仕事を終えたのを見た時は衝撃的で、この農具を大量生産することが農民を助けることになると思った。
健児の読みは当たり、佐渡から牛馬耕の本場である福岡へ学びに出る若者が現れたり、自前で犂を作る会社が設立されたりした。農具の職人も続々と犂職人に転身し、会社に雇われて作る者も少なくなかった。
犂の力を目の当たりにした者、魅せられた者は、戦前から戦後間もない頃が最も多かったであろう。しかし昭和二十年代後半から減り始め、昭和三十三年の現在では全盛期の半分以下になったと言われている。
代わりに必要とされているのは、農機具を作る技師や整備を行う整備士などであろう。犂は大幅な省力化と能率化をもたらしたが、農機具もまた同じ結果をもたらそうとしている。時代の流れと言って物わかり良く身を引く者も多いが、健児は仕事を諦めることはできずにいた。
「まだ犂が必要なら、ちゃんと使えるものでないと困るだろう。そろそろ検品してくれ」
「何だ、今日は急かすな。用事があるのか」
「いや、何となく落ち着かないだけちゃ」
宗次郎の会社へ向かう途中で見た耕耘機が、やがて自分たちの仕事を奪うことになる。きっとその流れは止められないだろうが、最後の最後まで犂先の職人としてできるだけのことはしたい。その思いに気持ちは急くのであった。
健児の様子に宗次郎は何かを言いたげであったが、追及せずに腰を上げた。そして健児が渡した犂先の検品を始める。厚みや反りの角度が規定に収まっているかどうかを、見本品を使って手早く確かめていく。
「なーのところ、せがれは元気か」
残りの検品を二つ残したところで宗次郎が訊いた。出し抜けな問いかけに言葉を詰まらせながら、ちゃんと働いている、と答えた。
「この辺にはいないな。どこにいるっちゃ」
「佐和田だ。そこでバスの整備士をやっている」
「ちゃんと会えてるか」
「向こうから一ヶ月に一回は来るな。時々は自分の家族も連れてな」
「そうか」
最後の返事には似つかわしくない湿りがあった。
「なーは幸せだな」
健児は、宗次郎の家族が家にいないことを思った。長男と次男は戦死し、下の息子や娘も結婚や就職などで佐渡を離れてしまった。本来なら最後に残るはずの妻にも、十年以上前に先立たれている。
継ぐべき者もおらず、世の中からの要求も薄れた宗次郎の仕事は、宗次郎にしか守れない。続けるのも終わらせるのも宗次郎次第であろう。その原動力は意地であるように見えた。
一つの技術を高めることに腐心していれば良かった頃を知る健児は、転換点を迎えた今を生きる孤独な男にどんな言葉をかければいいかわからず、
「そうかな」
と、曖昧な返事をした。
宗次郎はやがて、残り二つの検品を終えた。
「相変わらず良い仕事ちゃ」
常に仕事の完璧さを褒め、感謝する男に認められるのは悪くない。世の中の流れから取り残されようと、この充実感はずっと変わらない。
宗次郎は更に引き留めようとしたが、まだすることがあると言って健児は断った。大げさに残念がる男を前に、少しおかしくなって健児は微笑んだ。若い頃から付き合いがある宗次郎は明るさを保ちつづけ、会社の経営が芳しくなくても人柄が荒まない。
「今度海釣りにでも行こうちゃ」
見送る時に声をかけた宗次郎に、健児は、
「酒と七輪、用意しておけっちゃ」
少年時代に戻った心地で答えた。
家に戻ってから、次の仕事で使う杉の発注を業者に頼む。ようやく四時を回った頃で、周りの田畑での仕事も落ち着きつつある時間を迎えている。野球中継までの二時間あまりを散歩で潰そうかと思った時、玄関先で呼び出す声がした。
若く張りのある声には聞き覚えがある。複雑な思いを抱きながら出迎えると、背広に身を包んだ男が立っていた。
「さっき来たらいなかったけど」
「宗次郎のところに行ってたちゃ」
「歩いて?」
「そんなに驚くほどのことじゃないだろうが」
「心配なんだよ。父さんも若くはないだろう」
皮肉やからかいで言っているなら返事も思いつくが、三十九歳になる息子は本気で父親の心配をしているのだ。父親の経験にかけて間違いない。
他人への労りを忘れるなと教えた覚えはあるが、その成果がいざ自分に返ってくるとむずがゆくなって、素直に喜べないものだ。健児はぶっきらぼうに、
「あがれ」
と、政男を家に導いた。
政男は最初に仏壇の前に座った。母親の信子に線香をやると菓子折を健児に渡す。
「わざわざこんなものを渡しに来たのか」
政男に茶を注いでやって腰を下ろす。親子の間柄ながら、来客を迎えるようなよそよそしさが漂った。
「ついでだよ。今日は日曜日じゃないだろう。技術講師としてここまで来たから」
「もういいのか。まだ終わるには早いだろう」
「今日は仕事始めが早かったから、その分終わるのも早いんだよ」
そう答え、一息つくように政男は茶を口にした。
「仕事、どう?」
単に近況を訊くだけではない意図が込められているのがわかる。
「辞める気はない」
先回りすると、政男はため息を隠さなかった。まるで子供のわがままを前にしたような態度が業腹で、
「俺の仕事を取るな」
と、務めて頑なな声で言葉を継いだ。
「父さんの気持ちはわかるよ。でも、どこかで区切りをつけて俺たちと一緒に暮らしてもいいんじゃないか。璃子だって喜ぶだろうし」
政男の十一歳になる娘の顔が思い浮かび、顔がほころびかける。政男が居着かなかった仕事場を良い匂いと言って気に入って、そこで働く祖父にも懐いてくれている。一緒に暮らせるのは悪いことではないのだが、
「仕事を取るな」
健児は言葉を繰り返す。息子の家族と暮らすことを拒んででも、犂先を作るという仕事を守りたかった。
「だから、仕事がしたいならすればいいんだよ。父さんなら犂先以外にも作れるものがあるだろう」
「俺の仕事はここでしかできない。ここを離れたら終わりだ。それに、犂先以外に作る気にはなれない」
政男は時に心配になるほど人が好く、嘘のつけない男であった。だからこそ、部屋を与えることを口実にするような小ずるさは仕掛けてこないだろう。彼がやると言えば、必ず何かをしてくれるのだ。
それでも健児は、ずっと通い続けた仕事場から離れたくなかった。数限りない犂先を作ってきた木の匂いが染みついた部屋でなければ、宗次郎の信頼に応える仕事は生まれない。老い先短い自分に、新しい環境に適応する力が残されているかどうかも疑問であった。
何とか自分の暮らしへ父を引き込もうとする息子と、仕事を理由に拒む父親。平行線となった話し合いは、
「俺を信頼する人間がいる限り、仕事は続けなくてはならん」
という健児の言葉で政男が引き下がり、終わった。使う道具や相手は違えど、政男も技術を旨とし、技術革新の流れの中で生きている人間である。父親の姿勢に何かを感じてくれたようだった。
「俺も、無理にやめさせる気はないけど」
政男は苦しそうに言い、腰を上げた。
「せっかく早く終わったんだ。早く帰ってやれ」
健児はぶっきらぼうに玄関へ送り出した。上がり框で革靴を履く間、五月になったらまた来るよ、と政男は言った。
「璃子も来たがっていたから」
孫の名を出されるとあまり邪険なことは言えない。照れ隠しのように、
「仕事は辞めないからな」
と言ってみたが、気持ちを見透かされたようで、
「それはもうわかったよ」
軽くいなすように政男は言った。
「仕事はまだ続けていいから、裁縫道具を譲ってくれると助かるんだけどな」
さりげなく差し込まれた言葉に、健児は流されるように頷きかけてこらえた。信子が使っていた裁縫道具は、使い手が生きていた頃と置き場を変えておらず、使おうと思えば今でも使えるだろう。その裁縫道具で幾度となく服を繕ってもらった政男は、家に来るたび譲るように言ってきたが、健児は決して首を縦に振らない。
「特にミシンだよ。秀子が欲しがってるんだけど手が出せないから。母さんも嫁が役立てるなら喜んでくれると思うんだけど」
裁縫をする機械とは、当時の健児には予想の外であった。手作業が当たり前であった仕事を機械がするようになった驚きは、人力から畜力へ移り変わった時を彷彿とさせた。
妻を含む女たちの身なりが変わりだしたのは戦後からであった。佐渡からも多くの若い男たちが戦地へ行き、戦没者も相次いだ。その中にはバスの運転や工場労働などに従事する者も多くいて、女たちが穴を埋めるように働いた。その影響か活動的な洋服が人気となり、最近は街の服屋でも洋服を扱う店が増えてきた。
和裁から洋裁へと変わっていく頃にあって、能率化を達成できるミシンは人気であったが、そのためには使い方を学ばなければならず、挫折する者も多かった。信子もその一人になると思っていたから、月賦でミシンを買いたいと言われた時には反対したものだ。
最終的には信子の熱意に押されて健児は折れた。月賦の分を、信子は洋裁の内職によって返済し、返済後も充分に活用していた。女たちから見て信子は教え上手だったのか、健児の家は一頃信子から洋裁を学ぶ女たちの学舎になった。ミシンが家に来てからの数年間、華やぎを通り越して姦しかったが、活き活きとしていた妻は忘れられない。洋裁教室がまだまだ続くと思われた矢先に信子は倒れ、一年近くの闘病の末不帰の客となった。静かな家に慣れないのは、妻が引きつけた女たちの声がいまだ耳の奥に残っているせいもあった。
「欲しければ自分で稼いで買ってやれ。それが男の甲斐性だろう」
演歌を歌うような心地であったが、親心の表れでもあった。
「きっとなーが俺の立場だったら、断るだろうよ」
政男は口をへの字に曲げた。不満と困惑を示す子供じみた表情は、この家で暮らしていた頃と変わらない。車両の整備兵として戦地へ赴き、復員後に妻を娶り、子供も設けて家庭を築いた息子は充分に成長したが、子供の名残がまだあると思うと微笑ましい。
政男は短い挨拶を残してバス停へ向かった。その背を少しの間見送り、やがてバス停の標識の傍で立ち止まったのを見届け、健児は戻った。既に日暮れとなり、木々やあぜ道を歩く人の影は長い。
健児は夕食の準備をする前に、ミシンが置かれた部屋に入った。机と一体化しているため動かしづらく、信子の遺品をまとめた部屋として使っている。掃除以外では踏み入れることのない部屋の窓を開けると、ぬるい風が流れ込んだ。
ミシンにかぶせた段ボールを取ると、健児は冷たい本体に触れた。普段は段ボールをかぶせてあるし、時々水拭きしているから汚れはない。妻が熱意で以て手に入れたものである。未だに妻の思いが宿っているような気がしたし、大切に扱えばお守りにもなるだろう。息子の嫁が役立てるとはいえ、自分が生きている間には渡したくない品であった。
感傷に浸るのをやめ、健児はラジオをつけた。朝に炊いた白飯を盛り、手早く夕食の準備をして、ラジオをつけるとちょうど野球中継の時間であった。
試合が進むと、歓声の向こうで三番サード長嶋茂雄の名前がコールされた。ストライク先行のカウントで進んだ後、実況は長嶋のバットがボールを捉えたのを強い口調で表した。それで実況は終わらない。言葉は高く上がったボールの軌道を伝えてくる。ラジオからの興奮に引きずられるように健児も身を乗り出す。やがて歓声と実況が感情を激しく表す。初回から先制のホームランであった。
ひとしきり静けさを華々しく彩った長嶋の打席の後、次の打席が回ってくるまでに健児は食事を終えた。長嶋の第二打席は初球攻撃のセンターフライで、楽しむ間もなかった。そのアウトでチェンジとなり、コマーシャルが始まる。楽しげな音楽と共にナレーターが説明するのはフラフープであった。
近所ではあまり見ないが、全国でフラフープが人気になっているらしい。孫の璃子は、ちょうど新しいものを欲しがる年頃だろう。どこかでコマーシャルを耳にしていたらねだっているかもしれない。
ミシンを譲るのを断った代わりとして、フラフープぐらい買ってやってもいいように思う。健児は最後に聞こえた、フラフープの値段を手近な紙片に走り書きした。
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