第9話 まい

 舞が生きてきたたった二十年間だけでも、気候は変わっている。桜の開花時期は年々早まっている気がするし、入学式シーズンには天気が荒れて、せっかく散り始めていた桜をあっという間に地面に叩きつけてしまう。梅雨の次期には雨が降らず、各地で水不足になる。夏には台風が来るが東京に到達するまでに激しさを失っていることが多い。十一月になってもちっとも寒くならず、年末の忙しい時期に急激に気温が下がり体調を崩す人が続出する。ようやく本格的な冬が来て、豪雪地帯の状況がニュースの主要な話題になっていると思いきや、それが実はあまり雪が降らないと思われていた地域のことだったりする。それでも四季がなくなったわけではなく、ほんの少しの変化こそあれ、暑さと寒さのサイクルは続いている。それさえもなくなって好きな時に日焼けができ、好きな時に雪合戦をできる日が来ることがあるだろうか。そうなったら、その世界で自分自身を規定していた何もかもと決別して、好きなように生きることが可能になるだろう、と舞は思った。

 草笛が聞こえる。誰かが近くの公園で吹いているからだ。白い葉脈に沿って息が四方に抜けていく。切断面からわずかに湿った液体が大気に染み込んで四散する。舞は三拍子のステップを踏みながら帰り道のよく手入れがされた芝生の上を歩いている。高湿度の大気がぐったりと舞の肩にのしかかるがそれももうじき気にならなくなる。階段を二つ飛ばしに駆け上がり、勢いよく部屋に飛び込む。リビングの窓を開け外気を引き入れる。テラスに出ると、何も育たなくなった栄養のない土だけが残ったプランターがあるだけだ。かわいそうな花壇の花はもうない。こんな狭苦しいところで生きることを強いられないように、今度はもっと自由な存在に生まれ変わるんだ。太陽の光が舞の肌を照らし全身が真っ黒に日焼けする。靡く髪の中で屈折した光が舞の背中の一点を熱し、煙と共に薄く透き通った羽に変わる。風を受けて舞の体は浮き上がる。舞は必死に羽を動かしてバランスを保とうとした。体の重さが羽の大きさに合わない。テラスの広さに合わせて体が縮む。四肢が分かれ六本の細長い足になる。羽から大量の鱗粉が降り注いだ。黒い羽からは想像できない白い粉は雪のように風に乗って街中に散布され、あっという間に積もり、街全体が銀世界に変わった。舞は穏やかな風の中を泳ぐことに慣れた。人の手が握ればすぐに崩れてしまいそうな羽で空気を優しく持ち、進みたい方向と逆の方へ押し流した。鱗粉が空まで覆うと気温が下がり始め、羽が凍るように冷たくなった。六本の足も固くなって動かせなくなった。羽ばたく度に空気が突き出る針のように羽全体を痺れさせる。舞は一心に羽を動かした。風を受けるほど羽が冷たくなり凍っていくようだった。運動しても体は温まることはなかった。それでも、舞は何度も羽ばたいて空中にい続けようとした。自分と絵梨子が住んでいる部屋のテラスから飛び出て、遠く離れたところまで来てしまっていたがそんなことはどうでもいい。舞は大気の中に浮遊する水や塵の粒子まで知覚できるほど自分が小さくなったような気がした。羽から出る鱗粉は冷やされた水や塵と混ざり、雪になって地表を覆い始めた。

 街で最も高いビルよりも高く浮かび上がった舞は季節外れの雪に惑わされる人々を見ていた。車は凍った路面を滑り信号を無視して走った。それとは反対に人の歩く速さは急激に遅くなった。自転車はもう虫と正面衝突するほど道を占領していない。舞はかじかんだ羽を動かし続けた。たとえ寒さで羽が動かなくなっても、この重さでは落ちたところで空気圧に助けられてしまう。舞は無駄を悟って大勢の人の足跡で白さを失っていく雪の道に真っ逆さまに落ちていこうとした。空気の粒がぶつかり落下速度は一向に上がらない。初め仰向けに落ちていたのだが、やがて飽きて眼下の世界を見ながら落ちていった。思ったより雪は汚くなっていなかった。白い道に黒い点が見えた。それは行き交う他の何ものとも違って、舞を見ていた。それが何かわかった時、舞は空中で体勢を立て直しその生き物から離れようと羽ばたいた。凍った空気よりも鋭い爪が舞の羽を切り裂かんばかりににょきっと出てきた。舞は気流に乗ってそれを躱した。

「一体どこに行くつもりなの」

 生き物は日本語の懐かしい響きで舞に語りかけてきた。舞は羽ばたいて一刻も早くその場から離れようとしながら早口に答えた。

「こんなに白い世界でも、あなたの姿ははっきりとわかりました」

 黒い生き物も確信したようで、先程よりも強い口調で言った。

「こんなにも寒い世界で生きていられる蝶はあなただけだと思いました」

 舞はその場で羽を動かし一定の位置で止まったまま浮いていた。

「黒猫さん。あなたは自分のしたいように生きていける強い人」

 黒猫は民家の石垣に飛び乗って舞と目線の高さを同じにして、言った。

「黒揚羽さん。人は容易にあなたのように生きていけないものだよ」

 黒猫の一挙手一投足が気流を生み、舞はその風を上手に羽で受け止める。大きくて光る二つの目を舞は羽に描かれた丸い模様で見つめ返す。黒猫がまた質問をする。

「そんな姿になってこれからどうするつもりなの」

舞が一生懸命小さい羽を動かしてその場から離れようとする様を見て、黒猫はくしゃみだか笑いなのかわからない声を出して続けた。

「あなたが望むものをあなたは得ることができないだろう」

 舞は黒猫に背を向けて天高く羽ばたいた。肉球で覆われた今の絵梨子の手では舞を優しく抱きしめることもできない。舞は汗だくになって羽を動かして、絵梨子から少しずつ離れていった。羽から零れ落ちていく汗を吸って鱗粉が熱を発し、雪を溶かし始めた。絵梨子の上に降りかかった鱗粉は絵梨子の黒い体を真っ白く覆い、手足を引き伸ばし元の姿に戻していった。舞は力いっぱい羽を使ってさらに高いところを目指した。鱗粉は地球全体に万遍なく散っていったように思えた。雪を溶かすほどの熱を持った粉は海水を蒸発させ地球全体の気流と海流を混乱させた。既に舞は地表や海上で起こる様々な変化の影響を受けるような場所にはいなかった。舞は高く飛び続け、鱗粉を落とし続けた。大気圏を抜けると地球と舞を繋ぐ何もかもが引き剥がされた。舞の黒い羽は真空の暗闇に溶け込んで広がっていった。地球上では見ることができなかった光線が舞の羽の目玉模様を射抜いて、舞の体は散り散りになっていき、二度と元には戻らなかった。

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雪と鱗粉 伊豆 可未名 @3kura10nuts

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