【短編】雨が降る

紙男

【短編】雨が降る

 雄大な夕日は、眼下に掛かる大きな虹の橋に見送られ、地平の彼方へと暮れた。間もなく、虹も溶けるように消え去った。

 雨雲様はその光景を見ながら溜息を漏らした。清々しさと寂しさが混ざった溜息だった。可愛い水の子たちが勇ましく下界へと降りていったことは素直に嬉しい。だが、賑やか過ぎる雲原うんげんが急に閑散としてしまったことは、やはり切なかった。

 しかしいつまでも感傷に浸っている訳にはいかなかった。またすぐに次の水の子たちがくる。そのための準備を早急にする必要があった。

 雨雲様は深呼吸をし、気持ちを落ち着かせる。その後物見櫓ものみやぐらから降りた。

 すると、どこからかすすり泣く声が聞こえてきた。その方向に歩いていくと、雲の陰に水の子が一人隠れていた。

「ミアじゃないか。こんなところでどうしたんだ?」

「何でもない……です」

 ミアと呼ばれた水の子は、腕で顔を拭った。

「そうか。だがもし何か辛いことがあるなら、私に話しておくれ」

 雨雲様はそう言い残し、歩き始めた。しかしややあって、背後から呼び止められた。


「私、高いところが怖いんです」

 雨雲様の母屋の居間で、ミアは告白した。

「まだ私が小さかった頃、かなり高いところにに浮かんでた小雲のトランポリンで、みんなと遊んでいたんです。やっと私の順番が回ってきて、意気揚々と跳ぼうとしたら途端に底が抜けて……。その下に丁度大きめの雲が流れてきたから霧散しないで済みましたけど、それ以来高いところが駄目なんです」

 ミアの話を聞き、雨雲様は憂いた。【臨雨りんうの儀】の前には必ず、水の子ひとりひとりに話を聞いている。当然ミアとも面会していた。その際にミアが不安を抱えているに気づくべきだった。

 成熟した水の子をいつまでも雨雲に居させるおくことはできない。ミアのような水の子が増えてしまうと、この雨雲は重くなり、山越えをすることができなくなるからだ。山越えができなければ、雨雲は霧散していまう。そうなれば私も水の子たちも……。

「ミア、私は下界へと旅立つ君たちを、ただ見送ることしかできない。だから君たちの恐怖感や真に理解することはできない」

「……」

「それでも私は、ミアには、勇気を持って外の景色を見て欲しい。そしていつか私のもとに帰ってきて、それまで見てきた風景を私に話してくれないかい?」

「でも……」

「私も途中まで降雨しよう」

「え!? でも雨雲様は、雲から離れすぎると霧散してしまうんじゃ――!」

「それでも、私はミアが無事に下界へ旅立って欲しいんだ」

 ミアの表情が変わった。曇天の雲間から一筋の光が差したような様子だった。


 月日が流れ、再び【臨雨の儀】を迎えた。

 高原を埋め尽くす水の子たちは、耳を疑い、目を丸くしていた。通常なら物見櫓の上に居る雨雲様が、水の子たちと共に立っているからだ。さらにミアの手を引いているとあれば尚更だ。

「水の子たちよ、今日は大変清々しい陽気だ。この良き日に旅たちを向かえる君たちは、本当に幸運だろう」

 水の子たちの顔が引き締まる。その中に浮き足立つ様子も見え隠れしていた。

「さぁ、世界を見ておいで! いってらっしゃい!」

 わー! と勢いよく、水の子たちは高く飛んで雲の下に潜っていった。

「さぁミア、私たちも――」

 ミアはそっと、雨雲様から手を解いた。

「雨雲様、私はもう、大丈夫です。あの日からずっと練習してきましたから」

「ミア」

「必ず戻ってきます。行ってきます!」

 ミアは虹よりも鮮やかな笑顔を浮かべ、そして雲の淵から飛び降りた。

 こうしてこの地にも恵みの雨が降った。

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